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女性の近代的自我の芽生えと少女マンガの物語構造―眼鏡を再びかけ直すことの弁証法的意味

 熊本大学で2019年6/22に開催された「日本マンガ学会」第19回大会で行なった口頭発表の記録です。

 動画は23分あります。

▼パワーポイントのデータはこちらに置いてあります(※クリックするとダウンロードします)。

▼めがねっこキャラクターリストはこちらです(※スプレッドシートで開きます)
▼リストの凡例については「マンガに登場した眼鏡っ娘リスト」を参照ください。

ご質問へのリプライ

 会場では時間の都合等で十分にお答えできていないような気もしますので、こちらの場で改めてリプライできればと思います。

 眼鏡をかけていると本を読むなど「女性が勉強できる」ということで、それがおもしろくないという男性社会の価値観の問題もあるのではないか。

 会場ではリストについて詳しくお話しできなかったのですが、やはり「眼鏡による内面的な特徴(委員長だったり優等生だったり)」と「眼鏡による外見的な特徴(美容的に劣る)」は、区別して分類しています。その上で、内面的な特徴と外面的な特徴の両方を併せ持つキャラクターもたくさん存在しています。「勉強できる」という性格的な特徴が、外面とリンクしている様子はデータから明らかに見えます。
 そして、女性が勉強できるようになるのがおもしろくないという男性は、おそらく一定数いるでしょう。「女性が眼鏡をかけているのは良くない」という偏った価値観は、男性の僻みや妬みから生じている可能性は十分に考えていいと思います。
 またたとえばアメリカではSF作家のアイザック・アシモフが、眼鏡を外して美人になるなどということは物理的にあり得ないと主張し、そんな愚かなことを主張する人々は精神水準が低いと訴えています。(アシモフ『生命と非生命のあいだ』)。アメリカでも、「女性は勉強できなくてもいい」という意見が、眼鏡っ娘に対する価値観に何らかの影響を与えていると見ていいのかもしれません。
 それを私は、「見る/見られる」の非対称性の問題として考察してきました。眼鏡とは「見る」ための道具です。しかしかつての女性は一方的に「見られる」ための存在でした。眼鏡をかけるということは、一方的に「見られる」ための存在だった女性が、「見る」という主体的な立場を獲得することの象徴になります。女性の主体性を認めたくない人々は、おそらく女性から眼鏡を奪おうとするでしょう。「女は眼鏡を外した方がいい」などと言う男は、女性を単に「見られるだけの対象」としてしか見ていないのです。

 眼鏡を外して美人にならないパーセンテージはどのくらいか。

会場ではデータが操作できなかったので正確にお答えできませんでした。
 リストでは、眼鏡を外したまま恋愛成就するキャラが254人いるのですが、そのうち美人になるのは139人です。なぜか、眼鏡を外して美人になるわけでもないのに、最終的に眼鏡をはずして彼氏をゲットするキャラが115人いるんですね。
ちなみに眼鏡を外すことで変顔になるキャラは、いまのところ4例ほど確認しています。

 「通俗的価値」と「個人的価値」のアウフヘーベンというところまで抽象度を上げると、少年マンガにもたくさんあるのではないか。

 仰るとおり、どこまで抽象度を上げて一般化していいかは、理論的な見極めが必要なところだと思います。
 ポイントは、主人公の内面の葛藤と統合過程が描かれているかどうかだと考えています。それが描かれているのであれば、その少年マンガ作品にも「近代的自我」を認めてもいいのではないかと思います。ラブコメ系の作品には、そういうものが多いと思います。たとえば田丸浩史『ラブやん』や、井上和郎『あいこら!』は、主人公の葛藤と成長を描いたいい例だと思っています。
 しかし一方、『ドラゴンボール』や『魁!男塾』という作品には、弁証法的構造は見られないと考えています。最初からかなり人格が完成していて、仮に肉体や技は成長したとしても、自我にはたいして影響がないからです。(もちろん、だからといってそれが悪いということではありません)。『ドラゴンボール』や『男塾』に見られる物語構造は、もともと敵であった別の人格(ヤムチャ・ピッコロ・ベジータ等)を、矛盾と葛藤を経て味方の集団に統合して強くなっていくという「共同体的なアウフヘーベン」です。

ご協力のお願い

 個人の力が及ぶ範囲のみで資料収集と確認を行なっているので、時間的・経済的に限界があります。
 特に1970年以前の貸本や、21世紀以降の作品に大きな欠落があると思われます。
 ほか、記録ミスやデータ形成時の混乱などにより、データが誤っていることもあるかと思います。
 なにかお気づきの点がありましたら、ご連絡いただければ、私の研究が進みます。

 また、これまで可処分所得の大半をこの研究に費やしてきて、そろそろ経済的な限界を感じつつあるので、たいへん恐れ入りますが、Amazonくれくれリストを載せておきます。

【備忘録と感想】日本保育学会―第72回大会(2019年)

2019年5/4と5/5に大妻女子大学で開催された日本保育学会第72回大会に行ってきたので、備忘録がてら感想を記す。

【特別講演2】西野博之「子どもが人として大切にされる保育」

とても良かった。一言でまとめれば「子どもの権利条約を実践に活かす」という内容ではあるが、長年にわたる粘り強い実践に裏打ちされていて、単なる言葉では醸し出せない説得力に溢れていたのであった。迫力があった。
川崎市子ども夢パークで行なわれている実践は、とても魅力的だった。「こどもゆめ横町」の実践には、痺れた。言葉で「子どもが主人公」と言うだけなら特に難しくないが、実際にここまで子どもたちが主人公として活き活きと活躍している事例は、そうそうないと思う。お遊戯会の主人公になるのとは、根本から考え方が違っている。仮に「シティズンシップ教育」というものがあるとしたら、まさにこの実践のことを指すのではないかと思った。デューイやキルパトリックの実践も思い出した。子どもの権利条約の精神が具体的に形になるとこうなるのかとも思った。「川崎市子どもの権利に関する条例」制定の話にも、深く感じ入った。
「リスク=見える危険/ハザード=見えない危険」とか「消費者ではなく生産者へ」などヒントとなるパワーワードもたくさんあったし、不登校に関する実践と理論も迫力があった。しっかり消化して私自身の糧にし、自分にできることをやっていきたい。

【実行委員会企画シンポジウムD】

「保育・支援の質向上に子どもの権利をどう活かすのか―保育の質向上の基礎づけに向けて―」というテーマ。いま話題の「保育の質」に関わる話ではあるが、「基礎づけ」とタイトルにあるとおり、単に技術的な話ではなく、「子どもの権利」という理念と具体的な実践を結びつけていくような話になっていた。
具体的な実践としては(1)夜間保育(2)民間の家庭支援(3)母子生活支援施設の取り組みが紹介された。これらの報告は、言ってみればマージナルな領域のものではある。しかし「境界」からの発言だからこそ、逆に「保育」というものが現在抱える<限界>が見えてくる。天久氏から「夜間保育は保育業界に子どもの権利条約が根付いているかどうかの試金石」という言葉があった。もちろんその通りだと思ったし、さらに「境界」にある様々な実践すべてが試金石になってくるだろうとも思った。境界の外に転ぶか内に転ぶかは、それこそ「子どもの権利条約」の消化如何にかかっているのだろう。自治体レベルで「子どもの権利条例」を策定し、条例に基づいた町づくりをしてくという提言は、とても具体的だと思った。「特別講演2」の話と響き合う内容だった。
また実践的には、子どもの権利を保障するためにはまず大人が幸せである必要があるということも、よく分かった。そして丁寧で粘り強い「信頼される関係づくり」こそが決定的な肝であることも。

【実行委員会企画シンポジウムB】

「保育の質を支える上で、地方自治体や保育関係団体が果たす役割とは何か―「質の担保」と「質の向上」を具体的にどう支えるか、その「しかけ」や「しくみ」のあり方を巡って―」というテーマ。ここで言う「しかけやしくみ」とは、具体的には「研修」をどうするかということだった。そして一方で「ECEQ(Early Childhood Education Quality System)」の話と、もう一方で世田谷区の「世田谷保育の質ガイドライン」や産官学連携システム「せたがや保育コンソーシアム」の話に収斂していったのであった。
保育士等キャリアアップ研修」をめぐって、赤裸々な話があったりしたものの、関係者一同おおむね前向きに捉えているようではあった。現場のニーズと実際の研修とのマッチングの問題など、我々養成校の研究者が頑張るべき領域の話でもあった。
「ECEQ」については、ちょっと突っ込んで勉強してみようと思った。

【実行委員会企画シンポジウムC】

「保育の質的な向上を園内研修で具体化するために」というテーマ。前述のシンポBでは<組織的なシステム>という大きな観点から語られた「研修」が、このシンポではミクロな園レベルから語られることとなった。シンポBのマクロ的でシステム論的な視点とシンポCのミクロ的で実践的な視点ががっちり噛み合っていて、全体的なイメージが掴みやすかった。
「研修」というとどうしても会議室に集まっての座学を思い浮かべてしまいがちだが、報告された事例はいずれも「実践と一体となった評価=研修」であり「実践と往還する研修」であった。いま学校教育学の最先端は「評価と一体化した指導」の構築なのだが、本シンポではこれを保育者養成の場面で実践している事例が報告されたのであった。とても感じ入った。
またシンポDでも触れられたECEQの具体的な運用に関わって、「第三者の視点」の意義が掘り下げられた。若輩者の私が研修講師に呼ばれることはまだないが、実習巡回等でコメントを求められることはもちろんある。本シンポの話は、なかなか身につまされるものであった。第三者の視点についても、意識的に勉強していきたいと思った。

【基調講演】

率直に言って、あまり感心しなかった。まあ言っている内容そのものが悪いというわけではないけれども、しばしポカーンとしてしまったのは事実だ。というのも、演者がさかんに「みんな少子高齢化を枕詞にする」と言っていたけれども、この学会でそんなことを言う人は誰もいなかったからだ。少なくとも2日間のシンポで少子高齢化に危機感を表明した人は一人も見なかった。演者に対して「この人は誰と戦っているんだろう?」と思ってしまったが、きっと私のせいではないはずだ。
まあ、言っていること自体が特に悪いということではなく。適切な場で適切な対象に言葉を向ければ、とてもいい話のはずだ。「できない人ができないままで問題ない」という命題を「善悪」及び「有用性」の2つの観点から擁護するという仕事は、誰かがしっかりしておくべきだ。いい仕事だと思う。Buzzfeedの記事は、とても良いと思う。が、しかし、それをあの場で聞いて意味があったかどうかは、また別の問題ではあるのだった。
まあ、この話が実は後でジワジワ効いてくるという歴史的展開は、あるのかもしれないけれども。

まとめ

そんなわけで、とても有意義な2日間だった。特に「子どもの権利条約」の意義については、具体的な実践と結びついて、さらにイメージが豊かになった。勉強になった。しっかりと消化して、私自身の研鑽に繋げていきたいと思った。たとえば、やはり教育基本法第一条は「子どもの権利条約」を踏まえて改訂すべきだという思いを強くしたのであった。