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【要約と感想】中野信子『ペルソナ―脳に潜む闇』

【要約】おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。

【感想】タイトルだけ見て、脳科学的な観点から「人格」の理解に光を当てた本だろうと手に取ったけど、ぜんぜん違って、著者の自伝的エッセイ集だった。まあ、こういう意図せざる出会いがあるのがタイトル買いの醍醐味だから、いいんだけれど。
 で、私が1991年東大入学で、1回留年して大学院に進み、2003年までうろちょろしているので、著者とは本郷キャンパス内ですれ違っているかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、まあ、どっちであってもどうでもいいことではある。で、経歴も考え方もぜんぜん違うようだけれども、アカデミックな研究に対しては、どうも違和感を共有しているような気もする。私もなぜか大学スタッフの末席に名を連ねているけれども、「ここにいていいのだろうか?」という存在論的な違和感は、未だにぬぐえなかったりする。というか、加速しつつある。大学院生の頃はまだ純粋に学術論文を書くということに喜びを感じていたような気がするのだけれども、昨今の大学改革を経て、学問的意味をさほど持たない論文を戦略的に量産しなければポストにしがみつけなくなって、「研究する喜び」というものが後回しになっている結果、なんのために研究しているのか意味を見失っていく。これはいけない、本質的なものを取り戻そう、と頑張ってみると、今度はポストにしがみつく意味が分からなくなってくる。これなら、大学じゃなくて、別にいいじゃない。東大で尊敬していた先生が2人、任期前に退職したけれども、そういう気持ちだったのかどうか。

【研究のための備忘録】ペルソナ=人格
 で、業績のためにやっているわけではなく、そしてあるいは社会の役に立つためにやっているわけではなく、もはやただただ私個人の知的関心を満たすためにライフワークのように研究を進めているテーマが「人格」とか「個性」とか「アイデンティティ」といった類の概念史なわけで、それに関わる言葉をサンプリングしておくのだった。

「むしろ、脳は一貫していることの方がおかしいのだ。自然ではないから、わざわざ一貫させようとして、外野が口を出したり、内省的に自分を批判したりするのである。一貫させるのは、端的に言えば、コミュニティから受けとることのできる恩恵を最大化するためという目的からにすぎない。」p.8
「一貫性がないと困る、という一件不必要な制約が、脳に植え付けられているのだとしたら、それはどんな目的のためなのだろう? この答えは、残念ながら脳科学的にもまだクリアにはなっていない。」p.76

 人格心理学の分野では、しばらく前に「一貫性論争」というものがあった。一貫性という概念そのものに疑問を投げかけた論争だ。また19世紀教育学(ヘルバルト主義)では、教育の目的と方法は人格の一貫性を保つために構成しなければいけないと明言していた。が、20世紀にはボルノーが「不連続性」の教育を主張して、極めて大きな影響力を持った。あるいは社会学の領域では、100年ほど前にG.H.ミードが、アイデンティティなんてものは状況によって変わるもので一貫性などないと主張した。文学の世界では、それこそ一貫性を無化あるいは破壊しようとする試みがいくらでもある。経済史的に言えば、高度に発達した資本主義が人間存在を疎外していることが自覚されたことが背景にある。脳科学のような自然科学は、そういう動きを遅れて実証しつつあるように見える。さて「一貫性」の明日はどっちだ。

「わたしのペルソナ(他者に対する時に現れる自己の外的側面)は、わたしがそう演じている役である、といったら言い過ぎだと感じられるだろうか?」p.9
「私たちは、誰もが社会の中にあって役割を持って生活している。その役割をこなすには、本来の自分であることをしばしば覆い隠し、求められたペルソナを演じる必要がある。本来持っている性格そのままに、自然に振る舞いたいという衝動と、その衝動を空気を読む前頭前皮質が抑え込んでいるという均衡の上に私たちは存在している。」p.130

 いつの間にか「ペルソナ」という言葉は「人間の不可分で代替可能な何か」を指し示す言葉になっているけれども、もともとの意味は本書が言うような「役割」に過ぎなかった。G.H.ミードは100年前にそれを確認している。脳科学的な教養を背景にしながらも、100年前と同じような感想が繰り返されていると見ていいか。あるいは小説家平野啓一郎が同じように「本当の自分などありません」と言っていたことを思い出す(平野『私とは何か』)。ちなみに従来personalityという言葉が担っていた意味領域がかなりぼやけてしまったので、いま代わりにagencyという言葉が使われ始めている。

中野信子『ペルソナ―脳に潜む闇』講談社現代新書、2020年

【要約と感想】本田由紀『教育は何を評価してきたのか』

【要約】国際的に比較すると、日本人の生産力や自己肯定感の低さが極めて異常なことが一目瞭然ですが、論理的には、垂直的序列化と水平的画一化の過剰、水平的多様化の過小という社会構造が問題です。このような構造を生み出している原因を浮き彫りにするために、本書は「能力」「資質」「態度」という言葉に分析を施します。
 「能力主義」に関しては、一般的には「メリトクラシー」という英語の翻訳語と理解されていますが、そこから大きな勘違いが始まっています。欧米のメリトクラシーは「業績主義」であって、日本語の言う「能力」は、それとはまったく異なるガラパゴスな指標となっています。それが明治期から昭和、さらに平成を経て、ガラパゴスな変化が加速し、いまや「人格」をも動員しようと試みる「ハイパー・メリトクラシー」の段階に突入しています。
 また一方、21世紀に入る頃からナショナリズムを高揚させようとする意図的な動きに伴って「態度」という言葉が頻発されるようになりました。
 このような閉塞状況を打破するためのポイントは、高校改革にあります。具体的には、普通科中心から多種多様な学科構成への変革、選抜の在り方の見直し、民間企業の採用の考え方の変更が有効な打開策になるでしょう。

【感想】限られた少数のキーワードに分析を施すことで日本が抱える問題の全体構造が明らかになるという、いわゆる「一点突破全面展開」のお手本のような見事な構成だった。行論については、テンポがいいと思うか、議論を急ぎすぎだと思うかは、まあ人によるだろうけれど、新書だからこれでいいのだろう。切れ味が鋭いことには間違いがない。読者の方も、日本が抱える問題たちを綺麗に切り刻んでくれているように読めるのではないか。学生に勧めていい本のように思った。

【要検討事項】とはいえ、専門家の立場からはいろいろ言いたいことも出てくる。特に本書は概念史を扱っているわけだが、国会図書館デジタルコレクションの検索結果から始めるという方法は、「歴史屋」の私からすれば物足りないことこの上ない。少なくとも日本国語大辞典を繙いても損はしない。たとえば「能力」という言葉に関しては、江戸時代の用例や中国古典での扱いについて基礎的な情報を得ることができる。
 また、日本教育史プロパーとしては、「能力」という言葉が「開発主義」の流行に伴って一般化していったことは強調しておきたいところだ。そしてもちろん開発主義のモトネタであるペスタロッチー主義にも同じ傾向があるわけだが、それはつまり、そもそも近代教育の内容と方法自体が「能力(この場合はfaculty)」の「開発(develop)」という発想を土台にしていることを示唆している。あるいはさらに遡ってロックやルソーを見てもよい。「外から知識を与える」のではなく「内部からの力の形成」という発想の素朴な姿を見ることができる。この「知識から力への重点の変化」は、近代教育思想の基本的な土台となっている。明治初期開発主義は、この近代教育思想の基礎・基本を忠実に受け容れた結果、「能力」という言葉を連発していくことになる。こうしてみると、「能力」とは日本固有の問題というよりは、「近代」に固有の問題に見えてくる。確かに「メリトクラシー」と「能力主義」の中身が異なるのは指摘通りとして、じゃあヨーロッパ近代(特に資本主義の論理)が「日本語で言う能力なるもの」からどの程度自由だったのか。ちょっと考えただけでもいろいろ丁寧に見ておきたい論点が噴出してくる。
 まあ、本書にそれを求めるのはナイモノネダリではある。本書は本書固有の課題にはしっかり応えているので、生じた疑問については私自身の課題として突きつめればいいだけのことではある。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「人格」に絡んだ文章がいくつかあったので、サンプリングしておく。

「一九五〇年代の議論がほぼ「学力低下」は「国力の低下」をもたらすということのみに収斂していたのに対し。一九七〇~八〇年代においては、「落ちこぼれ」等の学力問題が「子どもの人格形成のゆがみ」をもたらすということが強調されるように変化していた。つまり、「学力の低い子ども」は「人格」的にも劣っており、非行などの逸脱行動に走る確率も高いということが、非常にしばしば主張されるようになる。さらには、「学力」が高い子どもであっても、「知識の記憶力」に終始し、やはり「人格のゆがみ」がもたらされている、という議論が展開される。」pp.119-120

「(前略)「学力」を「人格」や「人類社会の平和と発展」と結び付けて論じる言説の広がりが、続く八〇年代後半から九〇年代にかけて生じた、日本型メリトクラシーと並ぶもうひとつの垂直的序列化の軸であるハイパー・メリトクラシーへの地ならしとなっていった。」p.126

 やはり「人格」という言葉の中身が高度経済成長を境目に大きく変化している様子を覗うことができる。「期待される人間像」で描かれる「人格」という言葉と、ここで指摘されている「人格」は、まったく異なる意味内容を持っている。このあたり、「学力」とか「能力」という言葉を補助線にするといろいろ見えてくるものがありそうだ、というところでは非常に勉強になった。このインスピレーションを、自分の研究に活かしていきたい。

本田由紀『教育は何を評価してきたのか』岩波新書、2020年

【要約と感想】トマス・アクィナス『君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる』

【要約】この本の目的は、立派な君主を教育することです。そのために聖書や先哲の議論から、具体的な事例が豊富に示されています。
 君主制は、先哲の議論と歴史の経験と論理的な理屈を踏まえれば、貴族制や民主制よりも優れた、最高の政治形態です。しかし君主制には僭主制へと堕落する弱点もありますので、民衆のほうは用心しておくのがよいでしょう。
 ところで人間の最高目的は神によって定められており、カトリック教会が指導しているので、君主もそれに従わなければなりません。君主の仕事の範囲は、俗界の指導に限られます。君主固有の仕事をまっとうするためには、政治的な力量ではなく、高潔な人格のほうが重要です。それこそがカトリックの指導に従ったあり方です。教会の言うことを守って立派な君主になりましょう。
 都市を建設したり維持したりするために気をつけるべき注意点も示しました。

【感想】本文よりも、訳注と解説のほうが長い、岩波文庫にしばしば見られるスタイルの、気合が入った本だった。解説に書いてあったことは、不勉強にも知らないことばかりで、とても勉強になった。
 本書はいわゆる「君主の鑑」とカテゴライズされる、カトリック教会の価値観に従って俗界君主を教育することを目的とした内容の本で、ヨーロッパ中世には類書がたくさんあったらしい。そして直ちに想起されるように、マキアベッリ『君主論』が暗に批判するようなキレイゴトの記述に満ちている。逆に言えば、マキアベッリが政治のキレイゴトを粉砕するまでは、「君主の鑑」のようなあり方のほうが常識的だったということでもある。
 また直ちに想起されるのは、東洋の君主論(貞観政要や資治通鑑など)との類似だ。論語の精神である徳治主義(修己治人)や「天」への畏敬の念とトマスが示す君主の理想は、もちろん具体的な細部はまったく異なるものの、大枠では響き合っているように思う。君主にとって大事なのは、政治的力量ではなく徳である。ちなみに本書訳注や解説でもヘレニズムとの関係が指摘されてはいるが、全面的に議論が展開されているわけでもない。しかし東洋にはマキアベッリを待つまでもなく、既に韓非子もいたりするわけではあるが。

【要検討事項】本文ではなく解説のところに示されている文章だが、「教育」という翻訳語が気になった。

「まず指摘しておかねばならないのは、それら作品の表題である。「道」(スマラグドクス『王の道』Via Regia)、「教育」(オルレアンのヨナス『王の教育について』De Institutione Regia)、「人格」(ランスのヒンクマルス『王の人格と王の職務について』De Regis Persona et Regio Ministerio)といったタームが用いられている。」pp.157-158

 現代英語ではinstitutionとなっている単語が、ここでは「教育」となっている。まあそれ自体は西洋教育史を勉強すれば常識に属する知識であって、特に驚くことではない。ただしそれがeducationでもなくinstructionでもなかったことについて、特別に意識を払っても損はないように思うのでもある。ここで使用されている「Institutione」が示す具体的な内容は、もちろん現代の私たちが用いる「教育」という言葉が示す内容とは、大きくかけ離れている。大枠の大枠では「教育」と呼んでもちろん差し支えないわけだが、この「Institutione」を適切に表現する現代日本語を考えることは、現代教育についての知見を深める上でも、おそらく無駄な作業ではない。
 それと同様に、この文章では「Persona」というラテン語が「人格」と翻訳されている。もちろんここでは「人格」という日本語を使うしかない。しかし現代の我々が使用する「人格」という言葉の意味内容が、中世からは、特にカント以後に決定的に転回していることを踏まえると、いま私たちがイメージする近代的な「人格の陶冶」概念を、この中世の「君主の鑑」に当てはめることがどれくらい適切か、ある程度疑って留保しておいた方がいいのだろう。そして「Persona」と「Institutione」の転回は、「目的」の転回と深く関わってくる。

【今後の研究のための備忘録】
 例えば「目的」について、以下のように記されている。

「しかし人間は徳にしたがって生活しながら、既に上述したように、神の享受のうちにあるより高次の目的に向かって秩序づけられているので、多数の人間の目的と一人の人間の目的は同一のものでなければならない。それゆえ会い集う民衆の終局目的は徳にしたがって生きることではなく、有徳な生活を通して神の享受へと到達することなのである。」第1巻第14章107

 このような考え方は、もちろん近代的な「教育」や「人格」がまったく知らないものである。というか、こういう考え方を覆したところで、近代の「教育」や「人格」という観念は成り立っている。だとするなら、このような中世的目的観の下で行なわれる「Persona」への「Institutione」は、はたして「人格の陶冶」と考えてよいかどうか、ということになる。
 ちなみにもちろん著者を批判しているのではなく、私が批判的に行なうべき仕事として留意しておこう、という話である。

 またそれから「国家有機体論」について触れていることについては、しっかり記憶にとどめておきたい。

「それゆえ君主たる者は王国における自己の職務が、ちょうど肉体における魂や、世界における神のごときものである、とういことをよく認識しておかなければならない。」「かれの支配下にいる人びとをかれ自身の四肢のように考え、柔和と寛容の精神を発揮することができるであろう。」第1巻第12章95

 ただしもちろん、近代国民国家とは条件が決定的に異なっていることについては忘れてはならない。

トマス・アクィナス『君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる』柴田平三郎訳、岩波文庫、2009年

【要約と感想】マイケル・ローゼン『尊厳―その歴史と意味』

【要約】「尊厳」という言葉の歴史を辿り、具体的な場面でどのように使われているか分析を施したうえで、哲学的な知見と手法で深堀りします。
 言語分析的には、「尊厳」という言葉は3つないし4つの場面で使われています。すなわち、(1)地位としての尊厳(2)本質としての尊厳(3)態度としての尊厳(4)敬意の表現、の4つです。それぞれ意味内容はズレています。
 そして歴史的なルーツを紐解くと、カトリック思想とカント哲学が大きな柱として浮かび上がってきますが、お互いに両立せず、矛盾するものです。カトリック思想をルーツとした「尊厳」は、「地位としての尊厳」の発想を土台にしていて、近代人権思想とは実は相容れない要素を多く含んでいます。いちおう第二次世界大戦後には、カトリック側の考え方が柔軟に変化しています。いっぽう、カント倫理学思想における「尊厳」についても、現実的にドイツ連邦共和国基本法の原理に決定的な影響を与えていることもあり、数多くの研究が行われてきましたが、それらの解釈(主意主義や人間主義)にはいろいろ問題が見受けられます。特に、原理的には理屈を理解できるとしても、その理屈を現実に適用しようとしたときに、大きな問題が生じます。
 それらの議論を踏まえて、特に死者や胎児に対する「尊厳」というものを具体的に視野に入れて考えてみると、やはり「尊厳」とは、具体的な表現形態が時代や文化によって異なることは確かであるとしても、私たちが人間であるうえで決定的に大切な何か、もはや私の一部になっている義務のようなものであることは疑えません。

【感想】ああでもないこうでもないと、あっちにいったりこっちにいったり、論点はすっきり整理されているわけでもなく、議論の行程には散漫な印象を受け、そしてそれは英米系哲学によく見られるものでもあるが、しかし、むしろこのテーマに対して敬意を持って手続きを尽くそうとする著者の誠実な態度を強く感じた。言いたいことはよくわかる。良い本だった。勉強になった。
 本書は「尊厳」という言葉を対象として議論を進めているが、同じような議論はたとえば「良心」という言葉を対象にしても成り立つような気もする。「良心」という言葉も現実的にはさまざまな場面で多様な用いられ方をして、意味内容も拡散しているが、間違いなく宗教的・哲学的なルーツを持ち、人間について何か大切なことを言い当てるような言葉だ。そしてその「大切な何か」は最終的には「人格」という言葉の中に収斂してくることになる。本書にもやたらと「人格」という言葉が登場する所以である。個人的には「尊厳とは人格の属性である」と一言でまとめたくなるが、乱暴だろうか。
 またあるいは、この理解の先に生じてくるのが、中世的には「共通善」と呼ばれる概念であり、近代的には「公共」という領域に関する議論となるだろう。本書は「尊厳」を最終的に「それがなければ、私たちは人として成り立たなくなってしまう」という地点で理解しているが、その具体的な中身が中世的には「共通善」であり、自由主義・民主主義には「公共」と呼ばれる領域として立ち上がってくるだろう。本書の射程はここまで伸びていないが、特に問題ということではない。

【要検討事項】ちなみに日本国語大辞典によれば、「尊厳」の用例は日本近世にも中国古典にもある。おそらくdignityの翻訳者が漢籍に詳しかったのだろう。誰が翻訳したか特定してみたいものだ。ちなみに近代では、坪内逍遙と若松賤子が例示されていた。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 カトリックの思想的転回のキーパーソンとして名前が挙げられていたジャック・マリタンが、気になった。

「カトリック思想は、どの時点で、自由主義と民主主義について曖昧な態度をとらなくなり、社会的、政治的な平等を伴う人間の尊厳の考え方を受け入れるようになったのだろうか。確実なことを言うのは非常に難しい。とりわけ、カトリックは自らの教えが聖書の啓示と時間を超越した自然法則の権威を体現していると公に主張している組織なので、考えを変えたことを認めるのを明らかに嫌がっているからである。私は、第二次世界大戦が分岐点だったと考えている。世界人権宣言(とりわけカトリックの思想家ジャック・マリタンを通じて)とドイツ連邦共和国基本法に対するカトリックの影響は、間違いなく重大であった。両文書において、尊厳には非常に際立った地位が与えられ、侵すことのできない人権の観念と結びつけられたのである。」pp.69-70

 というのは、教育基本法制定時に文部大臣として尽力し、特に第一条の「教育の目的は人格の完成」という条文にこだわったカトリック主義者が田中耕太郎なわけだが、その田中耕太郎が戦前からジャック・マリタンと交流があったことが研究で明らかになっているからだ。先行研究が示す通りマリタンの人格理論が田中耕太郎に影響を与えているのが事実とするならば、もちろん「尊厳」の概念が影響を与えていないわけがない。特に、「人格」という言葉だけなら大正人格主義の影響を考慮するだけで事足りる一方で、「目的」とか「完成」という言葉について深く考えようとしたときにはどうしてもカトリックの思想に手を突っ込む必要が出てくる。そしてもちろんマリタンの背後には、トマス・アクィナスがいる。そんなわけで、教育基本法第一条「人格の完成」について深く考えるためには、改めてマリタンにチャレンジする必要を感じたのであった。

マイケル・ローゼン/内尾太一・峯陽一訳『尊厳―その歴史と意味』岩波新書、2021年

【要約と感想】稲垣良典『神とは何か―哲学としてのキリスト教』

【要約】「神とは何か」について、人間本性に植えつけられた理性(哲学)によって探究することができるし、する価値があるし、というか人間として探究するべき最も相応しいテーマです。が、残念ながら理性で辿り着けるのは「神とは何ではないか」までで、「神とは何か」は「信仰」によってのみ光が当たるところです。そして信仰の支えによって、理性はさらに先に進むことが可能で、それこそが神学という学問の真価が発揮されるところです。人間の理性は、神が最高度に「一」であり、さらに言えばペルソナ的に「三・一」であるという神秘の骨頂に到達することができます。その土台に立つことで、初めて人間の「尊厳」というものの本質を理解することが可能になります。

【感想】率直に言えば、読んでいてイライラした。中世哲学の碩学泰斗に対して私如き教育学の末席に引っかかってるだけの者が不遜ではあるのだが、そう思ってしまったから仕方がない。まあ、もちろんそれは私の側の主観的な問題であって、この本の問題ではない。
 さて、イライラした理由は明らかで、読者の私がまったく同意しないしできるわけがないしするつもりがない命題について「同意したものと前提」して話がどんどん進んでいって、置いてけぼり感が半端ないせいだ。なんとかついていくために、同意するつもりがないし同意などできない自分をいったん脇に置いて棚に上げて、「仮に同意したとしよう」と別の人格を自分の中に作って先を読み進めるのだが、そこでもさらに同意しないしできるわけがないしするつもりがない新たな命題が登場し、そこで私の人格はさらに分裂していってしまう。そうやって数多くの自分を棚に上げて、ようやく理解することが可能になる文章が延々と続くのだから、まあ、イライラする。(繰り返すが、イライラするのは私個人の主観的な問題であって、著書の問題ではない)

 とはいえ、いったん高所から俯瞰して、現代数学の「公理系」をイメージすれば、全体像は見えやすくなるような気はする。まずいくつかの「公理」を前提する。それらの公理は証明が不可能なのだが、それが公理というものだ。そしてその公理群のみを真理と仮定して、そこから論理必然的な演繹作業を繰り返していき、どこまで現実を説明できて、どこまで結論の射程距離が伸びるか、理性を働かせる。著者の言ういわゆる「信仰」に関わる公理をいったん真理と仮定すれば、確かに実り豊かな結論を導き出すことはできる。
 できるのだが、問題は前提とした「公理」が証明不可能である、というところである。そして、私には、その公理を受け容れることは不可能である。荒唐無稽だからだ。つまり、本書で示された実り豊かな結論は、私自身にとっては何の意味も持たないのであった。
 しかしまあ、私自身にとって意味がなくとも、世界中のどこかにそれに意味を見いだしている人間がいて、そういう「公理系」の宇宙に充実して生きている人々がいるということを知っていることそれ自体は、無意味ではないかもしれない。

 で、「公理系」であるから、実は別の「公理」を導入しても、同じ結論はいくらでも導き出せたりする。同じ結論に辿り着くために、公理にキリストを置く必要は、実は、特にない。公理は置き換え可能だ。たとえば「Q」という公理を容認することで、一気に世界全体の秩序が立ちあがってくる場合だって現実にあったわけだ。悲しいことに、それが理性の権能というものだ。いちど世界が整序されてしまったら、その前提にある「公理」を取り去ることは極端に困難になる。いったん「Q」という公理を容認してしまった人々は、仮にそれに反する事実をいくら突きつけたとしても、公理そのものを反省することはない。「公理」と「事実」では、理性における機能がまるで異なっているからだ。
 であれば、かつてキリスト教の公会議で争われたことは、理性で推し量ることが可能な論理ではなく、それ自体は証明不可能な「公理」の選択だ。具体的に、いわゆる三一論は、公理系の無矛盾性を担保するためには相当アクロバティックな跳躍を余儀なくされるものの、完全性を追究するためには敢えてその立場を選択するだけの価値はある、というもののようだ。神の「完全性」を演繹することが可能な公理系の構築を目指す場合、諸公理間の矛盾には目をつぶらざるを得ない。誰にでも分かってしまう公理間の矛盾については、「信仰」という名で呼ばれる「特異点」を設定して見ないふりを決め込み、やりすごすことになる。一方、いわゆる異端とされる公理系は、公理系の無矛盾性を優先するが故に、逆に完全性を犠牲にすることを厭わない形式のようだ。しかしもちろんこの公理系から神の「完全性」の概念を導き出すことはできない。
 となると、トマス・アクィナス『神学大全』は、公理系の無矛盾性と完全性の双方を極大化する解を探究しようと試みた仕事ということで、確かに理性を最大限に活用して初めて可能となるような大変な難事業だったのだろう。が、やはりどうしても公理同士の矛盾は、残らざるを得ない。だからこそ、最終的には矛盾を押し潰す論理としての「信仰=公理系の無謬性担保」が必要となる。まあ、お互いに矛盾する公理を許容していいのなら、キリスト教に限らず、完全性を実現することはさほど難しいことではない。

  またあるいは、キリスト教神学の公理系を支える根本原理は「自己言及」と「無限」なのだろう。たとえば「この文はウソである」という命題が与えられたとき、この命題そのものの真と偽を論理的に判定することは不可能だ。それでも敢えて論理的に判定しようとすると、「無限」の遡及に陥る。いわゆる「人間本性」に由来する「神」とは、否定的な自己言及による無限の展開に由来するものなのだろう。いわゆる「否定神学」を極度にまで推し進めたキリスト教神学が、「無限」を含み込んだ公理系を発展させたのは、いわれのないことではないのだろう。こういう「自己言及」による「無限」の論理的制御という観点からは、キリスト教神学のお手並みは実に見事なように見える。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 これほど「三位一体」について真正面から説明を試みている誠実な本は、なかなか他にないように思う。「ペルソナ」の使い方とも絡んで、とても勉強になった。

「そして、神における父・子・霊というペルソナの区別は、神自身が親しく神の「何であるか」について教え、示した啓示であるから、それはまさに神の「一」であることを、神の本質に即して教える啓示として受けとるべきものである。言いかえると、神の「一」なることに関する知的な探究は「三位一体なる神」という信仰の神秘に基づいてのみ、有効、確実な仕方で進めることが可能なのであり、われわれが次に試みるのはまさにそのことなのである。」p.150
「しかし私は神が「一」であることの解明に向けられた探究や考察は、「神は何であるか」という問いをめぐる知的探究全体の総括とも言えるほどの重要性をふくむものであり、「三位一体なる神」という信仰の神秘にあえて立ち入る価値は十分にあると考える。言うまでもなくそれは、「神は何であるか」と問うことが、知ることを自然本性とする人間にとって――まさにこの問いを適切かつ徹底的に問い、十分に満足すべき答えを発見することが人間本性そのものの完全な実現であり、真実の幸福に他ならないのであるから――すべての問いのなかにあって最も重要で中心的な問いであることを前提とした場合のことである。」p.151

「ベルナルドゥスが「三つのペルソナが一つの実体であるという三位一体の一性は、すべての直しい仕方で≪一≫と言われるもののうちで最高の一性である」と言明するのは、諸々の「一」と言われる事物を厳密かつ詳細に考察し、それらが「一」であるのは三・一なる神の最高の一性を何らかの仕方で分有することによってであることを確認したことに基づくものである。」p.160

「しかし、われわれは神が「一」なること、しかも最高度に「一」なることは「信仰のみによって」肯定される「三・一なる神」の「一」性、すなわち神は父・子・霊の三つのペルソナの交わりにおいて「一」であることに基づいて理解すべきことを学んだ。」p.165

 なるほど、である。「多と一」が同時成立する根拠を理解することは、確かに理性を超える。その成立根拠を「三と一」の「一性」に落とし込んでくるのは、ものすごい知恵だ。そしてそれを本書は「創造」の解釈にも結びつけて、「存在」という概念の根底に切り込んでいく。キリスト教神学、凄い。
 一方、穿った見方をすれば、キリスト教神学の公理系の中でもっとも矛盾が甚だしい公理こそが「三位一体」(および「受肉」)の神であって、どうしても公理系の無矛盾性を優先してしまいがちな「理性」を説得するためには、この難問を完全スルーするか、あるいは正面突破するかしなければ、これ以上先に進めない、ということではある。そして確かにこの公理さえ受け容れることができれば、キリスト教神学の全体系は無矛盾で完全なものとなる。そして著者によれば、それこそが真の「浄福」ということらしい。実際、アウグスティヌスやトマス・アクィナスは真の幸福に辿り着いたのだろう。
 が、まあ、私個人は、公理系が無矛盾かつ完全であることに、そんなに魅力を感じないのだった。矛盾に満ちあふれて完全性にはほど遠い公理系を、それはそれとして楽しく生きようと思う。

 また一方、否定的な「自己言及」を通じた「無限」の発生に関する洞察が示された箇所も記憶しておきたい。ここでは「人格」という言葉に対する洞察も示されている。

「これとは反対に人間は自己を否定して、自己を超えて進むべき存在であるとの見通しに立って、自己の中に入り、自己へと立ち帰る立場に立った場合には、右に述べた自己中心主義は消滅する。この場合には真の意味の自己認識が成立するのであるが、それは自己が自己をそこにおいて認識すべき「場」を発見することであり、そのことによって自己が万物の中心であるという幻想は消滅し、同時に自己は単なる「点」ではなくなり、ある意味では(認識することを通じて存在するものすべてと合一することによって)「全体」となるのである。」p.74
自己が自己を認識すると言う場合、認識する自己と認識される自己は同一であるから空虚な同語反復のように思われるかもしれないが、じつは自己認識は高度の知性的認識の条件が満たされて初めて成立するのであり、それが右に触れた「自己が自己をそこにおいて認識すべき場を発見する」ということである。」pp.74-75

「つまりこの完全な自己帰還という自己認識の在り方が、そのまま、人間精神という実在は「自分自身において在る」(in se ipso est)という完全な在り方をする(感覚によって捉えられる諸々の物体的事物と較べてはるかに)高次の存在であることを示すのである。ただ単に不可分な個であるという意味で「在る」のではなく、精神は「自分自身において在る」ということは、当の存在が関係ないし交わりを含みつつ「」であることを示している。」p.112
「さきに私は近代思想の根本的前提とも言える個体主義について批判的な見解を述べたが、その理由の一つはここで指摘した、自己ないし人間精神という存在は関係・交わりを含む「一」性によって「一」なる存在だ、ということである。各々の人間精神あるいは人格は単に不可分で、他とは共有不可能という意味での「一」性あるいは「個体性」において存在しているのではない。むしろ人間精神あるいは人格は、それ自体が関係的・交わり的であり、対話的存在である。そして人格がこのような自らの関係的・交わり的存在の豊かさを他の人格と共有することを本性的に望むことが人間の社会性であり、人間的社会・共同体は決して社会契約のような人為的制度に基づくものではなく、人間の自然的本性である社会性に基づく、と理解すべきであろう。」pp.112-113

 人間性の本質が、仮に否定を通じた「自己言及」にあるとして、そしてそれが外部を導入するまでもなく論理必然的に「無限」なるものを発生させるとして、さらに理性を超えたその「無限」なるものに人が直面した時、確かにそれは「神」としか呼びようのない何者かであるような気はしないでもない。あるいはヘーゲルが精神現象学で追究した何者かでもよい。しかし実は、「この文章は間違っている」という自己言及的な命題を真か偽か判定しようとしたときに生じる、ある種の「オーバーフロー」に似た何かなのかもしれないが、それを仮に「無限」と呼べるとしても、果たして「神」と呼んでいいのかどうか。

稲垣良典『神とは何か―哲学としてのキリスト教』講談社現代新書、2019年