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【要約と感想】國方栄二『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち』

【要約】西洋哲学史のうち、特に紀元前4世紀(ヘレニズム期)から紀元2世紀(ローマ帝政前期)までに活躍した、ストア派の哲学者たちの思想を詳説しています。ストア前史としてキュニコス派の樽のディオゲネスから始まって、ストア前期(ゼノンなど)、ストア中期(パナイティオスなど)を経て、後期ストア派のキケロ、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスを大きく扱っています。
 ストイックとは、痩せ我慢とか諦念の態度などではなく、強い意志を持って自分の人生を「自由」で「幸福」に生きる姿勢のことです。

【感想】ギリシア時代の哲学(ソクラテス・プラトン・アリストテレス)については入門書も概説書もたくさんあるのだけれど、ヘレニズム期からローマ期の思想状況について扱った本は、がくっと少なくなる傾向にある。そんな状況にあって、さっくり時代状況を概観できて、痒いところにしっかり手が届く、とてもありがたい本なのであった。
 一方で、近年はストア派の思想に脚光が当たっているような印象がある。おそらく、現代日本の時代状況が、2000年前のローマの状況とよく似ている(行き詰まり感という意味で)から、ストア派の考え方に対して需要が生じているのだろう、と思う。プラトンやアリストテレスのような閑暇と観照の哲学ではなく、人生の指針となり行動に反映するような「幸福になるための知恵」に対する需要。
 そんなわけで、ストア派固有の壮大な宇宙論にはあまり注目されず、自分の心をコントロールする知恵と技術に焦点が当たりがちなのだが、本書にもその傾向が見られるような気はする。個人的な関心から言えば、有機体論の系譜に興味があるわけで、そのあたりは食い足りない印象ではあった。まあ、それが別に悪いというわけではない。

【今後の個人的な研究に対する備忘録】
 「人格」に関する記述があった。著者が翻訳したエピクテトス『人生談義』にもほぼ同じ記述があったけれども、やはり微妙な違和感がある。

「「それぞれの人格、状況、年齢に照らして何がふさわしいか、何が適性かを問うならば、たいてい義務が見出されることになる。」キケロ『義務について』(Ⅰ 125)
とある。ここで義務と関連の深い言葉が人格である。ラテン語では人格はペルソナという語で表現される。そして、キケロの『義務について』において独特の人格論を展開しているのがパナイティオスである。」pp.109-110

「ギリシア語で「顔」はプロソーポンと言う。プロソーポンはまた「仮面」の意味をも持ちうる。仮面とは悲劇や喜劇において舞台俳優が着けるものであり、表面的な顔とは違ったもうひとつの顔である。いわば内面の自己を言う。それがその人の「人格」にもなる。人格は英語ではpersonality(パーソナリティ)であるが、これはもともとラテン語のペルソナに由来している。ペルソナはギリシア語のプロソーポンに相当する語で、同様に「顔」や「仮面」の意味を持っている。これがキケロなどを通じて後に近代の人格概念に受け継がれていく。カントの場合、『人倫の形而上学』において展開された人格性(Personlichkeit)の概念が倫理学だけでなく彼の哲学において重要な意味を持つが、このような議論の淵源は中期ストア派のパナイティオスの思想にある。先に述べたように、パナイティオスの書物は失われて現存せず、『義務について』において、特にその第一~第二巻で紹介されているが、ペルソナ論はその第一巻(Ⅰ 107-125)で展開される。
 キケロは言う。まず自然は二つのペルソナを私たち人間に身につけさせた。ひとつは人間が理性を持つことによって得られるすべての人間に共通の人格である。もうひとつは足の速い人もいれば遅い人もあり、腕っぷしの強い人もいれば弱い人もいるように、個人に固有のものとしてある人格である。そして、個々の人格に応じてなすべき行為もまた異なってくる。」p.110
「第三のペルソナは偶然や機会に左右されるものである。たまたま王位に即くことができたとか、富、財産を得たとかいったことで、持つに至るのがこれである。第四のペルソナはそれぞれの選択によって得られたものを言う、哲学に向かう人もいれば、市民法に関わる人もいるし、軍人となる人もいる。以上の四つのペルソナを簡略化して示せば、(一)普遍的、(二)個別的、(三)偶然的、(四)選択的なペルソナがあって、それらが人間の人格を形成すると考えられるわけである。」p.111

 まず違和感を持つのは、ペルソナ=仮面が「表面的な顔とは違ったもうひとつの顔」であるのはいいとししても、すぐさま「いわば内面の自己を言う」と続くところだ。論理的には、順接しない。飛躍がある。常識的に考えれば、仮面はただの「仮」の面に過ぎず、内面は「内」の面として別のところにある、となりそうなものだ。「仮」面を直ちに「内」面に結びつけるのは、理解しがたい。(まあ、このあたりの論理の飛躍には坂部恵の影響が大きいような印象はあるが)
 実際、上記引用した「ペルソナ」という語は、「内面」と理解するのではなく、「社会的役割」と考えた方が落ち着きが良い。「仮面」というものは、「内の面とは全く関係がない、一時的に担わなければならない仮の社会的役割」と考えた方が、論理的にも常識的にも座りがいい。仮面を外したら、もうその社会的役割を担う必要はない。キケロのいう「義務」も、ペルソナを「内面」ではなく「社会的役割」と考えた方がしっくりくる。著者が整理する「(一)普遍的、(二)個別的、(三)偶然的、(四)選択的なペルソナ」も、それを「内面」と理解する理由も必然性もなく、単にそれぞれ「時と状況によって付け替え可能な社会的役割」があると理解するほうが、「仮面=内面とは無関係に付け替え可能な役割」というものの機能ともすんなりと順接する。
 で、こういう内面とはまったく関わりのないただの「ペルソナ=仮面」が、近代になると、カントに代表されるように、極めて重要な意味を担う言葉になる。なんでこうなったのかについてはいろいろな論者が関心を持って追究しているのだが、個人的に共感するのは、八木雄二の見解だったりする。要するに、キリスト教の論理(とくに三位一体の教義)が決定的な仲介者になるという考え方だ。八木の見解(と私の直観)が正しいとすれば、キリスト教の影響を受けていないストア派の「ペルソナ」が近代的な「人格」概念が担うような意味を持つわけがない、ということになるし、実際にテキストに触れてもそうだろうとしか思えないわけだ。
 ただし、だからといってストア派に近代的な人格概念がないかと言われれば、即座にそう決めつけることもない。個人的には「ペルソナ」という言葉以外の部分で、総合的に表明されているように思う。特に「宇宙は有機体として一つ」であり、「人間はその大いなる一の部分」であるという考え方は、近代的な人格概念を理解する上で決定的に重要な背景を為すだろうと思っている。そんなわけでストア派や新プラトン主義の「有機体」に対する考え方には興味津々なのであった。
 まあ、このあたりは、ライフワークとしてゆっくり追究していこう。(と言っているうちに人生が終わるからさっさとやりましょう、というのがストア派の思想だけれども)

國方栄二『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち セネカ、エピクテトス、アルクス・アウレリウス』中央公論新社、2019年

【要約と感想】マーヴィン・ミンスキー/大島芳樹訳『創造する心―これからの教育に必要なこと』

【要約】「考えること」を考えてみましょう。どんなに大がかりで複雑なシステムでもごく単純な部品から組み立てられるし、小さな部品はそれ自体が何であっても構いません。大切なのは小さな部品同士の関係性によって表現された「状態」であり、「状態の変化」です。どのような「状態」を理想とするかが「目標」であり、「現在の状態」との「差異」を理解してそのギャップを埋めるために試行錯誤を繰り返すことが「学習」です。このような「状態の変化」を起こす構造を身につけるためには、特定のカリキュラムに従って何らかの教科を幅広く学ぶ必要はなく、子ども自身の趣味を突きつめていくのが一番です。大事なのは「目標」に向かって「状態の変化」を引き起す効果的な行動とは何かを理解し、身につけ、実行することであり、それが「創造性」というものです。既存の教科教育では、創造性を育むのは無理でしょう。コンピューター・サイエンスが大きな意義を持つはずです。

【感想】小学生の頃からコンピュータに慣れ親しめる環境にあった私にとってみれば、極めて納得感の高い本だった。言っていることが、よく分かる気がする。逆に、コンピュータにまったく触れたことのない人が理解できる内容と形式なのかどうか、気になるところでもある。

教育学的に言えば、「転移」という概念に対して示唆を与える内容だったように感じた。大昔の教育では、「転移」という概念がしばしば持ち出された。具体的には、「ラテン語のような実際に使用しない言語を学んで何の役に立つのか?」という疑問に対して、「ラテン語で身につけた論理的な力が転移して様々な場面に役に立つ」というような形で持ち出された。これを専門用語で「形式的陶冶」という。なんらかの「形式」を身につければ、それがあらゆる「内容」に適用できるという考え方だ。しかしソーンダイクという心理学者によって「転移」は否定されることになる。学んで身につけた知識は、学んだ領域でしか役に立たない。これを「実質的陶冶」という。ラテン語を学んだら確かにラテン語を話せるようになるが、フランス語やドイツ語など他の語学を学ぶ上ではまったく意味がない。ラテン語を学んで身につけたものは、フランス語やドイツ語の学習に「転移」をしないということだ。
しかし一方、本書では身につけたことの「転移」が発生することが示唆される。ポイントは、単なる「知識」や「スキル」のレベルで転移が起こると言っているのではなく、ひとつ上のメタレベルである「問題解決」の領域で応用が効くということだ。そして単に「条件反射の繰り返しで身についたこと」ではなく、「フィードバックの過程で考えて身についたこと」は転移するということだ。「条件反射」は「S→R」という一方向の単純な結果しか導かないが、フィードバックは双方向で再帰的で複雑な構造そのものを作っていくことが決定的に重要ということだ。古典的な心理学と現代的な認知心理学では、環境との相互的なフィードバックの論理を含み込んでいるかどうかが決定的に異なっているということになるのだろう。

しかしまったく別の部分で印象に残ったのは、著者やその弟子たちが、芸能人やスポーツ選手に対する敵意を隠さず、逆に「オタク」への敬意を高めるよう努力しているところだ。これは認知心理学者の先輩であり、本書でもところどころで名前が挙がっていたブルーナーにも同じく見られた傾向だった。どうやらアメリカでは、日本以上に「反知性的」なスクールカーストの風潮が蔓延しているようだ。いやはや。

【個人的な研究のための備忘録】
人格というものの「一性」に関して示唆をするような文章があったのでメモしておく。

「もし、あなたが自分自身のことを私(単数形のI)だと思っている時には、自分自身を単一の「何か」であるかのように考えていて、その中には部分ごとに変更できるようなものはないとみなしていることになるだろう。しかし、もし「私の何か(My)」からなっていると考えてみれば、自分自身を部品から構成されたものだとみなして、特定の部位を変更しながら考え方を改良できると考えられる。言い換えれば、もし自分の心が修理可能な機械だと思うことができれば、その改良法について考えることができるわけである。」194頁

まず思い浮かべるのは、フロイトが人間の心を「自我/エス/超自我」に三分割したことだ。人間は「単数形のI」ではなく、複数の部品が組み合わさったものだという観点が示されている。また同じくプラトンは、人間の心を「哲学者(理性)/戦士(気概)/生産者(欲望)」に分類した。そして「正義」とは、この三者の調和がとれて、心が統一されている状態のことだと説明した。本書では「部分と全体」の関係については言及されるが、「全体」を全体たらしめる原理については言及されていないように思える。プラトンが「正義」に求めた全体の原理を、本書は直接的に明示しているわけではないが、ひょっとしたら「創造」という言葉に込めているのかもしれない。

マーヴィン・ミンスキー/大島芳樹訳『創造する心―これからの教育に必要なこと』オライリー・ジャパン、2020年

【紹介と感想】岩下誠・三時眞貴子・倉石一郎・姉川雄大『問いからはじめる教育史』

【紹介】教員採用試験に役に立つような教科書ではありません。いわゆる教科書的な「教育史」に登場する固有名詞はほとんど登場しません。
本書はいちおう「教育」を対象に書かれていますが、世の中全体のカラクリを垣間見せてくれるような視点を与えてくれます。ものごとの見方や考え方を改めたり掘り起こしたり豊かにしたりするヒントがたくさん示されています。思い込みや先入観から身を引き剥がすのに使ってください。

【感想】「序章」はおとなしいかなあと思ったけれども、「終章」と「あとがき」は本領発揮といったところですかね。とてもおもしろく読みました。

まず個人的には、「本源的蓄積」という経済史的概念に落とし込んで説明するスタイルに、とても好感を持ちました。というのも、私の授業(教育原論)では「原始蓄積」という言葉で学生たちにお話ししているからです。この概念を理解しておいてもらわないと、近代の教育や学校の説明は伝わらないと思うんですね。様々なモノやサービスが「商品化=金で買える交換可能なもの」に変わっていくカラクリを知っているだけで、世界の見え方、あるいは関わり方は、ずいぶん本質に迫るものになるだろうと思うわけです。教育というものが単に「労働力の換金レートを上げる」ために行なわれるものだとしたら、何と寒々しいものなのか、そういうことを分かってほしいなと思っていろいろ工夫して授業を組み立てているところです。

そして続いて、私の授業では「交換不可能なもの」「他のものと比べられないもの」について学生たちに考えてもらっています。そういう「交換不可能なもの」を、教育学の領域では「人格」と呼んできました。「人格」というものがいかに「交換不可能なもの」であるのか、授業では「愛」を手がかりに話をしています。
しかしいまや、教育の世界において、「人格」とは「量ることが可能なもの」になりつつあります。いわゆる「新しい学力」とか「ソフトスキル」と呼ばれるものは、これまで「人格」と呼ばれてきたものの領域に踏み込んで、数字に変えて、測定と交換が可能なものに加工するような知識と技術の体系になっています。
たとえば具体的には、多くのyoutuberが実際にやっていることとは、「人格」を「お金」および「イイネ!」という数字に換える作業です。教育基本法で「人格の完成」と呼ばれてきたものと、いま実際に経産省が行なおうとしている「人格形成」は、おそらくまったく違うものです。(だからおそらく、これまでpersonaityと呼ばれてきたものが、現在はagencyと呼ばれるようになってきているのでしょう)。
本書の言葉で言えば、「人間の心」も資本による植民地化の対象となったということでしょう。もはや地球上に存在しているものでは足りなくなったので、「人間の心」の中にまで入りこんで資源を発見し、掘り起こし、加工し、商品化し、換金し、搾取しようということでしょう。単に欲望を喚起するだけでなく、もっと積極的に「人格を資本化する」ということでしょう。資本化された人格の姿は、ホリエモンなどに具象化されているところです。(そう言われたところで、おそらく彼は喜ぶだけでしょうけどね)。
まあ、本書を読み終わって、自分の研究に引きつけるとどうなるかを考えて、そんなことをつらつらと思ったのでありました。そして「植民地化されない人格」を育んでいく鍵は、やっぱり「愛」かなあと思うのでした。

というわけで、おもしろく読みました。若々しい迫力に、想像力をもらいました。私も、自分自身の仕事を楽しくやらなくちゃなあと、改めて思ったのでした。

【個人的な研究のための備忘録】
「人格」に関する記述についてメモをしておく。

「彼(バーナード・グリュックという精神科医)はまず従来の教育論が知識の伝達のみに集中し、現場の実践も同じ轍を踏んできたと批判します。またこれまで教員養成も、知識伝達テクニックの教授法だけを熱心に教えてきたことをあげ、そこには大きな欠落があると論じます。彼によれば、それはパーソナリティの育成という視点です。本来教室とは、子どもが「自分らしくあることができる場」でなければならず、教師は子どものよき理解者でなければならない。学校がそうした場になるために、教師は教室の雰囲気(atmosphere)づくりに注力しなければならず、その土台となるのが教師のパーソナリティである……。」175頁

まずこの講演が行なわれたのが1923年ということだが、同じようなことがほぼ同時期あるいは少し前の日本でも盛んに主張されている。いわゆる「人格主義」とか「教養主義」と呼ばれる主張内容で、たとえば新渡戸稲造とか阿部次郎が担い手だ。そしてその主張は精神医学に由来するのではなく、カントの批判哲学に由来する(直接的な影響はイギリスのグリーンから)。このアメリカの精神科医の主張にも、精神衛生運動からの流れだけでなく、同時代の「人格主義」の影響が色濃く反映している可能性はないか。
またあるいは、アメリカ(およびイギリス)ではpersonalityという単語はあまり積極的に使用されず、同じような文脈ではcharacterという単語が使用されることが多いような印象がある(たとえばオーエンが形成しようとしたのはpersonalityではなくcharacter)。原文でどちらの単語が使用されていたかは分からないのだが、もしもpersonalityであるとすれば、どういう事情が反映しているのか。

岩下誠・三時眞貴子・倉石一郎・姉川雄大『問いからはじめる教育史』有斐閣ストゥディア、2020年

【要約と感想】苅谷剛彦『追いついた近代 消えた近代―戦後日本の自己像と教育』

【要約】日本の教育政策がどうして迷走を続けているかというと、現実に基づいた帰納的思考が貧弱だからです。具体的には、「近代(化)」という言葉を追いかけると、よく分かります。
日本は「追いつき追いこせ」の近代化を進めてきましたが、1980年代に西欧に追いついたと思い込み、「近代は終わった」と公言しはじめました。しかし「近代」とは、我々の生活をより良くしていこうという「現在」を含み込んだ考え方だったはずです。日本は「近代は終わった」と声高に叫ぶことで、むしろ「現在」を考える視点を失っただけでした。そして「近代」という参照軸を失って空虚になった1980年代以降、エセ新自由主義やエセ愛国主義が蔓延することになります。

【感想】著者が本文で何度も断っているように、本書は「言説分析」に終始している。つまり空中戦だ。著者ご本人は教育社会学者として「地上戦(つまり実態分析)」でたくさんの成果を挙げてきた。しかし本書で空中戦に挑むのは、せっかく地上戦で戦果を挙げても、空中戦で全て台無しにされてしまうというふうに、何度も煮え湯を飲まされてきたからなのだろう。本書でも、社会学者の着実な業績を台無しにし続ける官僚=東大法学部に対する恨み辛みが垣間見えるところである。著者は東大法学部に特有の思考様式を分析した上で、それを「エセ演繹思考」と切って捨てる。教育改革が迷走し続けるのは、官僚や学者がエセ演繹思考にしがみついているからだ。そう喝破して、返す刀で新自由主義やナショナリズムを薙ぎ倒す筆致は、迫力に溢れている。とても読み応えがあった。

【要確認事項】
とはいえ、明治期を主戦場とする日本教育史研究者としては、ハテナと思うところもないわけではない。
まず個人・国家・世界の関係について、著者は「個は国家(特殊)を通じて世界(普遍)に至る」という予定調和的な理想主義に触れて臨時教育審議会を分析しているが、こういう理想主義は、戦後どころか、明治20年代後半には既に広く見られる発想である。特に岡倉天心や三宅雪嶺には顕著だ。三宅雪嶺「真善美日本人」などは、そういう「特殊=日本/普遍=世界」理解を素直に体現している。「日本的な「特異」性を否定するのではなく、それを肯定する日本への回帰が強調されるようになる」(97頁)のは、まさに岡倉天心の思想そのものだ(詳細は私の論文「明治10年代の美術における国粋主義の検討」参照)。そして戦後直後においても、南原繁や上原専禄が同じような見解を表明している。臨時教育審議会から始まったわけではない。「特殊/普遍」に対する発想を戦後のものと見なすのは、思想史的に疑問とせざるを得ない。
まあ、この論点が崩れたところで本書全体の趣旨は損なわれないだろうとは思うが、専門家としては気になるところだ。
そして、「近代」という言葉で空中戦を行うなら、柳父章『翻訳語成立事情』の「近代」項目は参照必須文献だと思うのだが、敢えてスルーしたのかどうか。一言も触れられていないのは、ちょっと気持ちが悪いところだ。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「人格」と「個性」に対する興味深い言及があった。

「ここでは「日本国民は人間性、人格、個性を十分に尊重しない」という問題を構築したうえで、「人間性、人格、個性」の三つの言葉にわざわざ説明を加えている。これらの概念が日本人には理解されていなかったという暗黙の前提がはたらいたのだろう。今日これらの言葉にこのような説明が不要なことを念頭に置けば、異様な感のする説明である。それほど、これら三つの言葉で示された価値が、戦前の日本には欠落していたとみなされていたのだろう。」(189頁)

驚いた。私は、現在でも日本人の大半が「人間性」「人格」「個性」という言葉を理解していないと思っている。阿部謹也もそう言っている。チコちゃんから街の人に「人格って何?」と聞いてもらえばいい。大半の日本人は「ボーっと生きている」はずだ。私にしても、うまく説明できる自信はない。これらの言葉は、わかったつもりでいるが、改めて聞かれると説明できない類の「翻訳語」だ。きっと柳父章も賛成してくれるだろう。しかし著者は「説明が不要」と言っているわけだ。
まあ、著者としても、本気で言っているというよりは、筆が滑っただけのような気はする。というのも、まさに「人格」とか「個性」という言葉こそ、著者が気迫を込めて批判している「エセ演繹思考」の元凶だろうからだ。帰納的に経験や事実が積み重ねられて鍛えられた言葉ではなく、必要に迫られて(法学や経済学で必要な概念だから)海外から輸入されて、意味も分からないままに使用しているうち、なんとなく理解したようなつもりになっただけの、表面的で浅い言葉なのだ。本書でも「多くの近代法を含め、日本語にはもともとなかった観念や、翻訳によっても、日本の過去に対応物がなかったり、観念レベルでまったく異なる制度を導入しようとする場合には、外来の知識の学習を頼りに、そこからの演繹的な思考によって導きだされる理解に基づいて、制度をつくりだすしかなかったはずだ。」(282頁)と指摘しているところだ。
そしてだからこそ、著者の分析枠組み通り、1980年代以降の「近代の消失」と「経済の前景化」に伴って、「人格」や「個性」という言葉の意味はガラリと変わる。たとえば臨時教育審議会以降に「個性」という言葉から人文科学的な背景が剥落し、単に経済的な適材適所を意味するようになったのは、数々の臨教審研究が明らかにしているところだ。「人格」という言葉についても、今時学習指導要領改訂に関わった人々が、歴史と哲学に基づかない極めて皮相な経済中心的見解を示している(国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』参照)。「人格」や「個性」という言葉は、日本の現実に基づかず、「エセ演繹思考」のド真ん中(まさに教育基本法第1条)に居座っていたからこそ、逆に意味内容を完全に失いながらも現在まで生き延びていると言える。意味内容を真剣に問われることもないまま、「わかったつもり」の人々が、「エセ演繹思考」に従って使い続けるのである。だから学習指導要領解説編の「人格」という言葉は、極めて薄っぺらいものになっているわけだ。
ちなみに『新教育指針』における「人格・個性・人間性」理解は、明治後期から大正期にかけてカント及び新カント派の受容を踏まえた教養主義的な見解そのままと言える。そしてそれは天野貞祐『国民実践要領』なり『期待される人間像』にまで引き継がれる理解である。1900年から1970年までは、「人格」理解はカント的な背景で一貫している。それががらりと変わるのは、1980年以降のことになる。具体的には、カント的な理解が通用しなくなり、経済(能力)至上主義的な発想と儒教的な発想の2つが忍び込んでくる。その変化を説明する理論枠組みとして、本書が指し示した「近代が消された」という分析は極めて有効だ。「人格」からはカント(近代哲学)が殺されたのだ。実行犯は「経済至上主義」と「薄っぺらい愛国主義」だ。黒幕は、本書全体の行論が指し示すとおりだろう。
そんなわけで、著者自身は理論的な分析枠組みをしっかり提出しているのに、その枠組みを「人格」や「個性」という「エセ演繹思考」の元凶であろう言葉に及ぼさなかったのが、驚いたのであった。

それから、著者が「近代」の本質として「再帰性」を挙げているところは興味深い。自分自身が自分自身を「反省」して自分自身を変えていくというのが「再帰性」である。再帰性の要点とは、「絶え間ない変化」を繰り返しつつも、それでも「自分自身は自分自身のまま」というアイデンティティ(同一性)を保つところである。「変化しても変化しない」というのが再帰性というものが果たす機能である。つまり本書の趣旨から言えば、「近代は終わった」と認識することは、「変化するのか変化しないのか、どこをどう考えていいか分からない」という状態に陥ることを意味している。
実は「人格」というものの本質も、同じく「再帰性」である。私の定義では、「人格」とは「再帰的な一」であることに尽きる。そしてそれは「国家」にも適用できる。いやむしろ、「近代国家」と「近代人格」の本質が「再帰的な一」として相似的であるのが近代という時代の特徴とも言える。そして日本では、良いか悪いかは別として、この「再帰的な一」としての「人格」が決定的に理解されていないだろうと思うのだ。だから「アイデンティティ」という言葉の意味もわからなくなる。
しかし「再帰性」を本当に実現するためには、前期ヴィトゲンシュタインの指摘をまつまでもなく、必ず自分自身の中に「特異点」を必要とする。特異点を一つ以上設定しなければ、「再帰的な一」は成立しない。西欧諸国の場合は、それが「神」だった。日本の場合は「天皇」となった。特異点は何でもよい。「眼鏡」でもよい。本当に「近代」というものを突き詰めようと思ったら、本当はこの「特異点」にまで手を突っ込む必要がある。しかし本書は、その痒いところに手が届く前に終わっている。著者も自覚しているが。

苅谷剛彦『追いついた近代 消えた近代―戦後日本の自己像と教育』岩波書店、2019年

【要約と感想】尾木直樹『子どもの危機をどう見るか』

【要約】1990年代後半から、学級崩壊や、普通の子がキレる「新しい荒れ」、さらに児童虐待が目立つようになりました。背景には、時代の変化についていけない旧態依然の学校文化、地域から孤立してホテル化した家庭、大人と子どもの関係不全があります。
解決のためには、道徳の強化や心の教育は役に立ちません。子どもの社会参加による自己効用感の回復が必要です。学校運営に子どもを参加させましょう。大人の価値観(いい子主義)を一方的に子どもに押しつけるのではなく、子どもの自主的な「学び」を励ましましょう。学校の中に乳幼児や老人を取り込みましょう。子どもの自己決定を大切にし、子どもと大人は独立した人格として関係を結びましょう。

【感想】20年近く前の本で、個々の状況(教育基本法改正とかいじめに関わる法律とか学習指導要領の大綱化とか道徳の教科化とか)は大きく変化しているわけだが、大まかな見取り図としては古くなっている感じはしない。
子どもの社会参加と自己決定が大切だという話は、「子どもの権利条約」の精神に則っていて、私も総論賛成である。各論としても具体的な事例が紹介されていて、たいへん参考になる。

【言質】
いじめや「人格」や子ども観に関する証言をたくさん得た。

「いじめの加害者と被害者の立場の組み替えが自在であるだけに、現代のいじめにはパワーゲームとしての「面白さ」があります。」44-45頁

個人的にもいじめを「パワーゲーム」として理解する観点は大事なんじゃないかと思っている。単なる「弱い者いじめ」としてでは、現代のいじめは把握できない。勉強ができたり顔が良かったりスポーツが得意だったりする「強者」を、いかに弱者と対等な立場に引きずり下ろすかというルサンチマンが、現代のいじめには色濃い。これは、誰が「強者」になるかという、教室における「パワーゲーム」だ。そしてそれは、大人社会で起きていること(たとえば頭の悪い人が、頭のいい人をバカにする)と、同じだ。
もちろん突きつめれば、各個の自己肯定感の低さが最大の問題にはなるのだろう。

「子育ての責任は家庭・親にあるという見方があまりに支配的なため、わが子を「私物化」してとらえてしまいます。しかし、子どもは社会の構成員です。したがって本来は、親だけでなく、社会全体が子育てには責任を負っているのです。」66頁

まあ、そうですよね、という。この「子育ての公共性」を破壊している元凶は、臨教審以降の新自由主義だろう。自分が良ければ他人の不幸は自己責任という。このままじゃ滅びると思うんだがなあ。

「学級崩壊とは、個の意志を尊重する就学前教育の基本方針と、相変わらず硬直したままの一斉主義的傾向を重視する小学校との間の断絶に原因の一つがあると考えられます。」94頁

小学校の先生にこそっと聞くところでは、自分たちに問題があるとは考えておらず、幼児教育の自由化傾向のほうが元凶だと捉えている感じがするんですけどね。幼小連携のあり方は、今後どうなっていくのか。いやはや。(←他人事ではない)

「私は、今日の「子ども観」を「独立した人格の主体である子どもが未来の主権者になるために、最善の利益を受け、権利行使をする発達保障期」と定義したいと思います。」157頁

なるほどなあと。「独立した人格の主体」と「未来の主権者」を峻別したところが、この定義の最大のポイントであるように思う。近代は、「独立した人格の主体=主権者」であった。この未分化な「人格=主権者」を二つに分離させるわけだ。(となると、教育基本法第一条「人格の完成」は、廃止すべきという議論になるかな。)

「子どもが陥っている危機から脱出するためにも、二一世紀は、子どもと大人のパートナーシップ時代にしていかなくてはなりません。」233頁
「大人と子どもの関係のあり方に、いま異議が唱えられていることはくりかえし述べた通りです。大人と子どもの関係のあり方は、いま子どもの市民性の高まりによって、根底から揺らぎ、言い意味でボーダーレス化しているのです。」236頁

19世紀的な「子ども=学校/大人=労働」という価値観を、どう超えていくのか。というか、価値観は既に大きく変化しているので、社会的な制度をどう変えていくかという話になるわけだ。子どもの社会参加と自己決定は、どのように保障されるのか。いろいろな取り組みを注視していきたい。(←他人事ではない)

尾木直樹『子どもの危機をどう見るか』岩波新書、2000年