【要約と感想】中野信子『ペルソナ―脳に潜む闇』

【要約】おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。

【感想】タイトルだけ見て、脳科学的な観点から「人格」の理解に光を当てた本だろうと手に取ったけど、ぜんぜん違って、著者の自伝的エッセイ集だった。まあ、こういう意図せざる出会いがあるのがタイトル買いの醍醐味だから、いいんだけれど。
 で、私が1991年東大入学で、1回留年して大学院に進み、2003年までうろちょろしているので、著者とは本郷キャンパス内ですれ違っているかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、まあ、どっちであってもどうでもいいことではある。で、経歴も考え方もぜんぜん違うようだけれども、アカデミックな研究に対しては、どうも違和感を共有しているような気もする。私もなぜか大学スタッフの末席に名を連ねているけれども、「ここにいていいのだろうか?」という存在論的な違和感は、未だにぬぐえなかったりする。というか、加速しつつある。大学院生の頃はまだ純粋に学術論文を書くということに喜びを感じていたような気がするのだけれども、昨今の大学改革を経て、学問的意味をさほど持たない論文を戦略的に量産しなければポストにしがみつけなくなって、「研究する喜び」というものが後回しになっている結果、なんのために研究しているのか意味を見失っていく。これはいけない、本質的なものを取り戻そう、と頑張ってみると、今度はポストにしがみつく意味が分からなくなってくる。これなら、大学じゃなくて、別にいいじゃない。東大で尊敬していた先生が2人、任期前に退職したけれども、そういう気持ちだったのかどうか。

【研究のための備忘録】ペルソナ=人格
 で、業績のためにやっているわけではなく、そしてあるいは社会の役に立つためにやっているわけではなく、もはやただただ私個人の知的関心を満たすためにライフワークのように研究を進めているテーマが「人格」とか「個性」とか「アイデンティティ」といった類の概念史なわけで、それに関わる言葉をサンプリングしておくのだった。

「むしろ、脳は一貫していることの方がおかしいのだ。自然ではないから、わざわざ一貫させようとして、外野が口を出したり、内省的に自分を批判したりするのである。一貫させるのは、端的に言えば、コミュニティから受けとることのできる恩恵を最大化するためという目的からにすぎない。」p.8
「一貫性がないと困る、という一件不必要な制約が、脳に植え付けられているのだとしたら、それはどんな目的のためなのだろう? この答えは、残念ながら脳科学的にもまだクリアにはなっていない。」p.76

 人格心理学の分野では、しばらく前に「一貫性論争」というものがあった。一貫性という概念そのものに疑問を投げかけた論争だ。また19世紀教育学(ヘルバルト主義)では、教育の目的と方法は人格の一貫性を保つために構成しなければいけないと明言していた。が、20世紀にはボルノーが「不連続性」の教育を主張して、極めて大きな影響力を持った。あるいは社会学の領域では、100年ほど前にG.H.ミードが、アイデンティティなんてものは状況によって変わるもので一貫性などないと主張した。文学の世界では、それこそ一貫性を無化あるいは破壊しようとする試みがいくらでもある。経済史的に言えば、高度に発達した資本主義が人間存在を疎外していることが自覚されたことが背景にある。脳科学のような自然科学は、そういう動きを遅れて実証しつつあるように見える。さて「一貫性」の明日はどっちだ。

「わたしのペルソナ(他者に対する時に現れる自己の外的側面)は、わたしがそう演じている役である、といったら言い過ぎだと感じられるだろうか?」p.9
「私たちは、誰もが社会の中にあって役割を持って生活している。その役割をこなすには、本来の自分であることをしばしば覆い隠し、求められたペルソナを演じる必要がある。本来持っている性格そのままに、自然に振る舞いたいという衝動と、その衝動を空気を読む前頭前皮質が抑え込んでいるという均衡の上に私たちは存在している。」p.130

 いつの間にか「ペルソナ」という言葉は「人間の不可分で代替可能な何か」を指し示す言葉になっているけれども、もともとの意味は本書が言うような「役割」に過ぎなかった。G.H.ミードは100年前にそれを確認している。脳科学的な教養を背景にしながらも、100年前と同じような感想が繰り返されていると見ていいか。あるいは小説家平野啓一郎が同じように「本当の自分などありません」と言っていたことを思い出す(平野『私とは何か』)。ちなみに従来personalityという言葉が担っていた意味領域がかなりぼやけてしまったので、いま代わりにagencyという言葉が使われ始めている。

中野信子『ペルソナ―脳に潜む闇』講談社現代新書、2020年