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【要約と感想】ルソー『社会契約論』

【要約】人間はもともと自由で平等なものとして生まれたので、あらゆる社会秩序は自然にできたものではないし、力に基づくものでもなく、約束で成立しているものです。社会秩序を作るには、それがどういう形(君主制・貴族制・民主制)になるにせよ、まず人々がバラバラの烏合の衆ではなく、ひとかたまりの人民になっている必要があります。この、社会秩序が形成される前提として人々同士が結合する最初の約束が「社会契約」であり、それは共同体に属する構成員すべての人格と財産を守るための約束です。これを実現する条件は、すべての人間が一切の権利を共同体に譲渡したうえで、一人一人が共同体全体にとって切り離せない不可欠な一部となることです。それによって自我と生命を持つ一つの集合的精神が誕生し、主権者となります。各構成員は主権者の一般意志に従うことで、契約締結以前の自由と平等をそのまま受け取ります。しかし権利だけ主張して義務を果たさない個人の不正は共同体を破壊するので、一般意志への服従は絶対強制です。こうして自然状態で自然的に自由だった人間は、社会状態で市民的に自由となり、道徳的自由も手に入れて、初めて自分の主人となることができます。
 一般意志は個別の案件に口を出すことはなく、常に全員に関わる公の利益だけ考えるので間違うことは絶対にありませんが、しかし啓蒙されていない民衆の議決は個人の利害に左右されて間違うことがあります。特に部分的団体が影響力を持ち始めたり、国が大きすぎたり小さすぎたり、代議制に頼ったり、人々が金儲けばかりに関心を持ち始めるとおかしくなりやすく、憲法制定は人民の成熟度合いや隣国との関係など極めて厳しい条件を満たしていなければ不可能です。
 執行権を持つ政府は、主権とは異なる単なる仲介団体であり、一般意志に従うべき公僕です。政府の適切な大きさや種類(民主制・貴族制・君主制)は主権者が置かれた状況や環境によって異なります。良い政府か悪い政府かを決めることは一概にはできませんが、目安としては、人口が増えているときは良く、減っているときには悪いと考えていいでしょう。政府が堕落すると国家が解体します。
 社会契約が成立した以上、健全であれば投票によって過半数で決まったことは一般意志の決定と前提できるので、少数者も従いましょう。もしも一般意志が過半数の側になければ、反対側の意見も一般意志ではなく、国内に別々の国(つまり一般意志)があったというだけのことです。行政官の選出は抽籤によるのがいいでしょう。実際の選挙制度や行政の仕組みについては古代ローマを参考にしましょう。最後に宗教について、これはもともと主権者にとっては国家の法に結びついたもので問題になりませんでしたが、世俗的な権力と切り離されて反俗世(反社会)的な権力となったキリスト教は様々な問題を生じさせます。そこで主権者はキリスト教も含めた既存の宗教とは異なる「純粋に市民的な信仰告白」を決めて、それを信じない者は追放したり、信じたふりをした者は処刑するべきです。そうできないなら、市民生活と矛盾しないあらゆる宗教に対して寛容であるべきです。

【感想】自然状態から社会状態に移行する条件についての記述は、極めてアッサリ風味で、訳文では4行で説明される。このあたりは別著『人間不平等起原論』で説明したということなのだろう。本書は社会状態を実現する前提と条件について掘り下げている。
 社会状態の記述は、解説が指摘するとおりホッブズの論理を換骨奪胎したものだろう。たとえば一般意志へ絶対服従を説く点など、リヴァイアサンの絶対性とまったく変わりがない。ただしもちろん決定的に異なるのは、ルソーにおいては主権者が人民自身という点にあり、ホッブズにおいて同じものであった主権者(国)と政府をルソーは厳密に峻別する。ホッブズにおいては絶対的権力者であった行政のトップ(君主)は、ルソーにおいてはただの公僕(政府)だ。そして国と政府はそれぞれ違うものだという洞察から、国にとって都合の悪い政府は取り替えてもよいという革命的な結論が導かれる。また、原理的に自由を否定して必然性を強調するホッブズが普遍的な「自然法」を前面に打ち出しているのに対し、ルソーのほうはいったんすべての共同体に通底する原理的な社会契約を結んだあとは個別の一般意志(必ずしも自然法に従わない)による自由で個性的なルール作りを認めている(57頁「法について」)。ただし自由なルール作りと言ってもその集団固有の慣習や世論というものに従うことになるので、現実的にはモンテスキューに近い感じか。
 いっぽうロック『統治二論』と異なるのは、ロックが「服従契約」を祖述したのに対し、ルソーがそれ以前の「社会契約」の段階を前面に打ち出した点にある。ロック理論で抵抗権の根拠が曖昧になるのは、単なる服従契約では政府への抵抗が被支配者の側からの契約解除という形をとってしまうからだ。しかし社会契約に基づくルソーの論理では、政府が主権者(国家)と完全に切り離された別の法人格として扱われるので、単に政府を覆しただけでは主権者(国家)の側の契約不履行とはならない。つまり「主権」の所在を人民主権と明確に規定したことで理論上の紛れがなくなっている。

 具体的に憲法を制定して政府を作るところでは、明治維新後の日本の歩みが自然と想起される。明治15年から伊藤博文が西欧各地を巡って憲法調査を行うが、どこに行っても誰に聞いても日本人民の未熟さを指摘されて憲法制定など時期尚早と諭される羽目に陥る。その際、伊藤を諭した法学者がルソーを意識していたかどうかは分からないが、憲法を制定する前提として人民が成熟していなければならないという認識は共有されている。伊藤はプロイセンでシュタイン国家学に出会って憲法制定への道筋を見出すことになるが、それはやはり人民主権を前提するルソー流ではなく、家産国家の延長として行政を理解する官房学(ポリツァイ)の系譜に連なる。
 また「市民宗教」の下りは、露骨に教育勅語を想起させる。ひょっとしたら井上毅はルソーを読み込んでいたかもしれない。自由民権運動の論理的支柱であったルソーの名前を井上毅があからさまに前面に打ち出すことはなくても、社会契約論の論理については当然勉強しているはずだし、「市民宗教」の理屈に何かしらの光明を見出していても不思議はない。

 そんなわけで、本書は確かに徹底的な人民主権論に立ち、後の市民革命を正当化する理論的支柱となった民主主義のバイブルに違いないのだろうが、やはり一方で(ルソーは本書内で気を使って書いてはいるものの)全体主義に利用されてしまう空気も纏っているように思える。私が思うところでは、本書の限界は一国内民主主義に留まり、グローバルな視点に欠けている点にある。どれだけナショナルな単位で人民主権が成立しようとも、いやむしろナショナルな単位で人民主権が成立してしまうがゆえに、国際秩序は剥き出しの「力」が支配するホッブズ的な闘争世界に陥る。大日本帝国を想起するまでもなく、目の前で繰り広げられるロシアによるウクライナ侵攻とかイスラエルによるガザ破壊とかアメリカの独善的な振る舞いを見れば、一国単位の人民主権の限界は明らかだ。そしてそれはルソーが結論において「残されている問題」と記述したものに他ならない。
 またあるいは国内に二つの国が分裂するという問題については、ジェンダー論や世代論、あるいはアメリカの分裂などが想起される。これを単に本書のように「2つの国がある」と切って捨ててよいのか。ルソーは通分可能な人々の間で成立する社会契約で押し通したが、もはや同類項を想定できない通分不可能な多様性において「共存」が成立する原理を考えなくてはいけないのではないか。
 ただ本書を民主主義の聖典としてありがたがっている場合ではなく、人類はその限界を認識して次のステージに進まなければいけない時期に来ていると思う。

【要検討事項】身体
 本文中の訳語で「身」とか「身体」となっているところは、原文を確認しておきたい。というのは、それがフランス語ではpersonneであり、実質的には「人格」と理解するべきものである可能性がある上に、本文中に「一般意志」という言葉が最初に使われる文章にも関わってくるからだ。

「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。」29頁
原文:Trouver une forme d’association qui défenfe et protége de toute la force commune la personne et les biens de chaque associé, et par laquelle chacun, s’unissant a tous, n’ovéisse poutrant qu’a lui-même, et reste aussi libre qu’aparavant.
「われわれの各々は身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下に置く。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受け取るのだ。」31頁原文:Chacun de nous met en commun sa peronne et toute sa puissance sous la suprême direction de la volonté générale; et nous recevons encore chaque membre comme partie indivisible du tout.
「臣民は公けの平穏を、市民は個々人の自由を誇る。一方は、財産の安全を、他方は、身体の安全を欲する。」118頁
「政治体は、人間の身体と同様に、生まれたときから死にはじめ、それはみずからのうちに、破壊の原因を宿している。」125頁
「最下層の市民の身体も、最上級の行政官の身体と同じく神聖で不可侵なものになる。」130頁
「市民たちが自分の身体でよりも、自分の財布で奉仕するほうを好むにいたるやいなや(後略)」131頁

 で、少し調べたところでは、予測通り訳文で「身体」とか「身」となっている原語の多くはフランス語でpersonneとなっていた。そしてそうだとすると、「身体」よりも「人格」と理解した方がルソーの趣旨が徹底する場面も多いように思う。というのは、ルソーは単に物理的に身柄を云々したいわけではなく、自由や道徳性や尊厳も含めた「人格」を対象としたかっただろうからだ。

【個人的な研究のための備忘録】人格
 ということで、本書ではpersonneという単語が連発され、訳書でも「人格」という言葉が使われるが、注目したいのはそれが有機体論的に使用されている点だ。「人格」の用法という観点から見ると、ホッブズに近く、ロックから遠い。

「この結合行為は、直ちに、各契約者の特殊な自己に代って、一つの精神的で集合的な団体をつくり出す。その団体は集会における投票者と同数の構成員からなる。それは、この同じ行為から、その統一、その共同の自我、その生命およびその意志を受けとる。このように、すべての人々の結合によって形成されるこの公的な人格は、かつては都市国家という名前をもっていたが、今では共和国(Republique)または政治体(Corps politique)という名前をもっている。それは、受動的には、構成員から国家(Etat)とよばれ、能動的には主権者(Souverain)、同種のものと比べるときには国(Puissance)とよばれる。構成員についていえば、集合的には人民(Peuple)という名をもつが、個々には、主権に参加するものとしては市民(Citoyens)、国家の法律に服従するものとしては臣民(Sujets)とよばれる。」31頁
「外部のものにたいしては、この団体は、単なる一存在、一個人となるのだから。」33頁
「そして彼は、国家を構成する精神的人格を、それが一個の人間ではないという理由から、頭で考え出したものとみなし、臣民の義務をはたそうとはしないで、市民の権利を享受するであろう。」35頁

 こうして国家に「精神的人格」を見出したルソーは、有機体論的な記述を次々と繰り出す。

「彼らは、主権者をば、いろいろな部分をよせ集めて作られた架空の存在にしている。それは多くのからだ――眼だけしかもたない、腕だけしかもたない、あるいは足だけしかもたないところの、からだから人間を作るようなものである。」44頁
「もし、国家または都市が精神的人格にほかならず、その生命が構成員の結合のうちに成りたつとすれば、また、国家の配慮のうちで一番大切なものは、自己保存の配慮であるとすれば、国家は各部分を、全体にとって最も好都合なように動かし、配置するために、普遍的な、また強制的な力をもたなければならない。ちょうど、自然が、各々の人間に、その手足のすべてにたいする絶対的な力を与えているように、社会契約も、政治体に、その全構成員にたいする絶対的な力を与えるのである。そしてこの力こそ、一般意志によって指導される場合、すでにいったように、主権と名づけられるところのものなのである。
 しかし、われわれは、この公の人格のほかに、これを構成している私人たちを考えねばならない。そして後者の生命と自由とは、本来、前者とは独立のものである。そこで、市民たちと主権者との、それぞれの権利を区別し、また市民たちが臣民として果さねばならない義務を、人間としてうくべき自然権から、十分に区別することが問題となる」49頁
「政治体の生命のもとは、主権にある。立法権は国家の心臓であり、執行権は、すべての部分に運動を与える国家の脳髄である。脳髄がマヒしてしまっても、個人はなお生きうる。バカになっても、命はつづく。しかし心臓が機能を停止するやいなや、動物は死んでしまう」126頁

 そして国家と同様に、その公僕としての「政府」に対しても精神的人格を見出す。

「政府は、政府を含む大きな政治体の縮図である。それは、いくつかの属性をそなえた精神的人格であり、主権者のように能動的であり、国家のように受動的でもあって、他の同じような関係に分解することもできる」88頁
「しかしながら、政府という団体が、国家という団体から区別されるところの一つの存在、つまり現実の一つの生命をもつためには、また、政府のすべての構成員が一致して行動し、それがつくられた目的に応じうるためには、特殊な「自我」、その構成員に共通の感受性、自己保存に向おうとする一つの力一つの固有の意志、が政府に必要だ。」88-89頁
「統治者と主権者とが、全く同一人格でしかないので(後略)」95頁
「貴族政には、二つのはっきり違った精神的人格、つまり政府と主権者とがある。」98頁
「これまで、われわれは統治者を、法の力によって結合され、国家のなかで執行権を委任された精神的にして集合的な人格として考えてきた。しかし今、われわれは、この権力が、法律にしたがって権力を行使する権利をもったただ一人の自然人、実在の人間の手に統合された場合を考えねばならぬ。これが、君主あるいは王と呼ばれるところのものである」101頁

 ここで言う「人格」とは法学的には「法人格」ということになるが、この時点でルソーが現代法学的な意味での人格を考えていたかどうか定かではない。とはいえ、国家に人格を認め、さらに政府にもそれと異なる人格を認めるという論理構成は、あらゆる団体に擬制的に人格を付与しようという発想と紙一重だ。そしてそうなると、自然人と社会人を鋭く峻別したルソー理論にあっては、「人=自然人」と「人格=社会人」の峻別まであと一歩である。

「社会的権利を侵害する悪人は、すべて、その犯罪のゆえに、祖国への反逆者、裏切者となるのだ。彼は、法を犯すことによって、祖国の一員であることをやめ、さらに祖国にたいして戦争をすることにさえなる。だから、国家の保存と彼の保存とは、両立し得ないものとなる。二つのうちの一つが、ほろびなければならない。そして、罪人を殺すのは、市民としてよりも、むしろ敵としてだ。彼を裁判すること、および判決をくだすことは、彼が社会契約を破ったということ、従って、彼がもはや国家の一員ではないことの証明および宣告なのだ。ところが、彼は、少なくともそこに住んでいるということによって、自分をその国家の一員と認めていたのだから、彼は、契約を破った者として、追放によって切りはなされるか、あるいは公衆の敵として、死によって切りはなされるか、されなければならない。なぜなら、そういう敵は、道徳的人格ではなく、[たんなる]人間なのであって、そういう場合には、戦争の権利は、負けた者を殺すこととなるからだ。」55頁
「われわれは、行政官の人格のなかに、本質的に異なった三つの意志を区別することができる。第一は個人の固有意志であり、それは自己の特殊な利益のみを求める。第二は、行政官の共同意志であって、もっぱら、統治者の利益にのみかかわりをもつ。それは団体意志とも呼ぶことができるもので、政府にたいしては一般的であるが、政府をその部分とする国家にたいしては、特殊的である。第三は、人民の意志、または主権者の意志であり、それは全体として考えられた国家にたいしても、全体の部分として考えられた政府にたいしても、同様に一般的である。」90-91頁

 ここでは、ルソーが「道徳的人格」と「たんなる人間」を区別していることを確認しておきたい。自然状態における人と、社会状態における人格は、論理的に異なる存在だ。

【個人的な研究のための備忘録】社会契約
 本書の論理的なかなめは服従契約と社会契約の違いにあるので、該当箇所をサンプリングしておく。

「多くの人々は、この設立行為は、人民と、人民が自らにあたえた首長たちとの間の一つの契約であるとあえて主張した。すなわち、一方は支配する義務をもち、他方服従する義務をもつという条件を、両当事者の間に定める契約だという。」137頁
「国家には、ただ一つの契約しかない。それは結合の契約だ。これがただ一つあるというだけで他のすべては排除される。前者[社会契約]を破壊しないような、他のいかなる公共の契約をも、考えられないであろう。」128頁
「政府をつくる行為は、決して契約ではなく、一つの法であること。執行権をまかされた人々は、決して人民の主人ではなく、その公僕であること。」140頁

 ホッブズについては、自然状態に対する理解の相違の他、キリスト教(特にカトリック教会)に対する態度に関しても批判をしている。

「すべてのキリスト教徒の著者のうちで、哲学者のホッブズのみが、この悪とその療法とを十分に認識した唯一の人であって、彼はワシの双頭を再び一つにすること、またすべてを政治的統一へつれ戻すことをあえてとなえたのであった。この統一がないかぎり、国家も政府も決して良く組織されることはないであろう。」183頁

 ただしホッブズが『リヴァイアサン』の大部分をカトリック批判と俗世的権力の優位の弁償に費やしたのに対し、ルソーは最後の最後でちょいと付け足しをしているだけだ。この態度の違いが何に由来するかは、少々気になるところではある。

【個人的な研究のための備忘録】自由と平等
 自由について、近代のアポリアの焦点を突くような発言がまとまって見られる。

自由であるように強制される」35頁
「政治体の本質は、服従と自由の合致にあり、「臣民」と「主権者」という言葉は、盾の両面であって、この言葉の意味は、「市民」という一語の下に結合している」129頁

 これが近代の特徴を端的に言い表すアポリアであり、近代教育の根源を規定しているテーゼである。これを表面的に解こうと思ったら、まずは自然状態における「自然的自由」と社会状態における「市民的自由」の区別(36頁)が不可欠だ。実質的に強制されるのは、「自然的自由」を奪われる代わりに「市民的自由」を与えられることだ。そしてルソーはさらにこれに「道徳的自由」(37頁)の獲得も付け加えたうえで、こう言う。

「たんなる欲望の衝動[に従うこと]はドレイ状態であり、自ら課した法律に従うことは自由の境界である」37頁

 まさにこれが近代的な自由と自律であり、カントの言う立法能力であり、近代教育が「人間を人間とする」とか「人格の完成」というときに目指す境地である。自然的自由を享受する子どもから、市民的自由を享受する大人へと成長を促すことが、近代教育の使命なのだ。教育の役割は「自由(自然的に)なものを自由(市民的に)にする」ことだ。またそれは同時に「平等(自然的に)なものを平等(法的あるいは道徳的に)にする」ことでもある(41頁)。ルソーは立法の最大の目的は自由と平等だと明言している(77頁)。人は生まれながらに自由であり平等であるが、それは自然に与えられたものではなく、約束(根源的な社会契約)によって保障されたものだ。だから教育の出番がある。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 ちなみに教育について真正面から語る本ではない(その課題は『エミール』で果たされる)が、父権に絡む記述はサンプリングしておく。

「あらゆる社会の中でもっとも古く、またただ一つ自然なものは家族という社会である。ところが、子供たちが父親に結びつけられているのは、自分たちを保存するのに父を必要とする間だけである。この必要がなくなるやいなや、この自然の結びつきは解ける。子供たちは父親に服従する義務をまぬがれ、父親は子供たちの世話をする義務をまぬがれて、両者ひとしく、ふたたび独立するようになる。もし、彼らが相変わらず結合しているとしても、それはもはや自然ではなく、意志にもとづいてである。だから、家族そのものも約束によってのみ維持されている。」16頁
「人間は、理性の年齢に達するやいなや、彼のみが自己保存に適当ないろいろな手段の判定者となるから、そのことによって自分自身の主人となる。」16頁
「子供たちは、人間として、また自由なものとして、生まれる。彼らの自由は、彼らのものであって、彼ら以外の何びともそれを勝手に処分する権利はもたない。彼らが理性の年齢に達するまで、父親は彼らに代って、彼らの生存と幸福とのために、いろんな条件をきめることはできる。しかし、とりかえしのつかぬ仕方で、無条件で彼らを他人にあたえてしまうことはできない。」22頁

 ロックは親子間で成立する愛情についてそうとう詳細に記述を凝らしているが、ルソーは極めてアッサリ風味である。それはロックのほうにフィルマーの父権論を論駁する必要があったという事情を加味するとしても、やはり態度の違いは明白なように思える。『エミール』においても父親の出番は限りなく少ない。

 ちなみにフランス語原文ではéducationという言葉が2箇所にだけ現れるが、いずれも君主が支配者にふさわしいものとして育成されることに何の意義も認めないという否定的な文脈で使用されている。

【個人的な研究のための備忘録】人物評
 マキアベッリに対しては好意的な記述が残っている。ルソーはマキアベッリを君主主義派ではなく逆説を余儀なくされた共和派と理解している。

「マキャベルリの『君主論』は共和派の宝典である。」103頁
「マキャベルリは、誠実な人、よき市民であった。」103頁

 一方、キケローに対しては厳しい。まあ私としても「ですよね」という感じではあるが。

「彼自身は、ローマ人でありながら、自分の祖国よりも自分の名声を愛していたから、国家を救うためのもっとも合法的でもっとも確実な方法をさがすよりは、むしろ、この事件に関するすべての名誉を自分がにぎる方法を求めた。」174頁

ルソー/桑原武夫・前川貞次郎訳『社会契約論』岩波文庫、1954年

【要約と感想】中村敏子『トマス・ホッブズの母権論―国家の権力 家族の権力』

【要約】社会契約論に関して、国家権力の成立過程についての理屈を踏まえながら家族内での権力関係について精査すると、ホッブズの議論がもっとも性的に中立な観点から組み立てられています。キリスト教教父アウグスティヌスは聖書の原罪の記述から女性を劣った性とし、アリストテレスは生物学的に女性を劣った性と決めつけて、家族内では男性が権力を握るのが自然だと主張しました。キリスト教的な観点からアリストテレスを取り入れたトマス主義は、国家権力成立前の自然状態を想定しましたが、家族の成立については従来の家父長制的な考えのままでした。しかしホッブズは、伝統的なキリスト教の原罪による女性蔑視に陥らず、アリストテレスのような生物学的性差別も認めず、男女を対等な個人と前提して、国家成立以前の自然状態においては子どもに対する権力を持つのは子どもを実際に養育する母であるという「母権論」を展開しました。これは後のロックにも見られない顕著な特徴です。『法の原理』と『市民論』では、女性が合意によって共同関係に入る過程で男性に権力を譲り渡すことにより母権を失うという議論が展開します。そして『法の原理』や『市民論』で母権を論じたホッブズも、後の『リヴァイサン』では家庭の形成過程と権力構造について沈黙し、女性と子どもは知らないうちに家庭内権力に取り込まれてしまうことになります。
 ホッブズが言う家族内での男女の権力関係は、ローマ法におけるファミリアの議論を引き継いで、相続以外の点では女性の法的権利を前提としていましたが、しかしイギリスの伝統的なコモン・ローにおいては婚姻後の女性の法的権利(人格)を認めない「カバチャー」の論理が横行し、ロックの社会契約論を踏まえて作られた自由主義的国家内の家庭においても女性の無権利状態が続くことになりました。そんななか、自然状態において男女の差を認めなかったホッブズの権力理論は、別の可能性があることを示唆しています。

【感想】とてもおもしろく読んだ。ホッブズの社会契約論について、私は『リヴァイアサン』だけ読んで、家父長のみによる社会契約であって女性と子どもは法的権利を認められていないと即断していたが、実はそれ以前の『市民論』では家族内の権力関係とその発生の論理について丁寧に語られていたということだ。目から鱗だ。とても勉強になった。しかし一方で、ロックの言う社会契約が平等な個人による社会形成ではなく家父長のみの合意による「家の合同」であるという理解は正しいのであった。ともかく、どうやらホッブズは『リヴァイアサン』だけ読んでわかった気になってはいけないらしいことはよく分かった。
 また、結婚すると女性から法的権利(人格)が失われるという論理が、イギリスのコモン・ローに顕著な「カバチャー」という概念に基づいていて、中世後期から引き継がれていることも勉強になった。キーパーソンはジョン・フォーテスキュー(1394-1480)とウィリアム・ブラックストン(1723-1780)。気になるのは、ローマ法におけるファミリアの議論も踏まえると、婚姻により女性から「人格」が失われるという論理はイギリスのコモン・ローに特徴的なものだということだが、ヘーゲルも同じようなことを言っていたことは本書では触れられていない。

中村敏子『トマス・ホッブズの母権論―国家の権力 家族の権力』法政大学出版局、2017年

【要約と感想】スピノザ『エチカ―倫理学』

【要約】本書は幾何学的な手続きで記されていますが、人間の知性を改善して神とシンクロする至福に到達するためには、これが最善の方法です。
 自己原因である神(つまり自然)は唯一存在する実体として無限の属性で構成されていますが、人間に知覚できるのは精神と延長だけで、神の様態である一切の個物は神の本性の法則に従って必然的に変状を蒙った結果の表現です。
 人間の精神と身体はある一つの様態を精神・延長両側面から表現したもので、精神は身体の観念です。人間の認識には3つの様式があります。(1)表象(2)理性(3)直観。(1)表象は感覚的経験から生じますが、認知の歪みの原因となり、自由意志も錯覚です。真理は真理であるというだけで真理と分かるので、概念的・推理的認識の(2)は確実ですが、神の認識に到達できるのは(3)だけです。
 人間の根本的感情は3つだけです。(1)欲望(2)喜び(3)悲しみ。この3つから人間の感情一切を説明し尽くせますが、根源にあるのは「わたしがわたしでありたい」という自己の存在を維持しようとする傾向性(コナトゥス)であり、その傾向を実現しようとする欲望は人間の本質そのものであり、その必然的な本性に従うことが人間の自由です。
 人間の自由とは、外部から感情を刺激する受動性に隷属せず、能動的な感情に基づいた理性の指図と自己の本性のみによって判断し行動することであって、それが徳です。世界を知れば知るほど、理性と自己の本性に対する理解が高まり、行動の自由が増し、神の認識に近づきます。徳によって報酬が与えられるのではなく、徳のあること自体が至福そのものです。

【感想】西洋哲学史における「人格」ないし「個性」概念の発生地点に立ち会うことを目指して古典を読み進め、古代から中世、ルネサンスを経て近代の入り口に差し掛かり、ここまでにも近代的自我の萌芽らしきものは様々確認できてはいるものの、ここに来てようやく近代性の閾値を越えた感じがする。スピノザはコナトゥスという概念を通じて「わたしがわたしでありたい」という近代的自我の在り様をそうとう剔抉してきたような印象だ。単に「わたし」という自己意識の在り様であれば、たとえばルネサンス期ペトラルカに明瞭に見られるし、あるいは古代アウグスティヌスにまで遡っていいかもしれない。また、様々な特性を持った人がいるという程度の「個性」の表現は、古代からルネサンス期まで満遍なく見つけることができる。しかし「わたしがわたしでありたい」あるいは「わたしはわたしでしかありえない」という再帰的な自我の在り方は、まずモンテーニュに文学的な表現を得て、次いでスピノザに哲学的な表現を得た、ということでいいかもしれない。ちなみにベーコンやデカルトには「わたし」意識は強烈に見られても、「わたしがわたしでありたい」という再帰的な欲望はない。
 となると、モンテーニュやスピノザに至って初めて再帰的な自我の表現が見られることの意味や背景を考えなければならない。大航海時代とか宗教改革とか重要な観点はいろいろあるが、哲学史的には、どうだろう、「懐疑論」への対決というのは一つの契機になるだろうか。懐疑論を「人間には思考の足掛かりなどない」という考え方だと捉えるとして、これを雑に一蹴する(ある特定の思考の足掛かりを示す)のはそんなに難しくないけれども、懐疑論の主張を正面から丁寧に捉えた上で乗り越えていこうと努力したとき、生産的な表現に至るかもしれない。たとえばスピノザは「真理は真理それ自体で真理を表現する」と再帰的な認識論を打ち出して懐疑論を乗り越えているわけだが、それは「私は私それ自身で私を表現する」という再帰的自我論まで紙一重だ。一方モンテーニュはもともと古代懐疑論を信奉していたように見えるが、ひょっとしたらそれを乗り越える過程で「わたしがわたしでありたい」という再帰的な思考(あるいは情念)の「足掛かり」を捉え、文学的な表現に鍛え上げたのではないか。そして仮にそうだとすると、実は懐疑論など一顧だにせず「真実が真実にしか見えない」という認識で突っ走ったガリレオやデカルトの自然科学革命が、やはりそうとう重要な役割を果たしているのかもしれない。人間が頭の中で何を考えようと、懐疑しようと、あるいは考えてはいけないと他人に強制しようと、それでも地球は回っているのである。

【個人的な研究のための備忘録】アイデンティティ
 「流れる川は同じ川か?」というアイデンティティ(同一性)に関わる問題に対して、スピノザは明快に「同じ川だ」と言い切る。

「【第2部公理3補助定理4】もし多くの物体から組織されている物体あるいは個体から、いくつかの物体が分離して、同時に、同一本性を有する同数量の他の物体がそれに代るならば、その個体は何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。」
「【補助定理7】もしさらに我々がこうした第二の種類の個体から組織された第三の種類の個体を考えるなら、我々はそうした個体がその形相を少しも変えることなしに他の多くの仕方で動かされうることを見いだすであろう。そしてもし我々がこのようにして無限に先へ進むなら、我々は、全自然が一つの個体であってその部分すなわちすべての物体が全体としての個体には何の変化もきたすことなしに無限の仕方で変化することを容易に理解するであろう。」

 そして同一性の考えを突き詰めていくと、世界は一つの個体だという結論に至る。というか、スピノザの人間(あるいはすべての個物)は、鴨長明にかかれば「かつ消えかつ結ぶ、淀みに浮かぶうたかた」のようなものではある。

【個人的な研究のための備忘録】子ども観
 スピノザは子どもについて積極的に語ることはない。否定的な文脈で比喩として登場するだけだ。

「【第2部定理49備考】もし反対者たちが、そうした人間は人間よりもむしろ驢馬と見るべきではないかと私に問うなら、自ら縊死する人間を何とみるべきか、また小児、愚者、狂人などを何と見るべきかを知らぬようにそれを知らぬと私は答える。」
「【第3部定理32備考】というのは、小児はその身体がいわば絶えざる動揺状態にあるゆえに、他の人々の笑いあるいは泣くのを見ただけで笑いあるいは泣くのを我々は経験している。さらにまた小児は他の人々がなすのを見て何でもすぐに模倣したがるし、最後にまた他の人々が楽しんでいると表象するすべてのことを自分に欲求する。」
「【第5部定理6備考】幼児が話すことも散歩することも推理することもできず、その上に幾年間も自己意識を欠いたような生活をするからといって、誰も幼児を憐れまないことを我々は知っている。しかしもし多くの人が成人として生まれ、一、二の者が幼児として生まれるのだとしたら、誰しも幼児を憐れむだろう。なぜならこの場合は、人は幼児の状態を自然的あるいは必然的なものとは見ないで、自然の欠陥あるいは過失として見るからである。」

 子どもは愚者や狂人と同じカテゴリーだ。まあ、こういう子ども観はスピノザに限った話ではなく、近代初期までのヨーロッパに共通して広くみられる。というか、ルソーが異常だっただけか。

【個人的な研究のための備忘録】教育
 積極的に子ども観が示されないので、教育の話も積極的に展開されることはない。しかしごく一部に教育の話が現れるので、サンプリングしておく。

「【第3部定理55備考】こんな次第で、人間は本性上憎しみおよびねたみに傾いていることが明らかである。さらにこの傾向を助長するものに教育がある。なぜなら、親はその子を単に名誉およびねたみの拍車によって徳へ駆るのを常とするからである。」
「【第三部「諸感情の定義」27】それは習慣上から「悪い」と呼ばれているすべての行為に悲しみが伴い、「正しい」と言われているすべての行為に喜びが伴うのは不思議ではないということである。実際このことは、前に述べた事柄から容易に理解される通り、主として教育に由来しているのである。すなわち親は「悪い」と呼ばれている行為を非難し、子をそのためにしばしば叱責し、また反対に「正しい」と言われている行為を推奨し、賞賛し、これによって悲しみの感情が前者と結合し喜びの感情が後者と結合するようにしたのである。このことはまた経験そのものによっても確かめられる。何となれば習慣および宗教はすべての人において同一ではない。むしろ反対に、ある人にとって神聖なことが他の人にとって瀆神的であり、またある人にとって端正なことが他の人にとって非礼だからである。このようにして各人はその教育されたところに従ってある行為を悔いもしまた誇りもする。」

 この場合の教育とは、何かしらの知識を与えるinstructionではなく、ましてや内面から可能性を引き出すeducationでもなく、習慣形成のためのtrainingのようなものだし、そもそもスピノザの思想体系に内在的に関わる話でもない。
 しかし一方、以下に引用した文章では、スピノザの認識論に関わるものとして教育を語っている。

「実際また、幼児や少年のように、きわめてわずかなことにしか有能でない身体、外部の原因に最も多く依存する身体、を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見られる限り、自己・神および物についほとんど意識しない。これに反してきわめて多くのことに有能な身体を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見て、自己・神および物について多くを意識している。ゆえにこの人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるように努める。」

 しかし、目指すべき教育の具体的なプログラムは示されない。スピノザが目指す「知性改善」は本書に示された理路に基づいて各自が認識を改めていくことでしか進まないのであって、何らかのカリキュラムを備えた学校で一定期間過ごせば身につく類のものでもない。となると、スピノザの「知性改善」を実現するためには、いわばプラトンの言う「魂の向け変え」のような契機が必要になるのではないか。
 ということを考えると、最終定理(第5部定理42)で示される「至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。」なるテーゼは、プラトン『国家』で示された問いに対するスピノザの回答だ、という理解でいいか。魂の向け変えが人々を徳に導き、それがそのまま至福への唯一の道となる。

「【第4部「付録」第9項】ある物の本性と最もよく一致しうるものはそれと同じ種類に属する個体である。したがって人間にとってその有の維持ならびに理性的な生活の享受のためには、理性に導かれる人間ほど有益なものはありえない。ところで、個物の中で理性に導かれる人間ほど価値あるものを我々が知らないのであるからには、すべて我々は人々を教育してついに人々を各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやることによって、最もよく自分の伎倆と才能を証明することができる。」 

 ということで最終的には人々に対する教育へと足を踏み出すことになるのだった。世界を変えるためには、やはり教育に頼るしかないのだ。注目すべきなのは、ここでスピノザが示している教育の内容が「各自の理性の指図に従って生活するようにさせてやる」となっていることだろう。この場合、はたして教育内容は「理性」に従って同一メニューになるのか、それとも各人のコナトゥスに応じて個別最適なメニューが用意されるべきなのか。

【個人的な研究のための備忘録】欲望
 デカルトは『情念論』で積極的に欲望を肯定したが、スピノザも「欲望」をコナトゥス概念を通じて「人間の本質」だと見なしている。

「【第4部定理18備考】これを私がここに示した理由は、「各人は自己の利益を求めるべきである」というこの原則が徳および道義の基礎ではなくて不徳義の基礎であると信ずる人々の注意をできるだけ私にひきつけたいためである。今私は事態がこれと反対であることを簡単に示したのだから、ひきつづき私はこれをこれまでやってきたのと同じ方法で証明していくことにする。」
「【第4部定理38】人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。」

 こういう表現が見られるようになると、しみじみと「近代だな」という印象を強める。古代や中世には見られない展開だ。それは以下にサンプリングした知識観と響き合っているかもしれない。

「【第5部定理24】我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する(あるいはそれだけ多くの理解を神について有する)」

 西洋哲学史ではソクラテスの「無知の知」から始まって、キリスト教の反知性主義を経て、ルネサンス期になってもペトラルカやエラスムスなど「無知」を称揚する言説に事欠かない。モンテーニュだって自分が無知であると繰り返し韜晦しているし、あのデカルトもなかなか謙虚な姿勢を示している。しかしスピノザにはそんな身振りは一切見られない。認識すればするほど、知識は増えれば増えるほど良いのだ。これは自然科学的(スピノザにおいては幾何学的)な知識観に基づいた身振りと考えていいか。ちなみに人間の認識が有限であることは、もともと織り込み済みだ。

【個人的な研究のための備忘録】国家論
 スピノザの国家論については別の著作『神学・政治論』で本格的に展開されるが、本書にも考え方の概要が示されている。

「【第4部定理37備考2】それゆえ人間が和合的に生活しかつ相互に援助をなしうるためには、彼らが自己の自然権を断念して他人の害悪となりうるような何ごともなさないであろうという保証をたがいに与えることが必要である。(中略)そこでこの法則に従って社会は確立されうるのであるが、それには社会自身が各人の有する復讐する権利および善悪を判断する権利を自らに要求し、これによって社会自身が共通の生活様式の規定や法律の制定に対する実権を握るようにし、しかもその法律を、感情を抑制しえない理性によってではなく、刑罰の威嚇によって確保するようにしなければならぬ。さて法律および自己保存の力によって確立されたこの社会を国家と呼び、国家の権能によって保護される者を国民と名づけるのである。(中略)以上のことから正義ならびに不正義、罪過および功績は外面的概念であって、精神の本性を説明する属性でないことが判明する。」

 ポイントは、まず「自然権」を「断念」するとは書いてあるが「放棄」や「譲渡」とは書いていないところだろう。国家成立後も、国民は自然権を保持している。
 そして続いて「正義」を「外面的概念」と断言していることから、いわゆる「自然法」をまったく認めていないらしいところも注目だ。スピノザにとっては神(自然)の法則こそが唯一の規範なわけだが、自然の必然的な成り行きとは異なる「人間のルールとしての自然法」の客観的存在は認めないということでいいか。

【個人的な研究のための備忘録】死
 「死」に関するおもしろい文章があったのでサンプリングしておく。

「【第4部定理39備考】身体はその諸部分が相互に運動および静止の異なった割合を取るような状態に置かれる場合には死んだものと私は解している(中略)人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存しないからである。」

 「死」というものを考える上でもなかなか示唆深い文章だが、「わたしがわたしである」という事態を考える上でも、この説明に付された事例も含めて、興味深い。「わたしがわたし」でなくなってしまうことは、スピノザにとってはただちに「死」を意味するのである。
 ところでこの一文は、ただちにローマ帝政期のストア派哲人皇帝マルクス・アウレリウスの言葉「たとえば幼年時代、少年時代、青年時代、老年時代等――以上における変化はそれぞれ一つの死である。」を思い出す。スピノザの思想がストア派と親和性が高い証拠の一つとしていいか。

スピノザ/畠中尚志訳『エチカー倫理学(上)』岩波文庫、1951年
スピノザ/畠中尚志訳『エチカー倫理学(下)』岩波文庫、1951年

【要約と感想】國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』

【要約】スピノザの思想はしばしば難解と言われますが、人生や歴史的背景を踏まえ、最新の研究動向をふんだんに盛り込んで、すべての著書に目を配って全面的に解説します。
 最初の本はデカルト哲学の解説本ですが、スピノザはデカルト哲学体系に不満を持っていて、特に方法論を全面的に修正します。デカルトとは異なる総合的方法を準備するために、次の著書『知性改善論』で能動的な実践に導く発生的定義に取り組みますが、不十分なまま未完に終わります。続いて『エチカ』のプロトタイプともみなされる『短論文』では「力」の観点にたどりついていますが、こちらも出版されません。
 主著『エチカ』では、神を含めたすべてを「原因」からの発生的定義で幾何学的に記述し、「目的論」を完全に排除します。精神や延長は神の無限の属性の一つで、個物は神の様態です。「結果」とは個物が「力(コナトゥス)」を発揮した「表現」であり、その「変状」の過程に「自由意志」が介在する余地はありません。客観的な善悪などはなく、個物の「力」を増す組み合わせが善で、減らす組み合わせが悪です。だから「力」を表現する「欲望」の在り様こそが個物の本質ですが、それを「意識」して神の本質とシンクロさせたときが至福であり、自由です。
 『神学・政治論』では旧約聖書の荒唐無稽なデタラメさを言語分析と自然学的な観点から逐一批判しつつ、宗教の現実的機能は否定しません。政治論的には「法=lex」と「自然権=jus」の違いを踏まえた社会契約論的な記述がありますが、自然権の放棄を主張しない(というかできない)ところがホッブズやルソーとの決定的な違いです。

【感想】該博な教養を背景として丁寧な読解に基づいた明快な構成と明晰な文章で、よく分かった気になる。とても勉強になった。読み込みすぎていて、「意識」の説明のあたりはスピノザの意図を超えているような印象が無きにしも非ずだが、優れた「原理」というものは有益な知識を次々と産み出す生産的なものだとデカルトも言っているので、この「意識」に関する議論は少なくともスピノザの原理から必然的に生成された知見ということで問題ないのだろう。

【個人的な研究のための備忘録】人格の完成
 「完全性」に関する言及があった。

完全であるとは完成しているという意味であり、そして完成しているとはもともと、人間が何かの制作を企て、その企てを成し遂げた場合を指していたのだろうとスピノザは言う。つまり完全性とはある人の意図した目的が達成されたことを指していた。言い換えれば、完全であるとか不完全であるなどと言えるのは、その意図された目的が知られている場合に限られていたということだ。」279-280頁
「スピノザはそれに対し、それ自体において見られた事物という観点を導入する。事物はそれ自体で見られる限り、完全でも不完全でもない。或る事物が不完全と言われるのは、「それらの物が、我々が完全と呼ぶ物と同じようには我々の精神を動かさないからであって、それらの物自身に本来属すべき何かが欠けているとか、自然があやまちを犯したというためではない」。したがって、或る意味で全てのものは完全である。」281-282頁

 この「完全性」とか「完成」の議論からただちに想起するのは、教育基本法の第一条に「教育の目的は人格の完成」と規定されていることだ。目的論を排除し、完全性概念にまとわりつく偏見を批判するスピノザからすれば、二重に間違っている規定ということになるだろうか。制定過程を振り返ってみれば、この教育基本法第一条「人格の完成」の規定にこだわったのは、カトリック教徒でもあり、さらには法学者として「自然法」の普遍性を唱える時の文部大臣、田中耕太郎であった。あらゆる面でスピノザと相性が悪いのは当然なのだろう。
 ともかく、スピノザの観点を踏まえて教育基本法第一条「人格の完成」というものを考え直してみると、まず何らかの模範(イデア)に向かって子どもの教育を行うべきだという話にならない(それは子ども固有のコナトゥスに反する強制になる)し、そもそも教育という生成的な営みを「目的」から組み立てるなという話になるだろう。あるいは、子どもには子どもとして「それ自体で見られる限り」の完全性が既にあるのだから、完成しているものの「完成」を目指すのはまったく意味が分からない。このスピノザの観点は、子どもの権利条約や子ども基本法によって子どもにも大人と同様の権利(jus)があることが改めて確認されたことと響き合う。そんなわけで、子どもを「人格が完成されていない者」と決めつけるカトリック的現行教育基本法はスピノザ的には何重にも間違っているし、子どもの権利条約にも噛み合わないので、スピノザ風に目的論ではなく生成的に書き直してみると、たとえば、「教育の役割は、各個人のコナトゥスを活性化し、それぞれの完全性を増すこと」とでもなるか。

【個人的な研究のための備忘録】自然権と社会契約論
 『神学・政治論』に現れる社会契約論について、かなり突っ込んで議論を展開している。

「良心と意識の無区別は、前章で扱った、ホッブズによって指摘された法と権利の無区別ともある程度重なることになる。権利(jus)の届く地点が法(lex)の覆う領域の外にまで及ぶことが着想すらされない場合、つまり、人の為しうることは社会的規範によるその既定の内に収まっていると当然のように想定されている場合、権利と法は特に区別される必要がない。」295頁
「だとすると、以上のスピノザの思想は、ロックが説いたような、意識をその根拠とするいわゆる近代的個人を前提としない仕方で世俗的な国家や政治社会を捉える可能性と必要性を示していることになる。」296頁

 教育学的には、なかなか示唆するところが多い指摘だ。というのは、著者は議論を世俗的な国家や政治社会に限っているが、教育学者の私はここの記述から、「学校」や「教室」という、ある意味では一つの社会と呼べる空間をすぐさま想起する。で、子どもというものは「未だに近代的個人」となっていない存在であって、ロックやルソーのように「近代的個人を前提」とする仕方では社会(学校や教室)を構成できないわけだが、スピノザのように「近代的個人を前提としない仕方」であれば子どもを構成員とする社会における「権利」というものを捉えられる理論的可能性が生じるからだ。
 そもそも、どうして赤の他人である教師が赤の他人である子どもに対して言うことを強制的に聞かせる「権力」が生じるのか、その権力の源泉はどこにあるのか、という議論が教育法学で連綿と続けられており、戦前であれば「特別権力関係理論」、戦後であれば「国民の教育権論」が唱えられてきた。国民の教育権論の構造は、大雑把には、親の持つ教育権が「信託」されることによって教師に権力が生じると説く。ポイントは子どもにはもっぱら「学習権」が認められるべきで、それは放棄も譲渡もできない天賦の権利だとされていることだ。つまり、国民の教育権論の構造では、子ども自身が権利を放棄したり譲渡したり信託したりする社会契約論にはなりようもない。ところがスピノザのように「近代的個人を前提」としないかたちで社会の成り立ちを捉えると、ひょっとしたら子ども自身の「自然権をそのまま」にする形で学校や教室という社会を成立させる理屈が立つのかもしれない。

【個人的な研究のための備忘録】有機体論
 有機体論について、気にかかる記述があった。

「この引用箇所は、多数者をまるで一人の人間に準えるかのようにして、国家の権利は、あたかも一つの精神からのように導かれる多数者の力によって決定されると述べている。」388頁
「『国家論』は多数者というアクターに注目した。だが、そのアクターを精神の概念と結びつける時、言い換えれば、指導層がまるで国家の精神のように存在していて、それによって動かされる国家の身体が多数者であるかのような話になる時には、必ずこの特殊な言い回しが現れているのである。」389頁
「つまり、『国家論』では、国家が精神と身体の隠喩で国家が語られるときには、その隠喩性を強調する表現がしつこく繰り返されている。」390頁
「したがってスピノザの国家理論はどちらかと言えば、有機体論的図式に近い。確かに、国家は統治権に基づいて導かれねばならない――あたかも一つの精神によって導かれるかのように。この言い回しを多用する『国家論』は、確かに、国家を一つの生き物のように分析している。」392頁
「この言葉のラディカルな含意を次のように定式化できるであろう。人間を国家のように考えることはできないし、国家を人間のように考えることもできない。」393頁

 私も昔から「有機体論」の表現に注意を払ってきたつもりで、スピノザ『国家論』に連発される有機体論的表現にも着目せざるを得ない。そういう関心から言うと、本書の行論には疑問なしとしない。第2章第6節の「国家の中における国家のように」という表現は、有機体論とは関係ない文脈で突如として挿入されている。確かに「人間を国家のように考えることはできない」と言っているが、「国家を人間のように考えることもできない」とはどこにも書いていない。しかもスピノザは、「精神」を持つのは人間に限らないと主張した哲学者である。国家が「精神」を持っているとさらっと書いていても、何の違和感もない。本書は、少々読み込みすぎているような印象がある。

國分功一郎『スピノザ―読む人の肖像』岩波新書、2022年

【要約と感想】水地宗明・山口義久・堀江聡編『新プラトン主義を学ぶ人のために』

【要約】「新プラトン主義」とは後世になってからつけられたラベルで、当事者たちが自身をそう自認していたわけではありません。そして新プラトン主義と呼ばれている人々の思想内容も様々です。おおまかに一致するのは、存在の階梯の最上位に「一者」を据え、そこからの「流出」を通じて世界の成り立ちを説明し、一者との「合一」を志向するところです。
 新プラトン主義はもちろんプラトンの思想にコミットしていますが、現代のように「弁明」や「国家」を重要視するプラトン読解とは大きく異なり、「パルメニデス」や「ティマイオス」を尊んでいます。
 新プラトン主義の影響は、キリスト教教父アウグスティヌスを始め、射程距離は近現代まで及びます。

【感想】新プラトン主義についてさくっと体系的に教えてくれる本が全然ないので(新書レベルで存在しない)、本書の存在は極めて貴重である。ありがとうございます。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 多少なりとも西洋思想史にコミットするような読書人であれば、もちろん新プラトン主義について何かしらの知識を持つはずではあるが、世間一般的にはどの程度認知されているのか。いちおう高校倫理の教科書にはプロティノスの名前くらいは挙がることがあるものの(記述の内教科書もある)、思想内容と後世への影響について詳しく説明されているわけではないので、ほとんど認知されていないだろうとは予測する。とはいえ、私が追究している「人格」の概念を理解するためには、新プラトン主義への目配りは絶対に外せない。というか個人的には、古代ギリシア・ローマの「ペルソナ」概念と近代の「人格」概念を隔てるミッシングリンクが、新プラトン主義に対する深い理解によって埋められる可能性が極めて高いように感じている。

 個人的な理解では、古代ギリシア・ローマの「ペルソナ」には、「かけがえのない実存」とか「尊厳」という観念は欠けている。もともとペルソナという言葉は「役者のつける仮面」を指しており、そこから「その個人が演じるべき役割」とか「果たすべき役割に応じて期待される責任」というような意味は持ちつつも、近代において「人格」が持つような法的主体あるいは実存的主体というニュアンスは感じない。古代のペルソナはあくまでも表面に顕れて人の目に触れる「仮面」であって、個人の内奥に隠された領域に踏み込んでいるような印象はない。
 ところで、新プラトン主義が最重要視するのは「一」という概念だ。この「一」は、もともとは宇宙全体を「一」の相の元に理解するという形で外界に対して適用される概念ではあるのだが、新プラトン主義はこの究極的な「一」に対して、個人の「合一」を志していく。その個人的な神秘体験は、中世キリスト教の異端的な立場からは「神化」と理解されることになるだろう。このように神的な「一」と合一化した「個」こそが、近代における「かけがえのない尊厳をもつ自律的な個」の原初的な姿のように見えるわけだ。ここからキリスト教神学や中世スコラ哲学の議論を通じて神秘的な要素を剥がし落としていくことで、単なる「法的主体としての個」だったり「かけがえのない尊厳」だったりする「一」としての「人格」概念が成立していく、というような見通し。とういことで仮に古代ペルソナと近代人格概念に系統的な繋がりがあるとすれば、そのミッシングリンクとしての新プラトン主義への目配りは絶対に欠かせないのである。逆に言えば、古代ペルソナと近代人格概念に系統的な繋がりなどないと喝破できてしまえば、新プラトン主義に対する目配りは一気に必要がなくなるということでもある。さてはて。

【今後の研究のためのメモ】
「一」に関する記述をサンプルしておく。

水地宗明「一者」
「次に「」という名称も、「何かであって一つであるもの」をではなく、純然たるそのものを表す。すべて一つであるものは、この「」の力によって一つである。「という名称は、かのものの単一性を、したがってまた自足性を表す。というのも、かのものは何も必要としないのである。有るということも、能力もはたらきも、むしろ、かのものはこれらすべての原因なのである」(ポルフュリオス、断片220)、プロティノス自身は、七番目に書いた短い論文の中で、こう述べている。……。「」が「善」との呼ばれる理由の一つは、「」のこの統一力こそが、それぞれのものがそのものとして存在するための基本的な支えだからである。「」の力がはたらかないならば、すべてのものは瞬時にして四散消滅するというわけである。」pp.60-61
「歴史的には、「」という名称は特にプラトンの『パルメニデス』に由来すると言えるだろう。この対話篇のいわゆる第一仮定の終わりの方(142A)で、「は有るものでもなく、名前もなく、説明されることもできない」などと言われていて、プロティノスはたびたびこの箇所に言及しているのである。
 なおアリストテレスによると、晩年のプラトンはこう言ったという。イデアは他のすべてのものの原因であるが、イデアの原因は「」と「大かつ小」であると(『形而上学』1.6)。つまり、大きいとも小さいとも、その他何とも言えないような不定で素材的なものが「」を分有することによって、もろもろのイデアが生じた、ということであろう。
 もちろん、「」という名称は、(そして始原を「」とみなす思想は)もともとはピュタゴラス派に由来するものだと言えるであろう。ピュタゴラス派によれば、すべてのものは数にかたどられていて、そして数はから生じるのであるから。そしてプラトンがピュタゴラス派から影響を受けたことは、周知の事実であるから。しかし、ピュタゴラス派の「」からプラトンの「」を経てプロティノスの「」に至る道程は、何と大きな展開であろう。」pp.61-62

袴田玲「ビザンツ正教思想における新プラトン主義」
「「無形相の神、あるいは一者との一化」という主題への強い関心もまた、プロティノスとパラマスに共通する。……。パラマスのこれらの言葉づかいからは、プロティノスと同じ「」への渇望、つまり、修行者があらゆる多様性を脱して自己自身と一つになり、さらに主客を超えて神(一者)と真にとなることへの欲求が感じられるであろう。また、合一の動きに「見る」という同士が好んで使われる点、神(一者)が光として表現される点も、両者に共通である。」p.303

山﨑達也「エックハルト――始原への探究――」
「ところでエックハルトは、中世においてアリストテレスの存在者に関する一〇のカテゴリーを超えるものとして理解されていた、いわゆる「超範疇的概念」(transcendentia, termini generale)――存在(esse)・(unum)・真(verum)・善(bonum)――を神の固有性と解している。存在とは、それ自体規定することができない神の絶対的存在(esse absolute)を意味するが、その存在の第一の規定がであり、そのから生まれたものが真である。神学的に解せば、一は産む者として父を意味し、真は父から生まれた者として子を意味する。善は真を媒介にしてから発出するものとして、父と子との愛の結合すなわち聖霊である。
 エックハルトは、神は父・子・聖霊という三つのペルソナ(persona)を有しながら、その本性(natura)はであるという三位一体の神学において、神の本性としてのをどこまでも追究していく。においてはあらゆる他が否定されるだけではなく、否定すること自体も否定される。この二重の否定すなわち「否定の否定」一(negatio negationis)によって、神の一性と心的な統一の深遠への研ぎ澄まされた洞察が可能になる。父・子・聖霊は数として数えられるものではなく、根源的にして神的なる存在・生として一なのである。この一性と統一は「一なる一」、「本来からの一」、「単純なる一」として、多様なるものとの差異的なるものの彼岸に求められなければならない。」pp.331-332

 しかしこうなってくると、老荘思想の「太一」とか「一元二気万物」だとか、朱子学の「太極」なども参照せざるを得なくなってきて、目眩がするところではある。というのは、西洋の「一」が「人格」の概念に昇華したのに対し、東洋の「一」が「人格」に至らなかったことを、合理的に解釈しなければいけないのであった。

水地宗明・山口義久・堀江聡編『新プラトン主義を学ぶ人のために』世界思想社、2014年