【要約と感想】吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』

【要約】2015年に「文系学部廃止」通知を巡ってメディアが沸騰しましたが、勘違いが甚だしいものでした。とはいえ、本質的な問題は、その勘違いが発生した背景にあります。「文系学問は役に立たない」という誤りを、本書は糺していきます。
文系学問は総合的に言って、近代に勃興した国民国家権力と市場経済が取りこぼした領域である「価値」を対象とするものです。それは国家権力や市場経済よりも長い命脈を保っています。長い目で見れば、大学で扱っている対象の方が、「役に立つ」のです。
しかし日本の大学がこのままでいいということではありません。18歳若年人口に対して大学の数が多すぎます。しかし大学が変われないのは、組織が硬直化しているからです。年齢の壁と分野領域の壁を取り払って進化しなければ、このままでは大学は滅びます。
コペルニクスによる地動説は、印刷術というメディア環境の激変=ボーダーレス化が背景にあります。現代のデジタル技術とグローバルな金融市場は、ボーダーレス化という意味で、16世紀の状況によく似ています。大学が生き残るとしたら、この状況で存在感を示すことがポイントでしょう。

【感想】「一点突破全面展開」の見本のような構成で、感心しながら読んだのであった。視野の広さと教養の深さには、さすがだなあと唸るしかない。
と、人ごとのように言っても始まらないのは、私自身がこの問題に巻き込まれているからだ。大学に関わる当事者として主体的に考えなければならない極めて切実な問題なのだ。本当は。だがしかし、著者が言うとおり、既存の体制の中で身動きを取りようがないのであった。いやはや。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「教養」や「人格」さらに「文化/文明」や「国民国家」という概念同士の関係についての記述を楽しく読んだ。既に研究されて専門書等では様々に指摘され、識者の間では常識となっているところではあるのだが、新書レベルで話がまとまっているのは貴重かなと思った。

「他方、「教養」概念の成立は、「国民国家」の形成、それと並行して生じた大学の「第二の誕生」と切り離せません。一九世紀初頭、瀕死の状態にあった大学は、ナショナリズムの高揚を背景に、劇的な「第二の誕生」を迎えます。」80頁
「このドイツ流のナショナリズムは、大学が目指す価値にも明瞭に反映していました。すなわち、フランスが掲げた「文明」の概念とアカデミーや専門学校、美術をはじめとする新しい知の制度に対抗して、ドイツはむしろ「文化=教養Kultur」の概念を掲げ、そうした「文化=教養」の府として大学を立て直さなければならなかったのです。」81頁
「大学教育の場で、そのような近代的国民的理性の概念を具現していくのが、まさに「文化=教養」という考え方です。その場合、大まかにいうならば、「文化Kultur」は自然から理性に向かう歴史的プロセスを指し示し、それが個人の発達プロセス、人格の陶冶としても理解されたのが「教養Bildung」です。近代の大学では、学問的な研究対象としての「文化/自然」と教育の目的としての「教養/人格」が統合されなければならないとされました。そのようにして、一九世紀以降の大学は、国民国家の発展と人格的理性の発達を重ねあわせようとする傾向を内包してきたのです。」82頁
「「文化=教養」を通じた国民主体と国家の一致―この考え方こそ、やがて日本で帝国大学の創出を担う森有礼から戦後初の東大総長・南原繁までのナショナリストを捉えて離さなかった大学理念であり、そうした発想は、ある意味で前述した「教養」擁護の所論にまで引き継がれているのです。」83頁

コンパクトにまとまった記述で、なるほどなあと。私も教育史の立場から「人格の完成」概念にアタックしてきたわけだが、「人格」概念の成立がやはり「国家理性」概念を伴うことを独自に確認してきたつもりではある。→「個性概念についての一考察

吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』集英社新書、2016年