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【要約と感想】広田照幸『大学論を組み替える―新たな議論のために』

【要約】1990年代以降、大学改革が急速に進行しています。しかし、改革の論理は行き当たりばったりでデタラメなので、現場はむしろ疲弊しています。本質的で建設的な議論を進めていくためには、大学の存在意義に立ち帰る必要があります。

【感想】個人的な実感として、大学が何かおかしいことになっているなあと思ったのは、非常に優秀な先生が定年退職でもないのに東大を去ったときだ。寺崎弘昭先生と本書の著者である広田照幸先生が定年前に東大から去ったとき、何か変なことが起こっているんだろうなあと。そして特に軌を一にしたわけではないし、そんな偉そうな立場でもないわけだけれども、自分自身も大学から距離をとるような素振りをしてみたり。まあ、「沈みつつある泥船」に乗っているような感じがしていたのは、確かな気がする。
 が、なんの因果か現在は大学にポストを得ることができて、日々「校務分掌」の一環としてまさにNPMのPDCAサイクルに関わる業務に携わっていたりする。現場には教育の「質」を実質的に上げていこうと頑張っている教員もたくさんいるし、そういう教員が板挟みに遭って疲弊していく姿も目の当たりにしている。本書が言っていることは我が事として理解できるし、身にしみる。
 本書は、目の前の汚い現実に疲れたときに、顔を上げて遠くに霞む美しい風景を見て心を癒やされるような、そんな役割を果たすものかもしれない。目線を下げると、大変な現実が待っていることには変わりないのだが、もう一度がんばれる。

広田照幸『大学論を組み替える―新たな議論のために』名古屋大学出版会、2019年

【要約と感想】吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』

【要約】2015年に「文系学部廃止」通知を巡ってメディアが沸騰しましたが、勘違いが甚だしいものでした。とはいえ、本質的な問題は、その勘違いが発生した背景にあります。「文系学問は役に立たない」という誤りを、本書は糺していきます。
文系学問は総合的に言って、近代に勃興した国民国家権力と市場経済が取りこぼした領域である「価値」を対象とするものです。それは国家権力や市場経済よりも長い命脈を保っています。長い目で見れば、大学で扱っている対象の方が、「役に立つ」のです。
しかし日本の大学がこのままでいいということではありません。18歳若年人口に対して大学の数が多すぎます。しかし大学が変われないのは、組織が硬直化しているからです。年齢の壁と分野領域の壁を取り払って進化しなければ、このままでは大学は滅びます。
コペルニクスによる地動説は、印刷術というメディア環境の激変=ボーダーレス化が背景にあります。現代のデジタル技術とグローバルな金融市場は、ボーダーレス化という意味で、16世紀の状況によく似ています。大学が生き残るとしたら、この状況で存在感を示すことがポイントでしょう。

【感想】「一点突破全面展開」の見本のような構成で、感心しながら読んだのであった。視野の広さと教養の深さには、さすがだなあと唸るしかない。
と、人ごとのように言っても始まらないのは、私自身がこの問題に巻き込まれているからだ。大学に関わる当事者として主体的に考えなければならない極めて切実な問題なのだ。本当は。だがしかし、著者が言うとおり、既存の体制の中で身動きを取りようがないのであった。いやはや。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「教養」や「人格」さらに「文化/文明」や「国民国家」という概念同士の関係についての記述を楽しく読んだ。既に研究されて専門書等では様々に指摘され、識者の間では常識となっているところではあるのだが、新書レベルで話がまとまっているのは貴重かなと思った。

「他方、「教養」概念の成立は、「国民国家」の形成、それと並行して生じた大学の「第二の誕生」と切り離せません。一九世紀初頭、瀕死の状態にあった大学は、ナショナリズムの高揚を背景に、劇的な「第二の誕生」を迎えます。」80頁
「このドイツ流のナショナリズムは、大学が目指す価値にも明瞭に反映していました。すなわち、フランスが掲げた「文明」の概念とアカデミーや専門学校、美術をはじめとする新しい知の制度に対抗して、ドイツはむしろ「文化=教養Kultur」の概念を掲げ、そうした「文化=教養」の府として大学を立て直さなければならなかったのです。」81頁
「大学教育の場で、そのような近代的国民的理性の概念を具現していくのが、まさに「文化=教養」という考え方です。その場合、大まかにいうならば、「文化Kultur」は自然から理性に向かう歴史的プロセスを指し示し、それが個人の発達プロセス、人格の陶冶としても理解されたのが「教養Bildung」です。近代の大学では、学問的な研究対象としての「文化/自然」と教育の目的としての「教養/人格」が統合されなければならないとされました。そのようにして、一九世紀以降の大学は、国民国家の発展と人格的理性の発達を重ねあわせようとする傾向を内包してきたのです。」82頁
「「文化=教養」を通じた国民主体と国家の一致―この考え方こそ、やがて日本で帝国大学の創出を担う森有礼から戦後初の東大総長・南原繁までのナショナリストを捉えて離さなかった大学理念であり、そうした発想は、ある意味で前述した「教養」擁護の所論にまで引き継がれているのです。」83頁

コンパクトにまとまった記述で、なるほどなあと。私も教育史の立場から「人格の完成」概念にアタックしてきたわけだが、「人格」概念の成立がやはり「国家理性」概念を伴うことを独自に確認してきたつもりではある。→「個性概念についての一考察

吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』集英社新書、2016年

【要約と感想】小林哲夫『ニッポンの大学』

【要約】偏差値というモノサシだけで大学を測るのは、もったいないことです。様々なモノサシで日本の大学の個性を見てみましょう。

【感想】12年前の本なわけだが、この12年での大学を取り巻く環境の変化にはけっこう驚く。
21世紀初頭も、小泉改革による規制緩和で大学が乱立したせいもあって、大学を巡る状況が大きく変化した。基本的な発想は、従来は「PDCA」のPの部分で統制していたものを、Cの部分で管理しようというものだ。端的にはマネジメント概念の導入ということになる。
そして現在は、少子化と「大学全入時代」を基調に、「選択と集中」の論理で、具体的には「3ポリシーの策定と質保証」を合言葉に、大学を巡る情勢が急速に変化しつつある。センター入試廃止によって高大接続という「入口」の部分が大きく変化するとともに、労働環境の変化に伴って「出口」の部分の改革も急速に進行しつつある。そして教育に関わる内部プロセスは、「質保証」と「PDCAサイクル」でマネジメントの対象となりつつある。
さてはて、大学は今後どうなっていくのか。巻き込まれる側としては無関心ではいられないし、主体的にどう関わっていくかが問われる問題なのであった。いやはや。

小林哲夫『ニッポンの大学』講談社現代新書、2007年

【要約と感想】渡部信一『日本の「学び」と大学教育』

【要約】90年以降の大学改革の流れで、FDとかPDCAとかeポートフォリオとかアクティブ・ラーニングとかが導入されましたが、それらは所詮は西洋近代の延長線上にある工学的アプローチに過ぎず、原理的な限界があり、このままでは時代の変化(グローバル化、予測不可能化、デジタル化)に対応できず、大学は滅びます。重要なのは、曖昧で複雑なものをそのまま総合的に理解することであり、状況や環境との相互作用であり、具体的で現実的な文脈を伴った身体性であり、決まった一つの答えを出すのではない「良い加減」です。これを取り戻すためには、最新の認知科学の知見を踏まえると、日本の伝統的な「学び」が極めて有効です。

【感想】御多分に漏れず、私もPDCAとかアクティブ・ラーニングの掛け声に巻き込まれているわけだが。それら工学的アプローチの限界を認知科学の立場から明らかにしてくれたのは、とても心強い。代替案として「日本伝統の学び」をクローズアップしたのも、具体的で、面白い。ぜひ自分の授業デザインに取り入れていきたいと思う。
とはいえ、西洋近代の知恵を丸ごと捨て去るのも如何なものかと思う。著者の言うように、それぞれの良いところを「良い加減」でチャンポンにするような知恵が必要なのだろう。そしてその知恵こそ、ヘルバルトが言う「教育的タクト」であり、ペスタロッチーが体現していた技術に他ならないだろうとも思うわけだ。

【今後の研究のための個人的メモ】
工学的アプローチに対する批判は、心強い。自分で言うのもどうかなという時に、積極的に引用していきたい。

「目標に向けて合理的に人間づくりをするという臣での「教育」は一五世紀の西欧において錬金術をモデルにした考え方であり、一九世紀半ば以降の学校教育制度の発展とともに広がっていったにすぎない。」p.80
「例えば、本来は工場での「物づくり」のために開発された「PDCAサイクル」と呼ばれる生産工程・業務管理を行なうためのシステムが、「人づくり」という捉え方から学校現場へ導入された。(中略)このシステムを「教育」に導入することにより、まさに工場における「物づくり」と同じように効率的に「人づくり」が可能になるというのである。」p.81

「結局、「アクティブ・ラーニング」が「きちんとした知」を教師のコントロールのもとで「学ばせよう」としている限り、外見的には「身体を動かすことによって学ぶ」という点では類似しているように見えたとしても、伝統芸能における「学び」とは本質的に異なっているのである。例えば、「効率的なアクティブ・ラーニングの実施」という発想をもっている限り、それは「よいかげんな知」を「しみ込み型の知」で身につけるという基本的な枠組とは大きくかけ離れたものにならざるを得ない。」p.88

「私が「ポートフォリオ評価」など近代教育における評価に対して懸念するのは、「学習者中心主義の立場に立ち学習者自身の自己評価を大切にする」という発想をもちながら、結果的にはすべて教師が想定した枠組みの中でのみの評価に陥ってしまうということである。」p.103

渡部信一『日本の「学び」と大学教育』ナカニシヤ出版、2013年

ロンブー淳の青学受験に対し、大学教員として思うあれこれ

いろいろ思ったのと、目の前の学生が抱える困難や課題とかぶったので、記す。

消費としての受験

ロンドンブーツ淳が来春に青山学院大学を受験するそうだ。彼個人のチャレンジそのものに対しては、特に応援しようとも思わないし、かといって特に批判をする必要も感じない。彼に限らず、一度目標を定めたからには、受験生はみんな人事を尽くして頑張ろう、としか言いようがないところだ。

とはいえ、教育学を専攻とする大学教員として、彼のチャレンジがプロジェクト化されていることに対しては、思うところがないわけではない。
まず率直に思うのは、合否も含めた受験のプロセス全体が「商品」として娯楽消費の対象となっていることについて。淳のチャレンジに限らず芸能人の受験物語一般に言えることだが、別に番組に編成せずとも勝手に受験すればいいだけのものが、消費の対象としてプロジェクト化される。ネットでの炎上を含む賛否両論の意見も消費の要素としてパッケージに組み込まれる。チャレンジ表明から合否判定まで一連のパッケージ全てが娯楽商品として消費し尽くされることが期待されているわけだが、残念ながらプロセスそのものに教育の本質に触れるものが何一つ存在しないことに対し、教育に携わる者としては苦々しく思わざるを得ない。
が、他の芸能人受験プロジェクトにも言えることではあるが、ただの消費を超えて公共的に教育的価値を生産する営みに昇華する可能性がないわけではないとも思うし、その可能性を追求することは番組自体も興味深いものに仕上げていくはずだ。それができないとしたら、ただありきたりの受験ストーリーしか想像できない制作者たちが勉強不足なのだろうと思う。というか、いま、単に芸能人が頑張って勉強して大学に入りましたって、そんな企画を誰が喜んで観るのだろう。どうせ作るのなら、この時代とこの人間でしか作れないような、教育的価値を生み出すような企画であってほしい。
以下、教育に創造的な価値をもたらすという観点から、少し考えてみたい。

(1)「センター試験」廃止のタイミング

このプロジェクトの興味深いポイントの一つは、淳がAO入試ではなく、センター試験による受験を目指していることだ。よく知られているはずだが、センター試験は2020年1月の実施を最後に廃止され、2021年1月からは新しい「大学入試共通テスト」が開始されることになっている。この新テストのモデル問題が先日公表され、なかなかの攻撃的な変化に多くの受験関係者が驚いたことは記憶に新しい。
この大学受験制度の変化の背景には、文部科学省が進めている教育そのものの大改造がある。文部科学省は、ここ30年ほどの間、大量の「知識」を暗記一辺倒で溜め込むような旧来の教育をやめて、知識を柔軟に活用して実生活を豊かにしていくために実質的な「能力」を育てる教育に転換しようとしてきた。そして大学入試が知識の暗記量を問うような旧来型のままでは、どんなに文科省が笛を鳴らしたところで、高校や義務教育の授業が変わるわけがない。実際に、文科省の教育改革はなかなか軌道に乗る気配を見せなかった。そこで文科省はセンター試験を廃止して新たなテストを作り、大学受験の在り方を変えることで、高校の教育や勉強の在り方を実質的に改革しようとしたわけだ。
こういう経緯で登場する新たな「大学入試共通テスト」は、従来のセンター試験とはかなり様子が異なっている。例えば数学では、単に公式の暗記量や計算するスキルが測定されるのではなく、表やグラフから客観的にデータを読み取り、論理的に推論を働かせて、妥当な結論を導き出す「言語能力」が測定されるような問題となっている。ただ闇雲に公式を暗記したりドリル問題を繰り返して計算スキルを鍛えるだけでは解けないような問題となっているのだ。こうなると、高校や義務教育における授業や受験勉強のあり方も抜本的に変わらなければならなくなる。家庭での自主学習の在り方も大きく変わっていくだろう。少なくとも文部科学省はそう期待している。
このように知識観や教育観の転換が具体的に目に見えてきたタイミングで、ロンブー淳のチャレンジは企画された。しかし一方で世間の人々の反応を見ると、賛成にしても反対にしても、あるいは淳自身も含め、多くが19世紀的な古い知識観や教育観に染まっており、新しいテストや教育の革新性に気がついていない様子が分かる。聞くところによると、彼は自分の子供の教育に責任を持ちたいという動機で大学受験を決意したそうだが、残念ながら彼の子供が大学受験をする頃には、受験や教育に関する環境は決定的に変化している。旧来型の知識観や教育観を転換しない限り、彼の思いが真剣であろうとなかろうと、残念ながら実を結ばない可能性は高い。逆に、旧テストでは良い点が取れない淳が、実は新テストでは高得点を叩き出す可能性もある。新テストは知識の量を測るのではなく、思考力と判断力という「能力」を測るから、知識の有無が決定的な戦力の差にならない可能性があるわけだ。
彼のチャレンジがこのような知識観や教育観の転換を人々に開示する契機になればなかなか面白いと思うし、企画もその方向に持っていけば普遍的な教育的価値を生み出すことができたかもしれない。

(2)大学政策の転換

また、淳のチャレンジは、大学そのものの変化の時期に当たっている。大学関係者の間では広く知られているのだが、文部科学省は2016年から国立大学を機能別に3つのタイプに分類した。すなわち(1)卓越した教育研究タイプ=16大学(2)専門分野の優れた教育研究タイプ=15大学(3)地域貢献タイプ=55大学である。ぶっちゃけて言えば、世界に通用する人材を輩出することが期待されるグローバル大学と、職業訓練的な機能が期待されるローカル大学との差別化が図られたわけである。勉強が苦手な学生は、わざわざ無理してグローバル大学に入って人生の役に立たない教養を身につける必要などなく、ローカル大学に行って仕事に困らない程度に専門的なスキルを身につけてもらうだけでよろしい、ということだ。要するに大学は最高学府として教養を身につけるところではなく、職業訓練施設へと成り下がる(あるいは時代に合わせて機能進化する)のである。
この国立大学の改革は、もちろん私立大学の在り方へも影響を与える。ただでさえ若年人口の減少に直面して大学経営の戦略的改革が求められる昨今、私立大学は生き残りをかけて文部科学省の政策動向を注視している。そんな中で、国立大学の差別化が断行されたわけだ。少子化と大学改革の大波の中、私立大学は受験生を獲得するために、自分の大学の「個性」や「持ち味」とは何かということについて、これまで以上に真剣に考えざるを得ない状況にある。その行き着く先は、乱暴にまとめれば、国立大学と同じような、大学間の差別化だ。グローバル人材育成を担って人格と教養の形成を重視する卓越した大学と、本来なら大学ではなく専門学校と呼ばれるべき職業訓練的な施設へと二分化することだろうと、容易に予想できる。
こういうふうに大学に変化が求められるのは、日本社会の「働き方」が大きく変わったためでもある。かつて日本の高度経済成長期には、新卒一括採用+企業内教育+年功序列給与体系+終身雇用という働き方がモデルとされていた。かつての企業は大卒の新入社員を一括採用してから自社内で訓練することを前提としており、学生が大学で高度な専門知識を獲得することは特に期待していなかった。学校は教育機関としてではなく、素材の選別濾過装置として期待されていた。企業が「学歴」というラベルに期待するのは、有名大学に入れたという「素材」としての潜在能力である。企業が必要とする具体的スキルは自社内研修で身につけさせたので、採用に当たっては潜在的な学習能力こそが決定的に重要であり、入った大学で実際に何を勉強し何を身につけたかについて興味を持つ理由がなかった。
しかしバブル崩壊+リーマンショック以降、企業が自社内教育で社員を育成する余裕と能力を失って、手のひらを返したかのように、即戦力としてすぐに活躍できる実践的スキルを持った人材を大学に求めてくるようになってくる。学生が在学中に資格取得に励むようになるわけだ。また、企業組織の変化に伴って雇用の在り方自体も大きく変化しつつある。これまでの企業は、正社員が人事異動を繰り返しながら様々に多様な業務を総合的・多面的に抱えることを前提に、メンバーを固定した終身雇用を目指してきた。このメンバーシップ型雇用は、企業内教育が機能している時には、時代の変化に対応して社員を再訓練することで業務形態を変更できる。しかし企業内教育機能が低下した現在では、メンバーとして固定されない非正規雇用が入れ替わり立ち替わり個別に専門特化した作業を分担しつつ、少数の正社員が業務管理する形態へ変化しつつある。ジョブ型雇用では、時代の変化には、正社員に対する教育ではなく、派遣労働者の切り替えで対応する。
ということで、これからの企業が必要とする人材が二極化することは、容易に想像できる。乱暴にまとめれば、知識基盤社会に対応して柔軟なマネジメントができるグローバル人材(正規雇用の対象)と、個別スキルを身につけて必要な時に必要なだけ分担作業がこなせる即戦力人材(交換と切り捨てが可能な非正規雇用の対象)である。大学の二極化は、この雇用形態の二極化に対応する。
淳のチャレンジは、まさに大学政策が転換するタイミングで行われる。このチャレンジは、大学の機能分化という観点から振り返ったとき、一つの示唆を与えてくれる可能性はある。たとえば、もしも大学が単に即戦力人材を供給するだけの職業訓練的な施設だったとしたら、彼はわざわざそこを目指すだろうか? 彼はわざわざ苦労して苦手な勉強を頑張り、批判まで浴びながら、何を期待して大学に入ろうとしているのだろうか? 彼が大学に期待しているものを適切に言語化することは、大学という施設の社会的機能を考える上で何かしらの公共的な意味を持つかもしれない。企画としては、受験に向けて努力を重ねる淳を映すよりも、「どうして大学に行きたいのか。苦労してまで行きたい大学というところは、本当はどういうところか」について真剣に考えさせた方が、教育的価値という点では意義が大きかっただろう。

(3)進路指導

このように「どうして大学に行きたいのか」を真剣に考えるのは、高校では「進路指導」が担うところだ。本来なら、進路指導の過程で、子どもたちはしっかり自分の個性と適性を見つめ直し、将来の希望と自分の能力をすりあわせ、現実的で具体的な進路を選んでいくことが期待されている。しかしよく指摘されているように、この進路指導がなかなかうまく機能しない。中学や高校は、自分の進学実績を上げたいために、生徒の個性や適性ではなく、単に偏差値だけを見て安易に大学進学を進めることすらある。生徒の方も、自分の個性や適性と向き合う作業が不足している時、進路を決める時に判断基準として偏差値を頼るしかない。こうして偏差値だけで進路を決めると、往々にして入学した後に後悔することになる。自分の個性と適性に合っていないのだから、うまくいくはずがない。高校や大学で中退が多いのは、1年生の4月~5月と言う。つまり入学してすぐにミスマッチに気がつくわけだ。偏差値を決定的な判断基準として進路指導を行っている限り、進路指導の段階でミスマッチに気がつくことなどありえず、このような不幸は永遠に繰り返されるだろう。私が実際に目にする学生の中にも、進路指導の不備によって発生したミスマッチに苦しんでいる者が多い。かわいそうなことだ。
文部科学省も当然このような現象には気がついており、10年前から本格的に「キャリア教育」というものを学校現場に導入している。自分の個性と適性を見すえた上で、現実的な進路選択をできるように指導しようということだ。このキャリア教育の導入は、もちろん前述した働き方の変化にも対応している。何の考えもなしに漠然と進学するのでは、もはや時代の変化についていけないのである。いまや大学に入る時には、どのようなキャリア展望を持って、自分のどのような能力を伸ばし、どのような知識や技能を身につけるのかという、具体的なイメージが求められているわけだ。その判断の材料とするために、各大学にはアドミッション・ポリシー、ディプロマ・ポリシー、カリキュラム・ポリシーの策定と公開が義務づけられている。学生は単に偏差値で大学を選ぶのではなく、自分の個性を踏まえてキャリア展望を持ち、各大学の個性と持ち味を見極めた上で、進路を判断することが求められているのだ。
はたして淳は、自分のキャリア展望を見すえて青山学院大学のポリシーを確認し、他の大学のポリシーと比較検討し、熟慮を重ねた上で現実的な進路として大学進学を決意しただろうか。はなはだ怪しいわけだが、それ自体は問題ない。多くの現役高校生だって、そうだろう。だから企画としては、単に淳の受験勉強の展開を映すよりは、彼が自分のキャリア形成を踏まえて各大学のポリシーを比較検討しながら進路を真剣に考えるプロセスを映し出した方が、教育的価値としては意味があっただろうし、「どうしてわざわざ嫌な勉強をしてまで大学に行かなければいけないのだろう」と悩んだり迷ったりしている多くの中高生には大きな意味を持ったはずだ。

(4)リカレント教育

さて、このような社会の変化の中、今後の大学の在り方について模索が続いている。たとえば、いまは高校を卒業してからすぐに大学に入学するのが一般的だと考えられているが、これを改めて、社会人が大学に入りやすくしようという議論が続いている。あるいは、北欧で見られるように、高卒で働いて一定期間を経過してから大学に入るのが一般的になるよう制度改革をしようという議論もある。いわゆる「リカレント教育」に関する議論である。淳のチャレンジは、このリカレント教育に対する一般的関心を高める契機になってもよい。
リカレント教育を推進するべき理由は様々に挙げられている。単に「勉強したい人が勉強したい時に勉強できるように」という私的消費を進める立場もあるだろうが、それを超えて、社会的に意義がある制度改革と捉える方がいいだろう。たとえば、ジョブ型雇用に変化した社会では、知識基盤社会の進展と企業のグローバル戦術の展開によって、企業に必要される即戦力の個別スキルはめまぐるしく変化する。そして企業はもはや自社内教育を行わないから、社会が必要とする個別スキルを付与するための教育訓練は、大学が担当することが期待される(あるいは高校は普通科から総合性へと変化していく)。しかし大学で行われる即戦力養成は、高卒人材だけを対象とするわけにはいかない。身につけた専門スキルが時代の変化の中で賞味期限切れとなって仕事を失ってしまった人々が、教育訓練の対象となるはずだ。失業者の職業訓練を、これまではハローワークとそれに付随する施設が場当たり的に担当してきたが、リカレント教育が一般的になれば、今後はその機能を大学が総合的に担うことができるようになるかもしれない。
またあるいは、知識基盤社会に対応して企業をマネジメントするグローバル人材としても、めまぐるしく変化するビジネス環境に適応するためには、一定程度の実務経験を積んだ後に、改めて総合的に教養をアップデートする必要に迫られる場合が増えてくるだろう。具体的な実務経験を経たからこそ意味のある学びというものは、必ずある。同じ事を学ぶにしても、社会経験のない人間が学ぶのと、ある程度の社会経験を積んだ人間が学ぶのとでは、受け取り方はかなり違ってくるはずだ。半年や一年といった短期間のアップデート用としても、大学は期待に添えるような組織になっていかなければならないかもしれない。
リカレント教育といっても、制度的に言えば、大学入学には特に年齢制限があるわけではないので、今のままでも可能であるとは言える。とはいえ、企業による新卒一括採用が常識的にまかり通る社会のままでは、リカレント教育は一般的にはならないだろう。リカレント教育が一般的になるためには、企業の雇用体制や採用形態が変わって転職や中途採用が容易になると共に、退職して学業を続けるための経済的・心理的な負担を緩和する体制が必要となるだろう。現在、25歳以上で大学に入学する者は、日本では2%程度だが、OECD加盟諸国平均では20%を超える。一概に外国の制度が良いというわけではないが、働き方そのものにおいて日本型雇用が粉砕されている場合、大学の在り方だけ日本型のままで済んでいいとは思えない。淳のチャレンジが、25歳以上の大学入学を当たり前と思える世の中への一歩となってくれるとよいと思う。
ただし問題となるのは、リカレント教育を担う組織として大学が適切な施設かどうかということだ。単に職業訓練であれば、文部科学省管轄の施設ではなく、これまでのように厚生労働省管轄のハローワークやその付属施設で行ってもいいはずだし、他の選択肢だってあるだろう。もしもリカレント教育を大学で行うのであれば、そこには厚生労働省の管轄や他の形態では実現できないような、何らかの機能や価値を期待されていると考えていいだろう。そう考えた時、淳が大学で勉強したいとして、どのような知識や技術を習得し、どのような能力を伸ばすのか、具体的なイメージを伴って言っているのかどうか、疑問が生じる。はたして彼の学びたいという欲求は、大学でなければ叶わないのだろうか? 知識だけなら、林修や池上彰の番組から習得することだってできるはずだ。Siriやgoogleだって、聞けば教えてくれる御時世だ。大学に行かなくとも、いくらでも学ぶことはできる。自分がどのような知識や技術を具体的に身につけようとしているのかをイメージできていないのに大学に行こうとしているのであれば、その目的は何かを学ぶことではなく、単に学歴という肩書きを手に入れたいだけではないかと勘ぐることもできる。それは大学教育を単に私的消費として理解する姿勢でもある。

(5)教育の公共性

現在の教育は、私的消費という側面が強く押しだされ、公共性という観点が退いている。教育とは、社会の役に立つ人間になる(公共の利益)ために受けるのではなく、自分自身が得をする(私的受益)ためだけに受けるものという考え方が一般的だ。教育を私的に消費するとは、自分が一人で努力して学歴を獲得したのだから、獲得した成果は自分の利益のためにしか使わないという考え方である。その私的消費の考えが推し進められると、大学で獲得した知識や経験は個人の成功だけに貢献するものと理解され、広く社会に還元されるべきものとは見なされなくなる傾向を助長する。もっと極端になると、大学で具体的に「何を学んだか」よりも、高い給料とステータスを誇るための「ラベルとしての学歴」をありがたがる傾向を助長する。私的消費の行き着く先は、もはやラベルを獲得することだけが目的となってしまい、そこで何を学ぶかには何の関心も持たれなくなった大学の姿である。
淳のチャレンジに対して危惧するのは、大学教育がそういう私的消費として理解されている恐れが強いところである。その傾向は淳や番組スタッフだけではなく、淳を応援する人にも見られるし、批判する人にも見られる。日本全体がそういう傾向にある。それはそう理解する人が悪いというよりも、80年代後半の臨時教育審議会答申や、00年代の小泉改革によって日本社会全体が教育の私的消費を推進する方に加速していることに原因があると言える。新自由主義によって現出した自己責任社会に適応し生き残るためには、もはや公共の利益のことなどには目もくれず、教育を私的に消費して自分のキャリアをアップさせていくしかないのかもしれない。
しかし淳のチャレンジには、私的消費の観点を乗り越える可能性が残されている。彼には純粋に「学びたい」という気持ちが芽生えただけで、具体的にどんな能力を伸ばすのかについてのイメージが伴っていないとしても、それは単に大学で具体的に何を学べるか(あるいは何を学べないか)について分かっていないだけかもしれない。そして、純粋に「学びたい」という気持ちが芽生えたなら、それは純粋に尊重され、保障されるべきだ。あるいは、奪われていた可能性としての「大学生活」というものを取り戻したいという動機であっても、構わないだろう。仮に大学という施設で学ぶことの本質的な意味が分かっていなかったとしても、結果として「大学では何が学べ、何が学べないか」を学べるだけで、何かしらの意味を生み出せるかもしれない。
さらに、彼が実際に大学で学び、獲得した知識や経験を自分のためだけに消費するのではなく、社会全体に広く還元したときには、決定的に私的消費を超えたと言える。自分の成功のためだけに学ぶのではなく、社会をより良いものにするために学んで伸ばした能力を活用することができたとき、教育は公共的になったと言える。もともと教育とは「みんなは一人のために、一人はみんなのために」という公共の精神を体現したものであったはずだ。大人たちはよってたかって一人の子供を育て、一人前になった子供は社会の利益のために能力を発揮する。我々は自分一人だけの力だけで一人前になったのではなく、様々な人の支えによってここまで来たのだという自覚が、公共性を支えていく。教育の私的消費が進むことによって、自分一人だけの力で成長したという慢心が助長され、能力を社会に還元しようとする意欲が減退し、公共性の基盤が掘り崩され続けている。どこかで歯止めをかけないと、きっと取り返しがつかないことになる。既に手遅れかもしれないが、それでも教育に携わる者として、言わざるを得ない。
淳は、青山学院大学に入学できたら、しっかり学び、学んだ知識や経験を社会に還元してほしいと願う。たとえば林修先生の番組では、単なる茶々入れではなく、もっと意義のあるコメントをすることができるようになるだろう。あるいは奇妙な論文を書いた大学の先生を紹介してイジる番組では、実はその先生の仕事が学問の世界でどういう意味を持っていたかについて、もっと広い視野から意味のある言葉を発することができるようになるだろう。またあるいは、城に関する番組でも、さらに学術的な番組で活躍ができるようになるだろう。大学で学んだことが仕事に還元されたとき、教育が娯楽として消費されることを超えて、あるいは教育を私的に消費することを超えて、教育が公共的に意味のあるものとなる。かもしれない。

ちなみに青山学院大学には岩下誠という教員がいるので、合格したら、ぜひ彼の授業を取っていただきたいと思う。

※12/30:誤字脱字等修正。
※1/4続編:「さらに、ロンブー淳の青学受験に対し、教育学者としておもうあれこれ
※1/14追記:彼がどうして大学に行きたいのか、どういう知識を身につけどういう能力を伸ばしたいのか、説明されている記事がアップされた。単に合格するかしないかという力試しだけだったら教育的価値を見いだしにくいわけだが、この記事のように自分のキャリア展望を踏まえた上で「どうして学びたいか」という理由を説明する言葉であれば、これからの時代を生き抜くためのヒントとして価値がある。「ロンブー・田村淳は「ギリギリを歩くため」44歳で大学を受験する
※3/4:結果を受けて、追記。「ロンブー淳の青学受験に対し、城マニアとして思うあれこれ