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【要約と感想】オールポート『パーソナリティ 心理学的解釈』

【要約】心理学は人の心を一般的・抽象的に分析の対象として満足するのではなく、具体的な個人の心理を全体的に理解する総合的な手法の発展に努力するべきです。そのためには質問紙法と統計処理による特性の抽出では不十分です。一人の人間を全体的・総合的に理解するために、心理学は科学的手法の限界を越えてあらゆる手段を利用し、心理学の範囲を拡大していかなければなりません。

【感想】オールポートの仕事に関する教科書的な説明は、実際に本人の著作を読んでみるとまるで見当外れであることがよく分かる。一般的な心理学の教科書では、オールポートは「パーソナリティ心理学」の提唱者とされていて、彼の仕事がそのまま現在の特性論に引き継がれていっているような書き方になっていることがあるが、この本を読むとまるで正反対であることが分かる。オールポートの仕事は現在のパーソナリティ心理学の主流には引き継がれていないどころか、彼の意志と真逆の態度が幅をきかせていると言うことすらできそうだ。

オールポートは言う。

「心理学は一般性を求める法則のすき間からどこかへ、日常われわれが知るような個別の人間を失ってきた。」(475頁)

大学の心理学の授業の冒頭で心理学の先生が言いがちなセリフとして、「心理学を学んだところで、誰か特定の人の心理を理解することはできません」という類の言葉があるわけだが、もしも本当にそうだとしたら、いったい何のために心理学は存在しているというのか。オールポートの不満の源は、おそらくそういうところにある。どれだけ心理学を究めたところで、自分の目の前の一人の人間が分からないのであったら、その学問に何か意味はあるのだろうか。その疑問に対して「目の前の人間の心が分からない心理学にも存在意義はある。科学として一般的な人間の心を分析する心理学だ」と主張する立場はあるだろうけれども、オールポートはそう開き直りたくないわけだ。一人の人間を全体的・総合的に理解できてナンボ。そこから出てきたのが、抽象的・一般的・分析的な法則定立的心理学を超えて一人の人間の心理を具体的・全体的・総合的に理解しようとする特性記述的なパーソナリティ心理学だったということだろう。

そういう意図から、オールポートは先達の遺産を縦横無尽に博捜し、一人の人間を理解するための手法を吟味しまくる。よって、本書は一般的な心理学の範囲を超えて、哲学や文学や歴史学を視野に収めるような、極めて浩瀚なものとなった。この過程で、教科書に必ず掲載される「パーソナリティの定義」が導き出される。一般的な心理学の教科書では「定義」の結果しか抜き出してこないことが多いが、先達の遺産の博捜過程という美味しいところを全部そぎ落としてしまう、もったいなさすぎる愚行であるように思う。確かに個々の事例は古くなっていて、もはや参照には値しない部分が多いのも分かる。しかし彼が「パーソナリティの定義」を行ったのは、如何ともしがたい心理学の主流に対する批判を意図していたのであり、その批判精神そのものがいちばん重要なのであって、結果として表現された「パーソナリティの定義」自体は副産物程度の扱いで十分だろうと思う。そして彼の心理学に対する批判意識そのものは、おそらく現在でも有効だ。いや、ビッグ5みたいな数値的処理で以て最終的な解決なのだと主張して憚らない人々が出てきてしまう現在だからこそ有効とすら言える。古くなっていない。

とはいえ、じゃあ具体的にどう研究するかという時に、確固とした方向は実は見えてこない。本書では具体的にゲシュタルト心理学等の動向に期待が込められていたわけだが、もちろん最終的な解決策として提示されていたわけでもない。
彼自身が示している方向は、もはや通常の心理学の範囲を遙かに超えて、一人の人間そのものを理解するための学問となっている。オールポートは言う。

「それぞれのパーソナリティは、それ自体一つの法則なのだと(非常に正確に)いうことかできる。それは、各人の一生は、もし十分に理解されれば、それ自体が規則正しい必然的な発達過程を表わしている、ということを意味している。」
「法則性というものは頻度や画一性によるのではなく、必然性によるものである。それぞれの人の一生には、他の人の一生とは異なった必然的構造がある。」(476頁)

なるほど、法則定立的学問としての心理学を批判した先には、煎じ詰めていけば、どうしてもこういう結論が待っているだろう。オールポートの問題関心から言えば論理必然的に落ち着くところに落ち着いたと言えるわけではあるが、それでも本当にそれでいいのだろうか?とも思ってしまう。一人の人間を理解することがとても大切であること自体に異論があるはずもないが、ただ、その作業を学問的な手続きとして遂行しなければならないかどうかに対しては疑問が生じる。一人の人間をしっかり理解すると言うことは、学問的なプロセスを通じてではなく、ひとりひとりの人間が「生活」を通じて誠実に行っていくべきことではないのだろうか。学問にできることは、誠実な義務をサポートするための知恵を増やしていくことくらいだろう。学問そのものの手続きが一人の人間の必然的構造を明らかにしても、興味深いものにはなるだろうが、特別な意味があるかと言われると疑問なしとはできないだろう。

しかしこのあたりは、オールポートが著作の冒頭でディルタイの名前を出していることもあって、心理学を超えて人文科学全体に通じるような根が深い問題に繋がっていく。彼は問題提起でこう言っている。

「ディルタイとシュプランガーにより主張された二つの心理学(分析的と記述的)の場合、区別はあまりにも峻烈であった。二つの方法は、重複するもの、相互に助け合うものと見なす方がはるかに役に立つ。」
「個人に関する完全な研究は、両方法を含むであろう。」(18頁)

オールポートは、分析的な学問に偏った現状に対して鋭い批判を向けるために、ことさら記述的な手続きの重要性を称揚したとも言える。
分析的と記述的という二つの方法を「含む」ような、あるいは「相互に助け合う」ような方法で研究ができることは確かに理想的なのだろうが、具体的にどうすればいいのかはなかなか見えてこないところではある。心理学だけの問題ではなく、私が専門とする教育学でも極めて切実な問題である。

*6/11追記
分析的と記述的という2つの学問の区別は、しかしよくよく思い返してみれば、アリストテレス(ニコマコス倫理学)が言う「学=エピステーメー/知慮=フローネシス」の区別に直結する話ではなかったか。(このあたりはディルタイやシュプランガーの所論をしっかり確認しないと迂闊なことになってしまうわけだが…)
もしも「分析的/記述的」が「学/知慮」の違いに対応しているとするなら、アリストテレスの議論に従えば、それらの間にはそもそも重なる部分などまったくなく、完全に別の領域として扱うべきだという話になる。なぜなら、「学」とは普遍的で必然的なものに関わる理性の働きである一方、「知慮」とは「他のものでもあり得るようなもの」に関する判断力の問題であって、そもそも相手にしている対象が違っているからだ。「分析的/記述的」は、単なる方法の違いなどではなく、対象とするもの自体が異なっているわけで、そうだとしたら方法論の次元でどれだけ工夫したとしても根本的な解決などつくはずがない。
仮に「学/知慮」を繋ぐものがあるとしたら、これもアリストテレスに従えば「直知=ヌース」というものしかない。アリストテレスによれば、「学」のスタート地点にある根本命題は決して「学」そのものから導き出されるものではなく、「学」の外からもたらされる。「学」を成立させるには絶対に必要であるにも関わらず「学」自体からは絶対に導き出せないものを与えてくれるのが「直知」である。そして同様に、「知慮」を成立させるためには「究極的な個=絶対に二度とは繰り返して発生しない独自の事象」を認識することが必要となるわけだが、それを可能にするものこそが「直知」である。そんなわけでアリストテレスの議論に従えば「直知」こそが「学/知慮」を繋ぐものではあるわけだが、その「直知」なるものは「学」でもなければ「知慮」でもない、なにかまったく別の人間の能力に由来するものであって、オールポートの言う「分析的」であろうが「記述的」であろうが、学問的な手続きからは決してもたらされないものである。それこそ日常生活のなかで人々が普段から何気なく使用している「相手を理解する人間の力」としか呼ぶことができないものなわけだが、この「直知」の作用を「学」だろうが「知慮」だろうが学問の用語に翻訳することは、アリストテレスの所論に従う限りでは、最初からそもそも原理的に不可能なことである。カテゴリーがそもそも異なっているのだから、可能性自体がそもそもゼロなのだ。オールポートの狙いは、アリストテレスの所論を踏まえるならば、実は最初から原理的に不可能なものだったと言うしかない。
だとすれば、オールポートがするべき具体的な作業は、個々の心理学の業績を吟味することではなく、「学」と「知慮」が原理的に橋架可能であることを論理的あるいは具体的に示すことであったはずだ。「理想ではないもの」を羅列して批判するのではなく、どうしたら理想(「学」と「知慮」の橋架)を実現できるかを論理的に示すことであるはずだ。そしてその点に関し、本書に消化不良感が漂うことは否定できないわけだが、そもそもそんなことは「原理的に絶対不可能」である可能性をまず吟味すべきではないのか。
まあ、「個/普遍」は、心理学にかぎらず、きわめて根本的な問題ではある。オールポートの仕事は心理学という方法論から改めて「個/普遍」の問題を照らし出したものと理解すべきなのかもしれない。そして結局はアリストテレスの掌の上で踊っていたということが改めてわかっただけなのかもしれない。

G.W.オールポート『パーソナリティ 心理学的解釈』詫摩武俊/青木孝悦/近藤由紀子/堀正共訳、新曜社、1982年

【要約と感想】稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』

【要約】「人格」という概念を理解するためには、キリスト教神学が培ってきた伝統をしっかりと踏まえる必要があります。「人格」を単に「個人」と言いかえることができる形で捉えるのでは、薄っぺらい理解しかできません。「人格」の本質とは、量的な「一」ではなく、同一のものが自己に立ち帰るような仕方で存在する自己還帰的な「一」であることです。それがモノとは異なる「精神」の在り方であり、この在り方こそが本来の「存在」というものです。しかしそのような「人格」が本質的に他者との「交わり」において存在するという矛盾対立的な関係(本質的に「一」であるにも関わらず不可避的に他者を必要とする)を正面から理解しなければ、本当に「人格」を理解したとは言えません。「人格」が本質的に「存在」でもあり同時に必然的に「交わり」でもあるという矛盾は、トマス・アクィナスのように聖書の教えからの霊感を得て、初めて理論的に解決する道が開けます。

【感想】「人格」研究の最右翼と言える研究書だ。右翼と言っても、もちろん政治的スタンスを示しているわけではない。「人格」を語る際のスタンスが主に3つあるとして。左の方から数え上げていくと、まず物質的な規定に重きを置く立場(神経生理学や進化心理学など自然科学)があり、次に社会的フィクションとして理解する立場(社会学や法学など社会科学)があり、そして精神的価値に重点を置く立場(倫理学や教育哲学など人文科学)となる。本書はもちろん精神的な価値に重点を置く人文科学的な研究をしているわけだけど、カントの人格倫理学をさらに精神的に深い地点から批判するなど、人文科学の中でも飛び抜けて精神性を重んじているというか、霊性を核とする、神学的な立場である。

そんなわけで、人文科学が言う「人格」とはどういうものかを理解する際には、極めて有益な本だと思う。人文科学が「人格」をどう扱ってきたかという哲学史も簡潔にレビューされていて、何が問題の核心なのかが浮き彫りにされている。問題の本質をしっかり掴んでいる人だからこそできるような、論理的に緻密でありながらも簡潔に整理された分かりやすい表現になっている。勉強になる。

そして「人格とは何か」という問いに対して筆者が最終的に出した答えとは、「存在・即・交わり」というものだった。これは極めて含蓄が深い回答ではある。ここで示された「存在」と「交わり」という概念は、表面だけ見れば相互に排他的な矛盾対立である。たとえばヘーゲルが『精神現象学』等において総合しようとしたのは、この「存在=一つとして自立するもの」と「交わり=必然的に他者を前提とするもの」の矛盾対立であったと言えるかもしれない。あるいは古代からプラトンやアリストテレスが問い続けてきた哲学問題も、この矛盾の解消に帰結するとさえ言えるかもしれない。この根本的な矛盾対立を一気に呑み込んでしまおうというのが、トマス・アクイナスの議論に即しながら筆者が示した「存在・即・交わり」という概念である。筆者の論理展開が成功しているかどうかは各自が本文に当たって確認してもらうしかないわけだが、私自身はその豪腕ぶりに唸らされた。なるほど、と。

とはいえ、その論理展開が腑に落ちるかどうかは最終的には「信仰」の問題となってしまう。私自身は、恐縮ではあるが、筆者と信仰を同じくしないので、筆者の結論が腑に落ちたわけではない。頭で理屈は分かるが、しかし腑には落ちないということだ。これは「信仰」の問題である以上、仕方がないところだろう。
「信仰」を持たない私から見れば、「そういうふうに特異点を設定するのであれば、論理全体をそういうふうに構成するのはもっとも合理的ですね。すごい。」としか言いようのないところである。そして「そういうふうに特異点を設定する」ことが正しいかどうかは、論理的には説明されていないし、不可能である。論理によっては絶対に超えられない谷は、「信仰」によって超えるしかない。それが「言語ゲーム」というやつの宿命だ。そして私は、「信仰」を同じくしない以上、その谷を超えることはできない。「超えたとしたら、こう言えますね」とは言えるけれども。

たとえば、筆者が辿り着いた結論について、筆者はキリスト教の信仰でしか不可能だと主張したいかもしれないが、私から見ると仏教の論理でも説明可能だろうと思ってしまう。般若心経が言う「色即是空空即是色」という言葉は、まさに筆者が辿り着いた「存在・即・交わり」という内容の深奥を極めて鮮烈に突いているのではないか。
私は別に仏教の方がキリスト教より優れていると言いたいわけではなく、「そういうふうに特異点を設定するのであれば、論理全体をそういうふうに構成するのはもっとも合理的ですね」という感想が等しくキリスト教にも仏教にも当てはまるように見えるのであって、結局は「特異点」の設定の仕方だけが個性的なのかもしれないと思うわけだ。キリスト教や仏教に頼らなくても、「特異点」さえ上手に設定できれば、「存在・即・交わり」という深奥は如何様にも表現できるのではないか。しかし「存在・即・交わり」を合理的に解釈するためには何らかの「特異点」の設定が絶対に必要であるということはおそらく間違いない。ただし、おそらくどの「特異点」も相互に優劣はなく、キリスト教でも仏教でもどちらの特異点設定でも合理的解釈は可能であるし、もちろんまったく別の「特異点」でも同じように「存在・即・交わり」の合理的解釈は可能になるように思う。

具体的に思い起こすのは、「光」というものの物理的性質だ。高校物理で習うわけだが、光は「粒子」であると同時に「波」の性質を持つ。光は物理的に「粒子」という個別的な「存在」の様式を示すと同時に、互いに干渉する「波」であるという「交わり」としてに在り方を示す。つまり「光」とは物理的に「存在・即・交わり」という在り方を示しているのだ。そして量子力学で習ったところでは、「光」だけではなく、あらゆる「原子」が「粒子・即・波」という在り方を示す。どうして光や原子が「粒子・即・波」という在り方を示すのか、その根拠は、少なくとも私は物理的には理解できない。私にできるのは、現実として確かに光や原子が「粒子・即・波」という在り方を示すことを「信仰」するしかないのだ。そして光や粒子が「粒子・即・波」という在り方を示すことさえ無条件に受け入れてしまえば、そこから演繹される物理的な体系は問題なく理解することができる。「粒子・即・波」という不可解で非合理的な在り方さえ受け入れてしまえば、全体的な体系は合理的に解釈することができるのだ。しかし全体的な体系を合理的に解釈できるとしても、どうして「粒子・即・波」なのかは謎のまま残る。
物理の話に限らない。全体的な体系を内側から合理的に解釈しようと思うときには、どうしてもどこかに「特異点」が必要となる。「思考の支え」が存在しないとき、人は全体的な体系を合理的に解釈することができない。その「思考の支え」を外部に求めない場合は、体系内に「思考の支え」としての「特異点」を設定する必要がある。筆者は、その「特異点」の設定を聖書に求めた。それ自体はまったく問題ない。しかし、私としては、「特異点」の有り様は他にもあり得るようにしか見えない。その有り様の選択肢は、それこそ無限にあり得る。とはいえ、「うまい特異点」と「ダメな特異点」の違いは、確かにある。たとえば「ユダヤ人が悪い」とか「イワシの頭」というのは極めて質の悪い特異点だろう。それから「特異点」が多すぎる理論も、ダメなやつだ。「特異点」がうまいかダメかは、「特異点」自体の単純性と、そこから演繹される論理体系全体の広がりと深さの射程距離から判断することができる。聖書に「特異点」を設定したトマス・アクイナスや筆者の立論は、相当に「うまい特異点」に立っているとは言えるような気はする。うっかりすると谷を飛び越えてしまうほど、うますぎると言えるかもしれない。この論理構成の見事さについては、キリスト教神学が培ってきた伝統の奥深さに感服つかまつるというか、頭を垂れて教えを請うというか、恐れおののくしかないところだ。すごい。だがしかし。仏教の示す論理も負けず劣らずそうとう凄いように思えるので、そう簡単に飛び越すべき谷は決められない。渡ってしまったら、簡単には帰ってこられないものだろうし。(渡ったことがないから分からないけれど)。

そして、上記の見解が「信仰を持たない者の言いぐさ」であることを私は自覚しなければならないわけだが、「信仰を持たない者の言いぐさ」というものがこの文章全体を貫く「特異点」なのだった。人は何らかの「特異点」なしでモノを考えることはできない。(そんなわけで、私個人は最終的な「特異点」の審級を「眼鏡」に置いております。ご了承いただけると幸いです)

で、まとめ。
私個人の今現在の理解としては、「人格」という概念とは、「それが確実に存在するという根拠がないにもかかわらず、それが存在すると仮定することによって世の中全体を合理的に無矛盾な体系として構想することが初めて可能となるような特異点のうちでも、その単純性および射程範囲の広さと深さにおいて極めて優秀なものであり、現時点においてはこれに取って代われる概念は他にないような文化的到達点」と理解するのが、いちばんしっくり来る。筆者の言いたいこととは究極に根本的なところでズレちゃってて、申し訳ないところではあります。

稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』創文社、2009年

覚え書き:第2回パーソナリティ心理学会コロキウム2「道徳×パーソナリティ」

日本パーソナリティ心理学会主催のコロキウム「道徳×パーソナリティ」(2018年3/30、於東京家政大学)に、教育学代表の話題提供者として出席してきました。以下、ごく簡単な覚え書きとして、私が抱いた感想について記します。

認知発達と進化心理学の観点

話題提供として、私が教育学代表で「教育学における人格概念」についてレポートした他、藤澤文先生(鎌倉女子大学)が認知発達の観点から、川本哲也先生(東京大学)が進化心理学の観点から報告を行いました。

認知発達の点で印象に残ったのは、教員養成における道徳教育の授業に心理学の成果がほとんど反映されていないという現実でした。道徳教育の教科書にはピアジェやコールバーグの発達段階理論は載っているものの、それ以降の心理学領域での発展は反映されません。特に認知科学の領域はめざましい成果を挙げているように思うのですが、道徳教育の実践に反映されないのはとても勿体ないと思います。
まあ、実際に大学の教員養成課程で道徳教育の授業を心理学理論の専門家が担当することは滅多になく、多くの大学で退職校長先生など実務経験者が担当しているという現実においては、最新の心理学の成果は浸透しにくいだろうとは思いますけれども。とはいえ、文部科学省が道徳教育を変えるんだと旗を振っているにも関わらず、しかし大学の授業の中身に最新の心理学や認知科学の成果が反映されていかない現実を見ると、教員養成制度の在り方についていろいろ考えさせられます。
と言いつつ、私自身の認知発達に関する知識だって、ピアジェ、ワロン、ヴィゴツキーあたりで止まっているんですけれども。私自身の勉強不足を認識・反省し、知識をアップデートする必要を切実に感じる良い契機となりました。21世紀スキルについて批判的に理解するためにも、最新の認知発達理論の要所を押さえておく必要があります。勉強しろよ>俺。

それから進化心理学については、25年ほど前に読んだ竹内久美子の本のデタラメさ加減のせいで悪い印象しかなかったわけですが、今回の話題提供を受けて冷静に考えてみれば、デタラメなのは竹内久美子であって、進化心理学そのものはしっかりした学問であるという当たり前のことが分かります。進化心理学が挙げる諸成果は、他の学問からはなかなか出てこないだろうものが多くて、新鮮で興味深いです。とはいえ、Eテレでやっていたダイアモンド博士シリーズ等を見て思ったことですが、進化論から演繹された人間論の体系は、人文科学に携わる者としては素直に受け取れないということは否定しません。以下、川本先生個人に対する批判ではなくて、一般論であることを前置きしまして。生物学の成果を人間論にまで演繹するとして、人間の行動のどこまでを「動物」の範囲で理解し、どこからを「文化」の領域として理解するか、その境界線についての原理的・方法論的な反省が欠けているときには、出てきた成果を「人間論」として全面的に受け入れることには懐疑的でありたいと思っています。この境界線について生物学者が原理的・方法論的に反省を加えている極めて素晴らしい例は、ポルトマン『人間はどこまで動物か』に見られると思っています。(えっと、川本先生に反省が欠けていると言っているわけではなく、あくまで一般論であることについては、繰返し強調しておきますよ。)
その上で、道徳教育がパーソナリティの変容に影響を与えないだろうという進化心理学の成果は、現実の教育に何らかの形で反映していっていいだろうと思います。カリキュラム全体の構想や学校運営の在り方に対して抜本的な反省を加えるための良い素材になると思います。道徳教育なんかやっても何も意味がないという意見は、一部の教育学者や教育関係者などによって昔から現在にかけて途切れることなく主張されてますけれども(それこそ福沢諭吉あたりから)、科学的な根拠があるかないかで説得力はまるで違ってきます。

私の報告についての補足

私は、教育学がどのように「人格」概念とか「人格の完成」を扱ってきたかについて報告しました。パーソナリティ心理学との違いを際立たせようという意図もあって、「人格」の本質は「自由」であり、かつ「個性」と対立するような普遍的概念だとする見解を強調しました。

ただ、いちおう補足しておくと、『教育実践要領』や『期待される人間像』に見られるような、「人格」の本質を「自由」であると強調するような表現は、社会主義に対する警戒心と対抗意識を背景として登場したものであって、実は価値中立的な態度ではないだろうと思います。教育基本法制定に深く関わった田中耕太郎も共産主義に対して露骨な嫌悪を表明しており、「自由」を強調すること自体が実はイデオロギー的な態度であったことは、時代の背景として踏まえておく必要があると思います。(そしてそのイデオロギー性の指摘は、1980年代以降の新自由主義が強調する「自由と自己責任」論にもそのまま当てはまるわけですが)。まあ、「自由」を強調する発言者の意図がイデオロギーに染まっていることが「自由」そのものの価値を損ねるわけではありませんけれども、テキスト読解の際には少々引いた地点から眺める必要があります。ある文書を時代の文脈から切り離して価値中立的なテキストとして理解することには常に危険が伴うわけで、それは教育基本法の「人格の完成」も逃れられない、テキスト解釈の一般論ではあります。教育基本法の「人格の完成」という文言は、その時代の政治・社会・経済・思想的背景の中において、田中耕太郎という個人の想いが込められた、極めて個性的な表現だと思っています。「人格の完成」という文言を金科玉条の如く無批判に受け入れることに対しては、懐疑的であるべきだと思います。あるいは、現代において「人格の完成」という言葉を錦の御旗の如く使用している文章を見つけたら、内容はかなり怪しい主張になっているはずなので、眉に唾をつけて読むべきだと思います。

フロアからの質問にありました、「人格」という言葉ではなく「人間性」という言葉のほうがより適切だったのではないかという指摘は、田中耕太郎という個人の思想を読み解く上で極めて有効な切り口になります。なぜ田中耕太郎は「人間性」という言葉ではなく「人格」という言葉にこだわったのかを掘り下げていくと、教育基本法の言う「人格の完成」が本当に狙っていたものがかなり明瞭に見えてきます。彼は、立法・行政・司法の三権分立に「教育」を加えて四権分立にしようとする理念というか野心というか見通しを持っていました。独立した力としての「教権」を確立する上で、「人格の完成」という言葉は極めて重要な役割を果たすことが期待されているはずです。そしてそこで言われる「人格」とは、パーソナリティ心理学が扱うパーソナリティとは似ても似つかないものであることが見えるでしょうし、そして似せる必要がそもそもないものであることも見えてくるだろうと思います。それは客観的で中立的で科学的な言葉ではなく、国家体制に関わってくることが期待されている言葉です。そういう意味では、「人間性」という言葉のほうが価値中立的でありそうだという見解は、まさにその通りであると思います。

そんなわけで、私の報告は、教育学で言う「人格」が、パーソナリティ心理学の言う「パーソナリティ」とは全然違っていることを強調しましたけれども、それは「教育学のほうが正統なんだから、こっちに合わせろ!」と主張したいわけではありません。むしろ教育学で言う「人格」は時代背景やイデオロギーに規定されて登場してきたものであって、けっして価値中立的なものではなかったことを併せて示そうという意図を込めていたつもりです。上手に説明できたかどうかは、心許なくて、恐縮であります。

国家主義的な価値から社会経済的な価値へ

というわけで、3人の話題提供の範囲はそうとう広がって、指定討論者の渡邊先生がどうまとめるか大変だなあと思っていたら、鮮やかなお手並みで、びっくりしました。全体的にたいへん示唆的な内容でしたが、中でも特に印象に残ったのは、「パーソナリティの価値化:非認知能力の浮上」と「徳性から能力へ:国家主義的な価値から社会経済的な価値へ」というお話しでした。

「パーソナリティの価値化」という点については、当然、企業で使える人材イメージの変化が背景にあるわけです。単に勉強ができるだけの人間が会社で使えないことに多くの人が気がついて、使えるか使えないかは頭がいいかどうかに加えてパーソナリティの在り方にポイントがあると考えられるようになりました。となると、これまでの教育では社会に有能な人材を送り出すために「知能の測定」の確度を上げていけばよかったのが、これからは「パーソナリティの測定」の確度を上げていかなければならなくなったわけです。企業で役に立つ人材を送り出すために、教育では知能や学力の測定に加えてパーソナリティの正確な測定が切実に求められるようになり、それに伴って、パーソナリティ心理学に大きな期待がかかるようになります。企業が求める人材の変化は、文部科学省が言う「学力」の定義の変化にも反映してきています。かつての「学力」は勉強ができるかどうかだけを問題にしていましたが、1990年代以降の「新学力観」は「関心・意欲・態度」というパーソナリティ領域に踏み出しています。この教育の世界で進行した「学力の定義の変化」と、渡邊先生が指摘した「パーソナリティの価値化」は、同じ根っこを持っているように思います。

それから、心理学におけるパーソナリティの意味はもともと法学や教育学と変わりなかったのが、1930年代アメリカの社会経済的な背景でオールポートやキャッテルから変わっていったという指摘も示唆的でした。個人的には、1920年代(30年代じゃなくて)アメリカの社会経済的背景と1960年代日本の社会経済的背景はかなり似ているように思っています。で、教育学における「人格」概念も、高度経済成長後に大きく変化しているのではないかという気がしています。たとえば話題提供でも示した中央教育審議会「期待される人間像」は1966年に出たものですが、ここで示された国家主義的な「人格=自由」観は60年代後半に急速に萎んで、70年代以降は社会経済的な価値へと装いを変えていくように見えます。直感的な感想で、まったく実証的な根拠はありませんけれども。とはいえ、1930年代アメリカの変化と60年代日本の変化の類似を考えることは、何かしらの示唆を与えてくれそうな予感はします。

また、「パーソナリティのリアリティ」という言葉は、なかなか含蓄が深いなあと思って聞きました。「パーソンのリアル」という次元ではなく、「パーソナリティのリアリティ」という次元を扱っているという自覚と、その領域を豊かにすることの意味を考えることが、これからますます重要になるのではないかと。
教育の領域に我田引水すれば、「教育をする」ということに執着するのではなく「教育的である」ことの現実的な意味を考えることの重要性と言いかえることができるかもしれません。道徳教育に関しても、子供に対して道徳教育を施す方法や効果について云々するのではなく、大人自身が「道徳的である」ことの現実的な意味を考える重要性、と言いかえられるかもしれません。

AIによるパーソナリティ予測

せっかくなので、コロキウム3「AI×パーソナリティ」で紹介された「文章によるパーソナリティ予測」をしてくれるサイトに上の文章を入力してみたところ、以下のような結果が出力されてきました。なるほど。

自己主張が強く、協調性が低いのだった。ははは。
これ、実はパーソナリティ診断に使えるだけでなく、文章そのものが人に与える印象を客観的に自己点検するためにも有用なシステムなのではないかと思えてきました。たとえば「この文章、自己増進も変化許容性も弱いのか」って気づきのために使うとか。論文を書いたらちょっと使ってみることにしよう…。

【要約と感想】田上孝一・黒木朋興・助川幸逸郎編著『<人間>の系譜学 近代的人間像の現在と未来』

【要約】哲学と文学で「人間」がどのように観念されたかについて考察した、論文集。哲学で扱うのは、デカルト、スピノザ、ヘーゲル、ニーチェ、マルクス。文学で扱うのは、ゾラ、田山花袋、サン=テクジュペリ、サルトル、カミュ、三島由紀夫、アラン・ロブ=グリエ、安野モヨコ。

【感想】人間というものを考えるときの対立軸として、「普遍性/個別性」「全体性/断片性」「一貫性/変幻性」「単独性/集団性」という図式を描くとして。それぞれの二項対立において、前者がいわゆる近代性の指標であるのに対し、後者は前近代もしくは後近代の指標ということになる。

で、本論文集で示された内容を二項対立図式によって乱暴にまとめると、ニーチェ論文は単独性→集団性、マルクス論文は全体性→断片性、ゾラ論文は全体性→断片性、サン=テクジュペリ論文は普遍性→個別性、三島由紀夫論文は一貫性→変幻性、ロブ=グリエ論文は一貫性→変幻性というふうに、近代的な人間観が無効化(あるいは超克)される姿を描いていると言える。
ニーチェ論文の、弱者を集団人格化して理解する論旨には意表を突かれたけれども、アクロバット過ぎる気もする。要検討。

一方、ヘーゲル論文は、人格というものの自律性と依存性という相矛盾する本質をどう両立させるかという、古代からの難問を扱っている。個人的には、このアポリアは本質的に解くことができないものだと思っている(カント的な意味で)が、見せかけの特異点を消失させる論理構成の在り方に哲学者のオリジナリティが出るものだとも思う。
デカルト論文は、デカルトを近代的な認知枠組みで理解すること自体を疑問視し、中世的な枠組みで相対化することで論点が浮かび上がるように読んだ。しかしまあ、儒教のテキストとか読んでいても思うけれども、近代的な認知枠組みを自ら相対化してテキストに当たることは、とても難しいんだよなあ。

田上孝一・黒木朋興・助川幸逸郎編著『<人間>の系譜学 近代的人間像の現在と未来』東海大学出版会、2008年

【要約と感想】鍵本優『「近代的自我」の社会学 大杉栄・辻潤・正宗白鳥と大正期』

【要約】明治以降、近代的自我の形成が日本の知識人にとって共通の課題となりました。本書が扱うテーマは、近代的自我形成の在り方が明治と大正とで大きく異なっていることです。明治期には国家独立のための前提として近代的自我の形成を目指していましたが、大正期には資本主義体制下の消費的主体としての近代的自我へと変容しました。注意すべきことは、明治と大正を通じて、生命主義の影響の下で自我を「ひとつ」の何かへと包括・統合しようとする全体主義の傾向が共通していることです。このような日本における近代的自我の形成過程の中、大正期に「ひとつ」への統合圧力から逃れようとする試みが散見されるようになります。その代表として、本書は大杉栄、辻潤、正宗白鳥の苦闘を具体的に扱っています。

【ツッコミ】明治期人格概念研究者(?)の私としては、ツッコミを入れるべき点が2つある。ヘルバルト主義と社会有機体論だ。いちおう先回りしてフォローを入れておくと、著者の主張に問題があると言いたいわけではなく、私自身の発信力不足と怠慢のせいで、熱心な研究者にすら私の研究成果が届かないというところに問題があることを自覚しつつ、私の研究がこの問題領域にどのような形で貢献できるかを確認するための作業だ。

まず著者は「明治三十年代の半ば頃に中等学校修身科教育の内容として姿を現した人格観念」(91頁)と言うが、この記述にはツッコミを入れておきたい。正確には、人格観念は「中等学校修身科」から姿を現したのではなく、時間的にも理論的にもその前に「教育理論」の中に姿を現している。明治20年代半ばにはヘルバルト主義によって「人格」観念が「個性」観念を伴って導入されて、少なくとも20年代後半には教育理論として展開されるようになっているのだ。明治30年半ばの中等学校修身科教育の内容は、ヘルバルト主義理論を土台にして教育理論が展開した末に出てくるものだ。(拙論「日本の教育学説における人格概念の検討-ヘルバルト主義を中心に」および「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」)
大西祝もヘルバルト主義への言及を通じて「個性」観念に触れており、「人格」や「個性」概念に対してヘルバルト主義が果たした影響は、かなり大きい。このあたりは教育史研究者がもっと主張を強めていくべきところなのだが、主張が広がっていないのは我々の怠慢だ。

それから、多様性と一性(=アイデンティティ)の相克について、しかも生命主義と絡めて考えるなら、明治初期の進化論受容から中期の社会有機体論および国家有機体論への展開を無視できない。この論点にもツッコミを入れておきたい。
社会有機体論にしても国家有機体論にしても、「有機体」というからには、もちろん機械のように部分に単純分割できるものではなく、全ての器官が相互依存している生命体が想定されている。生命体の在り方を理論的前提とする有機体論は、生命主義に容易に接続できる。本書が言う「ひとつ」への統合・包括圧力は、社会有機体論と国家有機体論によって理論的に裏打ちされているように思う。具体的には、社会有機体論を理論的に代表するのがスペンサーで、国家有機体論を理論的に代表するのがシュタインなわけだが、明治中期に徳富蘇峰や岡倉天心や三宅雪嶺といった新しい世代がこれらをまともに受け止め、個性と多様性を尊重しながら同時に一性を保つという言論を展開した。これは福沢諭吉や中江兆民といった「天保の老人」には見られなかった傾向だ。新しい世代の論理では多様性(個別性)と一性(普遍性)が生命という相においてのみ両立することが示されており、その基本的な論理構成は大正期の生命主義にも(あるいは戦後まで)引き継がれていくように見える。生命主義を背景とした「ひとつ」への包括統合圧力を描くのであれば、天心や雪嶺など新しい世代に触れつつ有機体論の伝統を踏まえる必要があるのではないかと思った。

【感想】まあ、あらかじめフォローしておいたとおり、著者の主張を否定したいわけではない。自分自身の発信力不足と怠慢を反省しつつ、行うべき仕事について再確認させられるような、たくさんのインスピレーションを与えてくれた本だった。とてもおもしろく読んだ。

とくに「ひとつ」という術語は、著者がその言葉を捻り出した過程を想像するに、とても尊いものだと思いつつ読んだ。従来はそれを「同一性」とでも呼ぶことが多かったわけだが、著者はおそらく「同一性」という術語で記述することに違和感を抱いているのだろう。手垢のついた言葉ではなく、著者が新しく「ひとつ」という言葉を生み出したことは、とても尊い。私もソレをどのように呼ぶべきかについては、ずっと悩ましく思っている。あるいは、著者が「ひとつ」と呼んでいるものについて、どう考えていいのか、ずっと迷っている。
たとえば、「ひとつ」への包括統合圧力が、果たして近代に特有のものかどうかという疑問が拭えない。なにかを「ひとつ」と認識することは、実は人間の認知の所与の在り方なのではないだろうか。たとえば、目の前にある眼鏡を、どうして私は「二つのレンズとひとつのブリッジ」とは認識せず、「ひとつの眼鏡」と認識するのだろう。そして、どうして英語ではそれを「二つのレンズ」と認識するのだろう。なにを「ひとつ」と認識するかは文化によって異なる。日本語では「眼鏡」を「ひとつ」と認識し、英語では「レンズ」を「ひとつ」と認識している。とはいえ、いずれにせよ何かを「ひとつ」と認識する認知の在り方がなければ、人間は「言葉」を持つこともできず、「存在」を認識することもできない。たとえばアリストテレスは、「数」は2から始まるものであって、「1」は数ではないと主張した。
「近代的自我」とは、一人の人間を抽象的に「ひとつ」と認識する認知フレームではある。この認知フレームは、身分制を破壊して、侍だろうが農民だろうが「同じ人間である」というふうに、具体性を剥ぎ取って人間を認識することが可能な社会的条件が揃って初めて作動する。同様に「近代的国家」を抽象的に「ひとつ」と認識するためには、アメリカだろうが日本だろうが北朝鮮だろうが「同じ国家である」というふうに、具体性を剥ぎ取って国家を認識することが可能な社会的条件が揃う必要がある。そういう意味では、確かに「近代的自我」も「近代的国家」も市民革命以後の近代的産物に間違いはない。フロイトやニーチェは、人間を抽象的に「ひとつ」と認識する近代的な認知枠組に対して異議申し立てをしたと言える。人間は「ひとつ」などではなく、もっと細分化されたものに「ひとつ」を設定するべきなのかもしれない。あるいは、もっと大きなもの(たとえば国家とか社会とか人類補完計画とか)を「ひとつ」と設定するべきなのかもしれない。
が、そもそも「なにかをひとつと認識する」という認知の在り方自体は、実は時代に関係なく、人間にとって所与のものである可能性はないのか。前近代は前近代で、なにか別のものを「ひとつ」と認識しており、そこに向けての包括・統合圧力はやはり作動していたのではないか。たとえばそういう「究極のひとつ」、つまり「神」としか呼べないようなものへの憧憬は、後期プラトンの哲学や、アリストテレス『形而上学』や、新プラトン主義の諸々に徹底的に描かれているのではないか。
だとしたら、大正期の生命主義が求めた「ひとつ」とは、求めるべき「ひとつ=神」を持たなかった日本人の認知の空隙を埋めるものとして、大正期の知識人には、どうしようもなく必然的に生じてしまう類のものではないのか。ここまで思い至ると、本書でライトモチーフのように繰り返されるキリスト教の影響と反発というものは、なかなか侮れない。「ひとつ」というものは絶対に必要だと感じているにもかかわらず、キリスト教の言う神は「そのひとつではない」というもどかしい感じ。その「ひとつ」ではない何か別の「ひとつ」を求めざるをえない人間の認知のどうしようもない在り方が、たとえば本書で扱われた3人の苦闘に現れているのかもしれない、というふうに本書を読んだ。

本書で示された「ひとつ」への包括・統合圧力という問題は、そうとう深いように思う。そしてそういう意味で、「ひとつ」という言葉を産みだして問題を記述した本書のセンスは、とてもいい。

鍵本優『「近代的自我」の社会学 大杉栄・辻潤・正宗白鳥と大正期』インパクト出版会、2017年