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【要約と感想】山本芳久『トマス・アクィナス―肯定の哲学』

【要約】トマス・アクィナスの思想について、従来はその論理的な側面ばかりに注目が集まっていましたが、その魅力は、実は「感情論」によく現れています。トマスの感情論を具体的に検討することで、それが徹底的に「肯定」の精神に基づいていることを解き明かします。すると最終的には、カトリックの根本原理である「善の自己伝達」=「愛の共鳴」が明らかになります。

【感想】個人的な感想では、ヨーロッパ思想家の「論理的な面」にばかり日本人が注目するのは、特にトマス・アクィナスに限った話ではない。古代のプラトン(饗宴やパイドロス)にしろアリストテレス(弁論術)にしろ、近代のアダム・スミス(道徳感情論)にしろデカルト(情念論)にしろ、西洋哲学は常に「情念=パッション」を思考の対象としてきた。それを見逃してきたのは、日本人の側の問題だ。要するに、感情論について西洋から学ぶことはないとたかをくくっているというだけのことだ。
 しかし情念論がヨーロッパの思想家にとって極めて重要なのは、それがイエス・キリスト論に直接的に結びついているからだ。具体的には、「神は情念を持つのか?」という問題に明確な解答を用意しておく必要があるわけだ。そしてもちろん神が情念を持つはずはないという結論は最初から決まっており、その結論を成立させるために生じる多種多様な矛盾を丁寧に整理しておかなければならない。特にイエスが十字架にかけられた時に嘆いたり悲しんだり苦しんだりするなど明らかに情念を表現しており、一般キリスト教信者にとってはそれで何も問題ないわけだが、哲学者・神学者の方はそういった聖書の情念表現と「神は情念を持たない」という命題を両立させなければならない。明らかに矛盾する課題を達成するための前提として、「情念」を徹底的に分析しておく必要が生じてくる。
 本書も、まず前半では人間のレベルで「情念」を取扱ったあと、後半で「神の情念」の問題に突入する。神の情念というテーマが、近年の研究でも大問題になっている様子がよく分かる記述になっている。で、それは、カトリック信者ではない私からすると、あらかじめ決まっている結論に着地するために飛躍が甚だしいアクロバティックな理屈を恣意的に言い放っているようにしか見えないわけではあるが、「そういう考え方もあるのか」と理解するぶんには吝かではない。実際、特に「受肉」に関する論理については、眼鏡っ娘を理解するために極めて有益な示唆を与えてくれる。伊達に何百年も論理を鍛え上げてきているわけではない。勉強になる。

【この論理は眼鏡っ娘学にも使える】
 本書は神学という学問の意義を次のように説明する。

「現代では、「信仰」は非理性的・反理性的なものと捉えられることが多いが、トマスのテクストには、そういった考え方とはきわめて異なった信仰理解が現れている。「神」という他者の言葉は、理性と相反するどころか、理性的な哲学のいとなみに新たな探究の領野を開示する契機として機能しうる。それは、理性の徹底的ないとなみが、理性のいとなみであるままに、理性を超えたものへと開かれていくという自己超越的な在り方を可能にするものなのだ。啓示の言葉をも探究の視野のなかに収めることによって、知的探究は、非理性的で硬直化したものになってしまうどころか、新たな刺激と探究材料を与えられ豊かになる。」pp.144-145
「神学という学問は、狭い意味での信仰者のみにとってしか意味を有さないのではなく、人間に関する普遍的な洞察を与えてくれるもう一つの「光源」ともなりうるのだ。」p.146

 ここの文章に出てくる「神」という言葉を全て「眼鏡っ娘」に置き変えると、私が常に言っていることとほぼ同じ内容になる。私は常々「眼鏡っ娘が分かれば世界が分かる」と言い続けてきたわけだが、その理屈は、こういうことなのだ。

山本芳久『トマス・アクィナス―肯定の哲学』慶応大学出版会、2014年

【要約と感想】山本芳久『トマス・アクィナス―理性と神秘』

【要約】トマス・アクィナスの仕事は、現在ではカトリックの王道と理解されることもありますが、実際当時においては、特にアリストテレスの受容と解釈において、時代状況に即した新しいチャレンジでした。トマスは、アリストテレス的な「理性」とキリスト教的な「神秘/信仰」を、対立するものではなく、相互補完的なものと捉え、アリストテレスの論理を足がかりにして神学的な思考を力強く前に進めます。それは「理性」だけでも「信仰」だけでも不可能な、トマスだったからこそできた独創的な仕事です。その固有の論理を、具体的に徳論や自由意志論、愛徳論の展開を通じて確認していきます。
 ところが、三位一体の教義と受肉の神秘について考え始めると、もう間違いなく人間理性を超越していきます。だからといって理性的に追及することをあきらめるのではなく、理性を超えた「神秘」を手掛かりにしてさらに理性的な探求を推し進めるのがトマスのすごいところであり、現代に生きる我々にも大きな示唆を与えるところです。

【感想】まあ、神秘を手掛かりに理性的な追及を進めてはいけませんよ、理性は間違えますよ、しかるべき限界をわきまえましょう、と釘を刺したのがカント「純粋理性批判」の仕事ではあるし、やっぱりそれは抑制された丁寧な考え方であって、三位一体とか受肉の神秘を理性的に考えようという姿勢は、どうしても破綻しているようにしか見えない。そこは単に「理性を超えている」だけでいいじゃない。理性的に理解しようとするから徹底的に話がおかしくなり、胡散臭さが充満するのだと、改めて認識したのであった。しかしそれはトマスとかカトリック特有の問題というより、「特異点」一般に当てはまる話ではある。たとえば「人格」とか「個性」というものを理性的に捉えようとすると、やはりおかしなことになる。そこはカントに倣って「理性を超えているものを理性的に考えても絶対に答えに辿り着かない」と理解しておくのが、みんなが幸せになる無難な道であるように思ってしまうのであった。

【眼鏡論に使える】とはいえ、だ。個人的に大きな興味を引くのは、やはり「三位一体」の教義と「受肉」の神秘、そしてそれについてキリスト教神学が突き詰めてきた理性的思考は、眼鏡っ娘を考えるうえで極めて有益な示唆を与える。眼鏡と娘の分離主義に対しては、「っ」(カトリック的には精霊≒教会にあたる)を交えた三位一体論が決定的な反論となる。眼鏡だけを神、あるいは娘だけを神と理解するのは、三位一体論的にいえば問題なく異端である。
 こういうふうに「理性を超えたもの」を「理性的に理解しようとする」ところから視界が急速に開けてくる様を自ら体験してみると、一概にトマスやカトリック神学の思考を切り捨てるわけにもいかない。そこに何か大切なものがありそうなことを直観するのである。他人を説得したり説伏したりするためでなく、自らの体験を言葉にするという意味で。「特異点」という光の届かない闇を見定めるために。

山本芳久『トマス・アクィナス―理性と神秘』岩波新書、2017年

【要約と感想】稲垣良典『トマス・アクィナス『神学大全』』

【要約】中世の神学者トマス・アクィナスの主著『神学大全』が議論の対象ですが、内容を紹介する本ではありません。現代に生きる我々が見失ってしまった大事なものを甦らせるために「挑戦の書」として『神学大全』を読み解きます。
 具体的には、「存在」や「人格」や「目的」や「正義」や「自由」や「幸福」という言葉の本質的な意味が、現在では完全に見失われています。トマスの知恵の探究に付き合うことで、これらの言葉が本来持っていた本質的意味が浮き彫りになります。

【感想】さっくり『神学大全』の概要等を理解したい方面にはまったくお勧めしない。トマス・アクィナスの記述に寄り添いつつも、徹底的に著者自身が哲学する過程に付き合う本だ。そして著者が遂行する哲学も、我々が馴染んでいるような近代以降の哲学ではない。キリスト教への「信仰」を前提とした公理系でのみ意味を持つような演繹を連ねる思考が延々と続く。帰納的な思考は、「不完全な感覚に依拠している」ということで最初から排除されている。近代的思考に馴染んでいる読者がイライラすることは間違いない。わたしもイライラした。
 だから、まず言っていることを理解しようと思ったら、帰納的な近代思考をとりあえず棚に上げていったん忘れ、仮にカトリックの公理を前提として受け容れて、「自分を無」にして、「そういう世界なんだ」と読み進めていくしかない。そうすると確かに、「私が無」であるような地点から初めて立ち上がってくるような知見というものが出てくるわけだ。だがしかし、その知見が仮に納得できる結論を示しているとしても、前提として仮に受け容れていた公理が正しいことを保証するものでは、もちろんない。
 こういう経験を経て逆によく分かるのは、中世の思考様式が徹底的に「帰納」を排除することで成立しているということだ。「帰納」を知らなかったのではない。蓋然的な知しかもたらさないものとして、意図的に排除しているのだ。徹底的に帰納的思考を排除して、ごくごく基本的な公理からあらゆる論理が演繹される様は、まさにユークリッド幾何学のようだ。(いちおう『神学大全』は、ユークリッド幾何学のような純粋な演繹推論ではなく、弁証法的な体裁で記述されている)。が、むしろ演繹の技術が見事であればあるほど、公理系全体を支える重要な何かが私から遠ざかっていくのである。その「重要な何か」を私個人はずっと「特異点」と呼んできているわけだが。

【今後の個人的研究のための備忘録】
 ま、とはいえ、いろいろなものを棚に上げて特異点さえ受け入れてしまえば、論理整合的に美しい世界が広がることは間違いない。一言で「目的論の世界」と言ってよいのかもしれない。「この世界には意味がある」という確信に満ちた世界であって、それだけで特異点を受け入れる価値があると思う人もいるのだろうし、実際にいるわけだ。(まあそれは「目的論の世界」でありさえすれば、カトリック的特異点である必要はないのだが)。この「目的」という言葉の意味自体が、トマスの中世と近代以降では決定的に異なっていることを著者は丹念に説明する。

「ここでまず「目的」という言葉(ラテン語finisは英語のendと同じく「終わり」「終点」を意味する)がトマスにとっては、こんにちのわれわれとはかなり違った意味と重みをもつものであったことに注意しておいた方がよいかもしれない。われわれが理解する「目的」とは、人性の目的にせよ、旅行やパーティの目的にせよ、われわれ自身が自由に選び、計画を立てて能動的に実現をめざすものに限られている。これに対してトマスが理解する「目的」は「善」と同じものであり、しかも中間的な善、つまり手段として位置づけられる善ではなく、「終わり」の善、それへと行きつくために手段が選びとられ、「善」という側面を帯びるようになる、高次の善なのである、したがって、トマスの言う「目的」は、われわれが能動的にそれの実現をめざすというよりは、それの「善さ」がわれわれをひきつけ、われわれに働きかけて、それの実現のためのエネルギーをわれわれのうちに呼びさます、つまりわれわれを能動的たらしめる根源なのである。
 われわれにとっては、そのような「目的」、つまり能動的な原因よりもさらに根源的な「原因」あるいは「根拠」であるような「目的」という概念はもはや存在しないか、あるいは縁遠くなってしまっている。」p.125

 こういうふうに「目的」という言葉の意味が根底から違っているのであれば、また必然的に「存在」という言葉の意味と役割も中世と近代以降では決定的に異なってくることになる。

「すべてのものの「存在」はただそこに「在る」という事実にとどまるものではけっしてなく、その「存在」――それが何であるか、つまり各々のものの「本質」「本性」の探究はわれわれにとっての課題であるが――そのもののうちに善や価値のすべてが内在する、というふうに考えない限り、トマスが考えるような「人間の目的」という概念は不可解なものにとどまらざるをえないのである。」p.127

 すべての「存在」は、必ずなにかしらの「目的」を持っている。というか、何かしらの「目的」を持っているからこそ「存在」している。それは人間も同じである。

「「人間とは何か」という問いで問われているのは人間本性にほかならないが、その人間本性について正しく理解するためには、何よりも人間の目的について確実に認識しなければならない、とトマスは確信していた。なぜなら人間の目的とは、そこにおいて人間本性がその本来の姿をあますところなく現すものだからである。」p.131
「しかし目的はたんに終わりではなく、むしろそれにたどりつくことによってわれわれの願いがあますところなく満たされる「善き」終わりなのである。したがって、目的において人間本性の本来の姿が全体的に現れるとは、たんに「本性をさらけだす」といったことではなく、完全に実現される、完成される、ということなのである。」p.132

 ここの記述で気になるのは、人間の「目的」が、人間本性の「完成」であると強調されていることだ。なぜ気になるかというと、教育基本法第一条に「教育の目的は人格の完成」と書いてあり、この条文の実現にこだわったのがカトリック信者の田中耕太郎だからだ。
 改めて教育基本法第一条を精査してみると、異常なことばかりである。まず、「教育の目的は人格の完成」とあるうちの「完成」という言葉が異常だ。どうして「成長」や「発達」という言葉ではダメだったのか。なぜ「完成」という言葉がチョイスされたのか。戦後から現代にいたるまで、この「完成」という言葉の中身を徹底的に深堀りしよう試みた「教育基本法研究」はあまりない。だいたいスルーするか、触れるにしても、ほぼほぼ「成長」とか「発達」のようなものだとお茶を濁している。いや、田中耕太郎としては、ここは「成長」や「発達」という言葉ではダメで、やはり「完成」でなければいけなかったのだ。「人間性」ではダメで「人格」でなければならなかったのと同様に。そして「成長」や「発達」という言葉ではなく「完成」でなければならない理由は、本書が明らかにしている通りだ。「目的において人間本性の本来の姿が全体的に現れるとは、たんに「本性をさらけだす」といったことではなく、完全に実現される、完成される、ということなのである。」

 そんなわけで「人格」=「ペルソナ」という言葉についても、三位一体の教義を踏まえて徹底的に議論されていて、極めて興味深く勉強にもなるわけだが、これについては著者の別の本(『人格《ペルソナ》の哲学』)で抱いた感想と重なるところだ。しかしやはり改めて、著者の言う「存在・即・交わり」は、般若心経が言う「色即是空空即是色」で言い尽くされているような気がしたのでもあった。

【眼鏡論にも使える】
 しかしさすがにカトリックが徹底的に鍛え上げてきた教義を踏まえている議論だけあって、演繹体系としての完成度はすさまじく、勉強になることこの上ない。この論理は眼鏡論にも積極的に応用できるものでもある。特に「愛」を根底に置いた三位一体的存在論および創造論に関する議論は、そのままそっくり援用できそうだ。

「トマスは三位一体論のなかで、神のペルソナについての認識は、事物の創造についてわれわれがただしく考えることのために必要であった、と述べている。それは、神は御自身の言というペルソナ)によって万物を造り給うた、と認識することで、諸々の事物は事前必然性によって神から流出したのではなく、言、すなわち神の知恵にもとづいて造られたことが肯定され、また聖霊のペルソナ、すなわち神自身の恵み深い愛によって造られたことが肯定されるからである、と彼は言う、それに続いて、三位一体なる神についての認識は、人類の救いが、神の御子である言の受肉と、聖霊の賜物によって成就されるものであることについてただしく考えることのために必要であった、と言われている。そこで、この三つのことを結びつけると、トマスが創造を、三位一体なる交わりの神による人類の救いという枠組みのなかで考えていたことはあきらかである、と言えるであろう。
 たしかに、創造するという働きは神の存在、すなわち神の本質に即して神に適合することであり、神のどれか一つのペルソナに固有の働きではない。しかし、神の諸々のペルソナは、それらが(神のうちなる)発出(processio)であるという本質側面に即して、事物の創造(つまり神の外への発出)に関して原因性(causalitas)を有する、とトマスは主張する。つまり、神は自らの知性と意志によって諸々の事物の原因なのであり、それは父なる神(のペルソナ)が言である御子のペルソナと、愛である聖霊のペルソナによって諸々の被造物を造りだす、ということである。「そして、このことにもとづいて、諸々のペルソナの発出は、それらが知(scientia)と意志(voluntas)という本質的属性をふくむかぎりにおいて、諸々の被造物の産出の根拠(ratio)である」とトマスは言明している。さらに彼は「諸々のペルソナの発出は、或る意味で、創造の原因であり根拠で或」と付言しており、神の創造の働きは三位一体という神のうちなる交わりにもとづいて、つまり神の救いの業という枠組みにおいてのみ、その意味を適切に理解できることを強調している。」pp.89-90

 なるほどである。「眼鏡っ娘」の働きは、どれか一つのペルソナ(眼鏡単独、あるいは娘単独)による働きではない。それは「眼鏡っ娘」という三位一体的な神自らの「知性」と「意志」を基にした内なる交わりに由来する、「救いの業」ということなのだ。眼鏡のみ、あるいは娘のみを強調する議論は異端への道に続いている。あくまでも三位一体論的に理解してこそ、初めて「眼鏡っ娘」そのものの働きを捉えることが可能になる。やはりカトリックの論理は侮れないのである。

稲垣良典『トマス・アクィナス『神学大全』』講談社選書メチエ、2009年>講談社学術文庫、2019年

【要約と感想】ボエティウス『哲学の慰め』

【要約】著者ボエティウスは、無実の罪を着せられて処刑されることとなり、牢屋の中でこの世の不条理に絶望しています。そこに「哲学」が現れて、世界は神の摂理で成り立っていることを教え、彼は不幸どころではなく、本当は至福であることを諭そうとします。死を目前に控えながら、「本当の幸福」とは何かに目を開いていきます。

【感想】もうすぐ処刑されて命を落とすことが確実な人間が「論理的に考えれば私は幸福だ」という内容を淡々と書き連ねている本で、そういう状況を思い浮かべると、類書が見当たらないものすごい迫力の本なのだった。同じような前例としてソクラテスという偉大な人物の処刑死もあるにはあるものの、ソクラテス刑死の様子を描いた『パイドン』は長生きするプラトンの手になる書物であって、実際に処刑される当の本人が死を目前にしながら書いている本書とは当事者具合がまるで異なる。本書が内容的に区切りの良くないところでプッツリ終わっているのも、ああ、ここまで書いたところで連行されて処刑されたんだなと、実に生々しいのであった。

 内容としては、『パイドン』の他にもプラトンの影響を顕著に感じる。善人が苦しむ一方で悪人が栄華を誇るのは何故かというテーマは、『国家』序盤で扱われているものだ。またさらに「一」に対する信仰は、プロティノス等新プラトン主義の影響が色濃いように読める。自由意志と決定論に関する問題については、両方が両立すると主張するのはストア派的か懐疑主義的か。いちおうアウグスティヌスもそういう立場ではあるが。ともかく全体的には、あまりキリスト教的には読めないような印象を受ける。
 まあそういう観点からすればオリジナリティや独創性というものを感じることはないのだが、本が書かれた状況が状況だけに、むしろ実践的な説得力の高さは半端ないのだった。死に臨んだ著者の生き様そのものを含みこむ形で、本書特有の迫力が立ち上がってくる。

【個人的な研究のための備忘録】
 「一」に関する記述サンプルをたくさん得た。まあ、内容そのものは新プラトン主義が到達した地点を越えてくることはないのだが、古代思想の到達点を端的に示しているという点で参照する意味があるように思う。

「だが、理由は極めて明白だ。すなはち、その本性上単一的で不可分的なものを人間が誤つて分割し、かくて、真実なもの・完全なものを、偽なもの・不完全なものに変へてしまふのだ。」p.113
「では、その本性上一にして単一なるものが、人間の斜視に依つて、部分に分けられてゐるのだ。そして人間は、もともと部分のないものについて部分を得ようと努力してゐるのであつてみれば、全然存在しないその部分は得られる筈もないし、全く得ようと力めないところのその全体も亦得られる筈がないのである。」p.115

「多くの人々に依つて追求される諸物が真の完全な善でない所以は、それらのものが相互に異つてゐるからであるといふこと、つまりそれらの各々は、互に他のものを欠くが故に充実した・完全な善を与へることが出来ないのだといふことを。更にまたこれらが、いはば一形相・一作用にまで結合される時、例へば満足が同時に勢力であり、尊敬であり、名誉であり、愉快である時には真の善となるが、之に反して、これらすべてがにして同一物でないやうでは、それらは願はしいものの中に数へ入れられる所以の何者をも持たぬといふことを。」p.131
「では、分離しては決して善でない諸物が、たり始めると善になるのだ。それならこれらはたることの獲得に依つて善となるわけではなからうか。」p.131
「それではお前は同様に、たること(unum)と善とは同一であるといふことをも認めなくてはならない。本性上同じ結果をもたらすものは、同じ実体を持つわけだから。」p.132

「存在する一切は、たる限りに於て存続し・持続するが、ひとたびたるを失ふや滅亡し・崩壊するといふことを知つてゐるか。」
「どうして?」
「それは諸生物に就いて考へて見るとわかる、」と彼女は言つた、「すなはち魂と身体とがに結合しそしてたるに留まる限り、それは生物と名づけられる。だが、両部の分離に依つてこのたることが崩壊するや、それは明かに滅亡し、もはや生物でなくなつてしまふ。身体そのものもまた、それが各部分の結合に依つての形相を保持する限り人間の外形を呈してゐるが、しかし、身体の各部分が分裂し・離散してそのたることが壊されるや、今まであつたところのものは無くなつてしまう。これと同様に、その外の諸物をひとわたり観察してみるに、如何なる事物も、それがたる間は存続したるをやめると滅びるといふことが疑ひもなく明白になるのであらう。」pp.132-133

「存続し・継続しようと求めるものはたることを欲する。何故なら、たることが失はれれば存在といふことも無くなつてしまふのだから。」p.135
「一切のものはたるを欲する」
「然るに、我々の示したところに依ればそのものが善である。」
「それでは、一切の事物は善を求める。」p.136

 プラトンやプロティノスが抽象的に表現していた思想内容が、本書だとかなり具体的な記述に落とし込まれて分かりやすくなっているような気がする。中世末までよく読まれていたというのも、なんとなく分かる気がする。

【要検討事項】カトリック教義との関連
 中身はキリスト教っぽくないと思ったのだが、しかしボエティウス(480-525)の生きた時代が、西ローマ帝国滅亡(西暦476年)直後のゲルマン人東ゴート族支配の時期で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と国家的にも教会的にも対抗していたことを考え合わせると、当然なのかもしれない。なにしろ、公会議が立て続けに行われた時期で、三位一体やイエスの神性に対する教義そのものが定まっていない。ちなみにフランク人メロビング朝のクローヴィスがカトリックに改宗したのが西暦508年で、カロリング朝カール戴冠が西暦800年。西ローマ教会(カトリック)は、完全にゲルマン人に乗り換えると割り切るまでは、やはり東ローマ(ビザンツ)教会との協調関係を模索せざるを得ない。西ローマ教会と東ローマ教会が教義の面で対立していた段階では、東ゴートとしては西ローマ教会と協力する意義が大いにある。ボエティウスもラヴェンナの東ゴート宮廷で重きをなしていだだろう。しかし西ローマ教会が東ローマ教会に接近すると、東ゴートとしては西ローマ教会を疑いの目で見ざるを得なくなる。ローマ貴族の末裔であったボエティウスの身柄も危なくなる。で、現在私たちがカトリックの教義と思っているもの(三位一体やキリストの神性)は、度重なる公会議の過程で、東ローマ教会に馴染みやすい教義(ネストリウス派、キリスト単性説)と対決しながら鍛え上げられてきたものだ。で、西ローマ教会が東ローマ教会と仲が良かったということは、逆に言えば今わたしたちがカトリックの真正教義と思っているものがないがしろにされていたということでもある。そして、西ローマ教会がネストリウス派や単性説を批判してカトリック特有の理論を打ち出すと、今度は東ローマ帝国との仲が険悪になる。で、ボエティウスが東ゴートに睨まれたということは、西ローマ教会と東ローマ教会が仲が良くなったということで、つまり教義的にはカトリック特有の考えがないがしろにされるということになり、『哲学の慰め』にカトリックの匂いがしないことにも説明がつく。さて、はたして。

ボエティウス『哲学の慰め』畠中尚志訳、岩波文庫、1938年

【神奈川県横浜市金沢区】金沢文庫は学校じゃないが、裏山に北条実時の墓がある

金沢文庫に行ってきました。
「金沢文庫」は、創設者とされる北条実時の名前を伴って、しばしば教員採用試験に出題されます。そして雑な参考書では、金沢文庫が「中世の学校」とされているケースを見かけます。いえいえ、金沢文庫は学校(少なくとも私達が知っている学校)ではありませんでした。

ちなみに、もともとあった金沢文庫の建物自体は既に滅びてなくなっています。現在は県立の博物館となっており、常設展の他、定期的に特別展が開催されています。そして金沢文庫に関して言えば、建築物そのものはあまり大きな意味がないかもしれません。というのは、金沢文庫の本質は、建物ではなく、「書物」そのものだからです。「金庫」の守りたいものが箱などではなく金そのものであるように、「文庫」の守りたいものは建築物などではなく「文」そのものです。仮に建物が滅びてなくなったとしても、「文」を運んでくれる書物が残って現在に伝えられていることが極めて尊いのです。
その書物の大部分が遺されていたのは、金沢文庫からごくごく小さな山を隔てて東隣にある称名寺というお寺です。

花頭窓のある立派な山門を抜けて称名寺の境内に入り、太鼓橋を登って阿字池を突っ切って、金堂に向かいます。この阿字池になんとなく異国情緒を感じるのは、我々が室町以降の枯山水庭園のほうに慣れ親しんでいるからかもしれません。

称名寺の境内を囲むように山があります。というか正確に言えば、三方を山に囲まれた谷地を選んで称名寺が建っている、としたほうがいいでしょう。もともとは北条実時の館だったので、戦争時の防御に適した地形を選んでいるということですね。

称名寺の北の山の中に、金沢文庫を創設したとされる北条実時の墓があります。ハカマイラーとしてはぜひ行かなければなりません。この森は軽いハイキングコースとなっていて、地元の人が散歩を楽しんでおりました。

写真の真ん中が北条実時の五輪塔です。

お墓の脇に案内パネルがあります。この説明では、賢明にも慎重に「金沢文庫の礎を築きました」と書いてあります。軽率に「創設」とは言っていないところに注目しておきましょう。

お墓からさらに西に進むと、山の天辺から八景島を臨む絶景が楽しめます。天気も良かったので、海を眼前に臨んでとても良い気分です。手軽なハイキングコースとしては極めて優秀だと思いました。

さて山を一周して称名寺の境内に降りてくると、西の端に銅像が立っています。僧形の北条実時です。本来は武士ではありますが、お寺の開基ですからね。

そして銅像の西に、トンネルがあります。このトンネルを抜けたところが、県立金沢文庫の入口です。少し不思議な景色です。

トンネル入口に設置された案内パネルには、「金沢文庫」の由来が説明されています。ここに明確に「和漢の貴重書を納めた書庫」と書いてあります。「学校」とは一言も書いてありません。ここは誰かを教育したり指導するための場所ではありませんでした。「貴重書」の収集と保管そのものが目的であり、そしてそれを目当てに知識人が集まってくるような、研究所とかサロンとでも呼ぶような場所でした。

平安時代までは、このような「和漢の貴重書」を集めていたのは貴族や僧侶でした。金沢文庫の最大のポイントは、戦闘集団だったはずの武士が「和漢の貴重書」を集め始めたという明確な痕跡が残っているところです。
鎌倉に武家による権力組織が誕生したのはいいとして、現実的に政治を行なうためには立法・行政・司法に関する広範囲の知識と教養が必要になってきます。そして関東武士の土地財政的な実態に合った権力運用のためには、貴族式の律令制では役に立たず、新たなルールが必要とされます。具体的なルールは「御成敗式目」という形で登場することになるわけですが、これらの整備や運用に際しても知識と教養が必要になります。金沢文庫とは、武士が実際に政治を行なうときに必要とされた知識と教養を蓄え、運用し、表現するための場所だったわけです。

トンネルの北側には、「中世の隧道」が遺されています。現在は金網で封鎖されていて通ることはできません。

案内パネルによれば、称名寺と金沢文庫を繋ぐ通路として実際に使用されていた可能性が高いようです。確かにいちいち山を越えるのは面倒そうです。北条実時も、館から文庫へ赴く際は、この水道を利用していたのでしょう。
北条実時が収集を始め、称名寺に遺された「文庫」は、現在も貴重な資料として各種研究に利用されています。ありがたいことです。
(2020年12/26訪問)