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【要約と感想】尾木直樹『子どもの危機をどう見るか』

【要約】1990年代後半から、学級崩壊や、普通の子がキレる「新しい荒れ」、さらに児童虐待が目立つようになりました。背景には、時代の変化についていけない旧態依然の学校文化、地域から孤立してホテル化した家庭、大人と子どもの関係不全があります。
解決のためには、道徳の強化や心の教育は役に立ちません。子どもの社会参加による自己効用感の回復が必要です。学校運営に子どもを参加させましょう。大人の価値観(いい子主義)を一方的に子どもに押しつけるのではなく、子どもの自主的な「学び」を励ましましょう。学校の中に乳幼児や老人を取り込みましょう。子どもの自己決定を大切にし、子どもと大人は独立した人格として関係を結びましょう。

【感想】20年近く前の本で、個々の状況(教育基本法改正とかいじめに関わる法律とか学習指導要領の大綱化とか道徳の教科化とか)は大きく変化しているわけだが、大まかな見取り図としては古くなっている感じはしない。
子どもの社会参加と自己決定が大切だという話は、「子どもの権利条約」の精神に則っていて、私も総論賛成である。各論としても具体的な事例が紹介されていて、たいへん参考になる。

【言質】
いじめや「人格」や子ども観に関する証言をたくさん得た。

「いじめの加害者と被害者の立場の組み替えが自在であるだけに、現代のいじめにはパワーゲームとしての「面白さ」があります。」44-45頁

個人的にもいじめを「パワーゲーム」として理解する観点は大事なんじゃないかと思っている。単なる「弱い者いじめ」としてでは、現代のいじめは把握できない。勉強ができたり顔が良かったりスポーツが得意だったりする「強者」を、いかに弱者と対等な立場に引きずり下ろすかというルサンチマンが、現代のいじめには色濃い。これは、誰が「強者」になるかという、教室における「パワーゲーム」だ。そしてそれは、大人社会で起きていること(たとえば頭の悪い人が、頭のいい人をバカにする)と、同じだ。
もちろん突きつめれば、各個の自己肯定感の低さが最大の問題にはなるのだろう。

「子育ての責任は家庭・親にあるという見方があまりに支配的なため、わが子を「私物化」してとらえてしまいます。しかし、子どもは社会の構成員です。したがって本来は、親だけでなく、社会全体が子育てには責任を負っているのです。」66頁

まあ、そうですよね、という。この「子育ての公共性」を破壊している元凶は、臨教審以降の新自由主義だろう。自分が良ければ他人の不幸は自己責任という。このままじゃ滅びると思うんだがなあ。

「学級崩壊とは、個の意志を尊重する就学前教育の基本方針と、相変わらず硬直したままの一斉主義的傾向を重視する小学校との間の断絶に原因の一つがあると考えられます。」94頁

小学校の先生にこそっと聞くところでは、自分たちに問題があるとは考えておらず、幼児教育の自由化傾向のほうが元凶だと捉えている感じがするんですけどね。幼小連携のあり方は、今後どうなっていくのか。いやはや。(←他人事ではない)

「私は、今日の「子ども観」を「独立した人格の主体である子どもが未来の主権者になるために、最善の利益を受け、権利行使をする発達保障期」と定義したいと思います。」157頁

なるほどなあと。「独立した人格の主体」と「未来の主権者」を峻別したところが、この定義の最大のポイントであるように思う。近代は、「独立した人格の主体=主権者」であった。この未分化な「人格=主権者」を二つに分離させるわけだ。(となると、教育基本法第一条「人格の完成」は、廃止すべきという議論になるかな。)

「子どもが陥っている危機から脱出するためにも、二一世紀は、子どもと大人のパートナーシップ時代にしていかなくてはなりません。」233頁
「大人と子どもの関係のあり方に、いま異議が唱えられていることはくりかえし述べた通りです。大人と子どもの関係のあり方は、いま子どもの市民性の高まりによって、根底から揺らぎ、言い意味でボーダーレス化しているのです。」236頁

19世紀的な「子ども=学校/大人=労働」という価値観を、どう超えていくのか。というか、価値観は既に大きく変化しているので、社会的な制度をどう変えていくかという話になるわけだ。子どもの社会参加と自己決定は、どのように保障されるのか。いろいろな取り組みを注視していきたい。(←他人事ではない)

尾木直樹『子どもの危機をどう見るか』岩波新書、2000年

【要約と感想】『何のために勉強するのか?』

【要約】勉強は、大人になってから振り返ってみれば、すごく役に立ちます。しかし残念なことに、子どものときには、気がつかないのです。
子どものときに大切なことは、興味があることや好きなことを、楽しくやってみることです。親や先生に言われてやるから、勉強が嫌いになるのです。勉強は、本当はとても楽しいものです。
佐藤忠男、辻仁成、萩原葉子、吉村作治という、その道で名を挙げた人々が勉強の意味について語ります。

【感想】それぞれ、その道で一流になった人々の話である。まあ、そりゃあ、振り返ってみれば「勉強は役に立つし、おもしろい」という話になるだろう。
私自身にしたって、学生たちには「勉強は役に立つし、おもしろい」としか言いようがない。というのも、本心からそう思っているからだ。

問題は、一流になれなかった大人たちが勉強のことをどう思っているかなんだろうなあ。

20年以上前の本ではあるが、テーマは普遍的であって、古くなっていない。

【言質】
「子ども/大人」の関係について、証言を得た。

「わたしは子どものとき、早くおとなになりたかった。おとなになれば学校に行かなくてよいし、勉強もしなくてすむ。学校と勉強が、いちばんきらいだった。」83頁、萩原執筆箇所。

過労死とかブラック企業とかが子どもにも知れ渡っている昨今、「早くおとなになりたい」と思う子どもはさすがに減っているか。

佐藤忠男・辻仁成・萩原葉子・吉村作治『何のために勉強するのか? 10代の哲学5』ポプラ社、1997年

【要約と感想】『子どもを「人間としてみる」ということ―子どもとともにある保育の原点』

【要約】子どもを外側から客観的・分析的に「分かる」ことはできません。むろん、外側から何かを一方的に「教える」こともできません。というか、子どもを分からなくても、いいのです。子どもを未熟な弱い存在と決め込んで囲い込むことをやめましょう。子どもたちと対等な人間として向き合い、一人の人間として関わりましょう。
大人が子どもと共感的(YOU的)に関わることにより、子どもたちは大人を通じて世界の姿(THEY)を垣間見まることができます。そこから主体的な「学び」が生じます。
子どもは観察や操作の対象ではありません。子どもは「いま」を真剣に生きる存在です。だから、共感的な関わりを生むには、大人も「いま」を真剣に生きましょう。ケアすることは、ケアされることです。

【感想】なかなか情報量が多く、読み応えのある本だった。

私は運が良く、大学時代に佐伯先生の授業を受けることができた。とはいっても実は何をしたが詳細に覚えているわけではないのだが、一歩足のロボットが自己学習してバランスを取るエピソードはよく覚えていたりする。
汐見先生の原稿も、なかなか刺激的だった。僭越ではあるが、私も似たような理由で似たような感覚(教育学という学問があまり好きでない)を持ったことがある。今は、好きになったのか、あるいは単に居直ったのか、それとも自虐を兼ねているのか、「教育学者」を自称するようになっているんだけれども。

【要検討事項】
佐伯先生のいわゆる「ドーナッツ論」は、コア・カリキュラムの「三層(四領域)構造」とは響き合ったりするのか、どうか。あるいは今井康雄先生が言うような「メディア」論とどう響くのか。

本書では、「中間」が大事なことが強調される。

「つまり、私たちが世界と接触するときに、本当に相手のことを考えてくれる中間が必要だと。(中略)そこはどうやってつないだらよいんだろうかなぁーということを、子どもの身に本当になって考えてあげられるような存在が世の中に必要だと言うことで出てきたのがドーナッツ論。」16頁

コア・カリキュラムでは、学習者と文化財を繋ぐものが「問題解決領域」であった。メディア論では、学習者と文化財を繋ぐものがメディアとしての教育であった。
そしてこの話は、ソクラテスのいう「エロス」とも響き合う。プラトン『饗宴』によれば、エロスとは神と人間の「中間」であり、地上的な人間を天上的な「よさ」へと向かわせる動因となるものであった。

【言質】
「人格」に関する用法サンプルを得た。

「子どもも私たちとは異なる人格をもった一人の他者であり、すべてを「わかる」ことはできません。」204頁

このあたりの「人格」の用法は、教育基本法第一条の背景となっているカント的近代の前提を大きくはみ出してきているような気がするのだが、いかがか。

佐伯胖・大豆生田啓友・渡辺英則・三谷大紀・髙嶋景子・汐見稔幸著『子どもを「人間としてみる」ということ―子どもとともにある保育の原点』ミネルヴァ書房、2013年

【要約と感想】野矢茂樹編著『子どもの難問―哲学者の先生、教えてください!』

【要約】子どもが発した疑問(実は編著担当の哲学者が考案)に対して、現役の哲学研究者が本気で分かりやすく答えます。「ぼくはいつ大人になるの?」とか「勉強しなくちゃいけないの?」とか「死んだらどうなるの?」といった難問に、正面から答えます。

【感想】東大には理科Ⅰ類で入ったのだが、一般教養でとったのは哲学で、その担当が本書の編著者である野矢先生だった。最後には大森荘蔵先生御本人を呼んで来るという、今思えば凄い授業だった。まあ本当に凄かったと分かったのはしばらく後であって、当時はその贅沢さに気がついていなかったのであった。私が文転して現在では教育学で飯を食っているのは、少なからず野矢先生にAをもらった自信のお陰かもしれない。まあ今思えば、授業に参加した全員にAを出していたかもしれないのだが。

さて、本書で示される「ぼくはいつ大人になるの?」と「勉強しなくちゃいけないの?」と「頭がいいとか悪いとかってどういうこと?」という問いは、直接的に教育学に関わってくる問いである。まあ、広い目で見れば全ての問いが教育学と深い関係があるわけだけども。
そして僭越ではあるが、野矢先生が「ぼくはいつ大人になるの?」で示した回答には、多少の疑義がある。野矢先生はこう言った。

「そんな、「子ども」に特徴的な何か。それは「遊び」だと、ぼくは思う。もちろん大人も遊ぶけれど、子どもはもっと遊ぶ。」21頁

教育学の見解を踏まえると、なかなか危険な物言いだ。というのは、遊びが子どもの専売特許になったのは、おそらくそう昔の話ではないのだ。
かつて、子どもは7歳にもなれば、大人に混じって働いていた。子どもを労働の世界から隔離して「遊び」に専念させるようになったのは、近代以降のことだ。そして逆に、大人も子どもに負けず劣らず全力で遊んでいた。つい先日見てきた「遊びの流儀」という展覧会で展示されていた遊楽図では、遊んでいるのは大半が大人であり、貴族であった。「遊び」とは、貴族のように労働から解放されている立場の専売特許である。貴族は遊び、奴隷は働くのである。子どもと大人の問題ではない。庶民階級であれば、子どもだろうがなんだろうが、働けるほどの体力まで育った段階で労働に従事せざるを得ない。
つまり、「子ども/大人」が分離するのは、奴隷労働が廃止されて資本主義経済が浸透し、日常生活から「労働」が析出・分離されてからのことだ。それまでの遊びと労働は、密接不可分に一体化したものだ。だから、「労働」が析出されることに伴い、残余部分が「遊び」と認識されていくことになる。そして遊びは労働には不要なものとみなされ、大人の世界からは排除されることになる。生活の中から「労働」が析出・分離されなければ、「遊び」が析出されることもない。つまり「子ども/大人」の明確な区別とは、奴隷労働廃止と資本主義的賃労働発生に付随して生じる、賃金労働者を制度化するための仕組みだ。問題となった命題「ぼくはいつ大人になるの?」の答えは、資本主義的には極めて明快で、「賃金を得るようになったとき」だ。
だから逆に言えば、賃金労働者の確保が必要なくなれば、「子ども/大人」の区別も明確でなくなる。現在「子ども/大人」の区別が不明確になってきているとすれば、それは労使関係が様変わりして「労働」の意味と価値が大きく変わったことが根底にあるはずである。

ところで、野矢先生は次のようにも言っている。

「でも、そうだな、一人前の子どもになるには、一度は大人にならなくちゃいけないだろうね。」22頁

この場合の「大人」とは、資本主義経済で賃金労働者として役割を果たせることではなく、カントの倫理学的な意味での「人格」を備えた者のことだろうと思ってしまう。ここではもはや「遊び」という要素は何も関係がない。「子ども/大人」の区別に、「遊び」とは無関係な要素が断りなしに持ち込まれているように感じるのだが、如何か。

【今後の研究のための備忘録】
やはり哲学の本だけあって、「アイデンティティ」の用法に関する興味深いサンプルを得た。

「そう、「自分らしさ」を問う議論はどういうかたちであれ空転してしまうのです。自分が自分と一致しているかどうかを確かめるためにひとは「自分らしさ」を問うのでしょうが、そう問うひとは、その前提として、自分が自分自身と一致していないことを認めているわけです。」115頁、鷲田清一執筆箇所

「そこで、僕らの発言や行動の全部を照覧して、その首尾一貫性を要求してくる存在という一種の幻想が生まれる。それが神。僕らが言葉を使って考え、一貫性をもたせようとすると、そこに不可避に生まれる錯覚、それが神だ。」171頁、田島正樹執筆箇所

眼鏡っ娘論的にも、含蓄が深い。われわれは、どうして眼鏡っ娘が眼鏡を外すことに対してこれほど強い拒否感を覚えるのか。それこそ「一貫性」に対する信仰としか言いようのない感覚である。そしてその感覚は「神」に対する畏れに極めて似ている感覚なのだった。

野矢茂樹編著『子どもの難問―哲学者の先生、教えてください!』中央公論新社、2013年

【感想】サントリー美術館「遊びの流儀 遊楽図の系譜」

サントリー美術館で開催中の「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展を見てきました。

「遊び」というと、近代以降では子どもの専売特許のような印象を持ちがちなのですが、かつては大人も子どもも一緒になって全力で遊ぶものでした。大人も一緒に遊ぶ様子がよく分かる展覧会だったように思います。

たとえば中世では、蹴鞠や貝合という遊びは貴族の嗜みでした。梁塵秘抄に記された「遊びをせんとや生れけん」とは、後白河法皇が愛した今様に由来します。中世以降は、中国の士大夫層の嗜みであった「琴棋書画」がアレンジされて、屏風や襖絵が描かれることになります。遊んでいるのは大半がいい大人です。近世初期に描かれた風俗図や遊楽図でも、全力で踊っているのは、大人です。子どもも描かれてはいますが、授乳されていたり、手を引かれていたりするのが目立つくらいで、遊びの主役であるようには見えません。囲碁や将棋や双六の盤は、豪華な蒔絵を施された嫁入り道具にもなっており、単なる子どもの遊び道具とは扱われていません。総合的に見て、「遊びは子どものもの」という意識を確認することはできません。

子どもと大人の遊びが明確に分裂し、「遊びは子どものもの」という意識が作られていくのは、近世中期以降のことでしょうかね。この時期に作られた児童用玩具が大量に発掘されているのを思い出します。
近世中期は、子どもに対する教育の意図が明確に目立ち始める時期でもあります。「子ども=遊ぶもの/大人=働くもの」の分離プロセスについて、想像力が喚起される展覧会でした。