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【感想】三菱一号館美術館「上野リチ ウィーンからきたデザイン・ファンタジー展」

 三菱一号館美術館の「上野リチ ウィーンからきたデザイン・ファンタジー展」を観てきました。

 上野リチは、ウィーン応用美術大学で学び、ウィーン工房に参加したデザイナーです。
 作品そのものは、手書きの味が残るフリーハンドの線と、微妙に彩度を下げた色のチョイスと配置が絶妙で、ぱっと一目で「かわいい」と思えるものばかりですが、近寄ってじっと凝視してもやはり「かわいい」のでした。個人的には70年代りぼんオトメちっくの陸奥A子や田渕由美子のカラーイラスト、あるいは榛野なな恵の低彩度カラーイラストを想起します。アール・ヌーヴォともアール・デコとも異なる何らかのデザイン・センスの系譜があるように感じます。そのセンスに名前を付けるなら、やはり「おとめチック」になりそうです。シンプルな機能美を旨とするブルーノ・タウトとそりが合わなかったのは、まあ当然のように思えます。彼におとめチックの要素はありません。

 学問的な興味は、やはり「応用美術」の概念的な位置づけにあります。純粋美術とは異なる「応用美術(あるいは装飾美術)」の価値というものが、どう認められていったか、あるいは認められていかなかったか。そのあたりの概念的なインスピレーションは展覧会そのものからは得られなかったので、買ってきた図録を見ながら改めて考えることにするのでした。
 「cafe1894」が満員で、上野リチ展タイアップの見た目も麗しい色とりどりの創作メニューをいただけなかったのは、多少の心残りであります。
(2022年5/13訪問)

【感想】Bunkamuraザ・ミュージアム「ポーラ美術館コレクション展―甘美なるフランス」

 Bunkamuraザ・ミュージアムで開催された「ポーラ美術館コレクション展―甘美なるフランス」を観てきました。モネやルノアールなど印象派から始まって、ゴッホやセザンヌなどポスト印象派を経て、マティスやピカソやモディリアーニなど20世紀絵画に至るという、まあ、日本人好みの構成。全体的に気持ちの良い空間。
 で、なんとなくセザンヌの良さが分かってきたような気がしたりしなかったり。ちょっと前までは「中途半端に彩度の低い、つまらない絵ばかり描く画家(←中学生的見解)」としか思っていなかったけれども、今日はとても美しく見えた。相当上手ではなかろうか。なんでこれが分からなかったのか。これが大人になるということか。
 しかし一方、やはりゴーギャンは相変わらず下手くそにしか見えなかった。日本画では横山大観が下手くそにしか見えないのと同様(←あくまでも個人的な感想です)。しかしたくさんファンがついているということは必ずそこに何かしらの良さがあるに決まっているわけで、私の感性がそれをキャッチできないというだけのことだし、またあるいは凄いのだと理論的に説明されればシロウトとしては「なるほどそうか」と思うしかないのだけれど、自分の目で実際に見たら下手くそにしか感じないのだからどうしようもない。いつか私にも分かる日が来るのかどうか。
 まあ、今日いちばん気持ちが良かったのは、モネでもルノアールでもなく、マリー・ローランサン。なんとなく東郷青児を思い出しつつ。(2021年11/12観覧)

【感想】上野の森美術館「蜷川実花展―虚構と現実の間に―」

 上野の森美術館で開催中の「蜷川実花展―虚構と現実の間に―」に行ってきました。特に写真に強い興味関心があるというわけではないのですが、この歳(アラフィフ)になると感受性の衰えが甚だしく、意図的に自分の興味関心の範囲以外のものにアタックしていかないと今後マズいことになると脅迫観念的に危機感を煽り立て、どんどん外部に打って出るべきだと行動指針を決めた矢先に新型コロナでひきこもり、しかしワクチンも2回打ったし感染者数も激減、今がチャンスだ逃すな晴れてるしということで、いそいそと上野に向かって美術体験に出かけていったのでありました。

 「日曜美術館」を観ているので名前と作品の傾向についてはなんとなく存じておりましたが、生で見ると大迫力です。特に「色」は、やはりLED透過光と生の反射光では印象が異なります。

 とにかく彩度が高い。人工的に花の彩度を高くする技法が紹介されていて、納得。

 写真を超えて、空間全体をプロデュースする総合芸術となっております。圧倒的な空間。泣いていた子どもも黙る(←ほんとに)。

 どこかノスタルジックな印象を受けるのも不思議。

 ということで、会場内は写真撮影もOKだったのですが、写真作品を写真撮影するというのにもなかなかの違和感を覚えたり。そんなわけで、自分自身で写真を撮ろうと思い立って、しかも場所は風光明媚な上野公園、彩度高めな画角には事欠きません。帰宅後にデジタルデータをパソコンに取り込んで、フォトショで彩度スライダをぐぐーんと上げて蜷川風にしてみようと試みるわけです。
 下は自分で撮った写真をフォトショで加工した、上野公園の大噴水越しに国立東京博物館を見るの図。彩度アゲアゲに加えて、色相も60年代風にいじってみるのですが、単にフォトショでスライダを弄ぶだけではこの程度にしかならないので、やはり展覧会の作品群には相当な技術と経験と手間暇がかかっているのだろうということを想像するのでありました。

 さて、意図的に外に打って出て経験を積み重ね、私の感性に多少なりともヤスリがかかったかどうか。まあ、秋晴れの下の上野公園散歩が精神衛生的に悪いはずはないのでした。いい気分。そしてこの後は東京国立博物館に最澄展を観に行くのでした。(2021年11/11訪問)

【感想】東京国立博物館『桃山―天下人の100年』

東京国立博物館で開催されている『桃山―天下人の100年』を観てきました。

国宝と重要文化財だらけで、お腹いっぱいです、眼福でした。素晴らしかったです。

これまでにも様々な機会を得て観てはいるのですが、やはり狩野永徳「唐獅子図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」が並んでいるのが圧倒的でした。松林図屏風は印刷や映像で観ると「ふーん」という感じなのですが、リアルサイズを前にすると雰囲気がまるで違ってきます。印刷や映像では伝わってこない奥行きと空気感は、先日見た菱田春草「落葉図」となんとなく印象が似ている気がします。こういうとき、美術品はナマに限るなあというのを実感します。

絵の他にも、陶器、刀剣、鎧兜、蒔絵、衣服、書など、絶品ばかりが勢揃いの、素晴らしい展示でした。なるほど、桃山というのは転換期だったんだなというのがよく分かります。
信長・秀吉・家康の筆跡が並んでいるのも、シャレていました。

彫刻だけが欠けているのは、どうしてなのか少し気になるところではありました。(まあ立体造形に関しては、城郭建築のものすごい大発展や方広寺の大仏などが即座に思い浮かぶのではありますが)。陶器の絶妙なラインと色彩にぜんぶ回収されたということでしょうか。

上野公園の木々も、色づき始めました。秋ですね。部活動でランニングする高校生に次々と追い抜かれながら、上野公園を後にするのでありました。

【感想】東京ステーションギャラリー「もうひとつの江戸絵画 大津絵」

東京ステーションギャラリーで開催中の「もうひとつの江戸絵画 大津絵」を観てきました。
東京ステーションギャラリーは、東京駅丸の内北口から直結していてアクセスが極めて良く、会場内では昔の東京駅の雰囲気そのものも楽しめて、とても素敵なところです。

ギャラリー出口の2階バルコニー部からは丸の内北口が一望できて、気分が良いです。

「大津絵」そのものは、ちょっと不思議な感じがしたまま鑑賞しました。まあ、正直言って、あまり上手ではないような気がするわけで。で、上手じゃないこと自体はまったく問題ない性格の絵でもあるわけで。

ポイントは、大津絵の「収集者」が錚々たるメンバーだらけだということです。展示の解説も、作品そのものの解説よりも、この作品を「誰が持っていたか」に焦点を当てています。「誰が持っていたかが重要」というのが、この展覧会のポイントです。展覧会ポスターのコピ-「欲しい!欲しい!欲しい!」は、なかなか絶妙に展覧会の性格を言い表しています。「この凄い人物が欲しいと思った絵」というところが、凄いわけです。
なので、逆に言えば、作品そのものの鑑賞については、なんだかおかしな感じがしたままだったのでした。錚々たる目利きが欲しがった作品なので、凄いはずなのですが、あまり凄くは見えないという。まあ他にないトボケた味わいは確かにあって、その個性が重要なのだろうというところまでは、なんとなく分かります。私も目利きになったら、本質的な凄さがわかるようになるのでしょうか。

ところで大津といえば、教育学では2011年のいじめ事件で不名誉によく知られていたり、歴史学ではロシア皇太子が遭難した大津事件の舞台として知られていたりしますが、美術の世界では「フェノロサの墓」と「ビゲローの墓」があるところとして知られていますね。歴史的にいろいろあるのは、京都への出入り口として地政学的に極めて重要な位置にあるからなのでしょう。

丸の内を出て江戸城に向かうと、行幸通りの銀杏が色づき始めていました。秋ですね。