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【要約と感想】ダナ・サスキンド『ペアレント・ネイション―親と保育者だけに子育てを押しつけない社会のつくり方』

【要約】乳児の脳の発達は後の成功と幸福に決定的な影響を与えます。周囲の大人が子どもに関心を持ち、たくさん話しかけ、対話を重ねることで乳児の脳が著しく発達します。
 が、アメリカでは、保護者の労働条件や保育環境が劣悪なため、子どもと関わりたくても不可能です。自己責任の原則が元凶です。保護者の努力だけではどうにもなりません。子育てを保護者だけに押しつけず、労働条件(産休や育休の整備、給与上昇、医療保険等)を改善し、チャイルドケアの環境を整え、専門家間の連携を強めるなど、社会全体で責任を負っていきましょう。保護者の利益は、子どもの脳の健やかな成長を通じて、必ず社会全体に帰ってきます。

【感想】翻訳が良いのか、とても読みやすい文章で、内容がするする頭の中に入ってくる。理論的な枠組み(脳科学の知見)が固められている上に、個別具体的な事例もバリエーションが豊富で、主張にも説得力を感じる。アメリカの保育(本書では「米国のチャイルドケア」)の現状や抱える問題がよく分かった。スターバックスや米軍の事例はまったく知らなかった。勉強になった。
 「自己責任の原則」がいかにインチキで胡散臭いかということを改めて認識した。書中ではニクソンとフリードマンが槍玉に挙がっていた。竹中平蔵が読んで反省すべき本だ。

ダナ・サスキンド/掛札逸美訳『ペアレント・ネイション―親と保育者だけに子育てを押しつけない社会のつくり方』明石書店、2022年

【紹介と感想】『日本の保育の歴史―子ども観と保育の歴史150年』

【紹介】タイトルどおり明治維新から平成までの保育150年の歴史をコンパクトにまとめた本ですが、ヨーロッパ近代や日本近世の状況にも言及していて目配りが効いています。制度史だけでなく民間保育運動の展開にも気を遣ってページを割いています。幼稚園と保育所を両方扱いながら幼保一体化に向けた動きとそれを阻む要因について触れているのも特徴です。保育という領域が、教育の論理と福祉の論理が交錯するところで展開してきた様子がよく分かります。

【感想】勉強になった。個人的には、この領域(保育の歴史)のスタンダードだと見なして、折に触れて眺め返そうと思った。
 保育の歴史が学校を中心とした教育史と大きく異なるのは、「家族」の形態変化と表裏一体となっているところなのだろう。それと絡んで、学校教育史では「国家」との絡みが決定的に重要な問題になるが、保育史では「家族」が問題になる代わりに「国家」の占める比重が大きく下がる。もちろん「家族」の形には「国家」が大きな影響を与えているので両者を簡単に切り分けることはできないとしても、それでも「国家」の意向で「家族」の形をコントロールできないことは現今の少子化の進展を見るだけで分かる。乱暴に言えば、教育行政にかかる幼稚園はある程度「国家」のコントロール下に置くことができる一方で、福祉行政にかかる保育所の方は家族の在り方を「国家」が後追いして辻褄を合わせるしかないものだ(まあ、辻褄すら合わせようとしないのが昨今の教条主義的な政府ではあるが)。明治の当初から150年の間ずっと懸案であり続けた幼保の分離という問題は、こういう「国家」と「家族」の間の矛盾を反映したものだったのだろう。

汐見稔幸・松本園子・高田文子・矢治夕起・森川敬子『日本の保育の歴史―子ども観と保育の歴史150年』萌文書林、2017年

【要約と感想】『子どもを「人間としてみる」ということ―子どもとともにある保育の原点』

【要約】子どもを外側から客観的・分析的に「分かる」ことはできません。むろん、外側から何かを一方的に「教える」こともできません。というか、子どもを分からなくても、いいのです。子どもを未熟な弱い存在と決め込んで囲い込むことをやめましょう。子どもたちと対等な人間として向き合い、一人の人間として関わりましょう。
大人が子どもと共感的(YOU的)に関わることにより、子どもたちは大人を通じて世界の姿(THEY)を垣間見まることができます。そこから主体的な「学び」が生じます。
子どもは観察や操作の対象ではありません。子どもは「いま」を真剣に生きる存在です。だから、共感的な関わりを生むには、大人も「いま」を真剣に生きましょう。ケアすることは、ケアされることです。

【感想】なかなか情報量が多く、読み応えのある本だった。

私は運が良く、大学時代に佐伯先生の授業を受けることができた。とはいっても実は何をしたが詳細に覚えているわけではないのだが、一歩足のロボットが自己学習してバランスを取るエピソードはよく覚えていたりする。
汐見先生の原稿も、なかなか刺激的だった。僭越ではあるが、私も似たような理由で似たような感覚(教育学という学問があまり好きでない)を持ったことがある。今は、好きになったのか、あるいは単に居直ったのか、それとも自虐を兼ねているのか、「教育学者」を自称するようになっているんだけれども。

【要検討事項】
佐伯先生のいわゆる「ドーナッツ論」は、コア・カリキュラムの「三層(四領域)構造」とは響き合ったりするのか、どうか。あるいは今井康雄先生が言うような「メディア」論とどう響くのか。

本書では、「中間」が大事なことが強調される。

「つまり、私たちが世界と接触するときに、本当に相手のことを考えてくれる中間が必要だと。(中略)そこはどうやってつないだらよいんだろうかなぁーということを、子どもの身に本当になって考えてあげられるような存在が世の中に必要だと言うことで出てきたのがドーナッツ論。」16頁

コア・カリキュラムでは、学習者と文化財を繋ぐものが「問題解決領域」であった。メディア論では、学習者と文化財を繋ぐものがメディアとしての教育であった。
そしてこの話は、ソクラテスのいう「エロス」とも響き合う。プラトン『饗宴』によれば、エロスとは神と人間の「中間」であり、地上的な人間を天上的な「よさ」へと向かわせる動因となるものであった。

【言質】
「人格」に関する用法サンプルを得た。

「子どもも私たちとは異なる人格をもった一人の他者であり、すべてを「わかる」ことはできません。」204頁

このあたりの「人格」の用法は、教育基本法第一条の背景となっているカント的近代の前提を大きくはみ出してきているような気がするのだが、いかがか。

佐伯胖・大豆生田啓友・渡辺英則・三谷大紀・髙嶋景子・汐見稔幸著『子どもを「人間としてみる」ということ―子どもとともにある保育の原点』ミネルヴァ書房、2013年

【備忘録と感想】日本保育学会―第72回大会(2019年)

2019年5/4と5/5に大妻女子大学で開催された日本保育学会第72回大会に行ってきたので、備忘録がてら感想を記す。

【特別講演2】西野博之「子どもが人として大切にされる保育」

とても良かった。一言でまとめれば「子どもの権利条約を実践に活かす」という内容ではあるが、長年にわたる粘り強い実践に裏打ちされていて、単なる言葉では醸し出せない説得力に溢れていたのであった。迫力があった。
川崎市子ども夢パークで行なわれている実践は、とても魅力的だった。「こどもゆめ横町」の実践には、痺れた。言葉で「子どもが主人公」と言うだけなら特に難しくないが、実際にここまで子どもたちが主人公として活き活きと活躍している事例は、そうそうないと思う。お遊戯会の主人公になるのとは、根本から考え方が違っている。仮に「シティズンシップ教育」というものがあるとしたら、まさにこの実践のことを指すのではないかと思った。デューイやキルパトリックの実践も思い出した。子どもの権利条約の精神が具体的に形になるとこうなるのかとも思った。「川崎市子どもの権利に関する条例」制定の話にも、深く感じ入った。
「リスク=見える危険/ハザード=見えない危険」とか「消費者ではなく生産者へ」などヒントとなるパワーワードもたくさんあったし、不登校に関する実践と理論も迫力があった。しっかり消化して私自身の糧にし、自分にできることをやっていきたい。

【実行委員会企画シンポジウムD】

「保育・支援の質向上に子どもの権利をどう活かすのか―保育の質向上の基礎づけに向けて―」というテーマ。いま話題の「保育の質」に関わる話ではあるが、「基礎づけ」とタイトルにあるとおり、単に技術的な話ではなく、「子どもの権利」という理念と具体的な実践を結びつけていくような話になっていた。
具体的な実践としては(1)夜間保育(2)民間の家庭支援(3)母子生活支援施設の取り組みが紹介された。これらの報告は、言ってみればマージナルな領域のものではある。しかし「境界」からの発言だからこそ、逆に「保育」というものが現在抱える<限界>が見えてくる。天久氏から「夜間保育は保育業界に子どもの権利条約が根付いているかどうかの試金石」という言葉があった。もちろんその通りだと思ったし、さらに「境界」にある様々な実践すべてが試金石になってくるだろうとも思った。境界の外に転ぶか内に転ぶかは、それこそ「子どもの権利条約」の消化如何にかかっているのだろう。自治体レベルで「子どもの権利条例」を策定し、条例に基づいた町づくりをしてくという提言は、とても具体的だと思った。「特別講演2」の話と響き合う内容だった。
また実践的には、子どもの権利を保障するためにはまず大人が幸せである必要があるということも、よく分かった。そして丁寧で粘り強い「信頼される関係づくり」こそが決定的な肝であることも。

【実行委員会企画シンポジウムB】

「保育の質を支える上で、地方自治体や保育関係団体が果たす役割とは何か―「質の担保」と「質の向上」を具体的にどう支えるか、その「しかけ」や「しくみ」のあり方を巡って―」というテーマ。ここで言う「しかけやしくみ」とは、具体的には「研修」をどうするかということだった。そして一方で「ECEQ(Early Childhood Education Quality System)」の話と、もう一方で世田谷区の「世田谷保育の質ガイドライン」や産官学連携システム「せたがや保育コンソーシアム」の話に収斂していったのであった。
保育士等キャリアアップ研修」をめぐって、赤裸々な話があったりしたものの、関係者一同おおむね前向きに捉えているようではあった。現場のニーズと実際の研修とのマッチングの問題など、我々養成校の研究者が頑張るべき領域の話でもあった。
「ECEQ」については、ちょっと突っ込んで勉強してみようと思った。

【実行委員会企画シンポジウムC】

「保育の質的な向上を園内研修で具体化するために」というテーマ。前述のシンポBでは<組織的なシステム>という大きな観点から語られた「研修」が、このシンポではミクロな園レベルから語られることとなった。シンポBのマクロ的でシステム論的な視点とシンポCのミクロ的で実践的な視点ががっちり噛み合っていて、全体的なイメージが掴みやすかった。
「研修」というとどうしても会議室に集まっての座学を思い浮かべてしまいがちだが、報告された事例はいずれも「実践と一体となった評価=研修」であり「実践と往還する研修」であった。いま学校教育学の最先端は「評価と一体化した指導」の構築なのだが、本シンポではこれを保育者養成の場面で実践している事例が報告されたのであった。とても感じ入った。
またシンポDでも触れられたECEQの具体的な運用に関わって、「第三者の視点」の意義が掘り下げられた。若輩者の私が研修講師に呼ばれることはまだないが、実習巡回等でコメントを求められることはもちろんある。本シンポの話は、なかなか身につまされるものであった。第三者の視点についても、意識的に勉強していきたいと思った。

【基調講演】

率直に言って、あまり感心しなかった。まあ言っている内容そのものが悪いというわけではないけれども、しばしポカーンとしてしまったのは事実だ。というのも、演者がさかんに「みんな少子高齢化を枕詞にする」と言っていたけれども、この学会でそんなことを言う人は誰もいなかったからだ。少なくとも2日間のシンポで少子高齢化に危機感を表明した人は一人も見なかった。演者に対して「この人は誰と戦っているんだろう?」と思ってしまったが、きっと私のせいではないはずだ。
まあ、言っていること自体が特に悪いということではなく。適切な場で適切な対象に言葉を向ければ、とてもいい話のはずだ。「できない人ができないままで問題ない」という命題を「善悪」及び「有用性」の2つの観点から擁護するという仕事は、誰かがしっかりしておくべきだ。いい仕事だと思う。Buzzfeedの記事は、とても良いと思う。が、しかし、それをあの場で聞いて意味があったかどうかは、また別の問題ではあるのだった。
まあ、この話が実は後でジワジワ効いてくるという歴史的展開は、あるのかもしれないけれども。

まとめ

そんなわけで、とても有意義な2日間だった。特に「子どもの権利条約」の意義については、具体的な実践と結びついて、さらにイメージが豊かになった。勉強になった。しっかりと消化して、私自身の研鑽に繋げていきたいと思った。たとえば、やはり教育基本法第一条は「子どもの権利条約」を踏まえて改訂すべきだという思いを強くしたのであった。

【要約と感想】小林美希『ルポ保育格差』

【要約】どの保育園に入るかで、天国か地獄か、まったく環境が違ってきます。経営する法人や園長の方針によって、保育の在り方は何もかも違ってきます。
保育格差をなくし、どの子どもにとっても良い保育を実現するためには、お金儲け主義のいい加減な経営を監視するために、規制を実質化しながら、保育士の労働条件を改善していく必要があります。保育士の労働状況改善は、やろうと思えば確実に可能なはずです。

【感想】前著『ルポ保育崩壊』に続いて、酷い保育の現場が紹介されている。やはり諸悪の根源は前著と同じく「規制緩和」ということになっているわけだが、前著よりも保育者人件費比率などの指標データが豊富で、問題の構造がより分かりやすく記述されているように思った。ともかく、子どもや保育者を食い物にして私腹を肥やすような経営者に対して、実効力のある規制が必要なのは、間違いない。待機児童解消も大事ではあるが、まずは保育士の労働環境改善の方の優先順位が高いのは、誰の目にも明らかだと思うのだが。

それとは別に思ったのが、やはり「子育ての共同化・公共化」が崩壊して、ますます「保育の個人サービス化」の傾向が加速しているということだ。
個人的には、子育ては地域全体・国全体の共同作業として行なうのが理想だと思っている。が、現実は家族を孤立化させながらの子育てサービス産業化が一段と進行している。子育ての責任を家族にだけ押しつけるような制度や言説が、ますますその傾向に拍車をかけていると思う。事態を根本的に変えるために本当に必要なものは、おそらく「家族の在り方」というものに対する腰の据わった哲学的・歴史的な洞察なのだろう。

小林美希『ルポ保育格差』岩波新書、2018年