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【要約と感想】中野信子『ヒトは「いじめ」をやめられない』

【要約】脳科学的な観点から見れば、ヒトという種は、社会性を進化させてきた経緯から、もともと「いじめ」をするようにできています。脳内ホルモンによって、自然とそうなります。
しかしそのメカニズムさえ理解していれば、人間は「いじめ」を少なくすることができます。逆に、このメカニズムを理解することなく、単にスローガンだけ声高に叫んでも、「いじめ」をなくすことは絶対にできません。「いじめ」を発生させるメカニズムをメタ認知的に理解し、学校の役割を捉え直すことが重要です。

【感想】まあ、タイトルに「ヒト」というふうにカタカナで書いてあって、「人間」でないところを深く読み解くべきということか。
生物の種としての「ヒト」は、自然科学的な観点からすれば、もともと「いじめ=集団のリスクを高める可能性のある個体の排除」を行なう本能を備えている。他の動物と比較して極端に社会性が高いために、本能的に集団を維持するためのリスク・マネジメントを行なうわけだが、その逸脱した形として「いじめ」が出現する、と説明されている。
しかし逆に言えば、生物としての「ヒト」ではなく、倫理的な存在としての「人間」であれば、いじめを克服することが可能だということでもある。仮に「リスク・マネジメント」が生物学的な本能の産物であるとしても、その暴走と失敗を防ぐのは倫理的に人間らしい思考と行動である。その倫理的な人間らしさは、本書では「メタ認知」という言葉で表現されている。単に優しさとか温かみという感情的なアプローチではなく、人間に特有の知性を重んじるアプローチを試みているところが、本書の良いところだと思う。

【言質】昨今、教育学を専攻していない方からも、「近代の終わり」に伴って学校の役割が終わりつつあるという認識が示されてきている。そしてここにももちろん「個性」というキーワードが登場する。以下、一つのサンプルとして採取しておく。

私の理解なので極端かもしれませんが、そもそも義務教育の淵源としてあるのは、歴史的に学校は国民皆兵制のために、将来優秀な兵隊となる子どもを育てることを目的とした基礎教育だったのではないでしょうか。義務教育に求められたのは、兵隊の卵を育てることですから、均質な体力や学力を有し、統率の下で団結心が強い子どもを教育するということです。
この優秀な兵隊を育てるためのプレリミナリー教育機関という側面から言うと、子ども個々の能力を伸ばすということは、本来の目的とは合致しません。
指揮系統を乱さず、命令を理解できるだけの素養をつける。上のものに逆らわない優秀な兵士を育成するということが目的なら個性を伸ばすということは望むべくもないことです。
こうした教育方針において理想とされる姿は、個を殺して、上に同調し、仲間に同調する人を量産するということです。こうした教育は、実際に行われる戦闘行為や、工場労働など、労働集約的な事業に向いています。
義務教育の成功は、戦前には強い軍隊となって結実し、戦後においては、軍隊的な働きぶりで高度経済成長時代を牽引する原動力となりました。(150-151頁)

これからの時代、どういった人間が求められるかを考えたとき、それは、AIやロボットにない、不確実な人間だけが持つ独特な個性を備えた人なのではないでしょうか。(153頁)

時代のニーズに合わせて個性優先の教育を行うことは、いじめの防止にもつながります。(153頁)

まあ、いろんなところで異口同音に言われているところではある。たとえば文部科学省も同じことを言っているのであった。

中野信子『ヒトは「いじめ」をやめられない』小学館新書、2017年

【要約と感想】共同通信大阪社会部『大津中2いじめ自殺―学校はなぜ目を背けたのか』

【要約】2011年に発生した中学生の自殺は、どうして防ぐことができなかったのか、学校や遺族への綿密な取材を通して明らかにしようとした本です。
あわせて、いじめの実態を把握することがいかに難しいか、いくつかの実例を元に記します。また近年注目されるようになった第三者調査会の意義についても触れています。
いま、学校と教師は競争と管理に圧迫され、ゆとりを急速に失っています。教師がゆとりをもって同僚性を取り戻さない限り、解決は難しそうです。

【感想】いじめを扱った本、特に実例を丁寧に取材して再構成した本は、読んでいて暗澹たる気分になる。自殺した子どもの気持ちを想像すると、やりきれない気持ちになる。本書も、読んでいるうちに辛くなって、なかなか先に進まない。が、読まねばならぬ。最後の、生徒たちのアンケートが、重い。

意を強くしたのは、やはりいじめを解決するためには「同僚性」がキーワードになるということだ。教員同士のコミュニケーション量を増やし、情報を共有し、風通しを良くすることがいちばん大事なのだ。ひとりで問題を抱えても、ロクなことにはならない。個性的な教員がチームを組んで、一体となって解決に向かうのべきなのだ。一人の教員が単独で力をつけるだけでは、根本的な解決には至らない。
しかし、昨今の教育行政は、新自由主義の悪いところばかり強調して、競争と管理を強め、むしろ同僚性の破壊を推し進めてきた。子どものいじめを解決するどころか、教員同士でいじめが発生する始末だ。
本気でいじめを解決しようとするなら、教員一人一人の資質のせいにして責任を押しつけるだけでなく、教育行政が根本的に欠陥を抱えていることを疑った方がいい。

共同通信大阪社会部『大津中2いじめ自殺―学校はなぜ目を背けたのか』PHP新書、2013年

【要約と感想】荻上チキ『いじめを生む教室―子どもを守るために知っておきたいデータと知識』

【要約】いじめを解決するために必要なデータと知識は、かなり集まっています。しかし愚かで勉強不足の芸能人など、マスコミはそれらの知見をまったく利用せず、トンチンカンでいい加減でデタラメな感情論を垂れ流しています。道徳教科論者も同様に愚かです。それではいじめは解決しません。
いじめを解決するために、まず日本特有の現象を把握しましょう。それは、いじめが「教室」で起こっていることです。また、9月に深刻化し、その芽は6月にあることです。先生が解決できるということです。体罰がいじめを助長することです。
データを踏まえて、「不機嫌な教室」から「ご機嫌な教室」へと転換しましょう。「良い/悪い」ではなく「アウト/セーフ」で指導しましょう。ハイリスク層へのケアを厚くしましょう。教員のゆとりを増やしましょう。

【感想】いじめに関する総合的な知見として、2019年時点ではもっともコンパクトに良くまとまっている本かもしれない。理論、実態、予防法、解決策など、総合的な理解が得られる好著のように思う。
おとなたちが力を合わせて、いじめを解決していきたいものだ。(しかしその前に、おとな同士のいじめをなくさなければな…)

【言質】道徳教科化といじめの関連に関する言及をメモしておく。

「そもそも道徳教科化の推進論者は、その政策がいじめ対策に効くという論拠を示せていません。もともと道徳を教科化したいと考えていた人たちが、大津の事件を政治利用したにすぎないのです。」79頁

【リンク】
ストップいじめ!ナビ いますぐ役立つ脱出策

荻上チキ『いじめを生む教室―子どもを守るために知っておきたいデータと知識』PHP新書、2018年

【要約と感想】内藤朝雄・荻上チキ『いじめの直し方』

【要約】子ども向けの、いじめ対策本です。
いじめが起こるのは劣悪な環境のせいです。そして学校は、劣悪な環境の最たるものです。少しでもいじめが減るよう、環境を直していきましょう。
仮にいじめられたら、外部の権威(たとえば警察)をどんどん利用しましょう。

【感想】理論的にいじめを考え抜いた研究者と、ネットや若者論に詳しい批評家が組んで作った本だけあるということか、なかなか迫力がある。いじめに苦しんでいる子どもが読んだら、勇気をもらえるのではないだろうか。

まあ、学校が「いじめが起きやすい環境」というのは、言わば当たり前の話ではある。というのは、そもそも意図的に集団にストレスをかけることによって個人を成長させようという狙いが込められた施設だからだ。そして学校制度を信奉する人々は、集団に対する負荷こそが教育的に重要なのだと言うわけだ。
しかしその前提自体、無個性な機械的集団労働を強いた産業社会に噛み合った信念に過ぎない可能性は考慮していい。産業社会が終わりつつあるいま、意図的に集団にストレスをかける学校のやり方に疑問が持たれている。いじめ問題は、学校及びそれを支える社会の変化と矛盾を炙り出す。

内藤朝雄・荻上チキ『いじめの直し方』朝日新聞出版、2010年

【要約と感想】冨永良喜・森田啓之編著『「いじめ」と「体罰」その現状と対応』

【要約】「いじめ」と「体罰」をテーマとした2つのシンポジウムの記録です。いじめも体罰も、どちらも人権侵害です。教育関係者が力を合わせてなくしていきましょう。
いじめを防ぐためには、心の健康教育が重要だと推奨しています。道徳の時間の具体的な指導のあり方については、学習指導要領の記述を巡ってパネリストの間で見解の相違が見られます。
体罰については、特に学校の部活動の中で、それを許容する風土があることに警鐘を鳴らします。スポーツ本来の姿に立ち帰ることを提唱しています。

【感想】いじめに関しては様々な立場からの見解が示されて、根底的なところで一致しているようには見えなかった。まあ、それ自体は問題ない。多様な立場と多面的なアプローチで解決していけばいいものだ。
個人的には、「心の健康教育」を国家的に推奨することには多少の疑問を持っている。いじめとは本来的に「人間関係」の問題だと思っているので、それを個人の内面的な心の問題に解消することは、場当たり的で表面的な解決法だと思っているからだ。完全に無駄と主張したいわけではないが、本質的なアプローチではないように思う。優先順位の問題だ。このあたりの考えは、私が心理系の人と仲良くなれない理由ではあるのだが。保健体育の時間に「心の健康」を扱うこと自体には一般的な意味があるとは思うものの、いじめ解決のための抜本的な対応と言われると、ちょっと違うのではないかと思ってしまうわけだ。

体罰に関しては、これは法律で禁じられている以上、問答無用で撲滅していかなくてはならない。しかも子どもの側の問題ではなく、大人の側がやめればいいだけの話なので、いじめとは次元が異なる問題ではある。
特に部活動については、教育現場を歪めているものなので、本質的に考えた方がいいのではないかと思う。

【言質】いじめが一方的な悪意に基づくのではなく、「正義」に依拠していることが言及されている。

「いじめっ子の中にも「こいつを何とかしてやろう」という「善意」があります。」28頁
「事件が起きた学校には全国から匿名での罵倒の電話が殺到します。そこにあるのは、いじめの責任追及をする全国の「正義の味方」による集合的な非難です。自分だけが電話しているつもりかもしれませんが、いじめを非難する行為が、結果的に、いじめに酷似しています。残念です。」28頁、戸田有一執筆箇所

「まず学校は、正しいことを教え、正しくないことをだめだよと教えるところです。そして個人の意思にかかわらず集団が形成されるところでもあります。この二つの要素が「正しくないものはだめだ」「嫌なものを排除して、いい社会にする」という感覚を生んでしまいがちだということを自覚しなければならないと思います。(中略)つまり正しいことを教え実行させる学校文化は、それ自体が子どもを追い詰める文化なんだということに気づいているかどうかが、大事だと思います。」67頁、中村和子執筆箇所

いじめについて考える場合、このあたりの視点は、常に意識しておいた方がいいような気がするのだった。

兵庫教育大学企画課社会連携事務室企画編集、冨永良喜・森田啓之編著『「いじめ」と「体罰」その現状と対応―道徳教育・心の健康教育・スポーツ指導のあり方への提言』金子書房、2014年