【要約と感想】『子どもを「人間としてみる」ということ―子どもとともにある保育の原点』

【要約】子どもを外側から客観的・分析的に「分かる」ことはできません。むろん、外側から何かを一方的に「教える」こともできません。というか、子どもを分からなくても、いいのです。子どもを未熟な弱い存在と決め込んで囲い込むことをやめましょう。子どもたちと対等な人間として向き合い、一人の人間として関わりましょう。
大人が子どもと共感的(YOU的)に関わることにより、子どもたちは大人を通じて世界の姿(THEY)を垣間見まることができます。そこから主体的な「学び」が生じます。
子どもは観察や操作の対象ではありません。子どもは「いま」を真剣に生きる存在です。だから、共感的な関わりを生むには、大人も「いま」を真剣に生きましょう。ケアすることは、ケアされることです。

【感想】なかなか情報量が多く、読み応えのある本だった。

私は運が良く、大学時代に佐伯先生の授業を受けることができた。とはいっても実は何をしたが詳細に覚えているわけではないのだが、一歩足のロボットが自己学習してバランスを取るエピソードはよく覚えていたりする。
汐見先生の原稿も、なかなか刺激的だった。僭越ではあるが、私も似たような理由で似たような感覚(教育学という学問があまり好きでない)を持ったことがある。今は、好きになったのか、あるいは単に居直ったのか、それとも自虐を兼ねているのか、「教育学者」を自称するようになっているんだけれども。

【要検討事項】
佐伯先生のいわゆる「ドーナッツ論」は、コア・カリキュラムの「三層(四領域)構造」とは響き合ったりするのか、どうか。あるいは今井康雄先生が言うような「メディア」論とどう響くのか。

本書では、「中間」が大事なことが強調される。

「つまり、私たちが世界と接触するときに、本当に相手のことを考えてくれる中間が必要だと。(中略)そこはどうやってつないだらよいんだろうかなぁーということを、子どもの身に本当になって考えてあげられるような存在が世の中に必要だと言うことで出てきたのがドーナッツ論。」16頁

コア・カリキュラムでは、学習者と文化財を繋ぐものが「問題解決領域」であった。メディア論では、学習者と文化財を繋ぐものがメディアとしての教育であった。
そしてこの話は、ソクラテスのいう「エロス」とも響き合う。プラトン『饗宴』によれば、エロスとは神と人間の「中間」であり、地上的な人間を天上的な「よさ」へと向かわせる動因となるものであった。

【言質】
「人格」に関する用法サンプルを得た。

「子どもも私たちとは異なる人格をもった一人の他者であり、すべてを「わかる」ことはできません。」204頁

このあたりの「人格」の用法は、教育基本法第一条の背景となっているカント的近代の前提を大きくはみ出してきているような気がするのだが、いかがか。

佐伯胖・大豆生田啓友・渡辺英則・三谷大紀・髙嶋景子・汐見稔幸著『子どもを「人間としてみる」ということ―子どもとともにある保育の原点』ミネルヴァ書房、2013年