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【要約と感想】橘木俊詔『日本の教育格差』

【要約】子どもの教育格差がどんどん広がっています。現在、(1)有名ブランド大学卒(2)その他大学卒(3)高卒までという学歴差によって所得水準も変わるという、三極構造が見られます。教育格差拡大の要因は、親の経済格差が広がっていることですが、特に日本は公的教育費支出の対GDP比がOECD諸国のなかで最低レベルで、突出して家庭に教育費負担を強いているのが問題となります。

【感想】小泉改革以後の新自由主義政策の推進によって、所得格差拡大が加速し、貧富の差が激しくなったことは、もはや誰の目にも明らかになったわけだが。しかし、その所得格差が子供の教育格差に直結するという話になると、とたんに大声で反論したがる人が多くなるのは、なかなか不思議な日本である。そういう人に、本書を読ませたい。

本書は、様々なデータと客観的な論拠によって、日本の教育格差の拡大傾向の現状とその理由をわかりやすく示してくれる、たいへん有益な本ではある。日本が「私」と「公」のバランスを欠いているという記述は随所に見いだされ、例えば日本では教育を「私的財」と捉える傾向が強いと指摘し、「公」の支出を増やすべきだと提言する。それは一つの見識である。勉強になる。
が、一方で「私」と「公」の間にある「公共性」の次元への配慮が乏しく(いちおう準公共財という話はちゃんとしているが)、教育学者としては多少食い足りないところはある。「公共性」への配慮を欠いたまま「公」の支出を増やしても、バラまいた金は「私」を肥え太らせるに過ぎない可能性が高いと、私は危惧している。

第二次安倍政権は、幼児教育や高校の無償化政策、貧困家庭への大学進学援助等を打ち出して、所得格差による教育格差の拡大を防ごうとしているかのように、表面上は振る舞っている。が、幼児教育や高校が私的サービスとして消費されやすい制度(選択制)を温存している限り、そこに金を落としても私的消費の傾向が促進されるだけで、本質的には格差拡大に対する歯止めとはならないし、むしろ格差拡大に手を貸す可能性だってある。あるいは貧困家庭への大学進学援助は、一部の優秀な人材(誰にとって「優秀」かはしっかり吟味すべきだが)の選別には役に立つかもしれないが、義務教育段階でふるい落とされる貧困児童の救済には何の関係もないし、むしろ業績主義の仮面を装いながら実質的には格差拡大に手を貸すことになるかもしれない。
「公」と「私」に挟み撃ちにされて痩せ細っている「公共性」の領域を回復するような制度改変を伴わない限り、単に金をバラまいても、教育格差拡大の傾向は止まらないと思う。

橘木俊詔『日本の教育格差』岩波新書、2010年

【要約と感想】藤田英典編『誰のための「教育再生」か』

【要約】臨時教育審議会以後の官邸主導による新自由主義的な教育改革、特に小泉政権と第一期安倍政権による教育改革は、教育を破滅させる愚行です。

【感想】本書は、教育基本法改正直後に、教育専門家たちが抱いた危機感が表明されている。2007年段階で「私」と「公」に挟み撃ちになって疲弊していく公教育の姿が浮き彫りにされている。そして残念ながら、その危惧は10年経って現実のものとなっている。

2006年の教育基本法改正から十年、それによるダメージは、ボディブローのようにじわじわと教育界全体に効き始めている。そのダメージを修復しようとしたのかどうか、第二期安倍政権は幼児期から高等教育までの教育費無償化を閣議決定したらしいけれども、場当たり的に金をバラまいても、ダメージは回復しないだろう。というのは、ダメージを喰らったのは「私」と「公」の間にあった「教育の公共性」の部分だから、いくら税金を投入して「公」の存在感を増したところで、「公共性」の回復に結びつかないからだ。教育費無償化の対象となった幼児教育と高等教育は「公共性」よりも「私」の利害を反映しやすい制度設計(商品化されたサービスの自由選択制)になっており、その制度を放置したまま金をバラまけば、単に「公」のサポートによって「私」が肥えるだけであって、むしろ「公共性」の基盤が掘り崩される可能性だってある。教育に金をかけるとして、どうして義務教育の充実(たとえば義務教育費国庫負担の増加とか)に向かわないのか。本気で教育の「公共性」を支えようとしているのか、疑問でならない。ひょっとして我々の計り知れない深い策が裏にあるのかもしれないが、まあ、教員免許更新講習の顛末を顧みる限り、何も考えていない可能性のほうが高いだろう。
「公共性」を回復するためには、その担い手となる人々を地道に育成し続けるしかないはずだ。が、その中核となる仕事を担うはずの教師は、かえって「私」と「公」の挟み撃ちに遭って痛めつけてられているのである。Amazonレビュー等を見ると、公共性の基盤を喪失して私的利害の観点からしか世界を価値付けられない人々が本書を罵倒していて、なるほど、問題の根が深いことがよくわかる。

藤田英典編『誰のための「教育再生」か』岩波新書、2007年

【要約と感想】藤田英典『教育改革-共生時代の学校づくり-』

【要約】臨時教育審議会(1984年)以後、まやかしの「教育改革」の合言葉の下、実際には教育の自由化・市場化が進行していますが、この改革によって教育が良くなるという客観的な根拠は一切ありません。具体的には、学校選択制と学校週五日制は公教育を崩壊させます。

【感想】20年前に出た本ではあるけれども、現在の教育改革のおおまかな流れを捕まえるにはまだ有益な本だと思う。近年の「生きる力」とか「社会に開かれた教育課程」とか「チーム学校」とかという教育改革の意味は、文部科学省の動向だけを見てもよく分からない。高度経済成長による日本社会の大変動を踏まえ、臨時教育審議会の作った流れを押さえた上で、教育再生実行会議が依拠するイデオロギーを確認しておく必要がある。すると、表面上は教育政策がくるくる変わっているように見えても、根本的な改革の方向性は連続していることが分かる。一貫して市場化・自由化を推進することで、私と公の境界に位置する「公共」の基盤が掘り崩され続けているのである。「公共」の領域は、「私」と「公」の両側から削られ続けている。
本書は、教育は公共の仕事でなければならないという立場に徹底的に立っている。そして本書では、特に「私」からの圧力に対して抵抗しようとしている。その視点から、20世紀末の段階における景色がよくまとめられている。そして残念なことに、悲観的な予言のいくつかは20年後に見事に的中している。

で、教育の仕事を「私」でもなく「公」でもなく「公共」という領域で行おうというとき、「共生」は極めて重要なキーワードとなる。資本主義や民主主義という政治体制を前提としたとき、教育は本来的には私事である。その私事であるはずの教育を「公共」へと組織化しようとするとき、「共生」の理念は中核的な役割を果たすはずだ。そして本書の副題である「共生時代の学校づくり」には、その思いが込められているはずだ。と思うのだが、本書の記述は「公共」の基盤を掘り崩す「私」への危機感表明と追求に終始して、残念ながら「共生」の具体的な形は見えないのだった。(これに関しては、志水宏吉氏の仕事が補完してくれる。)

藤田英典『教育改革-共生時代の学校づくり-』岩波新書、1997年

【要約と感想】齋藤孝『教育力』

【要約】教育を行う立場の人に向けて書かれた、エッセイ集。

【感想】まあ、教育を行おうとする者に普遍的に求められる熱意や情熱を誰かと共有したいという向きには、勇気をくれる本だとは思う。授業を「祝祭」として受けとろうという話などは、実践的な姿勢として役に立たないということはない。「あこがれにあこがれる関係づくり」というテーマは、ソクラテスにも通じるものであって、悪くない。私としても、祝祭としての授業を燃焼させようという情熱においては、人後に落ちないつもりではある。

が、著者の他の本にも通じて感じることなんだけど、「近代」という時代が持つ特徴や性質についての反省というか洞察が欠けていて、「自由を強制する」という近代学校の働きを無自覚・無前提に肯定して話を進めるため、「塾」や「学力」や「ゆとり教育」に関する記述など、どうだかなあという感じを受ける。

とはいえ、誰にも読まれない論文を書きながら無給・無評価で戦い続けたエピソードには、涙を禁じ得ない。私も自分を信じて頑張ろう。

斎藤孝『教育力』岩波新書、2007年

【要約と感想】志水宏吉『学力を育てる』

【要約】学力低下の実態について調べてみると、全体のレベルが下がったわけではありません。できる層は昔と同じようにできますが、できない層が昔よりさらにできなくなったのが実態です。できるかできないかは、家庭の「文化資本」に依拠します。真の問題は「学力格差拡大」にあります。そんななか、格差拡大を食い止めている「力のある学校」が実際に存在します。力のある学校の特徴は、スパルタ式の特訓ではなく、集団づくり・仲間づくりを積極的に進め、学力を手厚く保障する体勢を作ったところにあります。学校にできる仕事は、「社会関係資本」を高めることです。

【感想】見所の一つは、学力低下が実際にはどういう現象なのかを客観的データで示し、問題の本質が家庭の文化資本の格差にあることを示したところ。まあ、本書でも挙がっているブルデューなりバーンスタインなりの論理から容易に予想されていたところではあるが、数字でわかりやすく出てきたのはありがたい。

また、その格差をどのように克服するかが極めて具体的に示されている所も、大きな見所。「学力の樹」という理論と「力のある学校」でのフィールドワークが見事な往還をなして、たいへん説得力がある記述になっている。単にドリルをこなしたり勉強時間を増やしたりするだけで学力が上がるのではなく、「社会関係資本」を重層的に保障することで学力が上がっていくことが、とてもよく分かる。

食い足りないのは、「何のために学力を上げるのか?」が見えにくいところ。本書は、学力向上が善であると前提している。いま学力が落ちているのは、「学力を上げてもいいことなどない」とか「コストに見合わない」という感覚が広がっているからでもある。あるいは、学力が二極化したところで何が問題なのか(むしろ望むところだ)という感覚である。新自由主義の論理は、この功利主義的感覚につけ込んでくる。新自由主義の論理に陥ることなく、全ての子どもが学力を上げるために努力しなければならないことの意味について語る言葉が必要なのだが、そのためにはやはり背景となる人間観とか哲学を真剣に考えなければならないのではないか。本書で「社会性」を育てるという言葉は強調されても、「人格」という言葉が出てこないことが気にかかるわけだ。

志水宏吉『学力を育てる』岩波新書、2005年