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【要約と感想】山内乾史・原清治『学力論争とはなんだったのか』

【要約】「学力低下」とは単に学校の中だけの問題ではありません。論争の本質は、これからどのような社会システムを選択していくかという世界観の問題です。身分原理から業績原理への転換という近代の原則を信じて機会均等を主張し、均質な教育サービスが多くの人に行き渡る世界を目指すのか。それとも資産の差や能力の差を認め、身分原理へともう一度先祖返りするのか。競争から降りる子どもたちが増え続ける現状を見る限り、もはや公教育の退勢を止めることはできず、新自由主義的な学校選択へと進むことが予想されます。

【感想】二人の著者、山内氏と原氏とで、言っていることはかなり違う。山内氏は「学力低下」の問題を、「近代の終わりの始まり」という社会転換の文脈から広く読み取り、社会システム選択の問題として把握する。大雑把に言えば、近代の賞味期限が切れるという歴史認識では、佐藤学氏などと認識を同じくしている。ただ、解決策の提示に関しては、やや悲観的に、学校の歴史的使命は一定程度終わったように見ているように感じる。
一方、原氏は、「ゆとり教育」とか、さらには「個性」という概念に対する敵意を隠さない。2000年代前半に子どもたちが起こした事件や、ニートや引きこもりなどの原因を、「ゆとり」や「個性」という言葉に結びつけていく。そういう教育観であること自体は問題ないとしても、率直にいえば、相関関係と因果関係がしっかり区別されておらず、「個性」に関する原理的・歴史的な考察も欠けており、少々軽率な物言いが目につくように感じた。

山内乾史・原清治『学力論争とはなんだったのか』ミネルヴァ書房、2005年

【要約と感想】佐藤学『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ』

【要約】「学力低下」を大袈裟に嘆く前に、まず問題の所在を正確に認識することが大事です。本当の問題は、「圧縮した近代」を経て日本の近代が頂点に達し、勉強の見返りが得られないことから「学力神話」が崩壊し、子供たちが学びから逃走しているところにあります。「学びからの逃走」のほうが、「学力低下」よりも深刻な問題です。状況を変えるには、「勉強」から「学び」へと転換しなければなりません。

【感想】大雑把な歴史観から本書を見れば、近代化=産業主義の過程が終わって「成熟した近代=ポスト産業主義社会」に突入することで、近代化の推進力として機能していた学校の役割が終わるという議論の一種のように思える。本書のユニークなところは、「圧縮した近代」では有効だった「東アジア型の教育」が現代では賞味期限切れを起こしているという見立てを、「学力という通貨の暴落」として表現したところだ。「学力」が3つの観点(同一尺度の評価基準、受験や労働市場における交換手段、投資の対象となる貯蓄手段)から「貨幣」と似ているという指摘は、なるほどと思った。「圧縮した近代」では問題なく流通していた貨幣としての「学力」が、現代では評価基準としても交換手段としても機能しなくなり、誰も貯蓄の対象として期待しなくなったというストーリーは、「学力低下」や「意欲低下」の説明として、うまくできているように思う。さすがだなあ。

具体的な対策としては、著者は「勉強/学び」を二項対立的に理解した上で、東アジア型教育の「勉強」から「学び」への転換を提唱し、「学びの共同体」という概念を提出している。そして「学び」を支援するために、少人数学級の実現や教科書の充実、「評価」の廃止や高校入試の廃止を提言する。大学人に対する苦言には、背筋が伸びる。

佐藤学『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ』岩波ブックレット、2001年

【要約と感想】苅谷剛彦・志水宏吉・清水睦美・諸田裕子『調査報告「学力低下」の実態』

【要約】しっかり実態調査を行ってみたところ、子どもの学力が低下傾向にあることがわかりましたが、それよりも本質的な問題は、格差の拡大です。家庭環境による格差は、小学校段階から始まっており、学習成果や学習行動だけではなく、学習意欲にまで深刻な影響を与えています。問題の本質は「インセンティブ・ディバイド(意欲格差)」にあります。

【感想】客観的な調査によって学力が「ふたコブらくだ」化したことを示したところは、引用しがいがある。そして同時に、学力に関する本質的な問題が「格差拡大」にあることを具体的なデータを基に客観的に示した点で、ゆとりに賛成にせよ反対にせよ、様々な議論のマイルストーンとなった本とも言える。実際、学力低下論争の過程で、苅谷氏の議論は広く引用され、文部科学省の方針転換にも大きな影響を与えたように思われる。

とはいえ、本当の勝負はここから始まるとも言える。実際に学力が低下し、格差が拡大したことが事実だとしても、どうしてそういう傾向が生じたかについては、様々なストーリーを描くことが可能だ。文部科学省のゆとり的施策が学力低下の原因であるかどうかは、自明ではない。学力低下という実態が先にあり、ゆとり教育はその実態に対する現実的対応だったのかもしれない。客観的なデータだけでは、相関関係を捉えることはできても、因果関係を特定するには至らない。学校の中だけ見るのではなく、もっと広く社会の変化を視野に入れることで、様々な説明様式が生まれてくることになるだろう。
「学力低下」論争は、様々な世界観を背景に複雑な要素が絡み、多様なアプローチが可能だ。逆に言えば、様々な思惑を込めて参入できる分野でもあって、なかなか厄介ではある。本書はその点には禁欲的で、学力低下という実態を客観的に捉え、それを克服する学校教育の在り方を示唆するところまでに仕事を限っている。そしてそういう意味で、様々な議論の起点として機能することになった。

ちなみに、学力の「ふたコブらくだ」化は、本書が示すよりも前、1990年前後には教育関係者の間で知られていた可能性が高いような気がする。というのは、1988年~1991年、私は岡崎高校に在籍する高校生として進路指導を受けているわけだが、学年集会等で示された偏差値グラフは既に明瞭に「ふたコブらくだ」化しており、進路指導担当教諭もこの二極化傾向が全国的に観測され始めたことに注意を促していたからだ。そしてこの二極化現象は、本書で提示されたシェーマで説明することはできない。なぜなら、岡崎高校は愛知県下有数の進学校であり、家庭間格差は相対的にかなり小さいと考えられるからである。そして岡崎高校内における下層は、他の学校では上層に当たるはずだ。全体的に高い学力集団を選抜した上で、その集団内でも二極化が発生してしまうことは、苅谷シェーマでは説明がつかない。(ちなみに1972年生まれの私は、1977年度版学習指導要領による小学校課程を過ごした、最初のゆとり世代である。)
当時高校生だった私は、学力の「ふたコブらくだ」化の理由について、わざわざ電車通学までして広域から集まってくる学生(相対的に意欲が高い)と、岡崎市内から自転車通学する比較的狭い地域を出自とする学生(相対的に意欲が低い)との落差が生じたものと理解していた。調べたわけではないから、本当のところは分からない。が、電車通学していた私自身としては、高いコスト(金のみならず時間や労力も)をかけてまで通っているのだから、これで見返りが与えられなければ馬鹿馬鹿しいという思いは、確かにあった。他の電車通学組がどう考えていたかは分からない。

苅谷剛彦・志水宏吉・清水睦美・諸田裕子『調査報告「学力低下」の実態』岩波ブックレット、2002年

【要約と感想】橘木俊詔『日本の教育格差』

【要約】子どもの教育格差がどんどん広がっています。現在、(1)有名ブランド大学卒(2)その他大学卒(3)高卒までという学歴差によって所得水準も変わるという、三極構造が見られます。教育格差拡大の要因は、親の経済格差が広がっていることですが、特に日本は公的教育費支出の対GDP比がOECD諸国のなかで最低レベルで、突出して家庭に教育費負担を強いているのが問題となります。

【感想】小泉改革以後の新自由主義政策の推進によって、所得格差拡大が加速し、貧富の差が激しくなったことは、もはや誰の目にも明らかになったわけだが。しかし、その所得格差が子供の教育格差に直結するという話になると、とたんに大声で反論したがる人が多くなるのは、なかなか不思議な日本である。そういう人に、本書を読ませたい。

本書は、様々なデータと客観的な論拠によって、日本の教育格差の拡大傾向の現状とその理由をわかりやすく示してくれる、たいへん有益な本ではある。日本が「私」と「公」のバランスを欠いているという記述は随所に見いだされ、例えば日本では教育を「私的財」と捉える傾向が強いと指摘し、「公」の支出を増やすべきだと提言する。それは一つの見識である。勉強になる。
が、一方で「私」と「公」の間にある「公共性」の次元への配慮が乏しく(いちおう準公共財という話はちゃんとしているが)、教育学者としては多少食い足りないところはある。「公共性」への配慮を欠いたまま「公」の支出を増やしても、バラまいた金は「私」を肥え太らせるに過ぎない可能性が高いと、私は危惧している。

第二次安倍政権は、幼児教育や高校の無償化政策、貧困家庭への大学進学援助等を打ち出して、所得格差による教育格差の拡大を防ごうとしているかのように、表面上は振る舞っている。が、幼児教育や高校が私的サービスとして消費されやすい制度(選択制)を温存している限り、そこに金を落としても私的消費の傾向が促進されるだけで、本質的には格差拡大に対する歯止めとはならないし、むしろ格差拡大に手を貸す可能性だってある。あるいは貧困家庭への大学進学援助は、一部の優秀な人材(誰にとって「優秀」かはしっかり吟味すべきだが)の選別には役に立つかもしれないが、義務教育段階でふるい落とされる貧困児童の救済には何の関係もないし、むしろ業績主義の仮面を装いながら実質的には格差拡大に手を貸すことになるかもしれない。
「公」と「私」に挟み撃ちにされて痩せ細っている「公共性」の領域を回復するような制度改変を伴わない限り、単に金をバラまいても、教育格差拡大の傾向は止まらないと思う。

橘木俊詔『日本の教育格差』岩波新書、2010年

【要約と感想】藤田英典編『誰のための「教育再生」か』

【要約】臨時教育審議会以後の官邸主導による新自由主義的な教育改革、特に小泉政権と第一期安倍政権による教育改革は、教育を破滅させる愚行です。

【感想】本書は、教育基本法改正直後に、教育専門家たちが抱いた危機感が表明されている。2007年段階で「私」と「公」に挟み撃ちになって疲弊していく公教育の姿が浮き彫りにされている。そして残念ながら、その危惧は10年経って現実のものとなっている。

2006年の教育基本法改正から十年、それによるダメージは、ボディブローのようにじわじわと教育界全体に効き始めている。そのダメージを修復しようとしたのかどうか、第二期安倍政権は幼児期から高等教育までの教育費無償化を閣議決定したらしいけれども、場当たり的に金をバラまいても、ダメージは回復しないだろう。というのは、ダメージを喰らったのは「私」と「公」の間にあった「教育の公共性」の部分だから、いくら税金を投入して「公」の存在感を増したところで、「公共性」の回復に結びつかないからだ。教育費無償化の対象となった幼児教育と高等教育は「公共性」よりも「私」の利害を反映しやすい制度設計(商品化されたサービスの自由選択制)になっており、その制度を放置したまま金をバラまけば、単に「公」のサポートによって「私」が肥えるだけであって、むしろ「公共性」の基盤が掘り崩される可能性だってある。教育に金をかけるとして、どうして義務教育の充実(たとえば義務教育費国庫負担の増加とか)に向かわないのか。本気で教育の「公共性」を支えようとしているのか、疑問でならない。ひょっとして我々の計り知れない深い策が裏にあるのかもしれないが、まあ、教員免許更新講習の顛末を顧みる限り、何も考えていない可能性のほうが高いだろう。
「公共性」を回復するためには、その担い手となる人々を地道に育成し続けるしかないはずだ。が、その中核となる仕事を担うはずの教師は、かえって「私」と「公」の挟み撃ちに遭って痛めつけてられているのである。Amazonレビュー等を見ると、公共性の基盤を喪失して私的利害の観点からしか世界を価値付けられない人々が本書を罵倒していて、なるほど、問題の根が深いことがよくわかる。

藤田英典編『誰のための「教育再生」か』岩波新書、2007年