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【要約と感想】池上彰編『先生!』

【要約】いろいろに個性的な先生がいて、いろいろに個性的な子供たちがいて、いろいろな関わり方があって、いろいろな人生があります。様々な立場の人々が記した、「先生」にまつわるエッセイ集。

【感想】子供の個性を尊重せよ!と文部科学省は言うけれど。しかし一方で、先生の個性はあまり尊重されていないよなあと。先生が個性的じゃない時に子供が個性的になるわけがないと思うのだが。
本書を読んでも「いろいろな先生がいていいのだな」という当たり前のことを再確認するだけではある。が、その当たり前が失われようとしている教職コア・カリキュラム万歳(ついさっき、その書類を書き終えた)の御時世では、貴重な本である。

池上彰編『先生!』岩波新書、2013年

【要約と感想】国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』

【要約】教育は、コンテンツ・ベース(知識・内容)からコンピテンシー・ベース(資質・能力)重視に変わらなければなりません。そして、具体的な実践では、知識か能力かどちらか一方が重要と決め込む必要はなく、上質な知識を身につけながら資質・能力を伸ばすというふうに、両方を調和的・総合的に育成することが成功の秘訣です。

【感想】引用・参照文献も多く、論理構成もスッキリわかりやすく、具体的な実践に対する配慮もあって、この種の本としては最良の部類に入る本だと思った。コンピテンシー・ベースで教育を改革しようとする立場の人々が言いたいことが、とてもよく分かる。現場の先生にとっても、大いに参考になる本だろう。そしてそのぶん、この種の考え方の死角や落とし穴というのも、わかりやすく見えてくる気がする。

まず教育原理の専門家として気になるのは、「人格」と「資質・能力」の関係だ。まあ、当然執筆者たちも気にしていて、しっかり「資質・能力と人格の関係は?」というタイトルの節を用意して、自分たちの立場を説明している。が、これを読む限りでは、教育学が伝統的に問題にしてきた「人格」をしっかり理解した上で記述しているとはとても思えない。というのは、「人格」にまつわる「尊厳」の話が一切出てこないし、「人格の尊厳」というものに対して配慮しているとはとても思えない寒々とした記述になっているからだ。
たとえば歴史的には悪評高い『国民実践要領』(1953年)ですら、「人格の尊厳」について「人の人たるゆえんは、自由なる人格たるところにある。われわれは自己の人格の尊厳を自覚し、それを傷つけてはならない。」と宣言した上で、「真に自由な人間とは、自己の人格の尊厳を自覚することによって自ら決断し自ら責任を負うことのできる人間である。」と述べた。あるいは悪評高い『期待される人間像』(1966年)においてすら、「人間が人間として単なる物と異なるのは、人間が人格を有するからである。物は価格をもつが、人間は品位をもち、不可侵の尊厳を有する。基本的人権の根拠もここに存する。そして人格の中核をなすものは、自由である。それは自発性といってもよい。」と述べている。ここに残っているある種の格調高さが、本書には微塵も存在しない。「人格の尊厳」に対する敬意は、いつの間にか知らないうちに失われ、顧みられなくなったもののようである。

その姿勢とも絡むのだろうが、本書からは「できない子」に対する温かい眼差しを感じることができない。「できない子」など最初から存在しないかの如く、あるいは存在するべきではないという態度で記述が進んでいく。しかし本当にどの子供も本書に描かれた資質・能力を備えた「できる子」になれるのだろうか? そして「できる子」だろうが「できない子」だろうが、同じく人間として触れあう所に「人格の尊厳」というものが生まれるんじゃないだろうか。全ての子供を一律に「できる子」に育てられるかのような、あるいは「できない子」の苦しみがまるで視野に入っていない書きっぷりは、なかなか清々しくもあるが、これで大丈夫だろうかという危惧も強まる。人間の「弱さ」に対する感受性を視野の外に放り出して、教育という営みは成立するのだろうか?

ということで、学術的な仕事としては、「人格」という言葉の持つ意味がいつの間にかズレていること、そして多くの教育関係者がそのズレを自覚していないことに対して、しっかり吟味を加えていかなければならないと感じた。ポイントは、1960年代後半から1980年代前半までの情勢にあると直感しているわけだが、さて、どうだろうか。

国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』東洋館出版社、2016年

【要約と感想】日本教育方法学会編『学習指導要領の改訂に関する教育方法学的検討』

【要約】教育方法学の観点から見て、今時学習指導要領には本質的な欠陥がたくさんあります。

【感想】読み取った限りでは、学習指導要領の問題は、おおまかには2通り。一つは「教育目的」に関して、「人格の完成」を目指す教育ではなく、単に産業界の要請に応える人材育成に堕しているという懸念である。たとえば安彦忠彦は「筆者はこれに対して、「人格性」や「学問的な力」は育つのかと役人に質問し、大丈夫だという答えを得たことがあるが、その面への配慮が欠けることが心配である。」(p.19)と言う。また中野和光は、「次期学習指導要領は、2006年の教育基本法改正、教育関連三法の改正を土台として、OECDとの連携をもとに、グローバル経済競争という「総力戦」に必要な人材資源の育成のために教育制度を使おうとしている。」(p.32)と言う。あるいは福田敦志は、「新しい社会に適応するように「陶冶」される必要があるということは、適応を要請する社会のあり様それ自体は疑わせないということを意味することも合わせて押さえておきたい。」(p.116)と言う。まったくだと思う。

もう一つは、さすが教育方法学会だけあって「教育方法」に関して、「主体的・対話的で深い学び」というような「教授方法」のスタンダード化が一方的に押しつけられることへの懸念である。教え方の制度化・形式化の傾向が強まると、様々な個性的な取組みが一様な官製用語で塗り固められ、実践を語る語彙が貧困化し、教師の自律性が奪われると同時に、授業から子供たちの生活の文脈が失われ、学校のリアリティが無視される。果たして学習指導要領で「主体的・対話的で深い学び」というふうに「教え方」まで規定すべきなのだろうか、あるいは規定できるのだろうか。あるいは仮に規定できるにしても、法的拘束力を持ったままで問題ないのだろうか?

この問題は、教員養成改革の方向にも絡んで「教職の専門性とは何か?」という価値観と密接に絡んでおり、しっかり教育原理的に考察すべき課題のはずだ。本書は、学習指導要領を単なる技術論としてではなく、原理的に吟味したいときに参考になる。

日本教育方法学会編『学習指導要領の改訂に関する教育方法学的検討 「資質・能力」と「教科の本質」をめぐって』図書文化、2017年

【要約と感想】『「ゼロトレランス」で学校はどうなる』

【要約】間違った指導法「ゼロトレランス」のせいで、子供は不幸になり、教師は疲弊し、保護者の不信は高まり、学校はめちゃくちゃになります。

【感想】最近、大阪のある高校が行った、黒髪指導に名を借りた人権侵害が大きな問題となった。詳細は分からないので事件そのものに対するコメントは控えるが、世間の人々が漏らした感想はなかなか興味深かった。けっこう多くの人が「80年代の管理教育じゃあるまいし、21世紀になって時代遅れな」という感想を述べていたのだ。そういう感想を抱いた人は、本書を読めばきっとガッテンボタンを連打することだろう。報道の通りなら、あの学校の姿勢が「ゼロトレランス」だ。

ゼロトレランスは、トレランスがゼロということ。トレランスとは「寛容」という意味で、つまり「寛容をゼロにせよ」ということだ。要するに、学校という教育の場にあろうが、「教育的な配慮」を一切おこなわず、問答無用で機械的に罰を与えよという姿勢を指す。これは80年代のアメリカで誕生した治安政策に由来するが、現在の日本(あるいは世界)では新自由主義的な経済至上主義の下で、競争原理の信頼性を確保するために導入されているようだ。

しかし、ゼロトレランスが仮に大人の世界の治安対策として適用可能であったとしても、これを「教育」や「学習」の場面に無条件に持ち込むことが極めて異常なことはすぐにわかるはずだ。ゼロトレランスが子供から奪うのは、試行錯誤の機会や、多面的に物事を見る観点を身につける機会や、安心して成長できる雰囲気だ。要するに「人格の完成」へと向かう教育の機会そのものが剥奪される。学校にゼロトレランスを導入するなら、そこが「学校」と呼ばれる必然性はもはや存在しないといってもよいだろう。そこは「教育の場」ではなく、「人材培養工場」だ。

「社会に開かれた教育課程」によって「資質・能力」を身につけさせようとする新学習指導要領が狙っているのも、まさに学校を「教育の場」ではなく「人材培養工場」にしようということなのかもしれない。
「競争」の原理を突き詰めていくと何が起こるかは、姉歯一級建築士事件とかJR西日本福知山線事故とか近年の様々なデータ改竄事件などを見ても明らかだと思うのだが、ああいう事案に共通する「過度の競争によって引き起こされる人心荒廃とモラル低下」がゼロトレランスの強化で解決できるなどと考えているとしたら、お目出度いとしか言いようがない。

横湯園子・世取山洋介・鈴木大裕編集『「ゼロトレランス」で学校はどうなる』花伝社、2017年

【要約と感想】東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション』

【要約】東京大学教育学部が付属校と一緒に、総力を結集して挑んだカリキュラム改革の理念と実践記録。

【感想】個々の論文は、それぞれとても参考になる。言語力育成や、学校図書館利用や、ライフキャリア・レジリエンス教育や、シティズンシップ教育や、哲学教育など、具体的な実践の試みは、どれも興味深く読める。時間をかけて工夫して授業を作り上げていった様子がわかって、頭が下がる。

が、執筆者のスタンスは、もちろん全員一致しているわけではない。「社会に生きる学力」という本書を貫くはずの理念に対して根本から疑念を呈している論文がいくつかあって、なかなか面白かった。
たとえば金森修「カリキュラム・ポリティクスと社会」(123-135頁)は、「社会に生きる学力」が単に現状肯定の迎合や追認に陥る可能性を危惧し、教師に期待されるのは産業社会を超えるビジョンを示す力であると言う。また牧野篤「社会における学びと身体性 市民性への問い返し/社会教育の視点から」(195-208頁)は、学校のカリキュラムが社会的なレリバンスを欠くと批判することは単に目先の社会的な養成に基づく人材育成を志向し、個人の内面に社会的な価値を植え込み、自己実現の自由を否定することに繋がりかねないと危惧する。このような危惧の根底には、文部科学省がどんなに綺麗事のキャッチフレーズを持ち出そうとも、現今の教育に期待されているのが結局は産業社会に資する人材を供給すること、という認識がある。そして、『学習指導要領』がそういう国是を疑いもせずに大前提にしているという認識がある。

本書のところどころで婉曲的に言及されるが、『学習指導要領』というものに法的拘束力があり、現場の教師の創造性に一定の枠を嵌めている現状においては、本当にカリキュラムをイノベーションすることなどできるわけがない。本書のような創造的な取組みが行われることでハッキリと浮かび上がってくるのは、教育行政の分権(個々の学校の自由なカリキュラム構成権や教科書採択権などを想定)という条件が欠けているところでカリキュラム・イノベーションを云々しても、最初から限界が見えているということだ。各学校は、あらかじめ文科省に枠組みが決められた範囲の中で、抜本的な解決には程遠い細々とした創意工夫を積み上げていくことしかできない。
しかし難しいのは、教育行政の分権を進めたところで、結局は新自由主義的な大枠の下、教育がglobal economyの荒波かlocal communityの狭い利害関心に取り込まれてしまい、一人ひとりの子供の個性を尊重して自己実現を目指すものとなるのかどうかという危惧が拭えないというところだ。果たして「社会に開かれた教育課程」は、どのように一人ひとりの「人格の完成」と結びつくのか。

いろいろ考える材料を与えてくれる本ではあります。

東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年