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【要約と感想】本田由紀『教育は何を評価してきたのか』

【要約】国際的に比較すると、日本人の生産力や自己肯定感の低さが極めて異常なことが一目瞭然ですが、論理的には、垂直的序列化と水平的画一化の過剰、水平的多様化の過小という社会構造が問題です。このような構造を生み出している原因を浮き彫りにするために、本書は「能力」「資質」「態度」という言葉に分析を施します。
 「能力主義」に関しては、一般的には「メリトクラシー」という英語の翻訳語と理解されていますが、そこから大きな勘違いが始まっています。欧米のメリトクラシーは「業績主義」であって、日本語の言う「能力」は、それとはまったく異なるガラパゴスな指標となっています。それが明治期から昭和、さらに平成を経て、ガラパゴスな変化が加速し、いまや「人格」をも動員しようと試みる「ハイパー・メリトクラシー」の段階に突入しています。
 また一方、21世紀に入る頃からナショナリズムを高揚させようとする意図的な動きに伴って「態度」という言葉が頻発されるようになりました。
 このような閉塞状況を打破するためのポイントは、高校改革にあります。具体的には、普通科中心から多種多様な学科構成への変革、選抜の在り方の見直し、民間企業の採用の考え方の変更が有効な打開策になるでしょう。

【感想】限られた少数のキーワードに分析を施すことで日本が抱える問題の全体構造が明らかになるという、いわゆる「一点突破全面展開」のお手本のような見事な構成だった。行論については、テンポがいいと思うか、議論を急ぎすぎだと思うかは、まあ人によるだろうけれど、新書だからこれでいいのだろう。切れ味が鋭いことには間違いがない。読者の方も、日本が抱える問題たちを綺麗に切り刻んでくれているように読めるのではないか。学生に勧めていい本のように思った。

【要検討事項】とはいえ、専門家の立場からはいろいろ言いたいことも出てくる。特に本書は概念史を扱っているわけだが、国会図書館デジタルコレクションの検索結果から始めるという方法は、「歴史屋」の私からすれば物足りないことこの上ない。少なくとも日本国語大辞典を繙いても損はしない。たとえば「能力」という言葉に関しては、江戸時代の用例や中国古典での扱いについて基礎的な情報を得ることができる。
 また、日本教育史プロパーとしては、「能力」という言葉が「開発主義」の流行に伴って一般化していったことは強調しておきたいところだ。そしてもちろん開発主義のモトネタであるペスタロッチー主義にも同じ傾向があるわけだが、それはつまり、そもそも近代教育の内容と方法自体が「能力(この場合はfaculty)」の「開発(develop)」という発想を土台にしていることを示唆している。あるいはさらに遡ってロックやルソーを見てもよい。「外から知識を与える」のではなく「内部からの力の形成」という発想の素朴な姿を見ることができる。この「知識から力への重点の変化」は、近代教育思想の基本的な土台となっている。明治初期開発主義は、この近代教育思想の基礎・基本を忠実に受け容れた結果、「能力」という言葉を連発していくことになる。こうしてみると、「能力」とは日本固有の問題というよりは、「近代」に固有の問題に見えてくる。確かに「メリトクラシー」と「能力主義」の中身が異なるのは指摘通りとして、じゃあヨーロッパ近代(特に資本主義の論理)が「日本語で言う能力なるもの」からどの程度自由だったのか。ちょっと考えただけでもいろいろ丁寧に見ておきたい論点が噴出してくる。
 まあ、本書にそれを求めるのはナイモノネダリではある。本書は本書固有の課題にはしっかり応えているので、生じた疑問については私自身の課題として突きつめればいいだけのことではある。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「人格」に絡んだ文章がいくつかあったので、サンプリングしておく。

「一九五〇年代の議論がほぼ「学力低下」は「国力の低下」をもたらすということのみに収斂していたのに対し。一九七〇~八〇年代においては、「落ちこぼれ」等の学力問題が「子どもの人格形成のゆがみ」をもたらすということが強調されるように変化していた。つまり、「学力の低い子ども」は「人格」的にも劣っており、非行などの逸脱行動に走る確率も高いということが、非常にしばしば主張されるようになる。さらには、「学力」が高い子どもであっても、「知識の記憶力」に終始し、やはり「人格のゆがみ」がもたらされている、という議論が展開される。」pp.119-120

「(前略)「学力」を「人格」や「人類社会の平和と発展」と結び付けて論じる言説の広がりが、続く八〇年代後半から九〇年代にかけて生じた、日本型メリトクラシーと並ぶもうひとつの垂直的序列化の軸であるハイパー・メリトクラシーへの地ならしとなっていった。」p.126

 やはり「人格」という言葉の中身が高度経済成長を境目に大きく変化している様子を覗うことができる。「期待される人間像」で描かれる「人格」という言葉と、ここで指摘されている「人格」は、まったく異なる意味内容を持っている。このあたり、「学力」とか「能力」という言葉を補助線にするといろいろ見えてくるものがありそうだ、というところでは非常に勉強になった。このインスピレーションを、自分の研究に活かしていきたい。

本田由紀『教育は何を評価してきたのか』岩波新書、2020年

【要約と感想】川口俊明『全国学力テストはなぜ失敗したのか―学力調査を科学する』

【要約】毎年行われている全国学力テストは、社会科学の専門的な知見がまったく反映されておらず、いきあたりばったりで思いつきレベルの設計がされているので、そもそも「学力」を測れていません。失敗するに決まっています。
まともな学力調査にするためには、実態を把握することの大切さを理解した上で、「政策のためのテスト」か「指導のためのテスト」かねらいを明確にし、何を測定するのか目的と手法を科学的に明らかにしましょう。

【感想】全国学力テストについて、表面的な現象については理解していたつもりだったけれども、原理的なところで勉強になった。大学で教職課程を担当する教員としては、ところどころで苦言を呈されており、背中に冷や汗をかくような本ではある。
私の担当は「教育課程論」なので、授業で「評価」に関する内容を扱う。もちろんPISA調査や全国学力テストについても扱うものの、表面的な話をするだけで時間がなくなってしまう。「評価」の話に当てられる時間は全14回の講義のうち2回だけなのだ。この2回で目指しているのは、「妥当性」と「信頼性」という概念(学習指導要領にも出てくる言葉だね)について学生諸君に理解してもらうことだ。毎年試行錯誤を重ねているけれども、いや、なかなか大変なのだった。来年度は、本書も踏まえて、少なくとも自分の授業では科学的なものの見方を伝えていきたいと思ったのであった。まず授業で示す参考書に本書を挙げておこっと。

まあ、全国学力テストに限らず、1990年代以降、実態把握に基づかないで、思い込みと妄想と願望だけが先走る意味の分からない教育改革が次々と実行され、現場が疲弊しきっている。経済(新自由主義)と政治(新保守主義)の圧力で教育の商品化が急激に進行し、公教育の基盤が掘り崩され、格差の拡大に拍車がかかっている。教育を商品化して金儲けしようとする勢力と、妄想・願望に基づいて思いつきでいきあたりばったりの教育改革を進めようとする勢力に挟み撃ちにされて、本質的・批判的・科学的に教育を考えようとする層が痩せ細っている。教員を志望する学生も減っている。
私個人にできることは、教職課程の授業の中で、本質的・批判的・科学的にものごとを見るとはどういうことかを示し続けることだ。本書が扱っている「全国学力テストの失敗」は、具体的な事例として学生にとっても身近で分かりやすいような気もする。まず「学力って何?」ってところから考えてもらうのがいいかな。とりあえずシラバスを書くか……

川口俊明『全国学力テストはなぜ失敗したのか―学力調査を科学する』岩波書店、2020年

【要約と感想】大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』

【要約】大村はまの国語教室で実際に受けた授業を振り返り、さらに教育学的に考察を加え、「教えること」の重要性を再確認します。近年のいわゆる「新学力観」によって、教えることを躊躇する教師が増えましたが、とんでもない間違いです。一方的な詰め込みも、ただの放任も、どちらも教育の本質を見失っています。
しっかりと「教える」ためには、目の前の一人一人の子どもの個性を理解し、それぞれに適した教材を用意し、「てびき」を作って「考える」ためのきっかけをお膳立てし、それぞれの躓きを把握するために適切な評価を行ない、さりげなく背中を押すことです。教師は楽をしてはいけません。

【感想】なかなか凄い組み合わせの本だ。奇跡的な繋がりと言ってもいいのかもしれない。(まあ、教育界隈にいる人じゃないと、どこがどう奇跡的なのか分からないとは思うけれども……)

著者の組み合わせから受ける期待に違わず、中身もエキサイティングであった。昨今(といってももう15年前か)の「新学力観」に真っ向から立ち向かい、実践面と理論面の両方からばったばったと薙ぎ倒していく様は、かなり痛快だ。まあその痛快さは、ブーメランのように自分自身に突き刺さってくることになるのだけれども。

ともかく「教育の本質」を考える上で、侮れない本であることは間違いないように思う。私自身も、いろいろ反省しなければならない。

「研究者という、考えることのプロであるはずの大学教師でさえ、教員養成課程の学生たちに考える力をつける授業ができているかどうか。生きる力が大事だというわりには、大学の授業も心許ない。」193頁
「「生きる力」を唱える教育学者の授業が、案外と学生たちに考える力をつけさせない、退屈で一方的な授業にとどまっているという皮肉な例も少なくないようだ。」209頁

あいたたた。

【言質】
「個性」とか「自己実現」に関する多角的な言質を得た。

「夏子:もう一つ、子どもの自主性とか個性、創造力というのが、じょうずにてびきをしたぐらいで損なわれるかという問題があるかと思う。どう思いますか。私は自分では損なわれた気などしていないけれども。
大村:損なわれない。」124頁

「教育関係の審議会の答申などでも、教育は子どもたちの「自己実現」をめざすものだとか、教師の役割は、生徒の「自己実現」を支援するといったような文章が登場することが多い。」201頁
「これと似た例に、「個性」がある。教育の世界で多用される個性ということばは、実に多義的に使われている。いろいろな意味を帯びているのに、それでも会話が成立してしまう。ちょっと考えてみると、不思議ではないか。」204頁

苅谷は、「自己実現」や「個性」という言葉が、内実を伴わず、イメージと雰囲気で流通している様を浮き彫りにする。まあ、言うとおりなんだろう。が、個人的には、それを現象として認めた上で、さらに一歩本質的に先を行きたい気分ではあるのだった。

【個人的研究のための備忘録】
「学力」に関する言及も、メモしておく。もちろん、新学力観を批判する文脈である。

「学習のための条件ともいえる「関心、意欲、態度」を、「学力」の一部に組み入れたことで、目的と手段との関係はあいまいになってしまった。」188頁

大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』ちくま新書、2003年

【要約と感想】大迫弘和『アクティブ・ラーニングとしての国際バカロレア』

【要約】産業構造が転換し、知識基盤社会に向かう中、旧来の「覚える君」を育てる教育は意味がなくなります。これからは「考える君」を伸ばす教育が大切になります。
具体的な方針は、国際バカロレアが示しています。国際バカロレアが目指す学習者像は、これからのグローバル社会で幸せになるために必要な能力を備えています。日本の教育が培ってきた伝統を大切にしながら、日本の教育を転換していきましょう。

【感想】小品ではあるが、とても情熱的で、元気が出る本だった。ただ机上の理想を叫ぶのでなく、具体的な活動を実際に行なってきた人が言うのだから、説得力がある。なかなか良い読後感だ。

個人的に良かったのは、「教育のサービス化」に手厳しい批判を加えているところだ。まあ本書の趣旨そのものからいえば脇筋ではあるけれども、教育環境を整えるという点では重要な論点であることに間違いはない。

「資本主義社会の中では大変難しいことですが、教育は経済の思想の外側に置かれなければなりません。なぜなら教育とは本来「買う」ものではないからです。(中略)教育とは人としての豊かさ、深さ、温かさを生み出すもののはずです。「商品」が買われるように「教育」が買われることはおかしいのです。」26頁
「「教育『サービス』を提供する」といった言い方が平気でされているのはおかしなことなのです。この言い方はやめなくてはいけません。資本の論理は教育を歪めます。」26頁

おっしゃる通りだと思う。

【要検討事項】
私の専門である日本教育史に関する言及があったが、ちょっと聞いたことがない。ソースは何だろう?

「educationという英語の日本語訳については、大久保利通と福沢諭吉と森有礼が論争したらしく、大久保利通は「教化」、福沢諭吉は「発育」と訳したかったようです(それぞれ二人の性向をよく表わしている訳語だと思います)。最終的には初代文部大臣になった森有礼がその間をとって「教育」という日本語を誕生させた経緯があるそうです。」21頁

うーん、森が「教育」という訳語を作ったなんて、デキすぎていて怖い話だ。そうとう怪しいのだが。出典情報が欲しい。

【個人的な研究のための備忘録】
教育基本法に関する言及は、ちょっと気になる。

「「IBの使命」と「教育基本法」の最上位概念としての違いは何でしょう。それは「IBの使命」はプログラムの最終到達点として常に意識されているのに対して、「教育基本法」は残念ながらそのようにはなっていないということです。日本の教育の場合は、最終到達点として意識されているのは「大学入試」で、「教育基本法」のことは普段ほとんど意識されていないのが現実です(心の奥には知らぬ間に潜んでいるとは言えますが)。」49頁

現実として、教育基本法の目的「人格の完成」が棚に上げられているように見えるのは、確かではある。受験勉強や偏差値が全面に打ち出され、「人格の完成」が後回しになっているのは、誰もが知っている。が、著者が「心の奥には知らぬ間に潜んでいる」と言う根拠は、本書から伺うことはできない。深掘りしていくと、おもしろい話が出てくるところなのかどうか。

また「学力」についての言及もメモしておく。

「これからの学力とは「コミュニケーション力」によって形成されるような学力を言うのです。」68頁
「今から必要なのは「覚える君」の「学力」ではなく「考える君」の「学力」をいかに向上させるかの議論なのです。」75頁

著者が言う「学力」は、もちろんOECDのキーコンピテンシーや新学力観と響き合う内容を持っている。

大迫弘和『アクティブ・ラーニングとしての国際バカロレア―「覚える君」から「考える君」へ―』日本標準ブックレット、2016年

【要約と感想】福田誠治『子どもたちに「未来の学力」を』

【要約】独創性の必要ない単純労働を大勢に我慢させてやらせる時代には日本の教育はうまくいっていましたが、現在では完全に時代遅れになっています。単に過去を記憶して正確に再現させる学力では、変化の激しい時代に対応できません。これから必要なのは、自分で考え判断し学び続ける「未来の学力」です。
参考となるのが、フィンランドの教育です。地域間格差を徹底的になくし、個人差に対応することで、世界一の学力を実現しています。教育の専門家としての教師の権威が高く、行政も適切なサポートに徹しているからです。素人である政治家が思いつきで適当に口を出す日本とはまるで異なっています。
日本は、英米の弱肉強食型新自由主義を採用してからおかしくなりました。多文化共生のEUに学ぶべきです。

【感想】本書が出版された2008年は、いわゆる「学力低下」に関する論争が一段落し、詰め込み型の学力観が一定程度の勢力を確保していた時代だった。そんななか、本書は旧来の学力観を徹底批判し、「未来の学力」の旗印を掲げる。だから、口ぶりも過激に流れがちになるのも、無理はないような気はするのだった。
とはいえ、2019年現在の地点から見れば、著者の考え方が勝利を収めているように見える。文科省はOECDのほうばかり見ている。(本当に本質を理解しているかどうかはともかくとして。)
本書は、学力低下論争の最中に投じられた一石として、十分に役割を果したということかもしれない。

【今後の個人的研究のための備忘録】
学力観の転換を考える上で、示唆に富んだ表現が極めて多い。

「日本の学力観は「何を学んだか」を最重要視しますが、EUは学力観を「これから何ができるのか」にシフトしたのです。」12頁
「知識の量や計算スピードを測るという学力はEUの眼中にはありません。たとえ計算など遅くても、また知識量は少なくても、問題を把握する力、その問題を解決するために何を応用するのか、なにが必要なのかを選別し組み合わせる力が、今日の学力として問われるのだと、はっきり言っているのです。」16頁
「さまざまな人間のあいだで発揮される多様な能力――それを学力という。そう学力像は変わったのです。」16頁
「いまの日本に必要なことは、学力の詰め込みという教育観を変えることです。また受験や就職に役立つものが学力なのだという学力観を変えることです。」18頁
「日本人の多くは、学校教育を通じて養われるものが「学力」だと信じて疑わぬようです。」21頁
「新自由主義は、学力は商品にすぎず、資格や免許にとどまり、真の能力、人生や生き方、考え方、成長につながる学力としてはとらえていません。」29頁
学力とは何かを規定することはとても難しいことです。学力の定義は、教育研究者の数ほどあるといった見方さえあります。(中略)学力の暫定的な仮説とは、
・学校教育において育成されるべき能力
・学齢期に形成される能力のうち、将来の基盤となる重要なもの
です。」123頁

まあ、同じことを様々な角度から述べているわけではある。つまり、「ゆとり教育」は正しかったのだ。(著者は「ゆとり教育」という言葉を前面には打ち出さないけれど)

また「大人と子どもの境界線」についても、興味深い記述がある。

「日本の法律体系は、子どもと大人のあいだに明確な境界線を設け、それぞれまったく違う対応をしています。しかし教育の論理では、人は子どもから徐々に大人に成長する者であり、ある日突然、大人になるわけではない。
その「徐々に」の段階で自立への支援をし、子どもの自由度が高まるような教育をすることこそが肝心なのです。その自由の中で自分をコントロールし、失敗したときには自分で責任をとるような力を身につけさせていく。
ところが日本では、力をつけて自立しようとする子どもを「まだ子どもだから」という理由で抑圧し、大人の支配下に置く教育方法がとられています。自立できるように人間を育てようとしていないのです。」119頁

厳密に言えば、「日本の法律体系」というよりも「近代的な法律体系」と言ったほうがいいのだろう。ヨーロッパでも、近代になってから「子どもと大人のあいだに明確な境界線」を設けるようになったわけで。
しかし1945年以降、ふたつの観点からこの境界線が壊されていく。ひとつは「生涯教育」の理念で、これは近代的な大人概念を相対化する。もうひとつは「子どもの権利」の理念で、これは近代的な子ども概念を相対化する。
学力観が変わるのも、土台にあるのは「子どもと大人のあいだの境界線」が相対化したことにあるように思うのだった。

【要約と感想】福田誠治『子どもたちに「未来の学力」を』東海教育研究所、2008年