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【要約と感想】田原俊司『「いじめ」考―「いじめ」が生じる原因と対策について』

【要約】統計的手法を使って、いじめの原因を考えました。従来から言われてきたような原因には、数字的な根拠は見いだせません。進学のストレスとか、厳しい校則とか、家庭の環境とか、被害者の性格などの要素は、いじめの発生とはほとんど関係がありません。いじめの加害者や被害者にどうしてなるのか、特定の要因に還元することは不可能です。いじめに関わる役割(加害・被害・傍観・仲裁)が固定的でなく流動的であり、予測不可能であることが、数字で確認できました。
その中でもいちばん有意な要素は、「いじめを回避するための行動」です。自分がいじめられないために強い者に追随してより弱い者を攻撃する戦略を採用する者が、いちばん加害者になりやすいことが分かりました。つまり今後は、「いじめ回避スキル」を身につけるための教育が重要です。また被害者は、孤立して逃走しやすいことが分かりました。孤立させないためのメンター制度の確立が重要になってきます。

【感想】なかなか興味深い結果であった。数字で問答無用の結果が出てくるので、そこそこ説得力もある。
本論の結果は「いじめを回避する方法」の違いが加害者になるか被害者になるかの分かれ目ということだった。言い換えれば、いじめに対する「メタ認知」が決め手になるということだ。そう考えると、いじめが小学校高学年から顕著に増加することの理由も説明できそうだ。すなわち、小学校高学年は「メタ認知」の力が発達する段階に当たるからだ。メタ認知能力が発達することで、集団内における振る舞い方の戦略が個性化し、ここから加害者と被害者(および傍観者と仲裁者)が分化するというストーリーが描ける。
この認識が正しいとすれば、いじめを防止するためには「メタ認知」に働きかけることが肝要ということになる。単に「イジメは卑怯だ」などとメッセージを送ることに、たいした意味はない。「イジメは卑怯だ」というメッセージを発するのであれば、同時にその認識を自分の所属集団が共有しているという「メタ認知」メッセージも発しなければ、意味はない。逆に、どれだけ「いじめは卑怯だ」というメッセージを発しても、所属集団が「卑怯で上等」という認識を共有していれば、むしろいじめは加速することになる。

「メタ認知」という補助線を導入することで、いじめに対する効果的な介入の在り方に大きなヒントが与えられるように思ったのであった。

田原俊司『「いじめ」考―「いじめ」が生じる原因と対策について』八千代出版、2006年

【要約と感想】苫野一徳『「学校」をつくり直す』

【要約】学校は、近代社会を立ち上げるには有効でしたが、いまや時代遅れです。みなが同じ内容を同じ場所で同じペースで同じように教えるシステムが賞味期限切れなのです。これからの時代に対応するには、学びの個別化・協同化・プロジェクト化を推進しなければなりません。無理だと言う人がいますが、必ずできます。

【感想】大きな刺激を受ける本だった。
全体的には著者がこれまでの本でも主張していた内容が繰り返されている。立場にまったくブレはない。が、様々な立場の人々との対話と交流を踏まえた上で、ひとつ上のステージから丁寧なフィードバックが加えられており、さらに一回り説得力を増した感じがする。さらに地に足が着いた印象を持つ。机上の空論ではなく、現実を変えてくれそうな期待感を抱かせる。

個人的に特に刺激を受けたのは、教員養成に関する具体的な話だった。私も教員養成課程で授業を持っており、著者と立場を同じくする。大学での教員養成課程にかける著者の姿勢と具体的な授業の様子を垣間見て、大きな刺激を受ける。100人超のマスプロという苛酷な環境でもプロジェクト型の講義をやりきる姿勢に、頭が下がる。私も頑張らなければいけないと、襟が正される思いであった。以前から腹案はあったが、いよいよ今年度の後期からプロジェクト化した授業でやっていこうと、腹を据えた。
評価が「合/否」でいいという話には、激しく同意する。教員が個性的でないのに、学校や子どもが個性的になるわけがない。教職コア・カリキュラムは、天下の大愚策であるように思う。また著者が言うように、教員免許更新講習も、さっさと廃止したほうがいい。誰一人得をする人がいない大愚策だ。(まあ、どっちみちやらなければいけないのなら、少しでも有益な時間になるように努力はするのだけれども。)

専門家として気がついたのは、本書に一言も「人格」と「個性」という言葉が登場しなかったことだ。昔の本ではうっかり「人格」という言葉を使ってしまう個所があったりしたが、本書は徹底的に「人格」および「個性」という言葉を排除している。個人的にかねがね思っていたのは、教育論に「人格」とか「個性」という言葉が登場したとたんに、地から足が離れ、現実感がなくなり、ふわふわした情緒的な議論に陥りやすいということだ。本書が抽象化や一般化のワナにはまっていないのは、「人格」とか「個性」といった情緒的に分かった気になるマジックワードを完全に排除して、著者のコントロール下にある概念だけで議論を構成していることが肝心なように思う。地に足が着いているように感じるのは、本書で用いられる抽象的な概念それぞれにしっかり血が通っているからだろう。

著者と私とでは、最奥の学問的立場においては決定的な相違があるような気はしているものの、そんなものは教育と学校の厳しい現実の前では極めて些細なことだ。著者の活動を、ささやかながら応援していきたい。私も目の前の小さなことから頑張ろう。まずは前期のテストの採点だ……

苫野一徳『「学校」をつくり直す』河出新書、2019年

【要約と感想】加納寛子編著『ネットいじめの構造と対処・予防』

【要約】現代のいじめへの対応はスピードが肝心です。従来のいじめに有効だった転校等の手は、ネットいじめには通用しません。侮辱や名誉毀損は親告罪なので、さっさと警察に告訴状を提出し、速やかに証拠を集め、いじめ加害者に法の裁きを与えましょう。具体的な告訴状の書き方指南付き。
加害者は勝手な言い分でいじめを正当化するので、その論理を突き崩しましょう。部活はいじめの温床なので廃止しましょう。

【感想】著者の加納・内藤・西川で、言っていることが相当違っていて、総合的にはどうしていいのかよく分からないところではある。
西川は「学び合い」が大切だと主張している。教科教育で子どもたちの自発的な学び合いをさせると、いじめもなくなっていくと言う。
一方の内藤は、学級という閉鎖空間そのものがいじめの温床だと言う。「みんな」という同調圧力の下では、自律的な人間ほどいじめの対象になると言う。
というわけで、西川と内藤で、まるで言っていることが違うのだった。まあ、いいけど。

編著の加納も、なかなかオリジナリティあふれる主張を繰り広げている。アラブ首長国連邦やサウジアラビアにはネットいじめがないから見習おうとか、モンゴルの教育でSNSを教育を使っている例を参考にしようとか。あらゆる点で条件が異なる国を、教育だけ切り取って見習えるものかどうか疑問ではあるけれども、まあ、いいか。

【言質】
「人格」に関する用例をいくつか得た。

「自由な個人として生きているときは、個々がもつ1つの人格を互いに尊重するという約束がある。ところが、学校のような独特の秩序の中では、その場その場の勢いに応じて「すなお」に部分的人格状態の断片にスイッチが入ったり切れたりすることが大事だ。今自分がどういう空気の中にいるのかがスイッチ切り替えの目安になると、人格がその場次第でバラバラにならざるを得ないが、そうでなければ周りとうまくやっていけない。学校の集団生活は人格の断片化を強制する。」(184頁、内藤執筆箇所)

「適度な距離を置きつつ、とことんいってしまう前に、いい具合に調整することを可能にするためには、自律的な個人の人格が尊重されている必要があります。実際には、金や腕力や扇動力や声の大きさや度胸などが違うにもかかわらず、1人ひとりの人格が尊重され、個人として尊重されるという建前がまがりなりにも社会秩序として行き渡っていると、誰もが相手が嫌だと思う程度に応じて距離を遠ざけられ、相手が好ましく思う程度に応じて距離を縮められる傾向が強くなります。」(221頁、内藤発言)

まあ確かに、学校にいる子どもの人格が完成していれば成り立つ理屈ではある。ところが、学校とは、子どもの人格を形成する場所なのだ。いままさに人格を形成する場所で、果たして完成した人格を前提に話をしていいのかどうか。ここが教育学の抱える本質的なアポリアなのであった。

加納寛子編著、内藤朝雄・西川純・藤川大祐著『ネットいじめの構造と対処・予防』金子書房、2016年

【要約と感想】諸冨祥彦『教室に正義を!―いじめと闘う教師の13か条』

【要約】いじめは、まず被害者を救済することが一番大切です。特に近年では自己中心的で攻撃的な子どもがいじめ被害者になっていますが、「いじめられた方が悪い」と決めつけるのではなく、被害者に寄り添っていきましょう。
いじめをなくすために決定的に重要なのは、「正しいことは正しい」と声を上げることができる環境づくりです。父性的な「正義の感覚」に満ちた学校を作りましょう。

【感想】2007年出版ということで、ゼロ・トレランスが大流行している時期に出た本だ。その影響が色濃くあるように思う。具体的には、出席停止をためらわないとか、「父性」の礼賛や、加害者への教育的指導の観点が極めて弱い点だ。そういう意味で立場と限界が分かりやすい本ではあると思う。
そういう限界を理解した上で読めば役に立たないこともないが、真に受けるといろいろと上手くいかない可能性があるようにも思う。特にネットいじめの現実にはまったく対応していないし、むしろ炎上しやすい立場に見えるので、注意が必要だ。正義の共同体は、容易に「排除」の構造を作りだし、排除されたルサンチマンはアングラへと向かう。歴史が証明している。
個人的には、「正義」を安易に前面に打ち出すのは、かなり危険な気がしている。著者も気がついているようだが、「正義」は容易に「教育的動機によるいじめ」を蔓延させる土壌になるからだ。「正義」は、扱いが難しい。
被害者に寄り添うという観点ではとてもいいことがたくさん書いてある。そこは学んでいきたい。

諸冨祥彦『教室に正義を!―いじめと闘う教師の13か条』図書文化、2007年

【要約と感想】教育科学研究会編『いじめと向きあう』

【要約】いじめは、懲罰と権力では決して解決しません。いじめは、日本社会の構造に根ざしており、どの学校でも起こりえます。未然予防は本質的に不可能であって、学校や先生にできることは、致命的な結果を引き起こさないための対策です。対話と協調が重要です。いじめの解決を通じて、子どもたちが人間的に成長します。

【感想】いじめの理論、社会的背景、実例、解決へ向かうためのヒント、総合的にいじめを考えるための読書案内など、とてもバランスが良い内容になっている。初心者がまず読む本としてお勧めしやすい。単純な厳罰化が本質的な解決をむしろ妨げていることがよく分かるだろうと思う。ゼロ・トレランスは、仮に凶悪犯罪にはうまく対処できるとしても、学校や教育にはまったく馴染まない。
いじめ解決に成功した実践例は、とても参考になると思う。酷いクラスの中にも必ずいじめをなくしたいと思っている子がいるはずで、その子を孤立させず、粘り強く連帯させていくことが最終的に決め手となる。クラス全体の雰囲気をどう作っていくか、教師の手腕が問われるところになる。

教育科学研究会編『いじめと向きあう』旬報社、2013年