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【要約と感想】加納寛子編著『ネットいじめの構造と対処・予防』

【要約】現代のいじめへの対応はスピードが肝心です。従来のいじめに有効だった転校等の手は、ネットいじめには通用しません。侮辱や名誉毀損は親告罪なので、さっさと警察に告訴状を提出し、速やかに証拠を集め、いじめ加害者に法の裁きを与えましょう。具体的な告訴状の書き方指南付き。
加害者は勝手な言い分でいじめを正当化するので、その論理を突き崩しましょう。部活はいじめの温床なので廃止しましょう。

【感想】著者の加納・内藤・西川で、言っていることが相当違っていて、総合的にはどうしていいのかよく分からないところではある。
西川は「学び合い」が大切だと主張している。教科教育で子どもたちの自発的な学び合いをさせると、いじめもなくなっていくと言う。
一方の内藤は、学級という閉鎖空間そのものがいじめの温床だと言う。「みんな」という同調圧力の下では、自律的な人間ほどいじめの対象になると言う。
というわけで、西川と内藤で、まるで言っていることが違うのだった。まあ、いいけど。

編著の加納も、なかなかオリジナリティあふれる主張を繰り広げている。アラブ首長国連邦やサウジアラビアにはネットいじめがないから見習おうとか、モンゴルの教育でSNSを教育を使っている例を参考にしようとか。あらゆる点で条件が異なる国を、教育だけ切り取って見習えるものかどうか疑問ではあるけれども、まあ、いいか。

【言質】
「人格」に関する用例をいくつか得た。

「自由な個人として生きているときは、個々がもつ1つの人格を互いに尊重するという約束がある。ところが、学校のような独特の秩序の中では、その場その場の勢いに応じて「すなお」に部分的人格状態の断片にスイッチが入ったり切れたりすることが大事だ。今自分がどういう空気の中にいるのかがスイッチ切り替えの目安になると、人格がその場次第でバラバラにならざるを得ないが、そうでなければ周りとうまくやっていけない。学校の集団生活は人格の断片化を強制する。」(184頁、内藤執筆箇所)

「適度な距離を置きつつ、とことんいってしまう前に、いい具合に調整することを可能にするためには、自律的な個人の人格が尊重されている必要があります。実際には、金や腕力や扇動力や声の大きさや度胸などが違うにもかかわらず、1人ひとりの人格が尊重され、個人として尊重されるという建前がまがりなりにも社会秩序として行き渡っていると、誰もが相手が嫌だと思う程度に応じて距離を遠ざけられ、相手が好ましく思う程度に応じて距離を縮められる傾向が強くなります。」(221頁、内藤発言)

まあ確かに、学校にいる子どもの人格が完成していれば成り立つ理屈ではある。ところが、学校とは、子どもの人格を形成する場所なのだ。いままさに人格を形成する場所で、果たして完成した人格を前提に話をしていいのかどうか。ここが教育学の抱える本質的なアポリアなのであった。

加納寛子編著、内藤朝雄・西川純・藤川大祐著『ネットいじめの構造と対処・予防』金子書房、2016年

【要約と感想】渡辺真由子『大人が知らないネットいじめの真実』

【要約】大人が知らない間にネットいじめが酷いことになっています。携帯を持つことは避けられない以上、情報教育を充実させてネットリテラシーを育成しましょう。テレビやゲームの影響は無視できませんが、権力による規制は危険です。被害者に対処するのではなく、加害者への指導を徹底しましょう。

【感想】ネットでの勇猛果敢ぶりを知っていると、本書の記述はそこそこまともに思える。まあ、10年の間に人が変わってしまったということかもしれないが。とはいえ、因果関係と相関関係の違いを理解していないところは、変わっていないのかもしれない。

そんなわけで、全体的に言いたいことは分からなくもないのだが、尾木直樹等のいじめ対策と根本的に異なるのは、著者が「子どもの参加」について一切の考慮を払っていないところだろう。著者は、一方的に子どもを守ったり指導したりしようとしている。子どもの権利条約を引用するところでも、「子どもの参加」には一切ふれず、一方的にメディアから守られる権利だけを強調している。著者が道を踏み誤ったとすれば、「子どもの権利条約」の一部だけを切り取って、全体的な精神を尊重していないことが問題だったのではないかと思われる。おそらくもう、大人が上から目線で「子どもに有害なもの」を選定して排除隔離するのでは、つまり子どもを単に子ども扱いするだけでは、何も解決しないだろうということだ。

まあ、さしあたって、以下に引用する文章を渡辺真由子が活字に残していることは記憶しておいていいのかもしれない。

「そもそも権力機関による規制は、背後に政治的意図が働く恐れがあるため、やみくもに許すわけにはいかない。臭いものにフタをするだけではなく、子どもたち一人一人が、自分の頭で情報を判断できるようになることが大切だ。」(178頁)
「権力による規制は絶対的な力を持つだけに、慎重さが求められる。政府が有害性を判断するとなると、「子どもにとって有害か」という基準が、いつの間にか「政府にとって有害か」という基準にすり替わりはしないか。」(187頁)

ここまで分かっているなら、さらに踏み込んで「おとなによる規制」が本当に有効かどうかを考えても損はなかった。「こどもの参加と意見表明」をどのように制度的に組み込むかを考えても良かった。いろいろと勿体ない感じがするのであった。

渡辺真由子『大人が知らないネットいじめの真実』ミネルヴァ書房、2008年