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【要約と感想】宇沢弘文『日本の教育を考える』

【要約】教育は、リベラリズムの理念に基づいて行なわれるべきです。しかし現実の日本の教育は、資本主義と官僚主義に歪められ、非民主的で不平等を再生産する装置になっています。経済学が社会的共通資本を見失って公害を引き起したのと同じ過ちです。
教育は、社会的共通資本です。大学は自由に学問を追究すべきです。学習指導要領は廃止し、教育委員会は公選制に戻すべきです。数学大好きな著者の半生も語ってます。

【感想】20年以上前の本ということもあって、情報はそこそこ古くなっている。単純な事実誤認もある。教育学に関する基本的な知識も欠けている。
とはいえ、なかなかおもしろく読める本ではあった。旧制高等学校の精神から薫陶を受け、海外の大学の実際を経験し、ベトナム戦争により荒廃するアメリカの状況を肌で感じ、東大でも学問の自由のために闘った著者にしか書けない本である。この貴重な経験には、多くの人に共有されるべき価値がたくさん含まれているように思った。そしてそれ以上に、学問と社会正義に殉じる著者自身の誠実さが、胸を打つ。
ボウルズ=ギンタスをしっかり勉強し直そうと思ったのであった。

また改めて、「社会的共通資本」という考え方はなかなかおもしろいのかもしれないと思った。新自由主義に対抗して「公共性」を取り戻そうとする時に、経済学からの援軍として利用できる概念かもしれない。

「社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置です。社会的共通資本は社会全体にとって大切な共通の財産であって、社会的な基準にしたがって慎重に、大事に管理、運営されるものです。」(155頁)

【事実誤認に対するツッコミ】
森有礼に言及している文章があるが、教育史専門家としては、ツッコミを入れておかなければならない。

「森有礼が書いた文章を読むと、教育勅語の草案はかれが書いたのではないかと思われるほどです。」(174頁)

いや、森有礼からは、逆立ちしても教育勅語は出てこないはずだ。森は確かに国家主義者ではあるが、近代的な国家主義者であって、前近代的な儒教家族的国家観とは無縁な男である。教育勅語は反動的儒教主義の元田永孚と近代主義的国家官僚の井上毅による合作であって、森の教育的立場とはずいぶん異なる。
いちおう、専門的立場から訂正を入れておく。

また単純な誤字としては、「期待される人間像」が「1996年」となっていた(206頁)が、もちろん1966年だ。また臨教審による教育改革が1970年代後半から80年代初めとされている(207頁)が、もちろん80年代後半のことだ。

【言質】
「人格」という言葉がたくさん出てくる。

「私たちはいま改めて、教育とは何かという問題を問い直し、子どもたちの全人格的成長をもとめるリベラリズムの理念に適った教育制度はいかにあるべきかを真剣に考えて、それを具現化する途を模索する必要に迫られています。」(ii頁)
「一人一人の子どもがもっている個性的な資質を大事にし、その能力をできるだけ育てることが教育の第一義的な目的であることはいうまでもありませんが、同時に、子どもたちが成人して、それぞれ一人の社会的人間として、充実した、幸福な人生をおくることができるような人格的諸条件を身につけるのが、教育の果たすもう一つの役割でもあります。」(11頁)
「これらの大先生たちはどなたも、私たち生徒を一人の独立した人格として丁寧に遇して下さった」(99頁)
「現在の大学は、学問の専門化に対応して、専門教育を授けることを主な目的としています。一人一人の学生がすでに一個の完成した、独立した人格をもつ社会的存在ということを前提として、専門的な学問的知識を教授するというのが、大学の目的になっています。しかし、現在の高等学校での教育は必ずしも、この前提をみたすものではなく、精神的にも、人格的にも、未成熟のままの大学生による反社会的な行動、陰惨な犯罪が後を絶ちません。」(213頁)

うむ。最後の旧制高等学校を経験した者の「人格」用法は、なかなか感慨深い。この「人格」に込められている理想は、現在の「人格」とはずいぶん違っているような感じがするのであった。

宇沢弘文『日本の教育を考える』岩波新書、1998年

【要約と感想】平田オリザ『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』

【要約】コミュニケーション能力が注目されていますが、それは人格とはまったく関係がないただの技術や習慣であって、むしろ環境整備によってなんとかするべきものです。
 人間同士がわかりあえるというのは、幻想です。「会話」と「対話」は違うものです。これからは、お互いがわかり合えないことを前提にしながら共通点を探り出し、新たな落としどころを見つけられるような、「対話」のスキルを磨いていきましょう。

【感想】昨今、「コミュニケーション能力」がやたらともてはやされて、学生の中にも「私はコミュニケーション能力が高い」と言っちゃうのがいるけれども、まあ、たいがいは企業も学生も単に勘違いをしているだけだろう。彼らが言うコミュニケーション能力とは、実際のところはだいたい「空気を読む能力」とか「忖度する能力」とか「単にノリがいい」ことを意味しているわけだが、もちろん本物のコミュニケーション能力とはそんなものではない。コミュニティが崩壊して従来の「通俗道徳」が通用しなくなったときに、「誰もが合意できるルール」つまり「公共」を作り出す時に必要となる対話の力と意志こそが、「コミュニケーション能力」の本質だ。同じ価値観の枠の内側で盛り上がる力ではなく、異なる価値観の間で対話を続ける努力だ。既存のルールに無条件に従う能力(協調性)ではなく、未知のルールを発見し創造する能力(社交性)だ。そんなわけで、「わたし、コミュニケーション能力あるんだ」と言っちゃう奴ほど、実はコミュニケーション能力がなかったりする。

 とすれば、それはカントが言っていた実践理性の力でもあるように読める。つまり、自己と他者をかけがえのない「人格」として承認することから始まる力である。「個」として自律することから始まる力である。コミュニケーション能力とは、決して集団に溶解する力ではない。スピノザの言うモナドである。
 などと思っていたら、著者はそうではないと言う。確かなアイデンティティなどというものは存在しないということらしい。スピノザでもカントでもない(つまり近代ではない)形での「個」を想定しているようだ。しかし、そんなもの可能なのだろうか? やはり最終的に集団に溶解してしまうだけなのではないだろうか。そのあたりの問題は、「人格」という言葉の用例に端的に見ることができる。

 ところで「100分de名著」の中江兆民『三酔人経綸問答』回の案内役が平田オリザで、不勉強にも意外に思ってしまったが、実は平田の卒論のテーマは中江兆民だったらしい(対象は『三酔人経綸問答』ではなく『一年有半』)。中江兆民についての研究を重ねてきているのであれば、「対話」についてもかなり深まっていると信頼していい気はしたのであった。

【言質】
 「人格」の用例サンプルをいくつか得た。

「ここで求められているコミュニケーション能力は、せいぜい「慣れ」のレベルであって、これもまた、人格などの問題ではない。」(37頁)
「日本の学校の先生方は真面目だから、どうもコミュニケーション教育と人格教育を混同しがちになる。」(147頁)
「ナイフとフォークがうまく使えるようになったところで人格が高まるわけではない。人格の高潔な人間が、必ずナイフとフォークがうなく使えるわけでもない。マナーと人格は関係ない。」(149頁)

 うん、なるほどという用例ではある。おそらく私が思う「人格」と、著者が言う「人格」は、中身がそうとうにズレている。まあ、本書の趣旨から言えば、どっちが正しいとかそういう問題ではなく、ここから「対話」が始まる「ズレ」ということになるだろう。

本当の自分なんてない。私たちは、社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している。
演劇の世界、あるいは心理学の世界では、この演じるべき役割を「ペルソナ」と呼ぶ。ペルソナという単語には、「仮面」という意味と、personの語源となった「人格」という意味が含まれている。仮面の総体が人格を形成する。」(219頁)

 この文章は、やはり私の価値観からは承認しにくい異物を含んでいる。私の考える「人格」とは、「役割の束」ではなく「責任の束」である。「本当の自分」とは、世界の中で果す役割などではなく、「まさにこの私にしか引き受けられない責任の主体」に他ならない。この「責任」という概念を溶解させてしまうような人格概念は、私の価値観から言えば、極めて危険である。
 つまり論理的かつ倫理的な問題は、著者が言う「役割の束としてのペルソナ」から、果たして「責任」とか「人権」という概念が生じ得るかどうか、ということになる。いかがだろうか。

平田オリザ『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書、2012年

【要約と感想】横田増生『中学受験』

【要約】私立中高一貫校の受験熱が盛り上がっています。受験産業によるゆとり教育ネガティブ・キャンペーンに踊らされた保護者がたくさんいたようです。
でも、ちょっと冷静になってみてください。私立中高一貫校にもいじめはあります。中途退学者の末路は、哀れです。お金も異常にかかります。中学受験に成功しても、人生に成功できるとは限りません。
教育の機会均等の観点から考えれば、私立中高一貫校や塾など受験産業は、公共性を度外視して、商業主義に走りすぎています。やりすぎです。
家庭の経済格差による学力格差拡大を、日本人は受け容れつつあります。このままでは、教育の機会均等は崩れ、日本社会の活力も失われるでしょう。

【感想】塾に行く必要など一切ないと思ってしまうのは、まったく塾に行くことなく東京大学に現役合格した私の人生経験からすれば当たり前の見解なのだった。
が、まあ、それは地方公立高校で手厚い指導を受けられた者のポジショントークではある。時代と場所が変われば、もちろん考え方を変えていく必要はあるのだろう。「塾」というものの機能と役割は、教育学を生業とする者にとってはなかなか厄介な問題である。とはいえ、見て見ぬ振りをするわけにもいかない。しっかり視界に捉えておかなければならない。

まあ、教育の公共性という観点からすれば、現在の日本の教育構造が極めていびつな状態になっていることは間違いない。しかしそれを単に塾や私立中高一貫校の責任に押しつけることも不毛ではある。教育だけでなく、「自分さえ良ければ他人はどうなっても自己責任」という狂った新自由主義的自己責任論を蔓延させるに至った日本社会全体の構造的な問題を見据える必要がある。
公共性とは「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」の精神である。一人の子どもの教育のために大人たちみんなが責任を負い、子どもは成長したらその知識と能力をみんなのために使う。そうやってみんなで助け合って生きていけばいいじゃないか。だがしかし、今は、「私は誰にも頼らずに知識と能力を身に付けたのだから、私の知識と能力は私の金儲けのためだけに使う」という新自由主義的自己責任の精神が蔓延している。これでは日本は破滅する。いやはや。

横田増生『中学受験』岩波新書、2013年

【要約と感想】阿部泰尚『いじめと探偵』

【要約】著者は探偵として、いじめを捜査しています。大半のいじめは先生と親が本気になれば解決できるのですが、4割ほどは深刻な事案が発生しており、そこに探偵が仕事をする場があります。
現代のいじめは、かつてとは違い、だれが被害者になるかまったく分かりません。恐喝や援助交際、レイプなど、被害も深刻化しています。いじめ被害者が自分からハイテク機器を駆使していじめの事実を押さえることで解決に向かいます。
いじめが起こるのは、子どもが大人を真似するからです。大人がマトモでないのに、子どもを子ども扱いしていじめが解決するわけがありません。

【感想】要は大人も子どもも「一人の人間」として扱われることが決定的に重要だという、基本中の基本が確認できる本だ。いじめの加害者は、被害者をモノのように扱う。しかしおそらくそれは、大人の世界で一人一人がまともに人間として扱われていないことを反映しているだけだ。まずは大人たちが、自分を人間として大切にし、同じように他人も人間として大切にしなければならない。そうしなければ、子どものいじめが減るわけがない。

本書で示されたひとつひとつの事例は、にわかには真実とは信じられない。が、読み終わった直後の思いとしては、それらが真実か真実でないかは、おそらくさほど重要な問題ではない。「誰もが一人の人間として尊重される世の中であるべきだ」というメッセージこそが極めて尊いのだと思う。
いじめ解決のための細かい技術や手段も発達させていく必要はあるだろうが、まずは「誰もが人間として尊重される」という基本中の基本が共有されることがなによりも大切だ。そこを出発点にしなければ、どれだけ法律や制度を作っても、何も変わらない。

【言質】
「人格」という言葉に関する言質を得た。

「ところが今の子供たちの場合、被害生徒、つまりいじめられている子を人間とは思っていない。そう感じることがある。いじめられている子は加害生徒にとってはオモチャであって、人格を意識しているとは思えない。」(172頁)

「人格」の本来の意味に則った正しい使われ方だと思う。

阿部泰尚『いじめと探偵』幻冬舎新書、2013年

【要約と感想】尾木直樹『子ども格差―壊れる子どもと教育現場』

【要約】「普通の子ども」が大量殺人を犯したり、自殺したりしています。いじめもなくなりません。原因は、新自由主義に基づく競争至上主義とゼロ・トレランス導入です。競争原理と管理主義によって教育現場からゆとりがなくなり、子どもたちの声を聞く姿勢が失われています。
大切なのは、子どもを一人の人間として扱うことです。子どもが主体的に社会に参加することで、自己有用感を持つようになります。大人が一方的に「いい子」を押しつけるのは、完全に逆効果です。大人が押しつけた「いい子」こそ、むしろ犯罪者になってしまう恐れがあります。大人側が「よかれ」と思って行なうあいさつ運動や「心の教育」など、なんの効果もありません。押しつけるのは、やめましょう。

【感想】民主党政権時代に書かれた本で、教育政策に関する情報には古いものも含まれる。が、教育に関する基本的な考え方は、決して古くなっていない。というか、現実のほうがほとんど変わっていないと言ったほうがいいか。
子どもの権利をしっかり保証していくことが、遠回りのようで、結局はいちばんの近道になる。教育の基本がわかる、いい本だと思う。

【言質】
「人格」という言葉の用法のサンプルを得た。

「そうした中で、大事なのは「心」です。人格が豊かに育てば、学力だって上がり、スポーツもうまくなります。」(45頁)
「子どものためと言いながらも、突きつめれば、子どもの心を顧みることも人格を尊重することもなく、ほとんど親自身の自己満足か自分の夢の実現のために、子どもに「よい子」になることを求めているのがわかります。」(180頁)

2つのサンプルで使われている「人格」の意味は、突きつめていくと実は違うものになるかもしれない。

尾木直樹『子ども格差―壊れる子どもと教育現場』角川oneテーマ21、2010年