愛知県名古屋市にある、大高城に行ってきました。
大高城は、織田信長が全国デビューした「桶狭間の合戦」ゆかりの城として知られています。そして桶狭間直前まで、鵜殿氏はこの大高城の守備についています。ところがなんと、まさに桶狭間の真っ最中に鵜殿軍が何をしていたのか、動向はまったく不明だったりします。どういうことか。
大高城の案内板などにも書かれているように、織田方によって攻囲された大高城を守っていたのは鵜殿長照で、今川義元の甥にあたる有力武将でした。しかし兵糧不足に陥った大高城を救う形で、松平元康(後の徳川家康)が兵糧入れを行ったとされています。いわゆる「大高城兵糧入れ」の逸話であり、若き家康の武功として一般に知られています。通説では、この兵糧入れの後に鵜殿軍が城を退去し、代わって元康が大高城の守備についたと説明されます。
しかし私は、この通説に大きな疑問を抱いています。最大の理由は、その後の鵜殿軍の所在が完全に不明になるという点です。もし鵜殿軍が通説通り陸路退却したのであれば、今川本隊と合流するか、あるいは戦場近辺に留まり、桶狭間の合戦に巻き込まれていたはずです。にもかかわらず、鵜殿軍は桶狭間本戦から忽然と姿を消し、戦後はいつのまにか蒲郡の本拠地に戻っているように見えます。多くの今川方有力武将が討ち取られた桶狭間合戦において、今川方筆頭家老鵜殿氏に関する史料的空白はきわめて不自然です。
この問題は、兵糧入れの史実そのものに対する疑義とも関係します。私は、家康の兵糧入れに関して、異なる時期の事績が後世に混同された可能性を疑っています。まず『三河物語』では、永禄2年(1559 ― 桶狭間の前年)にも大高城への兵糧入れが記され、これを大戦功と高く評価しています。一方、『信長公記』では永禄3年(1560)の桶狭間直前に兵糧入れがあったと記されており、これがいわゆる大河ドラマ的な「決死の兵糧入れ」像の根拠史料となっています。しかし、『信長公記』における丸根砦攻略 → 兵糧入れという展開は兵站上きわめて不自然で、永禄2年の事績との混同を疑う余地があります。実際、『三河物語』の桶狭間関連部分では、家康は丸根砦攻略後に余裕をもって兵糧を入れたと記されており、『信長公記』とは戦術上の描き方が大きく異なります。もし『三河物語』の記述を採るならば、その兵糧は鵜殿軍救援ではなく、後から到着する今川本隊向けの補給と解するべきで、軍事的にはこちらのほうが圧倒的に整合的です。さらに『徳川実紀』でも大高城兵糧入れは桶狭間とは無関係の永禄2年の事績として処理されています。桶狭間において家康は、丸根・鷲津の両砦を攻略した後、鵜殿軍と交代で大高城に入ったとされますが、「兵糧入れ」の記述は存在しません。つまり、『三河物語』にも『徳川実紀』にも、後世一般に知られるような「決死の大高城兵糧入れ」の描写はなく、唯一そのイメージに合致する証言は『信長公記』のみに見られます。ところが『信長公記』の当該箇所は巻首部分にあり、史料としては一般に信頼性が低いと見なされています。以上を踏まえると、若き家康の軍功とされてきた「大高城兵糧入れ」は、永禄2年の軍功が永禄3年の桶狭間と混同された結果と考えるほうが合理的であるように思います。
さらに、家康が兵糧入れ後に鵜殿長照と「大高城の守備」を交替したことが事実だとして、それは通説で言われるような形で長照が「退却」したことを意味しません。重要なのは、大高城の地形と兵站環境です。当時は海岸線が大高城付近まで迫っており、海側からの補給や展開が可能でした。大高城直下には軍港遺構があったとの地元史家の指摘もあり、城が港機能を備えていた可能性は否定できません。もし大高城が海に面した「港を持つ城」であったとすれば、兵糧は海路から運び入れることが可能であり、もともと陸路包囲に弱い性質の城ではありません。この地形を踏まえると、海上戦力の配置と制海権の問題が浮上します。大高城の守備を担っていた鵜殿氏は、熊野水軍をルーツとする水軍の将であり、蒲郡を拠点とする海上勢力を伊勢湾に展開させていた可能性があります。織田方が陸側に丸根砦や鷲津砦を築いて包囲したとしても、海路の補給線まで遮断することは困難です。仮に信長が鵜殿軍の補給線を遮断しようとするなら、地形的に考えれば、衣浦湾一帯(緒川城・刈谷城)に勢力を広げていた水野信元の協力が不可欠になります。では、桶狭間当時、家康の叔父である水野信元はどのように動いていたのか。なんと、水野軍の動きも、鵜殿軍の動向が分からないのと同様、史料上は不明です(ちなみに『徳川実紀』によれば、大高城にいた家康に義元死去を知らせたのが水野信元)。おそらく桶狭間合戦の真相を明らかにするうえで、鵜殿と水野の二つの「水軍」の動向を理解することは、極めて重要なはずです。
このように考えてくると、大河ドラマなどで描かれる家康の「決死の兵糧入れ」というイメージは成立しにくくなります。海からの補給が可能な大高城の守備を水軍の将が担っていたのであれば、むしろ家康は『三河物語』が描くように、丸根砦攻略後に余裕をもって大高城に入城し、義元本軍の受け入れ準備を進めていたと解釈するほうが自然です。この場合、家康到着後に鵜殿軍が大高城を離れたのは「退却」などではなく、伊勢湾に展開して、義元本隊の大高城入りを海上から支援するための行動であったと考えるほうが合理的です。しかも、義元は既に大高城東方4km地点まで到達しており、入城目前だった状況において、信長勢力下の津島湊方面から伊勢湾に圧力が加えられる可能性なども考えれば、なおさら「伊勢湾」を直接制圧できる鵜殿水軍が撤退する理由などありません。
しかし義元が田楽坪で急襲され戦死したという報が入ったなら、鵜殿水軍が伊勢湾に居残る理由はありません。が、もちろん陸路で危険な戦場を通過して撤退する理由などなく、海路、伊勢湾から知多半島を回って蒲郡へ撤収したと考えるほうが自然です。この解釈であれば、鵜殿軍が桶狭間陸戦に登場しない理由が明確に説明できます。通説では、義元が鵜殿氏を特別扱いして退却を許したと説明されることがありますが、これを裏付ける史料は存在せず、後付けのいい加減な解釈に思えます。むしろ、戦闘中・戦闘後に鵜殿軍の姿が史料上から消えるという事実そのものが、鵜殿氏が陸戦部隊ではなく海上戦力として機能していた痕跡である可能性を考えるべきではないでしょうか。
以上の点から、大高城兵糧入れをめぐる通説や、鵜殿軍が大高城から「退却した」とする一般的な解釈には、再検討するべき余地が極めて大きいと考えています。特に、兵糧入れの時期に関する史料の混同問題に加えて、海上交通史・地形史・水軍史といった観点を踏まえると、従来の説明には不自然な点が少なくありません。
また、桶狭間合戦の最中に鵜殿軍の動向が史料上不明瞭であることは、単なる史料不足ではなく、当時の作戦上の役割を示す重要な手掛かりと見なすべきでしょう。加えて、鵜殿氏と同様に動向が掴みにくい水野氏についても、「水軍」という観点から地政学的に検証することで、桶狭間合戦について新たな視点が得られる可能性があるように思います。
さて、大高城の入り口には、こんなところから行けるのかと不安になるような細い道を抜けて辿り着きます。こちらは近代になってから開削・舗道された道で、戦国の当時は崖だったことが予想されます。
大高城の石柱が葉っぱに覆われています。
坂を登ると、本丸です。知多半島から伸びる舌状台地の北西端で、西の方に開けた伊勢湾を見晴らせる高台にあります。このあたりで城を作るならここしかないという絶好の立地条件です。
本丸は広く整地されていて、かなり重要な城であったろうことが分かります。が、あるはずの土塁は破壊されていて、当時の姿は失われています。戦国時代は海にも近かったので、船着き場などもあって水軍の基地としても機能していたのではないかと想像しますが、海が埋め立てられて海岸線が大幅に後退している現在では、当時の様子はよく分かりません。
本丸には八幡社が鎮座していました。戦の神ですね。
二の丸から本丸に抜ける土橋と空堀は、かなり良好な遺構を確認することができます。
樹木で埋まってしまって空堀の状態を確認するのは大変ですが、なかなか立派な堀です。二の丸の方も広々としていて、そうとうな数の兵力を蓄えられたように思います。ただし、江戸時代に入ってからも尾張藩に活用されていたので、戦国時代の様子がどうだったかは別の話になります。
三の丸のほうに降りてくると、休憩所に黒い猫が寝ていました。
2015年に訪れたのがかなり暑い日だったので、涼しい日陰で休んでいたようです。
三の丸は児童公園として整備されていて、かつての面影は残っておりません。船着き場があったとしたらこの周辺だったと思いますが、まったく痕跡は見当たりません。
2011年にも大高城を訪れたことがありますが、そのときは人相の悪い猫に出くわしました。
さて、大高城から北東に700mほど行くと、織田信長が築いた鷲津砦があります。
こちらはJR大高駅からすぐ近くです。ここも大高城三の丸と同じく児童公園に整備されていますが、なんだこの生物?
砦跡には遊歩道が整備されており、中腹に「鷲津砦」を示す柱石が立っています。現在は散歩にちょうどいい遊歩道となっていますが、450年前にはここから大高城を睨んでいたわけですね。
砦の麓に降りてくると、ズタボロの案内看板が。案内板によると、この砦は今川軍の攻撃で全滅したそうです。合掌。
さらに織田信長が築いた丸根砦へ移動。こちらも大高城攻撃のための拠点として築かれた砦で、大高城の東に800mほど行ったところにあります。
こちらの丸根砦も、今川軍の総攻撃によって全滅するという憂き目に遭っており、戦没者慰霊碑が建っております。
かなり急な斜面を下ってくると、砦の麓に説明看板が。家康に攻められて守備隊が全滅した経緯が説明されておりました。
そんなわけで、織田信長とも徳川家康とも単独で戦った戦国武将は鵜殿長照以外では武田信玄くらいしかいないのではないかと思い至り、「信長の野望」等での鵜殿氏の能力の不当な低さに憤慨しながら、大高城を後にするのでした。
(2011年5月、2015年8月、2023年1月訪問)
鵜殿の野望シリーズ
【第一章】鵜殿城という城がある
鵜殿一族は、平安時代に紀伊半島の熊野大社に関わる海賊として頭角を現します。
【第二章】鵜殿氏一門の墓
大坂夏の陣で滅びた鵜殿一族の墓を、現在も地元の人が大切に管理してくれています。
【第三章】上ノ郷城で徳川家康と戦う
鵜殿一族は、戦国時代に今川義元配下の武将として頭角を現し、徳川家康と死闘を繰り広げます。
【第四章】桶狭間の合戦で何をしていた?
桶狭間の合戦においても、鵜殿氏は重要な役割を果たしています。
【第五章】蒲郡に君臨する鵜殿一族
愛知県蒲郡市には、鵜殿一族が構えた城の痕跡がいくつか残されています。
【第六章】吉田城と鵜殿兵庫之城
鵜殿氏は、徳川家康との戦いの末、愛知県豊橋市に残る吉田城にも立て籠もります。
さらに続く。刮目して待て??















































