「古代」タグアーカイブ

【要約と感想】トゥーキュディデース『戦史』

【要約】ギリシア世界が一体となって異民族ペルシアからの侵略を撃退してから50年、今度はギリシア人同士による長く激しい戦争が始まりました。アテナイ連合軍とスパルタ同盟軍が27年も闘った、ペロポネソス戦争です。本書はその前半20年分の記録です。アテナイ降伏に至る最後の7年は、残念ながら扱われておりません。
ペロポネソス戦争を教科書的に理解すると、なんとなくアテナイとスパルタがガチンコで正面衝突するような形を想像してしまいがちですが、実際の経緯はまるで異なります。実は自由帝国主義アテナイと身分制スパルタによる、植民地の取り合いです。戦線は、ギリシア北東部のトラキアやマケドニア、あるいは北西部のケルキューラ、またあるいはエーゲ海対岸のイオニア地方やシケリア島を含むイタリア諸都市へと広がっていきます。アテナイ本国を巡って戦闘が行なわれたのは27年のうち最終盤も最終盤で、実は本書はそこに至る前に話が終わってしまいます。

【感想】ペルシア戦争を扱ったヘロドトス『歴史』と比較すると、本書の特徴が際立つ。本書は、著者の主観を極力排除した客観的な描写が印象的だ。ヘロドトスのほうは情報源や客観性が担保されていない噂話レベルのエピソードを極めて多く採用しているが、本書のほうは確かな情報のみに拠って客観的な記述を心がけているように見える。訳者のきびきびした日本語も、その印象を高めるのに一役かっているのかもしれない。日本語のリズムが、とても良い。

その文体的な特徴に伴っているのだろう、本書は具体的な戦術や戦闘レベルの描写に非常に優れている。ヘロドトスのほうは、ペルシア戦争を扱っていながら、具体的な戦闘シーンの描写はほとんどない。戦術レベルの話にも厚みがない。熱を入れて描写しているのは、戦闘前の神託や占いだったりする。しかし本書は、極めて詳細に戦術レベルや戦闘レベルの描写を尽くしている。両陣営の総戦力、経験値、指揮官とその履歴、進軍ルート、陣構え、兵站に加え、会戦場の地政学的な特徴、会戦に至る背景、両陣営の士気や心理状態が細かく描写されている。だから戦闘の帰趨は、精神的なもの(たとえば「自由の精神」)ではなく、客観的な環境や条件によって決まる。本格的な会戦で陣形が右へ右へと押しだされる客観的な根拠は、なるほど、勉強になった。こういうところは、ヘロドトスには完全に欠けているところだ。

詳細な籠城戦描写にも、感じ入った。土木工事の重要性が、心底よく分かる。特にアテナイによるシュラクーサイ侵攻では、土木工事のスピードが勝負の分かれ目となった。日本の戦国時代でも土木工事は極めて重要だったはずなのだが、地味なためなのだろう、あまりクローズアップされることはない。しかし織田信長や豊臣秀吉、あるいは武田信玄や真田父子の強さが土木工事に拠ることは明らかだろう。そういう戦争というもの(特に籠城戦)における土木工事の意義をこれほど高い説得力で描いている本は、古今東西を通じてほとんどないのではないか。

戦術レベルの話では、特に「内乱」と戦争との連携が極めて印象深かった。攻城戦の帰趨は、外部の戦闘行為で決着がつくのではなく、お互いの内部にいる反乱分子を扇動できるかどうかで決まる。個々の戦闘行為は、内部崩壊を引き起すためのきっかけに過ぎないとも言える。というか、個々の戦闘行為も、内部扇動がきっかけとなって連動して発生する。「戦争」と「内乱」は、密接不離に連動している。
その際、アテナイの手口が現代のアメリカ帝国主義と重なって、なかなか笑えない。敵側の自由民主主義勢力に力添えをすることで、内部から封建的身分制秩序を壊すというやり口。自由民主主義にシンパシーを感じている立場からいえばなんの問題も感じないかもしれないが、戦略的に見ると、実はただ単に相手側の内乱を誘うための口実に過ぎないという。そしてシケリア島侵略などに見られる通り、「民主主義を広める」というスローガンが単なる表面的な口実に過ぎず、本音は領土侵略にあるというところも。そうすると、本書で描かれたスパルタの言い分ややり口(帝国主義からの解放)が、現代のロシアに重なって見えてくるのであった。いやはや。

【今後の研究のための備忘録】
やはりソクラテスの処刑やプラトンの思想形成との関係は、とても気になる。ソクラテスの処刑は、ペロポネソス戦争終結から5年後のことだ。戦争や戦後処理の影響と無関係であるはずがない。本書では「民主主義」の機能不全や、扇動に惑わされる一般大衆の愚かさが縦横に描かれている。もしアテナイの一般大衆がかくも愚かであったのなら、ソクラテスが処刑されるのも仕方がないことなのかもしれない。
メディアリテラシーが低く、デマに踊らされ、簡単に扇動される民衆の姿は、現代の我々の姿にも通じる。

「このように、大多数の人間は真実を究明するためには労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳をかたむける。」上巻73頁

プラトンの思想形成にとって、ペロポネソス戦争の経緯はやはり決定的な影響を与えているのではないかと思ってしまう。アテナイ民衆の自己中心的な欲望暴発と道徳退廃は、プラトンの民主主義嫌悪と哲人政治推進の背景になっているだろう。

「愛国心」に関しても、興味深い記述があった。まあ、ギリシャ語の原語で「愛国心」がどう表現されているかは、しっかり検討する必要があるが。
まずペリクレスの演説の中から。

ポリスを愛し、金銭の誘惑に負けぬことでも何びとにも引けを取らぬ。」上巻246頁

ペリクレスは、自己中心的に欲望を満たすこと(金銭の誘惑)と、ポリスへの愛を背反するものとして描写する。愛国(正確には愛ポリス)とは、私利を度外視し、「公利」を追究することだ。
こんなペリクレスに対し、アルキビアデスの言う「愛国心」は、ちょっと様子が違ってくる。

「また私の愛国心とても、私に濡布を着せた国に捧ぐべきものにはあらず、市民として己が権利を守られていた国に尽す心情に他ならない。(中略)そもそも真の愛国者とはいかなる人か、己れの祖国を没義道に奪われながらこれを奪回しようともせぬ輩の称ではあるまい、己れの国を愛するがゆえに、あらゆる手段にうったえて取戻そうと務める者こそ、その名に値する。」下巻126頁

なんだかまあ。こんな理屈を言い始めたら、私利私欲にまみれた権力者もテロリストも、みんな愛国者になってしまうわけだ。

それから、専門の教育に関しても、興味深い記述があったので、メモ。まあもちろん、原語がどうなっているかは慎重に確認する必要があるが。
まずスパルタ側が自分たちの教育を自画自賛するアルキダーモスの演説から。

「われらがよき判断の主たりうるのは、法を犯す知恵をあたえず法にそむかぬわきまえを克己によって培う教育による。(中略)人間が人間である以上、もとより素質において敵味方に大差はない、しかし厳格無比の克己訓練で鍛えられたものこそ最後の勝利者たることを疑わない。
この教育の鉄則は、父祖いらいわれらに伝えられた伝統であり、われら自身生涯をつうじてその恩恵によって今日にいたったのであれば、その教をゆるがせにすることはならぬ」上巻133頁

いわゆるスパルタ教育の一端を伺うことができる記述だ。
一方のアテナイも、ペリクレスが自分たちの教育を自画自賛している。

「子弟の教育においても、彼我の距りは大きい。かれらは幼くして厳格な訓練をはじめて、勇気の涵養につとめるが、われらは自由の気風に育ちながら、彼我対等の陣をかまえて危険にたじろぐことはない。(中略)ともあれ、苛酷な訓練ではなく自由の気風により、規律の強要によらず勇武の気質によって、われらは生命を賭する危険をも肯ずるとすれば、はや此処にわれらの利点がある。」上巻227-228頁

スパルタ式訓練よりも、アテナイの自由な気風のほうが長い目で見れば優れた人材を養成するという考えが表明されている。そしてスパルタ式訓練とアテナイ式教育のどちらが優秀かは、現代でもまだ議論は終わらないのであった。

また「学校」について興味深い記述があったので、メモ。ボイオティア領のミュカレーソスの街(さして大きくもないらしい)がトラキア兵によって蹂躙される描写である。

「其処には非常に大きい、子供たちの学校があり、ちょうどその朝子供たちが校内に入り終ったところであったが、ここにも乱入した兵士らは、子供らを一人のこらず斬殺した。」下巻172頁

子どもたちだけを収容する「学校」が、大都会ではない小さな町にもあったことが分かる。この場合の「子供」が何歳くらいを指しているのかは、本書の描写だけでは分からない。ただ本書の著者が、この事件を非常に残念に思っていることは伝わってくる。古代において「子ども」とは何か、「学校」とは何かを考える上で、一つのヒントになる記述である。

ところで著者の表記は、ツキディデスか、トゥキディデスか、ツキヂデスか。難しいなあ。どうでもいいんだけれども。

トゥーキュディデース『戦史(上)』岩波文庫、1966年
トゥーキュディデース『戦史(中)』岩波文庫、1966年
トゥーキュディデース『戦史(下)』岩波文庫、1967年

【要約と感想】青野太潮『パウロ―十字架の使徒』

【要約】キリスト教はパウロの思想を土台として成り立っています。その思想の根幹は、現在のキリスト教の常識(イエスの贖罪と復活)ではなく、十字架にかけられたままの弱々しい人間イエスを信じるところにあります。というのは、イエスの「贖罪」はユダヤ教の律法と供犠を前提とした発想であって、キリスト教の本質とは無関係ですし、復活の奇跡ような「強い」イエス像に依拠することはむしろ人間の罪(傲慢)を増幅するだけだからです。パウロが本当に伝えたいのは、人間の「弱さ」に謙虚に向き合って自覚するところに本当の強さがあるということです。

【感想】キリスト教の本質的な思想に関して私が知識として理解していたところ(贖罪と復活)を、本書は徹底的に否定してきた。とてもおもしろかった。まさに目から鱗が落ちた(この表現もパウロの故事に由来するそうだ)。
ポイントは、「贖罪」に関する常識的な理解(イエスが人間の原罪を一身に背負って身代わりになってくれた)が、キリスト教の本質とは全く無関係のユダヤ教的伝統に由来するという理解だ。本当は破棄しなければならないはずの「律法」に依拠している上に、ユダヤ教伝統の「供犠=身代わり」による祓いに堕しているところが決定的な誤りということらしい。なるほど。
ちなみに「復活」に関しては、私はかねてからそんな奇跡に頼るまでもなくキリスト教は成立するだろうと思っていたわけだが、本書はその立場を補強してくれたような気はする。「復活の奇跡」を信じるか信じないかこそがキリスト教の本質だと主張する人々は極めて多く(現在も昔の偉人たちも)、私個人としては「?」となるしかないわけだが、だから逆に人間イエスを強調して神性を重んじない本書の論理は、よく理解できる。

しかしまあ、人間の弱さに徹底的に向き合いつつ、自力救済への努力を度しがたい傲慢さの表れと見なし、人は「信」のみによって救われるという思想は、本当に親鸞(悪人正機説と他力本願)にそっくりだと、改めて思うのであった。そこに普遍性を持つ何かを感じざるを得ない。
あるいは現代的な関心として。いまは「弱さ」を徹底的に悪として排除する傾向が強まりつつあるように見える。たとえば生活保護にしろ、少年法に関する議論にしろ、「自己責任」に関する主張の数々にせよ、「弱さ」ゆえに転落した人々に寄り添って歩むどころかさらに冷たく叩き落とし、自己努力と自己救済だけを声高に叫ぶ優勝劣敗の論理がまかり通っている。話題になった東大での上野千鶴子のスピーチは、フェミニズム的な文脈のみで理解するような視野狭窄な人々も散見されるところではあるが、本質的には「弱さの必然性/強さの偶然性」を謙虚に直視するパウロ=親鸞的な観点から理解されるべきものであるように思う。その論点がまるで理解されないところに、現代の恐ろしさの一端があるように思うのだった。

【個人的な研究のためのメモ】
いやしかし、あからさまには言っているわけではないものの、明確に「三位一体説はデタラメ」というメッセージを発しているのは、印象深い。(ちなみに174頁では三位一体説のフィクション性について直接触れている)。まあ「贖罪」を明確に否定した上で「復活」を婉曲的に否定し、「人間イエス」を強調するわけだから、論理必然的に三位一体説を採用することなどできないわけだが。すると結局、古代のグノーシス派だったりマニ教だったりと同じように、旧約聖書(さらにはユダヤ教)の扱いや、新約聖書の正典(カノン)の範囲が問題となる。パウロ原理主義に依拠する場合、本書でもマルキオンの名前が挙がったわけだが、当然ながら旧約聖書や新約聖書の一部福音書は論理必然的に排除されるべきものという理屈となる。その理屈は少し前に読んだ加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』の主張とほぼ重なってくる。
アウグスティヌスが解決したはずの異端問題が現代の精密な書誌学的知見を伴いながら復活してきているのは、キリスト教信者ではない私から見れば正直言って単に知的関心の対象でしかないわけだが、キリスト教内部から見た場合はどういう景色になるのだろうか。特に本書はグノーシス主義のような新発見の資料を用いたわけではなく、新約聖書に収められたパウロの手紙という誰もが否定できないカノンを用いながらカトリックの教義を土台から崩すような論理を展開しているわけで、いやはや、かなり大変なことを言っているのではないだろうか。実際、amazonレビュー等では怒り狂っておられる方々が本書に呪詛の言葉の数々をぶつけているのだった。さもありなん。

青野太潮『パウロ―十字架の使徒』岩波新書、2016年

【要約と感想】出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』

【要約】4世紀末から5世紀初頭のローマ帝国末期に活躍したキリスト教の教父アウグスティヌスについて、生涯を辿りながら、その思想の展開と特徴について要点を簡潔に紹介しています。
思想については、青少年期の放蕩やマニ教への傾倒など伝記的な事実を踏まえつつ、新プラトン主義や敬虔なキリスト教信者であった母親の影響等によって形成されていく様子が描かれています。特に立ち向かったテーマは、「自由意志」や「悪の原因」さらに「三位一体」というような、マニ教やペラギウス派など異端との対決で焦点となる概念です。
これらの課題への取り組みを通じて一貫しているのは、人間の「心」を深く見つめる姿勢です。

【感想】他の著書でマニ教について知識を得ていたので、その知識を踏まえて改めてアウグスティヌスの生涯に触れてみると、「自由意思」と「悪の由来」と「三位一体」がまさに不可分な問題であることが分かる。カトリックの「三位一体」の教義は、マニ教とかアリウス派などの<異端>の思想と比較して初めて意味を理解できるような気がする。まあ、「三位一体」に対するそういう理性的な理解の仕方は、アウグスティヌスの推奨するところではないんだろうけれども。
また新プラトン主義の影響など、アウグスティヌスの思想は<普遍的>なものというよりは、その時代の影響をそうとう明瞭に表わしているもののように思った。が、偉大な思想家が常にそうであるように、時代に固有の問題に真剣に取り組むことで普遍的な問題へ接続するということなんだろうなあと。

【この本は眼鏡論に使える】
アウグスティヌスを語るときに絶対に外せない「三位一体」について、当然本書も触れているわけだけれども。本書は、被造物である人間にも三位一体性が表れていると言う。

「たとえば、一つの視覚対象認識の成立においても、「対象」「その視像」「対象にまなざしを向ける志向」の三者は切っても切れない関係にあるなど、三一性は私たちの内にも存在する。それは、私たちが「神の似像」として三一なる神を映し出しているからだ、とアウグスティヌスは考えるのである。」141頁

この考察が人間の本質を捉えているかどうかは、さしあたって問題にしないし、私にその資格はない。私が関心を持つのは、もしも仮にこのようなレトリックが成立するのであれば、「眼鏡っ娘」こそが三一性の根本的な体現者であると言えるのではないかということだ。なぜなら、単に「眼鏡」と「娘」を合体させるだけでは単に「眼鏡をかけた女性」になるだけで、決して「眼鏡っ娘」は生じない。ここに何らかの意味での「霊」が宿ることで初めて単なる「眼鏡をかけた女性」ではなく「眼鏡っ娘」が生じるからだ。要するに、「眼鏡っ娘」とは、唯物的に「眼鏡+娘」と考えるだけでは生じ得ず、「眼鏡+娘+何らかの霊性」という三一性を承認して初めて認識できる何者かなのだ。
このような眼鏡っ娘認識は、新プラトン主義のプロティノス『善なるもの一なるもの』にも見られたものであった。キリスト教が言う三位一体の教義は、おそらく新プラトン主義の「一」に対する洞察とも共鳴するものであるし、そうであれば普遍的なものとしての「眼鏡っ娘」とも必然的に響き合うものとなる。つまりそれは、理性的に理解する対象ではなく、「信仰」によって飛躍する特異点である。
改めて「三位一体」に対する研究を深める必要を痛感するのだった。

出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』岩波新書、2018年

【要約と感想】ヘロドトス『歴史』

【要約】「歴史の父(キケロー談)」とも称されるヘロドトスの作品です。題材は紀元前5世紀前半にアケメネス朝ペルシアとギリシア連合軍との間で起こった戦争で、その原因と経緯について記しています。ところが、単に一連のペルシア戦役そのものを記すだけではなく、ペルシアを始めとする様々な民族の生活習俗に加え、人文地理や自然生態系についての情報も事細かく記しています。扱われる諸民族は、東は小アジアや黒海周辺の遊牧民族から、果てはウラル山系へ至り、南はエジプトを超えてナイル川奥地まで及びます。現代の感覚で言う「歴史」というよりは、戦争を中心的な題材としつつも、総合的な「地誌学」となっています。
戦争そのものは、第一次ペルシア戦争(ダレイオスⅠ世)ではマラトンの戦いでギリシア連合軍が勝利し、第二次(クセルクセスⅠ世)ではアテナイが一時的に占領されるもののサラミス海戦でギリシア連合軍が逆転勝利、さらに第三次(マルドニオス将軍)でもプラタイアの戦いでギリシア連合軍が勝利します。
著者ヘロドトスは、「自由」を求めるギリシア精神の勝利であったことを強調しています。

【感想】読み始める前は、がっつりペルシア戦争の記述があるものだと思い込んでいたけれども、戦争自体の記述はかなりアッサリ風味だった。戦闘シーンのボリューム自体が、かなり少ない。戦闘シーンで分量がたくさんあったのは、テルモピュライの戦いの経緯くらいかなあ。一方で、戦争に至るまでの外交などの心理的な駆け引きや、神に犠牲を捧げる儀式の段取りや、神託を求める経緯や、下された神託に対する多様な解釈や、両陣営の作戦会議の記述等が、めちゃくちゃ長い。まあ、クラウゼビッツも言っているとおり、戦争というのは戦闘行為そのものよりも、そこに至るまでの準備で勝負が決まっているということなんだろうけれども。

それから戦争そのものに関して、てっきりペルシアとギリシア連合軍が真正面から戦ったものだと思い込んでいたら、いやいや、実際の経緯はそんなに単純なものではなかった。
まずギリシア連合軍が、全然一枚岩ではない。裏切りだらけ。印象に残ったのは、たとえばアテナイを追放されてペルシア王の庇護を求めたギリシア貴族が、故郷に逆恨みして大王に入れ知恵をしてギリシアを攻めさせるエピソードだ。またあるいは、テバイ(ボイオティア)がライバルであるアテナイをやっつけるためにペルシア方に積極的に荷担する姿だ。ペルシア王に積極的に協力する姿勢には、ギリシア人であるという自覚は微塵も感じない。また最終的には協力するアテナイとスパルタにしても、事あるごとにお互いを出し抜こうという駆け引きを繰り返す。ペルシア軍が通過するギリシアの町々からもペルシア軍に参加する兵士が続出したりと、現在の「国民国家」の感覚で戦争をイメージすると、まったく意味が分からなくなる。まだ「国民意識」の欠片すら存在しなかった段階での古代戦争であったことをしっかり押さえて読む必要がある。
またペルシア方も、インドからアフリカ大陸、あるいは黒海周辺の諸民族の連合軍となっている。そして戦闘行為に突入すると、これら周辺諸民族がまさに烏合の衆で、まったく役に立っていない。数がどれだけ多かろうが、勝負の帰趨には影響を与えない。ヘロドトスはギリシア連合軍の勝利を「自由精神の勝利」であることを強調しているけれども、確かに「隷従」で集めた軍隊は、戦闘時にまったく役に立っていないことが分かる。戦争においては兵士たちの「帰属意識」の有無が極めて重要なことが分かる。

ペルシア対ギリシアという1対1の勝負ではなく、たくさんのプレイヤーが様々な思惑を持って戦争に参加している様子を見て、「ディプロマシー」というボードゲームを思い出した。本書の世界観を土台にして「ディプロマシー・紀元前5世紀版」を作ったら、けっこうおもしろくなるんじゃないかという気がした。プレイヤーは、アテナイ(アッティカ)・スパルタ(ペロポネソス)・テバイ(ボイオティア)・イオニア・スキュタイ・エジプト・ペルシアの7勢力がいいように思うのだが、如何か。今度ためしに作ってみようかな。

で、当時の国と国の違いは、現在の「国民国家」的な帰属意識とは違い、生活習俗の違いが決定的なものとして意識されているように見えた。食事や、服装や、葬式や、婚姻形態などで、敵と味方の区別がつけられているようだった。周知の通りプラトン=ソクラテスの議論では自然法と慣習法の相違が大問題となるわけだが、本書では「慣習」の持つ力がかなり強調されている(上巻355頁など)。
多少気になるのは、宗教の特徴については言及されるものの、信仰形態によって敵と味方が区別されているような感じがしないところだ。多神教的な世界観からだろうか、敵の神も尊重する姿勢が見える。というか、まったく違う文脈から出てきているはずの相手の神様を、著者が知っているギリシアの神様に当てはめて理解しているところに、現代的感覚からすると、たいへんな違和感がある。

それから面白かったのは、いろいろなところで見て知っている事柄のモトネタが確認できたことだ。
たとえば、「マラトンの戦い」の記述は本書6巻(中巻299頁)にあるのだが、巷で流布されているような戦捷報告のエピソードは、実はいっさい記されていない。実際は、アテナイからスパルタへ派遣された伝令の話が記されているに過ぎない。マラトンからアテナイへ走って絶命した兵士など記録されていないのに、間違って伝わっているのは、どうしてなんだろう? いちおう考えられるのは、すぐあとの記述で登場する、マラトンで勝利したアテナイ全軍がすぐさまアテナイ市内に帰還して市街防御にあたったエピソードだ(中巻307頁)。全軍が全力で帰還した話が、一人の伝令の疾走ネタと混同されてしまったのかもしれない。アテナイ軍のマラトンからの帰還は、秀吉の中国大返しも想起されて、それ自体がなかなか興味深い。
またホメロス『イーリアス』に登場する、トロイア戦争の原因となる女性ヘレネについて、実は本物の彼女はエジプトにいたのだというエピソードが本書に記録されている(上巻268-271頁)。そして著者ヘロドトスは、本物のヘレネはトロイアではなくエジプトにいたと考えればトロイア戦争の経緯を合理的に理解できると言う。当時から、一人の女をめぐって戦争が勃発したというのは不合理だと考えられていたことが分かる。
寓話で有名なイソップが奴隷だった話についても記されている(上巻284-285頁)。
それから、藤子・F・不二雄のSF短編集で「カンビュセスの籤」という話があるのだが、モトネタは本書にあった(上巻342-343頁)。いやしかし、私はすっかりギリシアに侵攻する途中の話だと思い込んでいたのだが、実際にはペルシア戦役とはまったく関係なく、カンビュセスが気の迷いでエチオピアに遠征する話だったとは。本書を読んで、改めて知った。
また、スパルタの300人がペルシア兵百万人を相手にするのも、本書がモトネタだ。テルモピュライの戦いは、本書の中では随一といっていいほどの戦闘描写だ。映画にしたくなるのも、よく分かる。
あと、RPGやライトノベル等で、強大なラスボスを倒すとき、味方の一人がラスボスを押さえつけながら「俺ごと剣で刺し貫け」と言うシーンを散見することがあるわけだが、そのモトネタは本書にあった(上巻391頁)。ダレイオスⅠ世が王位に就くエピソードで、味方のゴブリュアスが「構わぬからその剣で二人ごと突き刺せ。」と言っている。
さらには「背水の陣」を彷彿とさせるエピソードも記されている(中巻225頁)。

笑ってしまったのは、「ヨーロッパ」の語源となっているエウロペに言及したところだ。ヘロドトスは以下のように言っている。

「ともかくエウロペなる女がアジアの出身であることは明らかで、この女が今日ギリシア人がヨーロッパと称している土地へきたことはなく、せいぜいフェニキアからクレタ、クレタからリュキアまでしかいっていないことも明白である。」中巻35頁

いやあ、なんとなく私も「エウロペがヨーロッパの語源って、変だぞ?」と思っていたけれども、既に2500年前からおかしいと思われていたということが確認できて、よかった。

で、当然のことだけれども、「歴史の父」と言われているが、近代歴史学とはまったくの別物だ。伝聞に基づいたいい加減な記述も多く、「歴史」というよりは、人文地理学的(あるいは地誌学的)な教養を縦横無尽に駆使した戦記文学と言ったほうがいいような気がする。まあ、本書固有の価値がそれによって損なわれるわけでもないだろう。

【要確認事項】
異民族の習俗を記すところで、「妻を共有して自由に交わっている」(中巻71頁)ということが記されているが、こういう民俗学的な知識がプラトン『国家』で主張されるような妻や子どもの共有というアイデアへ影響を与えているかどうか。
処女を尊重する民族についての記述も出てくるが(中巻117頁)、アテナやアルテミス崇拝とも関係して、古代の処女尊重をどのように理解したらよいか。

【今後の研究のための備忘録】
本書には「自由平等」の概念に関して、興味深い記述がある。

「かくてアテナイは強大となったのであるが、自由平等ということが、単に一つの点のみならずあらゆる点において、いかに重要なものであるか、ということを実証したのであった。というのも、アテナイが独裁下にあったときは、近隣のどの国をも戦力で凌ぐことができなかったが、独裁者から解放されるや、断然他を圧して最強国となったからである。これによって見るに、圧制下にあったときは、独裁者のために働くのだというので、故意に卑怯な振舞をしていたのであるが、自由になってからは、各人がそれぞれ自分自身のために働く意欲を燃やしたことが明らかだからである。」中巻191頁

自由平等に関するこのような功利的な理解は、古代東洋には一般的に見られないような気がする。東洋専制と西洋自由の対比が鮮やかに浮かび上がってしまうところだ。この古代ギリシアの自由平等に関する観念が、近代西洋にどのような影響を与えたかは、やはり大きな論点になる。

それから近代の「国民国家」を考えるための参照軸として、本書に見られる「ギリシアの実体化」に関して。アテナイからスパルタ使節団への言葉に以下のようなものがある。

「第二にはわれわれが等しくみなギリシア人同胞であり、血のつながりをもち言語を同じくし、神々を祀る場所も祭式も共通であるし、生活様式も同じであることで、アテナイ人がこの同胞を敵に売るようなことは許されることではあるまい。」下巻272-273頁

ここには、アテナイとスパルタという政体の相違を乗り超えて、ギリシア人全体を同胞として捉え、ギリシア人という「想像の共同体」を実体化する思考が確認できる。そして想像の共同体を実体化する理屈として、(1)血(2)言語(3)宗教(4)習慣という4つの要素が確認できる。「国民国家」は近代の産物であると言われるが、実は「想像の共同体」を実体化する理屈は古代から連綿と存在しているのではないか。
またたとえばテバイ人からペルシア人の言葉として以下のように記録されている。

「彼らはマルドニオスに、ギリシア人は過去に置いても協力一致する実を示してきたが、心を一にして団結したギリシア人を制圧することは全世界の兵力をもってしても困難であることを説き…」下巻275頁

周辺の諸民族に存在せず、ギリシアだけが持っているものこそ、「自由平等」であり、「協力一致」であった。そしてそれこそがギリシアの戦争での優位を担保した。想像の共同体が生み出す「協力一致」や「心を一にして団結」という「実」が戦争遂行に当たって極めて強力に働くことは、教育勅語が目指すところでもあった。想像の共同体に関する理論は、近代を待つまでもなく、古代ギリシアに用意されていたのかもしれない。

ヘロドトス『歴史(上)』岩波文庫、1971年
ヘロドトス『歴史(中)』岩波文庫、1972年
ヘロドトス『歴史(下)』岩波文庫、1972年

【要約と感想】市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』

【要約】ユダヤ教について、歴史・信仰・学問・社会の観点から検討し、西欧キリスト教からの一方的な見解に基づく誤解と偏見を正そうという趣旨の本です。その誤解と偏見は、中世イスラム世界におけるユダヤ教を度外視することで、酷いものとなっています。
そもそもユダヤとは、religionの訳語である「宗教」という概念の枠で捉えられるものではありません。「宗教」とは西欧キリスト教をモデルとして構成された概念であって、それ以外の精神文化には当てはまりません(たとえば神道などにも)。ユダヤとは、トーラー(律法)に基づいて生活実践をすることです。なので、ラビ(経文を解釈する学者)の権威が高いという特徴があります。ユダヤ教では、自由な議論を通じて学ぶことが極めて重要です。中世イスラム世界で花開いた学塾の伝統は、近代以降も活きています。
しかし近代以降は、世俗化した国民国家との関係のなかで、「宗教としてのユダヤ=市民社会に帰属しながら信教の自由を享受する」なのか、それとも「民族としてのユダヤ=トーラーに基づいて日常生活を行なう共同体」なのか、アイデンティティの混乱と模索が続いています。

【感想】個人的な関心だけで言えば、「宗教の<教>」が「教育の<教>」でもあるということを再確認したという感じ。ユダヤ教の「教」は、まさしく古代中国で「教」という漢字が「教」となったことを体現しているように感じた。というのは、もともと「教」とは「人々に示された神様の指示」というような意味を持つ漢字であって、本書が言う「トーラー(教え)に従う生き方」そのものだ。であれば、確かにユダヤ教は著者が言うとおり「宗教(英語のreligionの訳語)」ではないが、間違いなく「教」ではあるように思う。
だから本書で強調されているように、「教育」が極めて重要な役割を果たすことになる。ユダヤ教では、自由な議論を通じて教義を研究することや、僅かな時間を見つけて自発的に学ぶことの重要性が強調される。それは「<教>=示された神の指示」の痕跡を拾い上げて、解釈し、再構成して、<教>としてもう一度語り直す行為だ。「教育の<教>」が「宗教の<教>」でもあることの積極的な意味を見たような気がする。「<宗教>ではないが<教>ではある」という理解は、ユダヤ教に限らず、実は普遍的にけっこう重要なことかもしれない。

【今後の研究のための備忘録】
「中世」に関する、さらっとした記述には、ちょっと驚いた。本書には以下のような文章がある。

「本書では便宜的に、イスラム世界の出現をもって中世の始まりとする。」15頁

なるほど、こういう「古代→中世」理解の仕方があるんだと、目から鱗が落ちた気分だった。ユダヤ教の歴史を扱う本書では、この歴史観が極めて有効で、古代ではヘレニズムとの関係、中世ではイスラム教との関係、近代では世俗的国民国家との関係というふうに、問題の軸がかなりすっきりと整理できるのだった。

それから、中世の学者マイモニデスには、俄然興味が出てきた。

「マイモニデスによれば、この世に生を享けた人間はすべて、神の教えを実践することで「完全性」を達成する責務を負っている。完全性には身体的な完全性と精神的な完全性とがあり、事の性質上、身体的な完全性の後に精神的な完全性が置かれる。戒律は完全性の追求のために実践するもので、モーセの律法に明示されているか否かにかかわらず、すべての戒律には必ず根拠と目的があり、人間の完全性と対応している。」(115頁)

アリストテレスに影響を受けているだろうことが、この記述からもなんとなく分かる。「完全性」という概念は、アリストテレス『形而上学』で徹底的に追求されている。そしてそれは最終的には「一とは何か?」という問いに収斂する。私が研究のテーマとしている「人格の完成」は、まさにアリストテレスの言う「一とは何か?」という問いに響き合い、もちろんマイモニデスの言う「完全性を達成する責務」と重なり合う。マイモニデスの学的営為が、私の研究にも何かしらヒントを与えてくれるのではないか、という期待が芽生えている。

市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』岩波新書、2019年