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【要約と感想】青野太潮『パウロ―十字架の使徒』

【要約】キリスト教はパウロの思想を土台として成り立っています。その思想の根幹は、現在のキリスト教の常識(イエスの贖罪と復活)ではなく、十字架にかけられたままの弱々しい人間イエスを信じるところにあります。というのは、イエスの「贖罪」はユダヤ教の律法と供犠を前提とした発想であって、キリスト教の本質とは無関係ですし、復活の奇跡ような「強い」イエス像に依拠することはむしろ人間の罪(傲慢)を増幅するだけだからです。パウロが本当に伝えたいのは、人間の「弱さ」に謙虚に向き合って自覚するところに本当の強さがあるということです。

【感想】キリスト教の本質的な思想に関して私が知識として理解していたところ(贖罪と復活)を、本書は徹底的に否定してきた。とてもおもしろかった。まさに目から鱗が落ちた(この表現もパウロの故事に由来するそうだ)。
ポイントは、「贖罪」に関する常識的な理解(イエスが人間の原罪を一身に背負って身代わりになってくれた)が、キリスト教の本質とは全く無関係のユダヤ教的伝統に由来するという理解だ。本当は破棄しなければならないはずの「律法」に依拠している上に、ユダヤ教伝統の「供犠=身代わり」による祓いに堕しているところが決定的な誤りということらしい。なるほど。
ちなみに「復活」に関しては、私はかねてからそんな奇跡に頼るまでもなくキリスト教は成立するだろうと思っていたわけだが、本書はその立場を補強してくれたような気はする。「復活の奇跡」を信じるか信じないかこそがキリスト教の本質だと主張する人々は極めて多く(現在も昔の偉人たちも)、私個人としては「?」となるしかないわけだが、だから逆に人間イエスを強調して神性を重んじない本書の論理は、よく理解できる。

しかしまあ、人間の弱さに徹底的に向き合いつつ、自力救済への努力を度しがたい傲慢さの表れと見なし、人は「信」のみによって救われるという思想は、本当に親鸞(悪人正機説と他力本願)にそっくりだと、改めて思うのであった。そこに普遍性を持つ何かを感じざるを得ない。
あるいは現代的な関心として。いまは「弱さ」を徹底的に悪として排除する傾向が強まりつつあるように見える。たとえば生活保護にしろ、少年法に関する議論にしろ、「自己責任」に関する主張の数々にせよ、「弱さ」ゆえに転落した人々に寄り添って歩むどころかさらに冷たく叩き落とし、自己努力と自己救済だけを声高に叫ぶ優勝劣敗の論理がまかり通っている。話題になった東大での上野千鶴子のスピーチは、フェミニズム的な文脈のみで理解するような視野狭窄な人々も散見されるところではあるが、本質的には「弱さの必然性/強さの偶然性」を謙虚に直視するパウロ=親鸞的な観点から理解されるべきものであるように思う。その論点がまるで理解されないところに、現代の恐ろしさの一端があるように思うのだった。

【個人的な研究のためのメモ】
いやしかし、あからさまには言っているわけではないものの、明確に「三位一体説はデタラメ」というメッセージを発しているのは、印象深い。(ちなみに174頁では三位一体説のフィクション性について直接触れている)。まあ「贖罪」を明確に否定した上で「復活」を婉曲的に否定し、「人間イエス」を強調するわけだから、論理必然的に三位一体説を採用することなどできないわけだが。すると結局、古代のグノーシス派だったりマニ教だったりと同じように、旧約聖書(さらにはユダヤ教)の扱いや、新約聖書の正典(カノン)の範囲が問題となる。パウロ原理主義に依拠する場合、本書でもマルキオンの名前が挙がったわけだが、当然ながら旧約聖書や新約聖書の一部福音書は論理必然的に排除されるべきものという理屈となる。その理屈は少し前に読んだ加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』の主張とほぼ重なってくる。
アウグスティヌスが解決したはずの異端問題が現代の精密な書誌学的知見を伴いながら復活してきているのは、キリスト教信者ではない私から見れば正直言って単に知的関心の対象でしかないわけだが、キリスト教内部から見た場合はどういう景色になるのだろうか。特に本書はグノーシス主義のような新発見の資料を用いたわけではなく、新約聖書に収められたパウロの手紙という誰もが否定できないカノンを用いながらカトリックの教義を土台から崩すような論理を展開しているわけで、いやはや、かなり大変なことを言っているのではないだろうか。実際、amazonレビュー等では怒り狂っておられる方々が本書に呪詛の言葉の数々をぶつけているのだった。さもありなん。

青野太潮『パウロ―十字架の使徒』岩波新書、2016年

【要約と感想】出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』

【要約】4世紀末から5世紀初頭のローマ帝国末期に活躍したキリスト教の教父アウグスティヌスについて、生涯を辿りながら、その思想の展開と特徴について要点を簡潔に紹介しています。
思想については、青少年期の放蕩やマニ教への傾倒など伝記的な事実を踏まえつつ、新プラトン主義や敬虔なキリスト教信者であった母親の影響等によって形成されていく様子が描かれています。特に立ち向かったテーマは、「自由意志」や「悪の原因」さらに「三位一体」というような、マニ教やペラギウス派など異端との対決で焦点となる概念です。
これらの課題への取り組みを通じて一貫しているのは、人間の「心」を深く見つめる姿勢です。

【感想】他の著書でマニ教について知識を得ていたので、その知識を踏まえて改めてアウグスティヌスの生涯に触れてみると、「自由意思」と「悪の由来」と「三位一体」がまさに不可分な問題であることが分かる。カトリックの「三位一体」の教義は、マニ教とかアリウス派などの<異端>の思想と比較して初めて意味を理解できるような気がする。まあ、「三位一体」に対するそういう理性的な理解の仕方は、アウグスティヌスの推奨するところではないんだろうけれども。
また新プラトン主義の影響など、アウグスティヌスの思想は<普遍的>なものというよりは、その時代の影響をそうとう明瞭に表わしているもののように思った。が、偉大な思想家が常にそうであるように、時代に固有の問題に真剣に取り組むことで普遍的な問題へ接続するということなんだろうなあと。

【この本は眼鏡論に使える】
アウグスティヌスを語るときに絶対に外せない「三位一体」について、当然本書も触れているわけだけれども。本書は、被造物である人間にも三位一体性が表れていると言う。

「たとえば、一つの視覚対象認識の成立においても、「対象」「その視像」「対象にまなざしを向ける志向」の三者は切っても切れない関係にあるなど、三一性は私たちの内にも存在する。それは、私たちが「神の似像」として三一なる神を映し出しているからだ、とアウグスティヌスは考えるのである。」141頁

この考察が人間の本質を捉えているかどうかは、さしあたって問題にしないし、私にその資格はない。私が関心を持つのは、もしも仮にこのようなレトリックが成立するのであれば、「眼鏡っ娘」こそが三一性の根本的な体現者であると言えるのではないかということだ。なぜなら、単に「眼鏡」と「娘」を合体させるだけでは単に「眼鏡をかけた女性」になるだけで、決して「眼鏡っ娘」は生じない。ここに何らかの意味での「霊」が宿ることで初めて単なる「眼鏡をかけた女性」ではなく「眼鏡っ娘」が生じるからだ。要するに、「眼鏡っ娘」とは、唯物的に「眼鏡+娘」と考えるだけでは生じ得ず、「眼鏡+娘+何らかの霊性」という三一性を承認して初めて認識できる何者かなのだ。
このような眼鏡っ娘認識は、新プラトン主義のプロティノス『善なるもの一なるもの』にも見られたものであった。キリスト教が言う三位一体の教義は、おそらく新プラトン主義の「一」に対する洞察とも共鳴するものであるし、そうであれば普遍的なものとしての「眼鏡っ娘」とも必然的に響き合うものとなる。つまりそれは、理性的に理解する対象ではなく、「信仰」によって飛躍する特異点である。
改めて「三位一体」に対する研究を深める必要を痛感するのだった。

出村和彦『アウグスティヌス―「心」の哲学者』岩波新書、2018年

【要約と感想】ヘロドトス『歴史』

【要約】「歴史の父(キケロー談)」とも称されるヘロドトスの作品です。題材は紀元前5世紀前半にアケメネス朝ペルシアとギリシア連合軍との間で起こった戦争で、その原因と経緯について記しています。ところが、単に一連のペルシア戦役そのものを記すだけではなく、ペルシアを始めとする様々な民族の生活習俗に加え、人文地理や自然生態系についての情報も事細かく記しています。扱われる諸民族は、東は小アジアや黒海周辺の遊牧民族から、果てはウラル山系へ至り、南はエジプトを超えてナイル川奥地まで及びます。現代の感覚で言う「歴史」というよりは、戦争を中心的な題材としつつも、総合的な「地誌学」となっています。
戦争そのものは、第一次ペルシア戦争(ダレイオスⅠ世)ではマラトンの戦いでギリシア連合軍が勝利し、第二次(クセルクセスⅠ世)ではアテナイが一時的に占領されるもののサラミス海戦でギリシア連合軍が逆転勝利、さらに第三次(マルドニオス将軍)でもプラタイアの戦いでギリシア連合軍が勝利します。
著者ヘロドトスは、「自由」を求めるギリシア精神の勝利であったことを強調しています。

【感想】読み始める前は、がっつりペルシア戦争の記述があるものだと思い込んでいたけれども、戦争自体の記述はかなりアッサリ風味だった。戦闘シーンのボリューム自体が、かなり少ない。戦闘シーンで分量がたくさんあったのは、テルモピュライの戦いの経緯くらいかなあ。一方で、戦争に至るまでの外交などの心理的な駆け引きや、神に犠牲を捧げる儀式の段取りや、神託を求める経緯や、下された神託に対する多様な解釈や、両陣営の作戦会議の記述等が、めちゃくちゃ長い。まあ、クラウゼビッツも言っているとおり、戦争というのは戦闘行為そのものよりも、そこに至るまでの準備で勝負が決まっているということなんだろうけれども。

それから戦争そのものに関して、てっきりペルシアとギリシア連合軍が真正面から戦ったものだと思い込んでいたら、いやいや、実際の経緯はそんなに単純なものではなかった。
まずギリシア連合軍が、全然一枚岩ではない。裏切りだらけ。印象に残ったのは、たとえばアテナイを追放されてペルシア王の庇護を求めたギリシア貴族が、故郷に逆恨みして大王に入れ知恵をしてギリシアを攻めさせるエピソードだ。またあるいは、テバイ(ボイオティア)がライバルであるアテナイをやっつけるためにペルシア方に積極的に荷担する姿だ。ペルシア王に積極的に協力する姿勢には、ギリシア人であるという自覚は微塵も感じない。また最終的には協力するアテナイとスパルタにしても、事あるごとにお互いを出し抜こうという駆け引きを繰り返す。ペルシア軍が通過するギリシアの町々からもペルシア軍に参加する兵士が続出したりと、現在の「国民国家」の感覚で戦争をイメージすると、まったく意味が分からなくなる。まだ「国民意識」の欠片すら存在しなかった段階での古代戦争であったことをしっかり押さえて読む必要がある。
またペルシア方も、インドからアフリカ大陸、あるいは黒海周辺の諸民族の連合軍となっている。そして戦闘行為に突入すると、これら周辺諸民族がまさに烏合の衆で、まったく役に立っていない。数がどれだけ多かろうが、勝負の帰趨には影響を与えない。ヘロドトスはギリシア連合軍の勝利を「自由精神の勝利」であることを強調しているけれども、確かに「隷従」で集めた軍隊は、戦闘時にまったく役に立っていないことが分かる。戦争においては兵士たちの「帰属意識」の有無が極めて重要なことが分かる。

ペルシア対ギリシアという1対1の勝負ではなく、たくさんのプレイヤーが様々な思惑を持って戦争に参加している様子を見て、「ディプロマシー」というボードゲームを思い出した。本書の世界観を土台にして「ディプロマシー・紀元前5世紀版」を作ったら、けっこうおもしろくなるんじゃないかという気がした。プレイヤーは、アテナイ(アッティカ)・スパルタ(ペロポネソス)・テバイ(ボイオティア)・イオニア・スキュタイ・エジプト・ペルシアの7勢力がいいように思うのだが、如何か。今度ためしに作ってみようかな。

で、当時の国と国の違いは、現在の「国民国家」的な帰属意識とは違い、生活習俗の違いが決定的なものとして意識されているように見えた。食事や、服装や、葬式や、婚姻形態などで、敵と味方の区別がつけられているようだった。周知の通りプラトン=ソクラテスの議論では自然法と慣習法の相違が大問題となるわけだが、本書では「慣習」の持つ力がかなり強調されている(上巻355頁など)。
多少気になるのは、宗教の特徴については言及されるものの、信仰形態によって敵と味方が区別されているような感じがしないところだ。多神教的な世界観からだろうか、敵の神も尊重する姿勢が見える。というか、まったく違う文脈から出てきているはずの相手の神様を、著者が知っているギリシアの神様に当てはめて理解しているところに、現代的感覚からすると、たいへんな違和感がある。

それから面白かったのは、いろいろなところで見て知っている事柄のモトネタが確認できたことだ。
たとえば、「マラトンの戦い」の記述は本書6巻(中巻299頁)にあるのだが、巷で流布されているような戦捷報告のエピソードは、実はいっさい記されていない。実際は、アテナイからスパルタへ派遣された伝令の話が記されているに過ぎない。マラトンからアテナイへ走って絶命した兵士など記録されていないのに、間違って伝わっているのは、どうしてなんだろう? いちおう考えられるのは、すぐあとの記述で登場する、マラトンで勝利したアテナイ全軍がすぐさまアテナイ市内に帰還して市街防御にあたったエピソードだ(中巻307頁)。全軍が全力で帰還した話が、一人の伝令の疾走ネタと混同されてしまったのかもしれない。アテナイ軍のマラトンからの帰還は、秀吉の中国大返しも想起されて、それ自体がなかなか興味深い。
またホメロス『イーリアス』に登場する、トロイア戦争の原因となる女性ヘレネについて、実は本物の彼女はエジプトにいたのだというエピソードが本書に記録されている(上巻268-271頁)。そして著者ヘロドトスは、本物のヘレネはトロイアではなくエジプトにいたと考えればトロイア戦争の経緯を合理的に理解できると言う。当時から、一人の女をめぐって戦争が勃発したというのは不合理だと考えられていたことが分かる。
寓話で有名なイソップが奴隷だった話についても記されている(上巻284-285頁)。
それから、藤子・F・不二雄のSF短編集で「カンビュセスの籤」という話があるのだが、モトネタは本書にあった(上巻342-343頁)。いやしかし、私はすっかりギリシアに侵攻する途中の話だと思い込んでいたのだが、実際にはペルシア戦役とはまったく関係なく、カンビュセスが気の迷いでエチオピアに遠征する話だったとは。本書を読んで、改めて知った。
また、スパルタの300人がペルシア兵百万人を相手にするのも、本書がモトネタだ。テルモピュライの戦いは、本書の中では随一といっていいほどの戦闘描写だ。映画にしたくなるのも、よく分かる。
あと、RPGやライトノベル等で、強大なラスボスを倒すとき、味方の一人がラスボスを押さえつけながら「俺ごと剣で刺し貫け」と言うシーンを散見することがあるわけだが、そのモトネタは本書にあった(上巻391頁)。ダレイオスⅠ世が王位に就くエピソードで、味方のゴブリュアスが「構わぬからその剣で二人ごと突き刺せ。」と言っている。
さらには「背水の陣」を彷彿とさせるエピソードも記されている(中巻225頁)。

笑ってしまったのは、「ヨーロッパ」の語源となっているエウロペに言及したところだ。ヘロドトスは以下のように言っている。

「ともかくエウロペなる女がアジアの出身であることは明らかで、この女が今日ギリシア人がヨーロッパと称している土地へきたことはなく、せいぜいフェニキアからクレタ、クレタからリュキアまでしかいっていないことも明白である。」中巻35頁

いやあ、なんとなく私も「エウロペがヨーロッパの語源って、変だぞ?」と思っていたけれども、既に2500年前からおかしいと思われていたということが確認できて、よかった。

で、当然のことだけれども、「歴史の父」と言われているが、近代歴史学とはまったくの別物だ。伝聞に基づいたいい加減な記述も多く、「歴史」というよりは、人文地理学的(あるいは地誌学的)な教養を縦横無尽に駆使した戦記文学と言ったほうがいいような気がする。まあ、本書固有の価値がそれによって損なわれるわけでもないだろう。

【要確認事項】
異民族の習俗を記すところで、「妻を共有して自由に交わっている」(中巻71頁)ということが記されているが、こういう民俗学的な知識がプラトン『国家』で主張されるような妻や子どもの共有というアイデアへ影響を与えているかどうか。
処女を尊重する民族についての記述も出てくるが(中巻117頁)、アテナやアルテミス崇拝とも関係して、古代の処女尊重をどのように理解したらよいか。

【今後の研究のための備忘録】
本書には「自由平等」の概念に関して、興味深い記述がある。

「かくてアテナイは強大となったのであるが、自由平等ということが、単に一つの点のみならずあらゆる点において、いかに重要なものであるか、ということを実証したのであった。というのも、アテナイが独裁下にあったときは、近隣のどの国をも戦力で凌ぐことができなかったが、独裁者から解放されるや、断然他を圧して最強国となったからである。これによって見るに、圧制下にあったときは、独裁者のために働くのだというので、故意に卑怯な振舞をしていたのであるが、自由になってからは、各人がそれぞれ自分自身のために働く意欲を燃やしたことが明らかだからである。」中巻191頁

自由平等に関するこのような功利的な理解は、古代東洋には一般的に見られないような気がする。東洋専制と西洋自由の対比が鮮やかに浮かび上がってしまうところだ。この古代ギリシアの自由平等に関する観念が、近代西洋にどのような影響を与えたかは、やはり大きな論点になる。

それから近代の「国民国家」を考えるための参照軸として、本書に見られる「ギリシアの実体化」に関して。アテナイからスパルタ使節団への言葉に以下のようなものがある。

「第二にはわれわれが等しくみなギリシア人同胞であり、血のつながりをもち言語を同じくし、神々を祀る場所も祭式も共通であるし、生活様式も同じであることで、アテナイ人がこの同胞を敵に売るようなことは許されることではあるまい。」下巻272-273頁

ここには、アテナイとスパルタという政体の相違を乗り超えて、ギリシア人全体を同胞として捉え、ギリシア人という「想像の共同体」を実体化する思考が確認できる。そして想像の共同体を実体化する理屈として、(1)血(2)言語(3)宗教(4)習慣という4つの要素が確認できる。「国民国家」は近代の産物であると言われるが、実は「想像の共同体」を実体化する理屈は古代から連綿と存在しているのではないか。
またたとえばテバイ人からペルシア人の言葉として以下のように記録されている。

「彼らはマルドニオスに、ギリシア人は過去に置いても協力一致する実を示してきたが、心を一にして団結したギリシア人を制圧することは全世界の兵力をもってしても困難であることを説き…」下巻275頁

周辺の諸民族に存在せず、ギリシアだけが持っているものこそ、「自由平等」であり、「協力一致」であった。そしてそれこそがギリシアの戦争での優位を担保した。想像の共同体が生み出す「協力一致」や「心を一にして団結」という「実」が戦争遂行に当たって極めて強力に働くことは、教育勅語が目指すところでもあった。想像の共同体に関する理論は、近代を待つまでもなく、古代ギリシアに用意されていたのかもしれない。

ヘロドトス『歴史(上)』岩波文庫、1971年
ヘロドトス『歴史(中)』岩波文庫、1972年
ヘロドトス『歴史(下)』岩波文庫、1972年

【要約と感想】市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』

【要約】ユダヤ教について、歴史・信仰・学問・社会の観点から検討し、西欧キリスト教からの一方的な見解に基づく誤解と偏見を正そうという趣旨の本です。その誤解と偏見は、中世イスラム世界におけるユダヤ教を度外視することで、酷いものとなっています。
そもそもユダヤとは、religionの訳語である「宗教」という概念の枠で捉えられるものではありません。「宗教」とは西欧キリスト教をモデルとして構成された概念であって、それ以外の精神文化には当てはまりません(たとえば神道などにも)。ユダヤとは、トーラー(律法)に基づいて生活実践をすることです。なので、ラビ(経文を解釈する学者)の権威が高いという特徴があります。ユダヤ教では、自由な議論を通じて学ぶことが極めて重要です。中世イスラム世界で花開いた学塾の伝統は、近代以降も活きています。
しかし近代以降は、世俗化した国民国家との関係のなかで、「宗教としてのユダヤ=市民社会に帰属しながら信教の自由を享受する」なのか、それとも「民族としてのユダヤ=トーラーに基づいて日常生活を行なう共同体」なのか、アイデンティティの混乱と模索が続いています。

【感想】個人的な関心だけで言えば、「宗教の<教>」が「教育の<教>」でもあるということを再確認したという感じ。ユダヤ教の「教」は、まさしく古代中国で「教」という漢字が「教」となったことを体現しているように感じた。というのは、もともと「教」とは「人々に示された神様の指示」というような意味を持つ漢字であって、本書が言う「トーラー(教え)に従う生き方」そのものだ。であれば、確かにユダヤ教は著者が言うとおり「宗教(英語のreligionの訳語)」ではないが、間違いなく「教」ではあるように思う。
だから本書で強調されているように、「教育」が極めて重要な役割を果たすことになる。ユダヤ教では、自由な議論を通じて教義を研究することや、僅かな時間を見つけて自発的に学ぶことの重要性が強調される。それは「<教>=示された神の指示」の痕跡を拾い上げて、解釈し、再構成して、<教>としてもう一度語り直す行為だ。「教育の<教>」が「宗教の<教>」でもあることの積極的な意味を見たような気がする。「<宗教>ではないが<教>ではある」という理解は、ユダヤ教に限らず、実は普遍的にけっこう重要なことかもしれない。

【今後の研究のための備忘録】
「中世」に関する、さらっとした記述には、ちょっと驚いた。本書には以下のような文章がある。

「本書では便宜的に、イスラム世界の出現をもって中世の始まりとする。」15頁

なるほど、こういう「古代→中世」理解の仕方があるんだと、目から鱗が落ちた気分だった。ユダヤ教の歴史を扱う本書では、この歴史観が極めて有効で、古代ではヘレニズムとの関係、中世ではイスラム教との関係、近代では世俗的国民国家との関係というふうに、問題の軸がかなりすっきりと整理できるのだった。

それから、中世の学者マイモニデスには、俄然興味が出てきた。

「マイモニデスによれば、この世に生を享けた人間はすべて、神の教えを実践することで「完全性」を達成する責務を負っている。完全性には身体的な完全性と精神的な完全性とがあり、事の性質上、身体的な完全性の後に精神的な完全性が置かれる。戒律は完全性の追求のために実践するもので、モーセの律法に明示されているか否かにかかわらず、すべての戒律には必ず根拠と目的があり、人間の完全性と対応している。」(115頁)

アリストテレスに影響を受けているだろうことが、この記述からもなんとなく分かる。「完全性」という概念は、アリストテレス『形而上学』で徹底的に追求されている。そしてそれは最終的には「一とは何か?」という問いに収斂する。私が研究のテーマとしている「人格の完成」は、まさにアリストテレスの言う「一とは何か?」という問いに響き合い、もちろんマイモニデスの言う「完全性を達成する責務」と重なり合う。マイモニデスの学的営為が、私の研究にも何かしらヒントを与えてくれるのではないか、という期待が芽生えている。

市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』岩波新書、2019年

【要約と感想】加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』

【要約】ユダヤ教神学の根幹である「契約」や「罪」という概念は、「神との断絶」の意識が根底にあります。「律法」や「神殿」とは、神を理解したなどと人間が勘違いしないための工夫でした。
いっぽうキリスト教にとって意味があるのは「神の支配」であって、「契約」という概念や「洗礼」という儀式はさして重要でもないし、「聖書」も本質的なものではありえないし、そもそもイエスに神格を認める必要すらありません。イエスが予言した「神の支配」の「神」も、旧約のヤーヴェと同一であるかどうかはわかりません。「精霊」は、初期エルサレム協会が「人による人の支配」を正当化するために持ち出したものであって、キリスト教にとって本質的なものではありません。
いずれにせよ、たかだか人間の努力によって至高の神を動かせると考えるのは、傲岸不遜の極みです。人間の小賢しい知恵ごときで神を本当に理解できるなどと思い上がってはいけません。

【感想】本の序盤から慎重な言い回しが続くなあと思っていたら、中盤から凄い展開になって、椅子から転げ落ちそうになった。かなり凄いことを言っているような気がするのだが、amazonレビューとかを見ても本書の恐ろしさに気がついていない人ばかりなのはどういうことだ?
しかしまあ、初期協会の欺瞞性を浮き彫りにしたり「奇跡」に対して距離を置くのはプロテスタント的には良しとしても、イエスの神格性に疑問を呈したり、「聖書」は必要に迫られて行き当たりばったりに作られたものであって正典としては疑わしいものだとしたり、「精霊」を機能的に捉えることによって三位一体説を相対化するなど、私が知っていると思っていたキリスト教の根幹をことごとく引っくり返してしまう。まあ私個人はキリスト教信者ではないから「ふーん」と思いながら他人事のように読めるけれども、まじめなカトリック信者は大激怒だろうし、プロテスタントの立場でも混乱に陥る人が多いのではないだろうか。いやあ、キリスト教神学の懐の深さを垣間見たような気がする。

【今後の研究のための備忘録】かねがね「personality」概念を追究する関心から、キリスト教の言う「三位一体」の本質はどういうことなのか気になっていたわけだけど(三位一体説でいう「位格」がpersonaの翻訳語)。キリスト教関係者に接触するたびに「三位一体の本質」を質問してきたけれども、これまで要領を突いた回答を得たことはなかった。が、この年来の疑問に対して、本書は明快な答えを与えてくれる。本書から得た知見を総合すれば、「三位一体」とはキリスト教の本質から出てくるものではなく、単に「教会の都合」で捏造されたものに過ぎない。そもそも本書の立場から言えば、「三位一体」の前提となっている「イエスが神格性」からして怪しいし、「精霊の神格性」にいたっては、もはやキリスト教の本質とはなんの関係もない「教会が人々を支配下に置く方便」に過ぎない。そして仮に「イエスの神格性」を認めたとしても、イエスの言う「神」とユダヤ教の「神=ヤーヴェ」が一致するかどうかが保障されないとき、グノーシス的なマンダ教やマニ教が主張するように「新約の神と旧約の神は異なる」という立場だってありえるわけだ。カトリック教会は「新約の神=旧約の神」という立場をとり、さらに「教会の指導性」を確保するために「精霊」を捏造したとき、「三位一体」の説は極めて都合が良いものになる。しかしグノーシス的立場から言えば、新約の神が旧約の神とは異なるわけだから、「三位一体」など、ありえない。わざわざニカイア公会議で「三位一体」を採用したのは、旧約の神と新約の神を峻別するグノーシス的見解を完全排除するために必要な措置だったわけだ。
まあ、本書から得た知見が正しいとした場合の理解ではあるが。さしあたってこの見解を崩す新たな証拠が手に入らない限り、私としては「三位一体説とは、カトリック教会が人々を支配する都合で捏造したもの」という見解を採用せざるを得ない。いやあ、恐ろしい結論に至ってしまった。アリウス派だ。どうしよう。

加藤隆『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』講談社現代新書、2002年