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【要約と感想】斎藤忍随『プラトン』講談社学術文庫

【要約】近年の研究ではプラトン中期と後期を峻別して、後期にはイデア論を放棄したと主張する意見が強くなってきていますが、著者は大反対です。後期にもイデア論は成立しています。

【感想】もっとも熱が入っているのは、もともと後期著作と思われていた『ティマイオス』が実は中期の著作ではないかという議論に対する検討だ。これが著者にとって大問題となるのは、イデア論放棄問題が関わってくるからだ。

後期入口の著作である『パルメニデス』では、イデア論に対して論理的な批判が加えられている。そしてその後に書かれる後期著作においては、エレア派の影響が強くなっており、表面的にはイデア論は背後に退いている。これを以て、多くの研究者が「イデア論放棄」と考えているわけだが、著者はイデア論は維持されていると考える。イデア論が維持されていると考えるのは、著者が「本質的なイデア論」(著者の言葉では「典型イデア」)と「応用的なイデア論」(著者の言葉では「あずかりイデア」)を区別して考えるからだ。確かに応用的なイデア論の方には論理的な難点を認めたが、本質的なイデア論のほうは維持されていると考えるわけだ。

個人的にも、その考え方にはある程度の説得力があると思う。イデア論を無際限に現実のモノに適用していくと、話は当然おかしな方向に向かっていく。しかしそのような批判と、「正真正銘本物の知識(ドクサ=思い込みとは異なる何か)」というものがどこかに必ず存在しているはずだという信念を抱くことは、必ずしも矛盾するわけではない。この「正真正銘本物の知識」を著者が「典型イデア」と呼んでいるのであれば、私の個人的な感想と大きくズレるものではないだろうと思う。(さらに言うと、「正真正銘本物の知識」という信念が有効なのは、人がどう生きるかという「価値」の領域に限るが)

ところで、本書は前半部で概説、後半部で主要著作からの抜粋翻訳が掲載されているわけだが、この翻訳がとても読みやすい。岩波文庫版で分からなかったところが、かなり明確に分かったような気になる。ありがたい。抜粋部分には「否定神学」へと発展していく箇所を前面に打ち出してあったような気がする。「否定」というものの積極的な意義を打ち出す西洋哲学の伝統がプラトン以来のものだと改めて確認できた。

斎藤忍随『プラトン』講談社学術文庫、1997年

【要約と感想】プラトン『法律』

【要約】おれの考えた最強の国家は、人々を徳に導く教育をいちばん大事にします。

【感想】プラトン終生のテーマであるところの、魂の不死とか、真の知識とか、正しい生き方がいちばん幸せとか、一と多の関係とか、お馴染みの議論がいつものように展開される一方で、この本でしか見られない具体的な教育論とか法律論も盛りだくさん。

教育学的観点から興味深いのは、子供に関わる様々な記述だ。プラトンは、しばしば子供を完全な無能者として扱っている。たとえば「「再び子供にもどる」というのは、年寄りばかりか、酔っぱらいもまたそうなるのですね。」(646A)とか、「これらの犯罪のどれかを犯す者は、おそらく、狂気の状態にあるために、あるいは、病気にかかっているとか、非常な高齢にあるとか、子供に近い状態にあるとかで、狂気の人と少しも変らない有様」(864D)というふうに、子供を発狂者や痴呆老人や酔っ払いと同じカテゴリーに入れて無造作に扱っている。子供期を特別な価値を持った時間とは、明らかに捉えていない。彼が特別な敬意を払うのは、決まって老齢の人々である。

が、一方でプラトンは幼児期の教育(胎教含む)に高い意義を認め、さらに子供の遊びが人格形成に与える影響を積極的に評価している。キリスト教的な子供観と異なる価値観が見えるのも間違いない。ただし、こういった幼児期教育の重視は、「子供というものは、すべての獣の中でもっとも手に負えないものです。」(808D)というような、子供を一個の人格としては認めない認識と表裏一体ではある。

他、教育に関する見所は、職業訓練的な教育(いわばinstruction)の意義を否定し、人格形成のための教育(いわばeducation)を真の教育と明確に述べているところなど(644A)。徳のための教育を真の教育と見る姿勢は初期対話編から終始一貫しているわけだが、多くはソフィストとの対比で語られていて、ここまではっきり職業訓練的な教育と比較している箇所は珍しいかも。後のヨーロッパ的思考の土台となる「教育/教授」を区別する枠組みが既に確認できる。

また、法律論でも、懲罰刑ではなく教育刑の意義を前面に打ち出している点とか(まあ、それにしては死刑への沸点が低すぎるけど)、奴隷や動物や無生物が犯罪を犯した場合の対処とか、ヨーロッパ的な法思想枠組を考えると、興味をそそられる論点が多い。

あと、お葬式で死体を重要視しないように勧告するところなどは、一周回って仏教と同じような議論になっていて、なかなか興味深かった。魂の不死と輪廻転生を信じた場合、論理的に筋道をたどれば、同じような結論に至るということか。

プラトン/森進一・池田美恵・加来彰俊訳『法律〈上〉』岩波文庫
プラトン/森進一・池田美恵・加来彰俊訳『法律〈下〉』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】プラトン『パイドロス』

【要約】恋とは、人間の狂気のなかでも最も尊い。なぜなら、その狂気を通じてのみ、人は「真の美」を想起できるからです。

【感想】この本、プラトンの著作の中で一番好きだなあ。印象的なエピソードが、集中して本書に集まっている感じ。

まず、恋愛の話が凄い。恋の狂気のみが人を「真の美」へと導く。なんてことが真正面からド直球で説かれるという。技巧に走る芸術家は、狂気の人々が作る作品には決して追いつけないとか。ソクラテスは教科書的には「無知の知」で有名だけど、教科書に「ただし恋の話だけはよく知ってる」という但し書きもつけてほしいところ。

それから、「文字の発明」のエピソードが収められているのも本書。文字の発明は、実は人々の記憶力を退化させて、真の知恵から遠ざけるだけだという。文字によって、人々は見かけだけ博識家になって、うぬぼれだけが発達し、つきあいにくい性格になる。プラトンは、対話可能な言葉だけが真実へと導くと言う。「ディアレクティケー=対話」という手続きの本質について、考えさせる。

さらに、「分析」と「総合」という手続きが「ディアレクティケー(対話法)」の神髄として明確に示されているのも大きな特徴。ただ、論理的な手続きをどれだけ誠実に積み重ねても、アプリオリな総合判断には辿り着かない。その「直感」は「神がかり」の「狂気」によってもたらされるしかない。「神がかりの狂気」によって直感を得る前半部と、論理的手続きによって「ただ一つの本質的な相にまとめる」という後半部が、一つの本に両立している不思議。直感と論理の二つがどのように内在的に結び付くかは、残念ながら本書では明確に見えない。

そして、ソクラテスが楽しそうに話しているのが、とてもいい。他の本だと皮肉を言ったり、攻撃的だったり、詭弁を弄したり、ちょっとどうかな?と思うこともある。けれど、本書は終始楽しそう。いちばんスッキリするプラトンだと思う。

*9/18後記
狂気に触れた者だけが物事の本質に辿り着けるという議論は、眼鏡っ娘論に対して極めて重要な示唆を与える。「眼鏡っ娘とは何か?」という問題に対して、ある程度は論理的に迫ることができても、一定の成果を上げたところで、必ず論理的なアプローチでは超えられない深淵が見えてくる。底の見えない深淵。この「深淵」を跳躍できるのは、「狂気」だけだ。俺に跳躍の勇気をくれ!

プラトン/藤沢令夫訳『パイドロス』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】プラトン『テアイテトス』

【要約】産婆術を駆使して「知識」とは何かを吟味した結果、相対主義的な認識論を排除することに成功し、「知識とは何でないか」についてはある程度わかりましたが、「知識とは何か」についてはわかりませんでした。

【感想】本書の最大の見所の一つは、疑いなく「産婆術」に関する具体的な記述にある。プラトンの他の本は産婆術に関してあまり教えてくれないが、この本は産婆術の方法論についてかなり細かいところまでよく教えてくれる。よく読むと、俗に言われている産婆術とは随分異なった印象を持つだろう。というのは、よく言われるているような「真実を生み出す作用」については実際にはそれほど強調されておらず、むしろ「陣痛」を故意に引き起こすことと「生まれたものの正邪の吟味」のほうに重点が置かれて説明されているからだ。そして、ソクラテスが産婆術によって対話相手の陣痛を故意に発生させたとしても、そこから生み出されるものが無条件に「真実」だなどとは、実は全く主張されていない。むしろ産婆の役割とは、生み出されたものが真でなかった場合、どれだけ親が泣き叫んで子供を守ろうとしようが一切の情状酌量を加えずに無慈悲に廃棄することだと明確に述べているのである。俗流教科書的な解釈は、現代的な手心を加えている。

個人的に関心があるのは、後半で展開される「全体と全部の違い」に関する議論だ。本書は一般的にプラトンがイデア論を捨てる後期著作の入口に当たると言われているが、イデア論の代わりとなるであろう認識論が一定程度示されているように思える。後半で議論されているのは、明確な言葉では示されていないものの、「個物」と「普遍」の関係であるように思う。イデア論とは、ざっくり言えば「普遍」を「個物」のように把握する世界観なわけだが、本書ではその姿勢は背後に退いている。徹底的に「思いなし=ドクサ」のレベルの話に終始し、「真の知識=イデアを見る」という話には突入しない。「普遍」を捉えることこそが「真の知識」だという積極的な姿勢はもう見られない。むしろ後の新プラトン主義に引き継がれていくような、そもそも「個物」(あるいは「一」)を認識するとはどういうことかというような問題意識をしつこく掘り下げていく。あるいは「個物」を認識するということが「普遍」を認識することと両立しないという矛盾が前面に押し出されてくる。

「自己同一性=一とは何か?」という新プラトン主義的問題意識がそうとう明確に形をなしている点が、個人的には本書の見所であるように思う。

※9/22後記
2つのレベルの知識論が読み取れる。一つは「感覚」と「知識」を峻別する論理だ。感覚だけでは決して辿り着けないような「知識」が確実に存在することを示し、感覚を超越して論理的な吟味を経たもののみを「知識」と見なす立場だ。『国家』の線分の比喩で言えば、3番目の知識にあたる。
もう一つは、論理的な吟味によって辿り着ける知識と、それを超えていく知識の峻別だ。テアイテトスが示す幾何学的な知識は、論理的な吟味によって辿り着くことが可能な知識だ。ところがテアイテトスは「知識とは何か?」という問題に対しては、同様のアプローチでは到達不可能だと言う。結局、本編では「知識とは何か?」という問いに対する答えは出ない。どのように到達可能かは示されないまま終わる。おそらくそれは「直感」としか言えないような、『国家』の線分の比喩で言う4番目の真理であるところの、アプリオリな総合判断だ。
かつてプラトンは「想起説」なり「イデア論」なりで一定の答えを示したにも関わらず、本編では徹底的に禁欲する。アプリオリな総合判断には、決して論理的な手続きの羅列では到達できないことだけが明らかになる。

プラトン/田中美知太郎訳『テアイテトス』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【要約と感想】プラトン『メノン』

【要約】「徳」は、「知恵」と「無知」の中間にある「正しい思わく」からももたらされるらしい。「思わく」なら神の恵みによって備わるかもしれない。そして本書の見どころは、「想起説」と「仮設法」。

【感想】「徳とは何か?」とか「徳は教えられうるか?」というテーマについて扱っている。『プロタゴラス』を引き継いだテーマと言える。まあ、いつもどおり消化不良ではある。とはいえ、『プロタゴラス』よりは生産的な方向に話が進んでいるような気はする。『プロタゴラス』では、結局のところ「徳」と「知」の関係は明らかにならなかった。本書でも相変わらず「徳とは何か」は分からないが、「知」でもなければ「無知」でもない中間であるところの「思わく」からも立派な行為がもたらされるという結論は出た。そしてそれは「知」でない以上は教えることができないものであり、神によって偶然に恵まれるものだ。

その結論とは直接関係なく、本書の見どころは論理的な手続きについて語られた「仮設法」と「想起説」にあるように思う。「仮設法」とは、蓋然的な命題を仮設して、そこから演繹的推論を重ねて出た結論を吟味し、仮設が正しかったかどうか確認するという手続きだ。しかしその手続きを重ねた結果、「徳とは知である」と「徳とは知でない」という仮設命題の両方が正しいことになってしまった。つまり仮設法は真の知へと至る確実な道ではなく、あくまでも便宜的な手続きに過ぎず、それはアンチノミーに陥ることが示唆される。これを解消するためには、仮設命題そのものの吟味が必要だ。つまり「徳とは知である」と言ったとき、「徳とは何か」と「知とは何か」が分かってなければ、本当の探求は始まらないということだ。

しかしそこで、「人は知っているものを探求する必要はないが、知らないものは何を探求すべきかも分からない」(80e)という詭弁にぶつかる。「徳とは何か」とは「知とは何か」などということについて、そもそも人は知りようがないのではないか?という疑問だ。我々はあらかじめ「徳」というものを分かっていなければ、「徳」について語りようがない。逆に、我々が「徳」について現実になにかしら語っているということは、我々はすでに「徳」というものを知っているはずだ。しかし改めて「徳とは何か」と聞いてみると、誰もそれを説明することができない。ソクラテスが求めているのは、我々があたかもあらかじめ知っているかのように「徳」というものを語っているが、どうしてそれを説明することができないのにあらかじめ知っているかのように語ることが可能なのか、その根拠だ。それは分析的な知でもなければ、アポステリオリな総合の知でもない。アプリオリな総合判断の根拠だ。プラトンはそれに対して「想起説」で応えた。生まれる前から「知っている」のだ。アプリオリに知っているのだ。我々は、だからあたかもあらかじめ知っているかのように語れるのだ。だがその根拠を説明できないのは、忘れているからだ。「学ぶ」というのは、その根拠を思い出すことだ。このように想起説をもちだすことで、「人は知っているものを探求する必要はないが、知らないものは何を探求すべきかも分からない」という詭弁をくつがえすことができる。アプリオリな総合判断とは「既に知っているにもかかわらず、その根拠を探求しなければならない」というものだ。

が、残念ながら、本書はアプリオリな総合判断の根拠を探求することへ向かうことはなかった。その解答は、『国家』を待たなくてはならない。

*9/18後記
このアプリオリな総合判断の根拠への探求は、眼鏡っ娘学の根本をなす動機でもある。我々はあたかも最初から「眼鏡っ娘」を知っているかのように、何らかのキャラを見て「あれは眼鏡っ娘だ」とか「あれは眼鏡っ娘ではない」などと判断している。だが、その判断の根拠を問われてみると、実は明確な言葉で定義して答えることができないという、困った事態に直面させられる。「単に眼鏡をかけている女のことを眼鏡っ娘と呼んでいいのかどうか」と問われれば、そんなに単純なもんじゃないと思う。「じゃあ誰が眼鏡っ娘なんだ」と問われれば、答えに窮するしかない。「知っているけれど説明できない」としか言えない。我々は確かに「あれは眼鏡っ娘だ」とか「あれは眼鏡っ娘ではない」と判断できるが、その判断の根拠を示すことはできない。これが「アプリオリな総合判断」というやつだ。「眼鏡っ娘とはなんだ?」という問いへの追究は、結局は「アプリオリな総合判断はどうして成立するか?」という人間の知への究極の問いを追究する行為と言える。そしてそれは、『饗宴』なり『パイドロス』で示されるように、「神がかり」とか「狂気」とか「エロス」というものが媒介することで成立するようなものなのだろう。

あるいは「萌え」という概念に一般化してもよい。我々は「萌え~」などと言えるが、どうして萌えるかの根拠や、そもそも「萌えとは何か」について答えることはできない。どれだけ分析しても、誰も納得しない。それはそもそも分析的な知ではないからだ。あるいはどれだけ萌えキャラをたくさん提示しても、誰も納得しない。それはアポステリオリな総合判断ではないからだ。それはアプリオリな総合判断であり、その根拠を提示しない限り人を納得させる回答とはならない。ソクラテスが「勇気」や「節制」に対する分析的な知やアポステリオリな総合判断に満足できなかったように、人々は「萌え」に対する分析的な知やアポステリオリな総合判断には満足しない。ではアプリオリな総合判断の根拠はいかに示されるのか。それはまさにソクラテス自身が示したように、もはや「神がかり」とか「狂気」とか「エロス」というものが媒介する形でしか示唆することはできない。だから小野寺浩二は正しい。彼こそ現代のソクラテスだ。賢者とも言う。

プラトン/藤沢令夫訳『メノン』岩波文庫

→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」