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【要約と感想】吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』

【要約】2015年に「文系学部廃止」通知を巡ってメディアが沸騰しましたが、勘違いが甚だしいものでした。とはいえ、本質的な問題は、その勘違いが発生した背景にあります。「文系学問は役に立たない」という誤りを、本書は糺していきます。
文系学問は総合的に言って、近代に勃興した国民国家権力と市場経済が取りこぼした領域である「価値」を対象とするものです。それは国家権力や市場経済よりも長い命脈を保っています。長い目で見れば、大学で扱っている対象の方が、「役に立つ」のです。
しかし日本の大学がこのままでいいということではありません。18歳若年人口に対して大学の数が多すぎます。しかし大学が変われないのは、組織が硬直化しているからです。年齢の壁と分野領域の壁を取り払って進化しなければ、このままでは大学は滅びます。
コペルニクスによる地動説は、印刷術というメディア環境の激変=ボーダーレス化が背景にあります。現代のデジタル技術とグローバルな金融市場は、ボーダーレス化という意味で、16世紀の状況によく似ています。大学が生き残るとしたら、この状況で存在感を示すことがポイントでしょう。

【感想】「一点突破全面展開」の見本のような構成で、感心しながら読んだのであった。視野の広さと教養の深さには、さすがだなあと唸るしかない。
と、人ごとのように言っても始まらないのは、私自身がこの問題に巻き込まれているからだ。大学に関わる当事者として主体的に考えなければならない極めて切実な問題なのだ。本当は。だがしかし、著者が言うとおり、既存の体制の中で身動きを取りようがないのであった。いやはや。

【今後の個人的研究のための備忘録】
「教養」や「人格」さらに「文化/文明」や「国民国家」という概念同士の関係についての記述を楽しく読んだ。既に研究されて専門書等では様々に指摘され、識者の間では常識となっているところではあるのだが、新書レベルで話がまとまっているのは貴重かなと思った。

「他方、「教養」概念の成立は、「国民国家」の形成、それと並行して生じた大学の「第二の誕生」と切り離せません。一九世紀初頭、瀕死の状態にあった大学は、ナショナリズムの高揚を背景に、劇的な「第二の誕生」を迎えます。」80頁
「このドイツ流のナショナリズムは、大学が目指す価値にも明瞭に反映していました。すなわち、フランスが掲げた「文明」の概念とアカデミーや専門学校、美術をはじめとする新しい地の制度に対抗して、ドイツはむしろ「文化=教養Kultur」の概念を掲げ、そうした「文化=教養」の府として大学を立て直さなければならなかったのです。」81頁
「大学教育の場で、そのような近代的国民的理性の概念を具現していくのが、まさに「文化=教養」という考え方です。その場合、大まかにいうならば、「文化Kultur」は自然から理性に向かう歴史的プロセスを指し示し、それが個人の発達プロセス、人格の陶冶としても理解されたのが「教養Bildung」です。近代の大学では、学問的な研究対象としての「文化/自然」と教育の目的としての「教養/人格」が統合されなければならないとされました。そのようにして、一九世紀以降の大学は、国民国家の発展と人格的理性の発達を重ねあわせようとする傾向を内包してきたのです。」82頁
「「文化=教養」を通じた国民主体と国家の一致―この考え方こそ、やがて日本で帝国大学の創出を担う森有礼から戦後初の東大総長・南原繁までのナショナリストを捉えて離さなかった大学理念であり、そうした発想は、ある意味で前述した「教養」擁護の所論にまで引き継がれているのです。」83頁

コンパクトにまとまった記述で、なるほどなあと。私も教育史の立場から「人格の完成」概念にアタックしてきたわけだが、「人格」概念の成立がやはり「国家理性」概念を伴うことを独自に確認してきたつもりではある。→「個性概念についての一考察

吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』集英社新書、2016年

【要約と感想】加藤節『ジョン・ロック―神と人間との間』

【要約】日本ではジョン・ロックの思想が誤解されているのですが、それは合理的な近代性や自由主義という一面のみ見ているからです。最先端の研究では、ロックの矛盾や挫折から、総合的にロックの思想を理解しようという試みが進んでいます。ロックの「生」に深く根ざした「神学的パラダイム」を踏まえることで、経験主義的な認識論にせよ、社会契約論的な政治論にせよ、実は宗教(プロテスタント)的な道徳への信念が土台となっていることが分かり、一見すると矛盾に満ちて錯綜としたロックの思想構造の全体を掴むことができます。

【感想】さしあたって、著者の言うように世間の教科書的なロック理解が世俗的で自由主義的であるとしても、いちおう私個人としてはロックの思想が宗教によって貫かれていることは既知の基本情報ではあった。たとえばロック『教育に関する考察』の訳者である服部知文は解説で以下のように言っているが、それはもう50年以上前のことだ。

「ロックの体系の主要部をなす認識論、宗教論、政治論の三者が、彼の宗教思想によって貫かれていることが明らかになると思われる。この「教育論」についても、その中心の眼目となるものは、その顕著な世俗主義にも拘わらず、やはり彼の宗教思想を根底とした道徳的性格形成の主張であろう。」『教育に関する考察』351頁

逆に言えば、専門家の間ではロックの思想を「宗教思想」を土台として理解しようと姿勢が少なくとも50年以上前からあったにも関わらず、教科書的な理解はいっこうに変わらなかったということでもある。私が専門とする教育学の世界でも、やはりロックといえば相変わらず「市民革命の世俗主義を背景とするタブラ・ラサと紳士教育」であって、その宗教性にスポットライトが当たることはないのであった。いやはや。

【今後の個人的研究のためのメモ】
さてところで、私の研究の興味関心からいえば、本書でかなり詳しくつっこんでいるところの「プロパティ」概念がとてもおもしろかった。プロパティとは現在では「財産」とか「所有権」という程度の意味ではあるが、ロックはその言葉をもっと広い意味で使用しているとのことだった。

「私有と共有との関係や、法と私的所有との関係を主要論点とする「プロパティ」論の十七世紀的文脈のなかで、「プロパティ」は、動産や不動産のようなモノとしての資産やそれに対する各人の所有権を意味するものとされていた。それに対して、ロックのいう「プロパティ」は、十七世紀の用法よりもはるかに広い意味をあたえられていた。それは、「資産」のほかに、人間の身体や人格にかかわる「生命、健康、自由」までをふくむものとされていたからである。」87頁
「ロックの「プロパティ」は、それなしに人間が神への義務をはたすことができないもの、伝統的な哲学用語を使えば、人間が神に対して負った全義務の基礎をなす「基体」そのものであったからである。」88頁
「まず注意すべきことは、ロック独自の用語法で、「プロパティ」が「神の作品」としての人間に「固有のもの」、人間とそれ以外の被造物とを分かつ人間の全属性を意味していたことである。(……)ロックにおける「プロパティ」の概念は、人格と存在、精神と身体、「不死なる魂と現世的な生」を持って想像された人間の全局面にあいらかにかかわるものであったからである。」88頁

この文脈で「人格」という日本語が出てきて、赤字にしてしまっているが、ハッとしたわけだ。ちなみに私がこだわっている「personality」という言葉は、私個人の印象ではホッブズあたりから現在のような意味で使われ始めたような感じがする。そしてロックの時代には(あるいはその後の英米系思想全体において)、それほどこなれた形で使用されるには至っていない。逆にロックが使う「property」とは、今で言うところの「personality」とか「冒すべからざる人格の尊厳」というような概念を何とか言い表そうとする中で発せられた言葉であるような感じを受けたわけだ。
しかしそういう意味で言うと、現在のコンピュータ界隈で使用される「property」という言葉の意味は、なかなか興味深いかもしれない。たとえばWindowsのシステム関連で使用されるpropertyという言葉には、ただの「所有物」とか「属性」という意味では捉えきれない、もう少し深い何かを言っている感じがするのだ。
「人格」という言葉の意味を捉える上でも、ロックやWindowsの言う「property」は、補助線として極めて有効なのかもしれない。

また、本書では、私が気にしている「人格的同一性」とか「アイデンティティ」という言葉が頻出する。なかなかおもしろい言い回しが多く、感心しながら読んだ。

「ロック自身がいうように「意識が人格的同一性をつくる」とすれば、思考する存在としての自己意識は、ロックがその後の人生において揺らぐことなく持ちつづけたアイデンティティの根底をなすものであった。」9頁
「変容し、矛盾をふくみつつも、全体としては自己同一性を保ちつづけた点にロックの思索の構造的な特質があった」45頁
「論理的な非一貫性や亀裂の存在がかえって思想の自己同一性を暗示するという逆説のうちに、ロックにおける発展する精神の謎を解く鍵がひそんでいる」45頁
「ロックも用いたスコラ哲学の伝統的な概念を使っていいかえれば、それは多面的なロックの思想を個性的な同一性を持つロックの思想それ自体にした「個体化の原理」にほかならなかった。」57頁

絶対矛盾的自己同一という(これは個人的には決して西田幾多郎の専売特許ではないと思っているわけだが)、私の問題関心の核心に触れるものではあった。実は終章で著者が語る「ロックの現代的意義」にはピンとくるものがまったくなかったが、そうでない部分は極めて現代的な意義で溢れているように感じた。おもしろく読んだ。

加藤節『ジョン・ロック―神と人間との間』岩波新書、2018年

人格とは何か?

人格の定義

ありがちな勘違い

人格は、「個人の心理面での特性」ではありません。また、「人柄」でもありません。
もしも「特性」とか「人柄」という言葉と同じ意味なら、わざわざ「人格」などと言う必要はありません。「特性」とか「人柄」と言っていればいいのです。「特性」や「人柄」という言葉では伝わらない極めて重要な中身があるからこそ、特別に「人格」という言葉が用意されているのです。
では、「人格」とは何でしょうか?

人格の定義

実はすでにオールポートという心理学者が人格の定義を分析して、過去に提出された50もの定義を示しています。これに私がつけ加えることは、ほぼ何もありません。
まあ、私個人の定義は、「人の人たる所以」としておきます。屋上屋を架すことになって、恐縮ではありますが。

とはいえ、この定義に至った真摯な経過がないわけではないので、以下、勉強と研究の一端を示しておきます。

人格を見る、3つの観点

人格という言葉の意味を掴みにくいのは、3つの観点からまったく異なる意味で使われているからです。その3つとは、
(1)実体的な人格(主に心理学が対象とする)
(2)仮想的な人格(主に法学や経済学が対象とする)
(3)実存的な人格(主に哲学や神学が対象とする)
です。
以下、それぞれの立場を確認していきましょう。

(1)実体的な人格

実体的な人格とは、主に心理学の分析対象となり、数字で評価できるものです。近年のパーソナリティ心理学ではBIG5と呼ばれる評価規準が設定され、数字によって人格特性を表現することができるようになっています。つまり、この立場では、人格は客観的に測定できる対象です。

が、このように人格を実体的に見ることに対しては、パーソナリティ心理学の立場からも批判が加えられています。

「しかし、客観的にみるかぎりでは、パーソナリティ(特性)は構成概念として考えるべきものであり、それ自体が実体として(脳のなかに)存在していると仮定することは妥当とは思われない。しかし、現在のパーソナリティ研究の多くは、依然として実在論的なパーソナリティ概念を暗黙の前提としている。」
若林明雄『パーソナリティとは何か その概念と理論』培風館、2009年、47頁

このような批判があるにも関わらず、学術研究の世界でも、人格を実体的に理解する立場は衰える様子を見せません。一般的にも、人格を実体的に理解する姿勢に極めて根強いものがあることは、間違いないところでしょう。

(2)仮想的な人格

実体的な人格理解に対して、「人格なんてものは現実には存在しない」と言い切るのが、次の立場です。この立場では、人格が現実に存在するなどという非科学的な戯言など、断じて認めません。実際、人格の存在は、どれだけ科学的に分析しても、証明することなどできません。
しかしこの立場は、いったん人格というものの物理的存在を否定した上で、仮想的に存在を認めます。なぜ仮想的に存在を認めるかというと、あたかも人格というものが存在しているかのように世の中を組み立てておいた方が、世の中がうまくいくからです。
具体的には、たとえば法学では、人格なんてものは現実には存在しないのだと見切りつつ、それでもあたかも存在しているかのように振る舞います。法学者の安藤馨は、こう言い切っています。

「個人の人格は、そこに天然自然のうちに存在しているものではなく、それがあると考えた方が人々の効用が増大する(=気持ちよくなる)から設定されたもの、あると考えられるようになったものであるに過ぎない。となれば、個人の人格を基礎とする自律という観念も、単にそう考えることによってもっとも社会全体における功利が増大するという理由によって正当化し得るものに過ぎないということになろう。」
安藤馨「統治と功利-人格亡きあとのリベラリズム」『創文』2007年1-2月号

実際、法律というものは、「人格」と「物件」の厳密な峻別を土台にして、全体が構成されています。もしも「人格」という概念を認めないと、法律の体系全体が崩壊します。しかし人格そのものはあくまでも仮説的に存在を認められたものであって、現実に物理的に存在するわけではありません。

また心理学研究者も、以下のように言っています。

「自我体験における「私1」は、私たち人間が生存している範囲内で、仮定として想定しているもの」
天谷祐子『私はなぜ私なのか―自我体験の発達心理学』ナカニシヤ出版、2011年、169頁

実証的な研究に取り組んできた心理学研究者が、人格に対して「仮定として想定しているもの」という結論を出しているのは、なかなか興味深いところです。

(3)実存的な人格

これらに対して、まったく別の観点から、人格が現実に存在していることを主張する立場があります。この立場では、仮説的に存在を認めるなどという生ぬるいことは言いません。しかし、(1)にように物理的に存在しているなどと言いたいわけではありません。この立場では、人格とは、精神的に存在するものです。もっと言えば、霊的に存在するものです。物理の世界を超越したところに、物体よりも遙かに存在感あるものとして存在していると主張します。
たとえば神学者の稲垣良典は、次のように述べています。

「私自身が根本的に前提としている「人間」理解と、聴講者たちの間で「自明の理」とされている常識的な人間観との間の著しい隔たりは、時がたつにつれて次第に重い問題として私に迫ってきたのである。
その隔たりとは、一言でいえば、常識的な人間観における「人格」概念の完全な欠如であった。(中略)
社会通念ともいえる人間観にひそんでいるこうした欠陥は、いずれも「人格」概念の不在――「人格」という言葉、あるいは「人格の尊厳」「人格の形成」という標語は広く流通しているにもかかわらず――に由来する、と私には思われた。なぜなら、この後の本論で詳細に論じられるように、われわれが「私」「自己」と呼んでいる存在を明確に認識し、その存在に固有な価値を基礎づけることができるのは、人間を「個人」あるいは「個」として捉える立場を超え出て、人間を明確に「人格」として経験し理解することによってだからである」
稲垣良典『人格《ペルソナ》の哲学』創文社、2009年、vii頁

稲垣のこの言葉は、(1)の立場の批判であると同時に、(2)の立場に対する批判でもあります。(2)の立場とは、「人間を「個人」あるいは「個」として捉える立場」であって、その立場を成立させるために「人格」という観念を仮構したのでした。しかし稲垣は、これを批判して、「人格」とは仮構物などではなく、実際に「存在」するのだと主張しているわけです。
そしてここでいう「存在」とは、もちろん物理的に存在しているなどという通俗的な意味ではありません。稲垣は次のように述べます。

「このように、「人格」について語ることの難しさは、私が私自身に現存している「私」「自己」を認識し、それについて語ることの難しさであり、精神が精神自身に現存している「精神」を認識し、それについて語ることの難しさである。ということは、少し変った言い方になるが「人格」は自己自身に現存している「人格」を認識し、それについて語ることが難しい、ということであり「人格」とはそのような自己自身への現存という存在の仕方をするものである、ということである。言いかえると、「人格」「自己」「精神」などの名で呼ばれるものは、「存在する者」である限り「一」であるが、それは量的な「一」、数の単位とか点のような「一」ではなく、自己還帰的な「一」、すなわち同一のものが自己に現存し、自己へと立ち返るような仕方で「一」なのである。」
同上書6頁

つまり、「存在」という言葉の意味そのものが既に(1)や(2)の立場と異なっていることに注意しなければ、稲垣の言う「人格」の意味内容を捉えることはできません。人格とは、「存在」という言葉のもっとも純粋な意味において「存在」しているものです。

まとめ:3つの観点の噛み合わなさ

以上、3つの観点から人格という言葉の意味内容を確認してきました。そして確認したように、もはや絶望的に、まったく噛み合うところがありません。それぞれ、何も意味が重なっていません。そういうまったく違うものが、同じ一つの「人格」という言葉で呼ばれているために、「人格とは何か?」がまったく分からなくなり、混乱してしまうのです。
が、その混乱ぶりから、むしろ明確に分かることがあります。それは、「人格」という言葉の意味は、「世界」をどう見るかによってまったく変わるということです。逆に言えば、「世界をどう見るか」という観点が伴わないかぎり、「人格」という言葉だけを取りだして議論しても、あまり意味がないということです。
学問分野の違いによって「人格」に対する見方がまるで異なるということは、学問それぞれの世界観が異なっている以上、当然のことになります。

「人格の完成」とは何か?

では、教育学では、「人格」をどう捉えるべきでしょうか? 決定的に重要な事実は、教育基本法の第一条に、日本の教育の目的は「人格の完成」であると明記されていることです。人格の完成という教育の目的を達成するには、そもそも「人格とは何か?」が分かっていなければいけません。
ということで、「人格の完成」については、ページを改めて考えていきましょう。(つづく?)

 

アイデンティティとは何か?―僕が僕であるために

アイデンティティの定義

ありがちな勘違い

アイデンティティとは、個性のことではありません。個性とは別の状態を示す言葉です。もしも個性と同じ意味なら、「個性」と言えば用が足りるわけで、わざわざ「アイデンティティ」という別の言葉を使う必要はありません。
また、Wikipedia(2018年9月閲覧)には「アイデンティティとは自己を確立する要素の事」とありますが、トンデモない間違いです。アイデンティティは、「要素」なんかではありません。

アイデンティティの定義

わかりやすく言えば、アイデンティティとは「私が私であること」を表現する言葉です。

「えっ、私が私であるって、当たり前じゃ」と思う人がいるかもしれませんが、実はこれ、よく考えると当たり前のことではありません。以下、アイデンティティが「私が私であること」を示す言葉であることを、哲学的に吟味していきましょう。

ちなみにエリクソンなどが使っているような歴史が浅い心理学的アプローチについては議論の対象としませんので、ご了承ください。

要素が変化しても変わらないもの

私が私であることを証明したいとき

たとえば「IDカード」の「ID」は、identityあるいはidentificationという言葉の最初の2文字を取ったものです。
さて、IDカードが必要になるのは、どんなときでしょうか? たとえばレンタルビデオ屋でDVDを借りたいとき、カウンターにDVDを持っていって「貸してくれ」と言ったところで、貸してくれるわけではありません。あなたがちゃんとした会員であることを店員に証明しなければ、DVDは借りられません。しかし「私は確かに会員だ」と言い張ったところで、店員さんとしては本当かどうか、確かめる手段はありません。こういうときにIDカードの出番です。店員さんにIDカードを示せば、きっと「いつもありがとうございます」と返事をしてもらえるでしょう。
IDカードを示すことで店員さんが理解するのは、「会員であるあなたと、目の前のあなたが、確かに同一人物だ」ということです。店員さんは「あなたがあなた」であることを理解します。私自身には「会員である私と、いまここにいる私が同一人物である」ことは自明なことですが、これを他人に分からせるためにIDカードが役に立つわけです。

だから、identityのことを「自我同一性」と翻訳したりします。「会員である私と、いまここにいる私が、同一」であることを示しているからです。あるいはidentityは「存在証明」と翻訳されることがあります。「いまここにいる私が、会員である私と同じ存在であることを証明する」という役割を果たしているからです。

本当に同一なのか?

しかし、本当に「会員である私」と「いまここでDVDを借りようとしている私」は、同一人物なのでしょうか?
人間は、日々、新陳代謝を繰り返しています。人間は生命活動によってエネルギーを消費し、老廃物を体外に排出します。失った分のエネルギーは、体外から栄養として取り入れて、消化し、新たに自分の肉体としなければいけません。そうして人間は、常に外部から栄養をとりいれると同時に老廃物を外部に排出しています。
つまり、いま現在の私を構成している物質は数ヶ月後にはほとんどが排出され、数ヶ月後の私の体は、これから取り入れるであろう食物の栄養素によって組み立てられることになります。現在の私の体は、数ヶ月前の私の体とは違うし、数ヶ月後の私の体とも異なっているでしょう。こんなふうに新陳代謝を繰り返す私は、本当に過去の私と同じだと言えるのでしょうか?

東洋の例=鴨長明

実はそういう疑問に対して、われわれ人類はかなり昔から取り組んできております。たとえば鴨長明はこのように言っています。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
鴨長明『方丈記』

河というものは依然として河であるにも関わらず、しかしそれを構成する水は刻一刻と変化しています。人間というものが依然として人間であるにも関わらず、しかしそれを構成する物質が刻一刻と変化することと、同じような現象です。
ところが鴨長明は、続けて「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」と述べます。鴨長明は、河が「同じであること」に注目せず、水の泡が「刻一刻と変化する」ことの方に物事の本質を見ています。

いろは歌も、鴨長明と同じように「移り変わること」に物事の本質を見ていますね。

色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ
(美しく咲き誇っている花も散ってしまった。われわれ人間だって、いつまでも同じだと言えるだろうか。いや言えない。みんな結局は死んでしまう。)

「ものごとの本質は一定ではない」ということが、東洋的思考の基本にあります。

西洋の例=アリストテレス

ところが同じ現象に対して、西洋の哲学者は「同じ河である」ことのほうに本質を見ます。たとえば古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、鴨長明と同じく河の流れを例に挙げて、次のように言っています。

「ちょうど河や泉は、絶えず或る水は流れ来り或る水は流れ去っていても、それらを同一であるとわれわれが言うのを常としているように」
アリストテレス『政治学』1276b

鴨長明とアリストテレスが同じ現象を見ているにも関わらず、物事の捉え方が完全に正反対になっていることが分かります。同じ河の流れを見て、鴨長明が「変化」のほうを本質と見ているのに対し、アリストテレスは「同一である」ことのほうを本質と考えています。
そしてアリストテレスは、河の流れのたとえに続けて、次のように言い切っています。

「水の流れのようなことを理由にして人間は同一であると言わなければならない」
アリストテレス『政治学』1276b

どんなに水が変わろうとも河の流れが同じであるように、どんなに構成物質が変わろうとも人間は同一である、というわけです。ここにアイデンティティという言葉の本来の意味を見ることができます。
プラトンも、同じようなことに言及しています。

「例えば人が子供の時から老人に成ってしまうまで、同じ人といわれるようなものなのです。実際彼は自分の内には瞬時も同一要素を保有するようなことがないが、それでもなお終始同じ名で呼ばれている。しかも他方彼は髪も肉も骨も血も、要するに肉体の全体にわたって普段に新しくなるとともに、旧いものを失ってゆくのです。」
プラトン『饗宴』

もしもただ単に「同一」と言うだけでは、アイデンティティの本質を捉えているとは言えません。「どんなに要素が変化しようとも、同一である」というところが、アイデンティティという言葉の本質です。ここが、「個性」や「性質」という他の類語と決定的に異なるポイントです。

川の流れのように

というわけで、鴨長明の見方だと、一ヶ月前の私と現在の私は、構成要素が違っているため別の人物ということになるでしょう。が、アリストテレスの見方だと、一ヶ月前の私と現在の私は問題なく同一人物ということになります。
ではたとえば、美空ひばりが歌った「川の流れのように」では、どうでしょう?

ああ 川の流れのように ゆるやかにいくつも時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく空が黄昏に染まるだけ
秋元康作詞『川の流れのように』

全編を通じて、変化を感じながらも、ひとつ芯の通った人生観を感じる歌詞ではあります。鴨長明から800年を経て、日本人も西洋的なアイデンティティの感覚を身につけるようになってきたということかもしれません。

主語としてブレないというあり方

私の変わらないところとは何か?

さて、以上までの検討で、「私が私であること」というアイデンティティの定義の具体的な中身が見えてきました。より正確に言えば、「たとえ私を構成している様々な要素が変化したとしても、私が私であること」と言えそうです。水がどれだけ流れていっても河が相変わらず河であるように、私は私であるようです。
が、その場合の「変わらない私」とはいったい何でしょうか? いったい私のどこが相変わらず私なのでしょうか?

年齢は変わります。身長も体重も変わります。肌の張りも変わります。名前だって、その気になれば変えることができます。性格だって、変えることができます。
それら変わることができるものが全て変わったとしても、相変わらず変わらない私とは、何を指しているのでしょうか?
たとえばルソーはこう言っています。

「わたしによくわかっていることは、「わたし」の同一性は記憶によってのみたもたれること、そして、じっさいに同一のものであるためには、わたしは以前にもあったことを思い出す必要があることだ。」
ジャン・ジャック・ルソー『エミール』中158頁

ルソーによれば、記憶によって「私が私である」ことが保証されるようです。実はジョン・ロックも、同じように記憶の継続性がアイデンティティを保証すると言っています。ではしかし、記憶がなくなったら、私は私でなくなってしまうのでしょうか? 昨日の昼に食べたものさえ忘れている私は、もはや私ではないのでしょうか?
社会学者の大澤真幸は、次にように言い切っています。

「かつてロックは、人格の同一性とは記憶の継続性にほかならない、と論じた。しかし、この説は、明らかに間違っている。」
大澤真幸『自由という牢獄-責任・公共性・資本主義』岩波書店、105頁

どうも「記憶」というものを持ち出すと、少々厄介な議論に迷い込んでしまいそうです。

私にとって変わらないものとは何か?

改めて、私とは何なのか、一から考えてみましょう。
・私は、東京都民である。
・私は、准教授である。
・私は、AB型である。
・私は、男である。
・私は、愛知県出身である。
・私は、1972年生まれである。
・私は、…………

上に列挙した「私」の説明を吟味してみましょう。
たとえば「私は、東京都民である。」という文章は、2018年現在においては正しいのですが、かつて私は埼玉県民でしたし、その前は愛知県民でした。今後、東京都民でなくなる可能性は極めて高いでしょう。「東京都民」は、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
同様に、2018年現在、私は「准教授」ですが、将来は嬉しいことに教授に昇任することもあれば、クビになって失業者となる可能性もあるでしょう。「准教授」は、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
血液型は変わらなそうな気もしますが、問題なく、変わります。2008年に骨髄移植手術をした市川團十郎は、血液型がAからOに変わりました。ちなみに性格は変わらなかったそうです。ということで、血液型も、私にとって「変わらないもの」ではなさそうです。
「男」はどうでしょう? これだって現在は変更可能なものと考えられています。
としても、出身地や生年月日はさすがに変わらないのではないでしょうか。このように変わらないものを「アイデンティティ」とするべきなのでしょうか。しかしよくよく考えてみれば、東京都民になったり男に生まれたのがたまたまであったように、愛知県に生まれたり1972年に生まれたのも、たまたまのように思えてきます。たまたまそうであっただけのものを、本当にアイデンティティとして大丈夫なのでしょうか?

再び、私にとって変わらないものとは何か?

もう一度、私とは何なのか、しっかり考えてみましょう。
・私は、東京都民である。
・私は、准教授である。
・私は、AB型である。
・私は、男である。
・私は、愛知県出身である。
・私は、1972年生まれである。
・私は、…………

この文章を無心にじっと眺めていると、実は変わらないところがあることに気がつきます。実はよく見ると、縦の列が、変わっていないのです。一つ目の文章も、二つ目の文章も、常に主語が「私は」となっています。文章を10個並べようが、100個並べようが、1000個並べようが、どこまでいっても絶対に変わりません。私を説明する文章は、常に「私は」という主語で始まります。実は変わらないものとは、主語だったのです。

一方、述語はめまぐるしく変わり、一定を保つことがありません。述語には同一性を認めることはできません。

主語と述語

主語にはアイデンティティが成立し、述語にはアイデンティティが成立しません。このことは、日常的な経験からも裏付けることができます。

たとえば私が女性を口説こうとしたとして、「私は愛知県出身なんだよね。イチローと同じなんだ、凄いでしょ」などと言っても、「だから何? あなたはなんなの?」となります。「私は准教授なんだよね、凄いでしょ」などと言っても、「だから何? あなたはなんなの?」となります。どれだけ述語を積み重ねていっても、私の人となりを伝えることはできません。なぜなら、たまたまそうなっているだけだからです。たまたまそうなっているだけだから、そこに私の本質は見つけられません。どれだけ述語を増やして「私」を説明しても、どこまでいっても「たまたま」を抜けられないので、説得力が生じないのです。これが「アイデンティティが成立していない」という状態です。
しかし一方、「私は、こう思う」とか「私は、こう考える」とか「私は、こう信じる」とか「私は、こういう人間になりたい」とか「私は、こういうふうに社会と関わっていきたい」などと、主語に立ってものを語る人は、一本筋が通っているように見えます。相手がだれだろうが、自分の立場がどうだろうが、ブレていないからです。主語で語る人は、どんなに述語が変化しようと、語るべき内容は変わりません。これが「アイデンティティが成立している」という状態です。

このように、述語に寄りかかるような語りがたいへん情けなく、主語に立つ語りには筋が通っているように見えることは、ギリシア時代の哲学者にも気づかれています。たとえばアナカルシスについて、次のような言葉が伝えられています。

「彼がスキュティア人であることを、あるアッティカの人間が嘲ったとき、「なるほど、わたしの祖国はわたしにとって恥であるが、君の方は祖国の恥になっているのだ」と言い返した。」
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(上)』岩波文庫、96-97頁。

私の価値は述語によって決まるのではなく、主語のあり方によって決まるのだという、ブレない姿を見ることができます。述語に寄りかかるのではなく、主語としてブレない姿勢を保つことが、「アイデンティティ」です。

まとめ:「私が私である」とは?

さて、ここまで来て、「アイデンティティとは、私が私である」という定義の中身が、かなり明らかになったようです。たとえどんなに環境や境遇が変化しようとも、相手が変わろうとも、それでも私は私としてブレない。そういう意味で「私が私である」ということが、アイデンティティです。逆に、どれだけ要素をたくさん積み上げても、決して「わたし」には辿り着きません。
だから、「日本人としてアイデンティティを持つ」とか、「男としてアイデンティティを持つ」という発言は、主語に重きを置くという本来の意味からすれば、述語に寄りかかるようなとても奇妙な言い方になっているわけです。本来なら、「日本人であろうとなかろうと、私は私」とか「男だろうが女だろうが、私は私」とならなければいけない言葉です。

【要約と感想】オールポート『パーソナリティ 心理学的解釈』

【要約】心理学は人の心を一般的・抽象的に分析の対象として満足するのではなく、具体的な個人の心理を全体的に理解する総合的な手法の発展に努力するべきです。そのためには質問紙法と統計処理による特性の抽出では不十分です。一人の人間を全体的・総合的に理解するために、心理学は科学的手法の限界を越えてあらゆる手段を利用し、心理学の範囲を拡大していかなければなりません。

【感想】オールポートの仕事に関する教科書的な説明は、実際に本人の著作を読んでみるとまるで見当外れであることがよく分かる。一般的な心理学の教科書では、オールポートは「パーソナリティ心理学」の提唱者とされていて、彼の仕事がそのまま現在の特性論に引き継がれていっているような書き方になっていることがあるが、この本を読むとまるで正反対であることが分かる。オールポートの仕事は現在のパーソナリティ心理学の主流には引き継がれていないどころか、彼の意志と真逆の態度が幅をきかせていると言うことすらできそうだ。

オールポートは言う。

「心理学は一般性を求める法則のすき間からどこかへ、日常われわれが知るような個別の人間を失ってきた。」(475頁)

大学の心理学の授業の冒頭で心理学の先生が言いがちなセリフとして、「心理学を学んだところで、誰か特定の人の心理を理解することはできません」という類の言葉があるわけだが、もしも本当にそうだとしたら、いったい何のために心理学は存在しているというのか。オールポートの不満の源は、おそらくそういうところにある。どれだけ心理学を究めたところで、自分の目の前の一人の人間が分からないのであったら、その学問に何か意味はあるのだろうか。その疑問に対して「目の前の人間の心が分からない心理学にも存在意義はある。科学として一般的な人間の心を分析する心理学だ」と主張する立場はあるだろうけれども、オールポートはそう開き直りたくないわけだ。一人の人間を全体的・総合的に理解できてナンボ。そこから出てきたのが、抽象的・一般的・分析的な法則定立的心理学を超えて一人の人間の心理を具体的・全体的・総合的に理解しようとする特性記述的なパーソナリティ心理学だったということだろう。

そういう意図から、オールポートは先達の遺産を縦横無尽に博捜し、一人の人間を理解するための手法を吟味しまくる。よって、本書は一般的な心理学の範囲を超えて、哲学や文学や歴史学を視野に収めるような、極めて浩瀚なものとなった。この過程で、教科書に必ず掲載される「パーソナリティの定義」が導き出される。一般的な心理学の教科書では「定義」の結果しか抜き出してこないことが多いが、先達の遺産の博捜過程という美味しいところを全部そぎ落としてしまう、もったいなさすぎる愚行であるように思う。確かに個々の事例は古くなっていて、もはや参照には値しない部分が多いのも分かる。しかし彼が「パーソナリティの定義」を行ったのは、如何ともしがたい心理学の主流に対する批判を意図していたのであり、その批判精神そのものがいちばん重要なのであって、結果として表現された「パーソナリティの定義」自体は副産物程度の扱いで十分だろうと思う。そして彼の心理学に対する批判意識そのものは、おそらく現在でも有効だ。いや、ビッグ5みたいな数値的処理で以て最終的な解決なのだと主張して憚らない人々が出てきてしまう現在だからこそ有効とすら言える。古くなっていない。

とはいえ、じゃあ具体的にどう研究するかという時に、確固とした方向は実は見えてこない。本書では具体的にゲシュタルト心理学等の動向に期待が込められていたわけだが、もちろん最終的な解決策として提示されていたわけでもない。
彼自身が示している方向は、もはや通常の心理学の範囲を遙かに超えて、一人の人間そのものを理解するための学問となっている。オールポートは言う。

「それぞれのパーソナリティは、それ自体一つの法則なのだと(非常に正確に)いうことかできる。それは、各人の一生は、もし十分に理解されれば、それ自体が規則正しい必然的な発達過程を表わしている、ということを意味している。」
「法則性というものは頻度や画一性によるのではなく、必然性によるものである。それぞれの人の一生には、他の人の一生とは異なった必然的構造がある。」(476頁)

なるほど、法則定立的学問としての心理学を批判した先には、煎じ詰めていけば、どうしてもこういう結論が待っているだろう。オールポートの問題関心から言えば論理必然的に落ち着くところに落ち着いたと言えるわけではあるが、それでも本当にそれでいいのだろうか?とも思ってしまう。一人の人間を理解することがとても大切であること自体に異論があるはずもないが、ただ、その作業を学問的な手続きとして遂行しなければならないかどうかに対しては疑問が生じる。一人の人間をしっかり理解すると言うことは、学問的なプロセスを通じてではなく、ひとりひとりの人間が「生活」を通じて誠実に行っていくべきことではないのだろうか。学問にできることは、誠実な義務をサポートするための知恵を増やしていくことくらいだろう。学問そのものの手続きが一人の人間の必然的構造を明らかにしても、興味深いものにはなるだろうが、特別な意味があるかと言われると疑問なしとはできないだろう。

しかしこのあたりは、オールポートが著作の冒頭でディルタイの名前を出していることもあって、心理学を超えて人文科学全体に通じるような根が深い問題に繋がっていく。彼は問題提起でこう言っている。

「ディルタイとシュプランガーにより主張された二つの心理学(分析的と記述的)の場合、区別はあまりにも峻烈であった。二つの方法は、重複するもの、相互に助け合うものと見なす方がはるかに役に立つ。」
「個人に関する完全な研究は、両方法を含むであろう。」(18頁)

オールポートは、分析的な学問に偏った現状に対して鋭い批判を向けるために、ことさら記述的な手続きの重要性を称揚したとも言える。
分析的と記述的という二つの方法を「含む」ような、あるいは「相互に助け合う」ような方法で研究ができることは確かに理想的なのだろうが、具体的にどうすればいいのかはなかなか見えてこないところではある。心理学だけの問題ではなく、私が専門とする教育学でも極めて切実な問題である。

*6/11追記
分析的と記述的という2つの学問の区別は、しかしよくよく思い返してみれば、アリストテレス(ニコマコス倫理学)が言う「学=エピステーメー/知慮=フローネシス」の区別に直結する話ではなかったか。(このあたりはディルタイやシュプランガーの所論をしっかり確認しないと迂闊なことになってしまうわけだが…)
もしも「分析的/記述的」が「学/知慮」の違いに対応しているとするなら、アリストテレスの議論に従えば、それらの間にはそもそも重なる部分などまったくなく、完全に別の領域として扱うべきだという話になる。なぜなら、「学」とは普遍的で必然的なものに関わる理性の働きである一方、「知慮」とは「他のものでもあり得るようなもの」に関する判断力の問題であって、そもそも相手にしている対象が違っているからだ。「分析的/記述的」は、単なる方法の違いなどではなく、対象とするもの自体が異なっているわけで、そうだとしたら方法論の次元でどれだけ工夫したとしても根本的な解決などつくはずがない。
仮に「学/知慮」を繋ぐものがあるとしたら、これもアリストテレスに従えば「直知=ヌース」というものしかない。アリストテレスによれば、「学」のスタート地点にある根本命題は決して「学」そのものから導き出されるものではなく、「学」の外からもたらされる。「学」を成立させるには絶対に必要であるにも関わらず「学」自体からは絶対に導き出せないものを与えてくれるのが「直知」である。そして同様に、「知慮」を成立させるためには「究極的な個=絶対に二度とは繰り返して発生しない独自の事象」を認識することが必要となるわけだが、それを可能にするものこそが「直知」である。そんなわけでアリストテレスの議論に従えば「直知」こそが「学/知慮」を繋ぐものではあるわけだが、その「直知」なるものは「学」でもなければ「知慮」でもない、なにかまったく別の人間の能力に由来するものであって、オールポートの言う「分析的」であろうが「記述的」であろうが、学問的な手続きからは決してもたらされないものである。それこそ日常生活のなかで人々が普段から何気なく使用している「相手を理解する人間の力」としか呼ぶことができないものなわけだが、この「直知」の作用を「学」だろうが「知慮」だろうが学問の用語に翻訳することは、アリストテレスの所論に従う限りでは、最初からそもそも原理的に不可能なことである。カテゴリーがそもそも異なっているのだから、可能性自体がそもそもゼロなのだ。オールポートの狙いは、アリストテレスの所論を踏まえるならば、実は最初から原理的に不可能なものだったと言うしかない。
だとすれば、オールポートがするべき具体的な作業は、個々の心理学の業績を吟味することではなく、「学」と「知慮」が原理的に橋架可能であることを論理的あるいは具体的に示すことであったはずだ。「理想ではないもの」を羅列して批判するのではなく、どうしたら理想(「学」と「知慮」の橋架)を実現できるかを論理的に示すことであるはずだ。そしてその点に関し、本書に消化不良感が漂うことは否定できないわけだが、そもそもそんなことは「原理的に絶対不可能」である可能性をまず吟味すべきではないのか。
まあ、「個/普遍」は、心理学にかぎらず、きわめて根本的な問題ではある。オールポートの仕事は心理学という方法論から改めて「個/普遍」の問題を照らし出したものと理解すべきなのかもしれない。そして結局はアリストテレスの掌の上で踊っていたということが改めてわかっただけなのかもしれない。

G.W.オールポート『パーソナリティ 心理学的解釈』詫摩武俊/青木孝悦/近藤由紀子/堀正共訳、新曜社、1982年