「歴史散歩」カテゴリーアーカイブ

【岐阜県恵那市】明智城の麓には明智光秀の供養塔があるが怪しさ満点、大河ドラマとは違う場所

岐阜県恵那市にある明智城に行ってきました。明智城の麓には、明智光秀出生地の碑と供養塔もあります。
ちなみに、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の舞台となっている明智荘は、同じ「明智」でも、ここではありません。ドラマの方では、同じ岐阜県でも、可児市にある明智(恵那明智から北北西に約40km)が舞台に設定されています。

明智城は、明知鉄道の終点「明智駅」から500mくらいのところにあります。明智には日本大正村もあり、見所が多いところです。
ちなみに大河ドラマの舞台は、同じ岐阜県の明智でも、名鉄広見線の「明智駅」が最寄りです。違う場所です。

明智光秀の供養塔は、龍護寺にあります。

明智光秀公の御霊廟に「おはか」とふりがなが振ってあります。

霊廟に入ると、「明智光秀公出生地」の石碑が立っています。

何度も書きますが、大河ドラマ『麒麟がくる』では、同じ岐阜県でも、こちら恵那市ではなく、可児市の明智のほうを出生地としています。どちらが正解でどちらが間違っているというわけではなく、史料が存在しないため、現時点では確かなことは分かっていません。
ちなみに、可児明智と恵那明智も含め、光秀の出生地と言われている場所は6個所あります。

さて、霊廟内には供養塔が立っています。

「色即是空 明智光秀公供養塔」は、まあいいのですが。

裏に回ると……

「空即是色 敵は本能寺にあり」とありますよ!! 怪しすぎ!
ちなみに、現在の歴史学の水準では、明智光秀が「敵は本能寺にあり」と言ったことは明確に否定されています。大河ドラマでは、このセリフを言うのかどうか。

ところで、この龍護寺には「遠山の殿さんの墓」もあります。

実は、恵那市の明智を領有していたのは明智氏ではなく遠山氏だったんですね。遠山氏は岩村城や苗木城なども領有しており、東美濃一帯を支配する国人領主でした。明智の遠山家の末裔には、「遠山の金さん」として有名な遠山景元がいます。

龍護寺の案内パネルにも、「遠山家菩提寺」とあります。恵那の明智は遠山家が代々領有する地であって、光秀の出身地とするには微妙な感じもします。
ただし、明智光秀が可児明智の生まれではなく、遠山家に生まれて可児明智に養子に出た可能性などもあり、一概に恵那明智が光秀の出生地であることを否定できるわけではありません。恵那と可児の距離や当時の勢力関係から考えても、養子に出ている可能性は低くありません。
文書資料が残されていない以上、確かなことは分かりません。

さて、案内パネルにもあるとおり、龍護寺から明智城本丸までは650mの山道です。15分ほど山登りです。

明知城の案内パネルでも、城主は遠山氏となっていますね。ちなみに漢字は「明智城」ではなく「明知城」となっています。

本丸までの山道はしっかり整備されていて、とても歩きやすいです。

本丸は比較的こじんまりとしている印象ではありましたが、中世山城はこんなものでしょう。

本丸からは明知の里が一望できます。北北西には岩村城も臨めるところです。

地政学的には、恵那明智から明智川を南下すると矢作川に当たり、矢作川を下っていけば豊田と岡崎に出ます。恵那明智は、木曽川水系と矢作川水系を結ぶ中継点になっています。木曽川や矢作川を直接抑える拠点と比較すれば重要度は一歩下がるものの、美濃や尾張の側から見れば、武田家の侵攻を一番最初に食い止めるべき前哨地点として、無視できない要所であることには間違いありません。

明知城には、光秀が学んだ学問所という伝承のある天神神社もあります。果たして明智光秀はどこで生まれ、どう育ったのか。負けたものの史料は時代の流れの中で意図的に失われていき、現在では想像にまかせる他ありません。(2011年8/31訪問)

ブロトピ:国内旅行

【長野県松本市】開智学校は建築も展示も資料もすごい

松本市にある旧開智学校に行ってきました。2019年9月、国宝に指定されました。

洋風建築を見よう見まねして作られた、擬洋風建築を代表する建物です。土台部分は煉瓦造りに見えますが、実は木造で、漆喰によって模様をつけているだけです。

授業料や校舎建築費の自己負担に憤って学校を焼き討ちしてしまう地域もある中、長野県では住民がお金を出し合って学校を作っています。開智学校のような先進的な校舎を作り上げてしまうというのは、並大抵の気合いではありません。教育にかける期待がいかに高かったかを伺えます。

正面玄関の彫刻が、とてもユニークですね。唐破風に付けられた校名額の天使が愛らしいのかどうか。

訪れたのは国宝指定の一ヶ月前のことでしたので、この時点ではまだ「重要文化財」です。

中に入ることもできます。2階の講堂は、なかなか豪華な作りですね。

展示も充実しています。国定教科書の紹介など、近代教育の流れが大まかに分かるような展示内容になっています。

専門的にいっても興味深い展示がいくつかあります。たとえば開智学校では、明治32(1899)年に特別学級が設けられています。

この場合の「特別学級」とは、特に障害児教育を意味していません。ビネー式の知能検査が開発普及するのはもう少し後のことです。
展示パネルで興味深いのは、「料理屋への方向や芸妓修行で学習時間の確保が困難な女児のための裏町特別学級」という記述です。一般的には日露戦争前後に就学率が100%近くになったと言われていますが、現実的には特別学級のような「抜け道」が用意されることで、就学率が見せかけ上100%に近づいていただけということが伺えます。長野県だけではなく、東京や大阪の工場地帯でも事情は同じです。この時点でも、子どもは「労働力」として期待されており、学校へ行って勉強できるのは必ずしも当然のことではありませんでした。

また明治31(1898)年には「子守教育」も始まっています。

現在では子育てを担うべきなのは専ら母親であると思いこまれていますが、当時は母親が子育てなどしていませんでした。母親に期待されていた役割は、子育てではなく「肉体労働」でした。子どもを産んだ翌日には、母親は畑に出て野良仕事を開始しています。
では誰が子育てをしていたかというと、子どもたちです。子どもが子どもを育てていました。それがよく分かるのが「子守」という言葉です。開智学校に展示されている写真は、なかなか衝撃的です。

子どもを背負った子どもが、輪になってフォークダンスをしているところでしょうか。子どもを背負いながら授業を受けている写真は、開智学校だけでなく、日本各所で見ることができます。
現在、「日本では昔から母親が子育てをしてきた」と主張する人がいますが、こういう写真を見れば、一発でウソだと分かります。子育てをしていたのは、子どもです。大人は働くので精一杯でした。そして母親が働くので精一杯で子育てにまで手が回らないという事情は、実は現在でもさほど変わっていません。変わったのは、子育ての責任を母親だけに押しつける風潮が強くなったところです。

ところで、開智学校がすごいのは、建築や展示だけではありません。一般の見学者が立ち入りできない資料保管所があって、そこに研究者垂涎の資料がたっぷり残っているのです。
特に個人的には、明治年間の「教案」が大量に残っているのがありがたいです。教案とは、現在で言えば「指導案」のようなもので、個々の授業の目的や段取りを現場の教師がデザインしたものです。教育雑誌に掲載されている模範的な授業案ではない、現実に使用された生の教案が残されているというのは、実証研究にとって本当にありがたいことです。

ところで展示で以下のようなパネルがあったので。

「哲学概説」の「二」は、おそらく「実態」ではなく「実体」ですね。物質的な実体と精神的な実体の二元論が特徴だと答え、日本的哲学(西田幾多郎など)において一元化されたと批判することが期待されているのでしょう。
「大化改新」については、現在なら中大兄皇子実行犯説は怪しいとか、黒幕は実は孝徳天皇だったとか言いたくなります。当時であれば、豪族支配を終わらせて天皇制を確立した端緒というふうに答えるべきところなのでしょう。同じく、「建武中興」について、現在では後醍醐天皇の政策の是非について荘園など土地経済制度を踏まえて答えるところですが、当時であれば天皇制の理念に沿って回答することが期待されていたはずです。歴史的事実を正確に知っているかどうかよりも、国体思想に素直に適応しているかどうかが試されている問題ですね。テストが行なわれた昭和12(1937)年は、盧溝橋事件から日中戦争が泥沼化していくタイミングでした。
(2019年8月訪問)

ブロトピ:国内旅行

【北海道札幌市】北海道開拓の村で教育と近代について考える

 北海道開拓の村に行ってきました。札幌駅からだいたい45分くらいで着きます。
 開拓の村は、歴史的建築物の復元展示をしている野外博物館です。愛知県にある明治村や、小金井にある江戸東京たてもの園と同様のコンセプトです。
 一日いても飽きない、たいへん素晴らしい空間でした。

 展示はたいへん充実していたのですが、私の仕事に絡めて教育関係だけ記録しておきます。

 北海中学校の校舎は、明治42(1909)年に建築されました。

 北海中学校は、札幌農学校へ優秀な人材を送り込むことを主目的とした私立中等教育機関でした。明治18(1885)年に北海英語学校として設立された時は、学校の名前に「英語」とついているとおり、英語の修得を主目的とする予備校でした。というのは、当時最先端の学問を日本語で学ぶことは不可能だったからです。札幌農学校で最先端の農業を修得するためには、その条件として英語を身につけていることが必須でした。

 校舎のスタイルは、木造と鉄筋コンクリートの違いがあるとはいえ、基本的には昭和まで引き継がれる形ですね。

 建物内には北海道の教育に関する展示が行なわれています。教育について考えるときは、ついつい無意識に東京を中心にしてしまいがちですが、北海道の事情は東京都はもちろんまるで違っていました。基本的に開拓事業が優先され、教育は後回しにされます。森有礼が明治19(1886)年に小学校令を出して現在の義務教育の基礎を作ったことはよく知られていますが、北海道では就学期間が短くてもよい「簡易小学校」を中心に展開することになります。
 初代北海道庁長官に就任した岩村通俊は、明治20年にわざわざ「教育ノ程度ヲ低フス」という施政方針演説を行なって、殖産工業重視の姿勢を強調しています。子どもは学校で勉強するのではなく、労働力として期待されています。

 他にも様々な違いがありますが、特にアイヌの存在は極めて重要でした。「母語ではない日本語」を教え込むというコロニアルな仕事が教育に課せられていたわけです。

 簡易小学校やアイヌの日本化が進められている一方で、この私立北海中学校は日本の近代化に貢献するエリートを養成するための学校として期待されていました。近代という時代の両極を感じられる、軽く目眩のする空間となっております。

 続いて下の写真の建物は、学生寮です。札幌農学校の寄宿舎「恵迪寮」です。

 なんだか馴染みのある佇まいだなあと思っら、東大駒場寮と雰囲気がよく似ているのでした。木造と鉄筋コンクリートの違いはありますが、形や雰囲気はよく似ているように思います。

 下の写真にある「畳ベッド」も、駒場寮にあった畳ベッドを彷彿とさせます。

 展示されている案内パネルもたいへん充実しており、見応えがありました。自治寮としての誇りを感じさせる内容となっております。「落書」はおもしろいですね。駒場寮の落書きもなかなかのものだったことを思い出します。

 他にもたくさん見所があるのですが、ボリュームが多すぎてまとめきれません。
 ともかく、同種の野外博物館との決定的な違いは、「近代の影」を垣間見ることができる点だろうと思いました。たとえば明治村は、文明開化に向かう若々しい高揚感を感じられる場所です。開拓の村でも、札幌市街を中心とした都市部の展示(写真館とか新聞社など)にはそういう若々しいエネルギーを感じることができます。
 が、開拓の村には辺境フィールドも設定されていて、ここが類似博物館との大きな違いとなっています。

 たとえば上の写真は「平造材部飯場」です。都内の飯場も同じような感じだったのでしょうが、北海道の厳しい自然環境の中で一人あたり畳一枚の生活は、さぞ大変だったことでしょう。
 また、下の写真は、入植者が最初に建てた「開拓小屋」です。

 寒風吹きすさぶ苛酷な北海道の自然をこれで切り抜けたかと思うと、かなり驚きます。近代国家として国土開発を進めるというとき、最前線はこうだったのかと。

 馬車鉄道が行き交う風景は、のんびりとしたものです。

 しかしこういう都市生活の裏で、最前線を支える人々の苛酷な仕事があったことが、よく分かる博物館です。そして実は現在もあまり変わっていないのでしょう。
(2018年5/21訪問)

【北海道札幌市】北海道神宮には出雲系の神様が鎮座していた

 北海道神宮に参拝してきました。名前に相違なく、北海道にある神社です。円山公園に隣接しています。

 北東の方角(鬼門ですね)から鳥居をくぐります。

 鳥居が南ではなく北東を向いているのは、ロシアを睨んでいるからとか。

 御祭神は、以下の四柱です。

 おもしろいなあと思ったのは、大那牟遅(オオクニヌシ)と少彦名という出雲系の神が名を連ねているところです。このことから勘ぐってしまうのは、イザナミが北海道を産んでいないという事情ですね。イザナミ-アマテラスに連なる神様は勧請しにくいということで、出雲系の神が勧請されたのでしょうか。ともかく、オオクニヌシとスクナビコナは出雲で国土開発に成功した神なので、開拓を願う人々にとっては適切な選択のようには思います。
 「大国魂」はちょっと分かりにくいですね。武蔵府中にも「大国魂神社」がありますが、それに連なる系列というよりは、一般観念としての「国魂」が本質のようです。
そして明治天皇が昭和39年、つまり1964年という東京オリンピック開催年に増祀されたのは、どういう事情なのでしょう?

 さて、参道を抜けて、本殿にお参りします。

 落ち着いた佇まいですね。

 境内には末社として「開拓神社」も鎮座しています。

 開拓神社に祀られているのは、北海道開拓に貢献した人々です。

 蝦夷関係人物オールスターという感じですね。

 下は南東にある第三鳥居。

 境内には六花亭茶屋もあったり、なかなかまったりとできる空間となっていました。
 まあ、北海道における「カミ」について真剣に考え始めると、なかなか厄介ではありますが。
(2018年5/21訪問)

【栃木県大田原市】大田原城址は桜が綺麗

栃木県大田原市にある大田原城に行ってきました。こちらは桜の名所ということです。ちなみに6kmほど東にある黒羽城は紫陽花の名所です。

案内パネル等によると、城主の大田原氏は、もともと那須氏の部下でしたが、小田原征伐や関ヶ原の功績によって近世大名に成り上がったもののようです。特に関ヶ原の際の対上杉(会津)戦では、黒羽城の大関氏と共に最重要防衛ラインを担っています。

案内パネルは本丸の真下に設置されていますが、比高差がありすぎて、本丸の様子はまったく分かりません。なかなか巨大な城です。

下の写真は、二の丸と本丸を隔てる空堀です。現在は煉瓦の橋がかかっていますが、当時はもちろん木橋だったでしょう。

先に黒羽城の超巨大空堀を見てしまったので、その時点では「ふーん」という感じでしたが、改めて見てみればなかなか立派です。

二の丸から本丸に入る虎口には、当時は築地塀が張り巡らされ、冠木門が築かれていたようです。

下は土塁の上に登って本丸を見ているところです。

当時は城主の住居と政庁がありましたが、現在は市民の憩いの場として利用されています。

土塁の上には散歩道が整備されていて、犬の散歩をしている人などがいました。当時は築地塀が張り巡らされていたところですが、現在は桜の木で囲われています。春は、さぞ綺麗なことでしょう。

下は、北曲輪に降りて本丸を見上げている図です。

かなりの比高差で、迫力があります。この土木造成の跡は当時からまったく変わっていないだろうところで、なかなかの見応えです。

下は城の東側、蛇尾川と本丸の間の場所です。

現在は帯曲輪のようになっていますが、図面を見ると、当時は整備されていたなったかもしれません。

この城のおもしろいところは、蛇尾川の河川敷と一体になっているところです。

上の写真では、右にこんもり見える森が城です。今は埋め立てられてしまっていますが、川から城内に水堀が引き入れられていたので、水運も利用していたのではないでしょうか。

蛇尾川の河川敷から城を一望できますが、現在は樹木に囲まれて全体像がよく分かりません。当時は木々もなく、白い築地塀に囲まれた立派な御殿が聳え立っていたことでしょう。

大田原藩は一万二千石ということで小さめの藩ですが、城はかなり立派でした。奥州街道をすぐ西に抱えた交通の要衝で、人の往来も多く、蛇尾川の水運も利用でき、財政的には潤っていたのかもしれません。
すぐ東隣にある黒羽藩は一万八千石と大田原藩より大きいのですが、両藩のライバル関係がどのような感じだったのか、お互いに気にしていなかったのか。少し興味があるところです。
(2018年6/14訪問)