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小学校は「刑務所通わされてるようなもん」なのかどうか?

日刊スポーツが「堀江氏、小学校は「刑務所通わされてるようなもん」」という記事をネット配信した(2019年5/10)。彼の価値観云々に対してではなく、このような言説を含めた状況全体について、思ったことがあるので、備忘録がてらコメントを残しておく。

まず「学校が刑務所のようなもの」という見解には、学問的なモトネタが存在する。ホリエモンのオリジナルではない。フーコー『監獄の誕生』(1975年)やイリッチ『脱学校の社会』(1971年)等で、40年以上前から学問的に示されてきた見解だ。それらの著書では、学校と刑務所(さらには病院)を、単に比喩的な意味ではなく、人間性を強制的に作り替えるものとして、本質的に同じ作用を持つ権力装置として議論している。そこには「近代」という時代の本質に対する透徹した洞察が示されている。

そもそも昔は、人々の大半は学校に行っていなかった。平安時代や鎌倉時代には、99.99%の人間は学校に行かなくても、生活上なんの問題もなかった。ヨーロッパでも事情は同じだ。大半の人間は学校なんかに行かなくても、普通に暮らすことができた。
しかし現在は逆に99.99%の人間が学校に行く。学校に行かなくては普通の生活ができないと、多くの人が思っている。どうして昔は学校に行かなくても平気だったのに、現在は行く必要があるのか? 本当に学校に行かなくてはいけないのか? この疑問を突き詰めていくと、学校や教育のみならず、「近代」に対する洞察へと至ることとなる。

結論だけ言えば、「資本主義で歯車となる人間」を供給するためには、人々を学校にむりやり収容し、生活習慣を強制的に組み替え、工場労働に適合する習慣形成を行う必要があるのだ。たとえば工場が期待する優秀な労働者とは、無断欠勤しない、遅刻しない、上司の命令はどんなに理不尽でも聞く、密告するなどの習慣を身につけた人間だ。
そして人間は、学校に通わなかったら、こういう習慣を身につけない。家庭学習で頭が良くなるだけでは、ダメなのだ。あらゆる人間をむりやり学校に収容し、長年にわたって工場労働に適合するためのトレーニングを積ませる必要があるわけだ。

資本主義を発展させるためには、こういった「歯車」が大量に必要であった。そしてその期待に、学校はしっかり応えた。日本が資本主義国へと成長できたのは、学校教育制度が機能したおかげと言える。これが「近代」という時代の特徴だ。

しかし、いったん資本主義が成長しきって成熟段階に入ると、実はこういった「歯車」が必要なくなってくる。単純作業は機械やAIがやってくれるし、会社が必要とするのはイノベーションを起こせるような創造的な人間だ。どちらにしろ「歯車」の需要はなくなる。このあたりの事情は、宮台真司が90年代から「成熟した近代」という言葉で主張している。たしか上野千鶴子も同じような主張をしていた。というか、80年代後半から、だいたいみんなが「近代は終わった」という議論をしていた。

こうして「近代」が終わると、「歯車」を世の中に大量供給していた学校の必要度も下がってくる。人々から学校へ通うモチベーションが失われていく。学校に行く必要を感じなくなる人々が増えてくる。不登校が増える。佐藤学が「学びからの逃走」と呼んだ事態が広がっていく。
ホリエモンが記事内で主張していることは、90年代から既に議論し尽くされた話を、「分かりやすい極論」として示したもののように読める。

さて、議論として必要なのは、「学校は必要だ」とか「必要ない」という主観的な意見ではない。「近代という時代がどういう特徴を持った時代で、どうして学校は近代では有効に機能して、そして21世紀ではそのままで機能するのかしないのか?」という問いの立て方が重要なのだ。
私個人としては「学校は機能しなくなる」とまでは言いたくないが、「このままの学校では、遅かれ早かれ機能しなくなる」という危機感は共有すべきだと思っている。ホリエモンの発言は教育界に1ミリたりとも影響を与えないわけだが、しかしそのイロニーに込められているものから学校の危機を感じておくのは、無駄ではないと思う。

個人的には、ホリエモンとは誕生日が20日ほどしか違わない同年代で、同じ時期に駒場や本郷にいたことから、動向が気になる人物の一人ではあるのだった。

【和歌山県高野町】高野山金剛峯寺で南無大師遍照金剛と唱える

高野山は空海(弘法大師)が816年に開山し、現在は100以上の寺院が建ち並ぶ宗教的聖地です。奥深い山中にあって交通アクセスは不便なのですが、険しい森を越えると意外なほど開放感ある空間が広がる、不思議な場所です。
今回は露天風呂のある宿坊に泊まって、ゆっくり高野山を巡ったのでした。

麓から歩いてきた巡礼者が最初に辿り着くのは、大門(重要文化財)です。巨大で、たいへん立派です。

が、まあ、私は公共交通機関で来たので、他のところを見て昼食後に辿り着いたのですが。

次回訪れるときは、ぜひ麓から歩いて登って大門を拝みたいと思います。

さて、大門を通過して参道をまっすぐ東に向かい、中門をくぐると、金堂や根本大塔などが立ち並ぶ壇上伽藍に出ます。

壇上伽藍の建物には、それぞれ中に入って参拝することができます。

今回はたっぷり時間があったので、大師教会・教戒堂で受戒して参りました。大勢の巡礼者と一緒に声を上げてお経を唱えるなど、日常的に経験できる儀式ではなく、改まった気持ちになったのでした。

さらに先に進むと、金剛峯寺(国指定史跡・世界遺産)があります。

しかし気になるのは、案内パネルの内容です。

これまで私は「高野山=金剛峯寺」と暗記していたのですが、案内パネルを読んで理解したところでは、金剛峯寺は実は空海とは直接的には関係なく、1131年に建立されたということですね。現在の歴史の教科書等にはどう書かれているのか、ちょっと気になるところでした。

さて、さらに参道を奥に進むと、奥之院一の橋に着きます。ここから雰囲気ががらりと変わります。

杉並木に囲まれた参道に沿って、歴史上の人物のお墓がたくさんあります。たとえば、明智光秀の墓。

そして、織田信長の墓。

死んでしまえばノーサイドで、同じ墓地に葬られるのですね。まあ、光秀や信長の墓は他のところにもあるのですけれども。

さらに奥に進むと、いよいよ弘法大師の廟所に着きます。この御廟橋の向こうは、聖地すぎるので、写真撮影禁止です。

というわけで、日常では不可能な荘厳な体験ができる場所でした。暗黒の地下道を手探りで進む体験とか、とてもおもしろかったです。

さて。で、つい空海(弘法大師)と最澄(伝教大師)を比較してしまうわけですが。高野山で感じたのは、空海個人の圧倒的なカリスマ性です。高野山は空海個人に対する崇拝で成立しているような印象を受けました。一方の比叡山には、確かに伝教大師の廟所をお守りする聖地もあるのですが、全山的に最澄個人のカリスマはそれほど感じませんでした。それは、比叡山では法然・親鸞・日蓮・道元・栄西といった絢爛たる鎌倉新仏教のエースたちが育っており、その痕跡が残されているからかもしれません。逆に高野山には、空海以外には教科書に載るような僧侶を輩出していません。そういう意味では生産性がないようにも思えてしまうわけです。
まあ教科書に載るような僧侶を輩出することが素晴らしいかどうかは一概には言えないのは確かですが、私のような「教育」畑の人間からしてみれば、ここに高野山と比叡山の本質的な違いを見てしまいます。いいか悪いかは別として、空海の個人的なカリスマ性が強い高野山において、教育的想像力を発揮する余地が比叡山と比較してどれほどのものだったのか、という疑問です。
あるいは、仏教本来の考え方から思い起こして、空海に対する個人崇拝でいいのかどうかという疑問にも通じるところです。私も高野山で「南無大師遍照金剛」(意味は、ざっくり言えば、空海を無条件で全面的に信頼しますので私のことをよろしくお願いしますという感じ)と唱え、空海個人への尊敬の念を顕わにして、受戒したわけですが。改めて思い返してみれば、個人崇拝で終わって仏教的に大丈夫なのかという。もちろん真言宗によれば仏教の奥義は言葉で表現し尽くせないものなので、私のような宗教センスのない人間が人間的尺度でどうこう言う問題ではないのかもしれませんが。単に空海への個人崇拝で終わってしまったら、教育的生産性は一切ないのも確かだと思うのです。個人崇拝が単なる通過点という理屈であれば、分からなくもないのですが。
あるいは、自分自身の宗教的能力に対する限界を謙虚に設け、真理の啓示者である聖人個人(空海)を信仰の対象とする在り方は、プロテスタント的であるという点では、一神教的な浄土宗と並んで、実はヨーロッパ的な宗教の観念に近いとは言えるかもしれない。

まあともかく、露天風呂のある宿坊に泊まり、夜は写経会に参加して外国人観光客に混じって般若心経を写し、朝は早くから読経会に参加したりと、極めて充実した時間を過してきたのでありました。
ぜひまた機会を作って訪れたいと思います。
(2015年6/19・20訪問)

教育概論Ⅰ(中高)-4

栄養・環教 5/10
語学・心カ・教福・服美・表現 5/11

前回のおさらい

・昔は、「教育」とは違う形での人間形成である「形成」が行なわれていました。
・昔は「イニシエーション」を経て、若者組の中で様々な知識や経験を得ていました。

今回の目標

・「リテラシー」という言葉の意味と機能を理解しよう!
・昔の日本の教育機関のことを知ろう!
・寺子屋と藩校の違いを理解しよう!

大昔の日本の学校

・つまり、ほとんどの人は学校に行っていませんでした。なぜなら、生活をする上でリテラシーはまったく必要なかったからです。
・ごくごく一部の人が学校に行って勉強していましたが、それはリテラシーを必要とする専門家(書記・宗教)になるためでした。

リテラシー

リテラシー:文字を読んだり書いたりすることができる能力を指します。そこからさらに、様々な道具を使って情報を得たり発信したりすることができる能力のことを意味するようになります。

書記の教育(儒教)

・律令制の整備とともに、書記の教育が始まります。書記は文字が読めないと務まりません。
大学寮(中央の公立官僚育成機関)・国学(地方の公立役人育成機関)
大学別曹(私立の書記育成機関):藤原氏の勧学院など

仏教の教育

・聖徳太子以降、お坊さんの教育が始まります。お坊さんは文字が読めないと務まりません。
空海(774-835):綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)。828-845年。
最澄(766/767-822):比叡山延暦寺。山家学生式(さんげがくしょうしき)。818年。

武士の教育

・鎌倉幕府の成立によって武士が権力を握りましたが、本当に人の上に立つためには教養が必要です。
金沢文庫:北条実時(鎌倉幕府執権の親戚)。1275年?
足利学校:上杉憲実(室町幕府の関東管領)が再興。1432年。

日本での学校教育の始まり

※江戸時代(1603年~1868年)の基礎知識
(1)平和→生産力の向上→教育への関心向上
(2)身分制→統一的な教育制度がない
(3)幕藩体制→地域によってバラバラな教育

寺子屋

寺子屋:一般庶民が自分たちのために必要とした教育機関です。幕府や藩など支配者層が上から押しつけたのではなく、下からの自発的な要求によって自然発生的に増加していきました。
・庶民の生活と要求に対応して、習字(手習い)やそろばんを教えていました。
※「往来物」と呼ばれる教科書を使っていました。

・江戸時代中期(西暦1750年頃)あたりから子供に対する意識が変わり始めます。
←生産力の向上、遺産相続への関心、家意識の形成
←商品経済の展開、識字能力の有効性の拡大、寺子屋の増加

リテラシーの展開

コンピュータ・リテラシー:コンピュータを使って情報を獲得したり発信したりすることができる能力を意味します。現在はコンピュータ・リテラシーを持っていることが当たり前とされ、学校で習得するようになっています。この能力がないと就職活動すらできません。
・リテラシーと学校:学校に行って勉強する目的の一つは、リテラシーを獲得することです。「話し言葉」は意図的にトレーニングしなくても身につけることができますが、「書き言葉」は意図的・計画的にトレーニングすることで初めて身につけることができます。
・かつてリテラシーを持っていたのはごく一握りの知的エリートだけで、大半の人々は文字の読み書きができませんでした。最初は一部の意欲のある人々だけが学校に行ってリテラシーを獲得していましたが、リテラシーの有用性が広く認識されてくると、次第に全ての人が強制的にリテラシーを持たされるような制度に変わっていきます。

江戸時代の文化

長期間にわたる平和と繁栄によって、学問が独自に発達を遂げていました。
*儒学:中国発祥の学問ですが、徳川家が推奨したのをきっかけとして、江戸時代の日本で独特の発展を遂げます。昌平坂学問所や藩校などで教えられていました。基本的には支配者階級のための学問で、主に武士が学んでいました。
昌平坂学問所:林羅山の私塾(1630年)を起源として、1790年に正式に幕府の直轄学校となりました。1871年に閉鎖された後、現在では建物が湯島聖堂として残っています。
藩校:全国に260あった藩が、それぞれ作っていた教育機関です。水戸藩の弘道館長州藩の明倫館薩摩藩の造士館会津藩の日新館が有名です。
郷校:例外的に武士ではない人々も学ぶことができた教育機関です。岡山藩の閑谷学校が有名です。
私塾:学問サークルが発展して、個性的な塾が運営されていました。伊藤仁斎の古義堂や、広瀬淡窓の咸宜園吉田松陰の松下村塾などが有名です。

*蘭学:日本は外国との交流を避けていましたが、長崎などを通じて入ってくる海外情報を元に、ヨーロッパの学問が研究されていました。シーボルトの鳴滝塾や、緒方洪庵の適塾が有名です。
*国学:中国とは異なる日本独自の文化を特に尊重して研究する姿勢が生まれていました。私塾としては本居宣長の鈴屋が有名です。

▼日本の昔の学校地図へのリンク

復習

小テスト
・「リテラシー」という言葉の意味を、自分なりに説明してみよう。
・日本にあった学校について、創設者や成立年代など、自分なりに整理しておこう。

予習

・「学制」について調べよう。
・16世紀以降のヨーロッパ近代の歴史をおさらいしておこう。

【滋賀県大津市】比叡山延暦寺は一隅を照らし続けた教育機関

天台宗の本山・比叡山延暦寺は、最澄(伝教大師)が788年に開山したお寺が発展して現在の姿になったものです。現在はたいへん規模が大きなお寺ですが、当初からここまで大きかったのではなく、様々なお坊さんが関わって、ここまで発展しています。

1994年に世界文化遺産に登録されて、外国人観光客もとても多くなっております。

さて、延暦寺は、もちろん宗教施設です。が、ここでは教育機関として延暦寺が果たした役割に注目していきます。

比叡山延暦寺が教育機関であることは、最澄が朝廷に提出した「山家学生式(さんげがくしょうしき)」に明確に表れています。比叡山で学ぶ学生たちへの教育方針や具体的な心得を説いた内容です。最澄が、日本に正しい仏教を広めるためには教育が重要であることをしっかり認識していたことが分かります。ここで示された「一隅を照らす」という言葉は、現在でも天台宗の方針を示す極めて重要な言葉となっています。

教育に関わって注目したい建物は、重要文化財の「戒壇院」です。

周辺の建物と比較して質素ではあるので観光客はあまり注目しないわけですが、教育史関係者としては見逃すわけにはいきません。教育機関としての延暦寺を考えるときに、決定的に重要な場所です。
案内パネルにもその重要性がしっかり記されています。

案内パネルにも「比叡山中で最も重要なお堂」と明記されておりますね。最澄は、後進僧侶の育成にとって「戒壇」を設けることが決定的に重要だと考え、朝廷に働きかけていたのですが、その生存中にはついに設置を許されることがなかったのでした。
ちなみに僧侶の資格を保証する「戒壇」は、もともと日本に三個所作られたのですが(奈良の唐招提寺、下野薬師寺、太宰府)、最新の仏教理論を携えて日本に戻ってきた最澄は、比叡山延暦寺にもその資格を付与すべきだと考えたのでした。戒壇の設置は、比叡山が僧侶の教育機関として既成仏教勢力から独立することを意味するものでした。

こうして延暦寺は、「山家学生式」を教育方針とし、「戒壇」を権威として、優秀な僧侶を大量に輩出します。
比叡山の教育機関としての生産力の高さの証拠は、山の中のそこかしこに見ることができます。絢爛たる鎌倉仏教宗派の創始者たちが修行した痕跡が、比叡山のいたるところに残っているのです。

たとえば、臨済宗の栄西禅師。

そして、浄土真宗の親鸞聖人。

さらに、浄土宗の法然上人。

加えて、日蓮宗の日蓮上人。

まだあります、曹洞宗の道元禅師。

いやあ、圧倒的に錚々たるメンバーです。いかに比叡山が教育施設として卓越していたかが分かります。鎌倉仏教の新宗派創設者たちは、ことごとく比叡山延暦寺で学んでいるのですね。教育機関としての面目躍如というところです。これは、空海の高野山には見られないものです。最澄の教育構想が優れていたせいなのか、戒壇の権威なのかどうか、興味が尽きないところですね。

入山して大講堂へ向かう道には、比叡山で修行した宗教者たちのプロフィールがパネルで掲示されています。

が、まあ、そういう「教育機関としての比叡山延暦寺」にはまったく関心がなくても、比叡山はとても素晴らしいところです。

重要文化財の大講堂。

国宝の根本中堂。私が訪れたときは、大改修工事が始まっていて、普段近くで見られないような仏像を拝むこともできました。

横川の元三大師堂。

この元三大師は、江戸時代までには圧倒的な人気があって、昭和初期までよく知られていたように思うのですが、最近はあまり目立たないですね。全国に「大師堂」があって、その場合の「大師」とは「元三大師」を指すことが多いのですが、けっこう多くの人が「弘法大師」と勘違いしているように思います。

高野山の弘法大師ではなく、比叡山の元三大師であることは、日本人の教養として正しく認識しておきたいところです。

他にも、最澄の静かな眠りを守る浄土院の佇まいや、にない堂から聞こえてくる荘厳なお経の声とか、見るべきところばかりです。折に触れて訪れたい場所です。
(2015年8/11訪問)

教育原論(保育)-4

短大保育科 5/9・5/11

前回のおさらい

・家族は子育てをしていませんでした。社会(ムラ)全体で子育てを担っていました。
・昔は、「教育」とは違う形での人間形成である「形成」が行なわれていました。

今回の目標

・「イニシエーション」という言葉の意味を理解し、「大人になること」の意味が現在とどのように違うかを把握しよう!
・「リテラシー」という言葉の意味を理解しよう!
・昔の日本の教育機関のことを知ろう!

イニシエーションとは?

・イニシエーションとは:日本語では「成人式」や「通過儀礼」とも呼ばれています。一人前の共同体(ムラ)のメンバーになるために、全ての若者が突破しなければならない試練のことです。日本だけではなく、世界全体に共通して見られます。
・イニシエーションの必要性:肉体的に一人前の条件(自分の子どもが作れる)を揃えつつあるとき、精神的にも一人前になる必要があります。
←昔の人たちが何歳くらいで親になっていたのか考えてみよう。アンケート
・イニシエーションの内容:「死」と「再生」を象徴するものと言えます。一人前の共同体(ムラ)メンバーになるために、家族と分離(親離れ、子離れ)し、ムラ全体の子供として再び生まれなおす必要があるということです。

若者組……学校がない世界での精神的成熟

*若者宿(メンズハウス):一人前になるために、年齢別集団へ加入して、親元を離れて、様々な知識や技術を身につけます。(女性の場合は「娘宿」など)←参考:「學」の漢字の元の形。
・家族でも学校ではない場所(若者宿)で、親や先生ではない人(同年齢集団)を通じて、経験を積みます。
・若者組の役割:集団労働力の提供、祭礼や村芝居の執行、消防・警察、性や結婚の管理など。
・近代の学校教育と決定的に異なるのは、「死」と「生=性」の重要性かもしれません。

大昔の日本の学校

・ほとんどの人は学校に行っていませんでした。生活をする上で、リテラシーはまったく必要ありませんでした。
・ごくごく一部の人が学校に行って勉強していましたが、それはリテラシーを必要とする専門家(書記・宗教)になるためでした。

リテラシー

リテラシー:文字を読んだり書いたりすることができる能力を指します。そこからさらに、様々な道具を使って情報を得たり発信したりすることができる能力のことを意味するようになります。

書記の教育(儒教)

・律令制の整備とともに、書記の教育が始まります。書記は文字が読めないと務まりません。
大学寮(中央の公立官僚育成機関)・国学(地方の公立役人育成機関)
大学別曹(私立の書記育成機関):藤原氏の勧学院など

仏教の教育

・お坊さんは文字が読めないと務まりません。
空海(774-835):綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)。828-845年。
最澄(766/767-822):比叡山延暦寺。山家学生式(さんげがくしょうしき)。818年。

武士の教育

・武士の地位を上げるためには教養が必要です。
金沢文庫:北条実時。1275年?
足利学校:上杉憲実が再興。1432年。

日本の昔の学校地図へのリンク

日本での学校教育の始まり

※江戸時代の基礎知識
(1)平和→生産力の向上→教育への関心向上
(2)身分制→統一的な教育制度がない
(3)幕藩体制→地域によってバラバラな教育

寺子屋

寺子屋:一般庶民が自分たちのために必要とした教育機関です。幕府や藩など支配者層が上から押しつけたのではなく、下からの自発的な要求によって自然発生的に増加していきました。
・庶民の生活と要求に対応して、そろばんや習字を教えていました。
※「往来物」と呼ばれるテキストを使っていました。

・江戸時代中期(西暦1750年頃)あたりから子供に対する意識が変わり始めます。
←生産力の向上、遺産相続への関心、家意識の形成
←商品経済の展開、識字能力の有効性の拡大、寺子屋の増加

リテラシーの展開

コンピュータ・リテラシー:コンピュータを使って情報を獲得したり発信したりすることができる能力を意味します。現在はコンピュータ・リテラシーを持っていることが当たり前とされ、学校で習得するようになっています。この能力がないと就職活動すらできません。
・リテラシーと学校:学校に行って勉強する目的の一つは、リテラシーを獲得することです。「話し言葉」は意図的にトレーニングしなくても身につけることができますが、「書き言葉」は意図的・計画的にトレーニングすることで初めて身につけることができます。
・かつてリテラシーを持っていたのはごく一握りの知的エリートだけで、大半の人々は文字の読み書きができませんでした。最初は一部の意欲のある人々だけが学校に行ってリテラシーを獲得していましたが、リテラシーの有用性が広く認識されてくると、次第に全ての人が強制的にリテラシーを持たされるような制度に変わっていきます。

復習

小テスト
・「イニシエーション」と「若者組」の知識を踏まえて、「大人になること」の意味が現在とどう違っているか説明してみよう。
・「リテラシー」という観点から、昔の日本の教育が現在とどう違っているか説明してみよう。

予習

・「藩校」について調べよう。
・「学制」について調べよう。

参考文献

ファン・ヘネップ『通過儀礼』
文化人類学の観点からイニシエーション(通過儀礼)を捉え、人生の節目で危機を乗り越えるための儀礼と理解し、越境の過程を「分離→過渡→統合」という図式で理解する。古典的名著。

佐野賢治『ヒトから人へ』
「大人になる」ために昔の人々が行っていた伝統的な習俗を、「一人前」という視点から描き出すエッセイ集。高度経済成長後に失われた伝統的な人間形成の在り方について考えさせられる。