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【要約と感想】『何のために勉強するのか?』

【要約】勉強は、大人になってから振り返ってみれば、すごく役に立ちます。しかし残念なことに、子どものときには、気がつかないのです。
子どものときに大切なことは、興味があることや好きなことを、楽しくやってみることです。親や先生に言われてやるから、勉強が嫌いになるのです。勉強は、本当はとても楽しいものです。
佐藤忠男、辻仁成、萩原葉子、吉村作治という、その道で名を挙げた人々が勉強の意味について語ります。

【感想】それぞれ、その道で一流になった人々の話である。まあ、そりゃあ、振り返ってみれば「勉強は役に立つし、おもしろい」という話になるだろう。
私自身にしたって、学生たちには「勉強は役に立つし、おもしろい」としか言いようがない。というのも、本心からそう思っているからだ。

問題は、一流になれなかった大人たちが勉強のことをどう思っているかなんだろうなあ。

20年以上前の本ではあるが、テーマは普遍的であって、古くなっていない。

【言質】
「子ども/大人」の関係について、証言を得た。

「わたしは子どものとき、早くおとなになりたかった。おとなになれば学校に行かなくてよいし、勉強もしなくてすむ。学校と勉強が、いちばんきらいだった。」83頁、萩原執筆箇所。

過労死とかブラック企業とかが子どもにも知れ渡っている昨今、「早くおとなになりたい」と思う子どもはさすがに減っているか。

佐藤忠男・辻仁成・萩原葉子・吉村作治『何のために勉強するのか? 10代の哲学5』ポプラ社、1997年

【要約と感想】『子どもを「人間としてみる」ということ―子どもとともにある保育の原点』

【要約】子どもを外側から客観的・分析的に「分かる」ことはできません。むろん、外側から何かを一方的に「教える」こともできません。というか、子どもを分からなくても、いいのです。子どもを未熟な弱い存在と決め込んで囲い込むことをやめましょう。子どもたちと対等な人間として向き合い、一人の人間として関わりましょう。
大人が子どもと共感的(YOU的)に関わることにより、子どもたちは大人を通じて世界の姿(THEY)を垣間見まることができます。そこから主体的な「学び」が生じます。
子どもは観察や操作の対象ではありません。子どもは「いま」を真剣に生きる存在です。だから、共感的な関わりを生むには、大人も「いま」を真剣に生きましょう。ケアすることは、ケアされることです。

【感想】なかなか情報量が多く、読み応えのある本だった。

私は運が良く、大学時代に佐伯先生の授業を受けることができた。とはいっても実は何をしたが詳細に覚えているわけではないのだが、一歩足のロボットが自己学習してバランスを取るエピソードはよく覚えていたりする。
汐見先生の原稿も、なかなか刺激的だった。僭越ではあるが、私も似たような理由で似たような感覚(教育学という学問があまり好きでない)を持ったことがある。今は、好きになったのか、あるいは単に居直ったのか、それとも自虐を兼ねているのか、「教育学者」を自称するようになっているんだけれども。

【要検討事項】
佐伯先生のいわゆる「ドーナッツ論」は、コア・カリキュラムの「三層(四領域)構造」とは響き合ったりするのか、どうか。あるいは今井康雄先生が言うような「メディア」論とどう響くのか。

本書では、「中間」が大事なことが強調される。

「つまり、私たちが世界と接触するときに、本当に相手のことを考えてくれる中間が必要だと。(中略)そこはどうやってつないだらよいんだろうかなぁーということを、子どもの身に本当になって考えてあげられるような存在が世の中に必要だと言うことで出てきたのがドーナッツ論。」16頁

コア・カリキュラムでは、学習者と文化財を繋ぐものが「問題解決領域」であった。メディア論では、学習者と文化財を繋ぐものがメディアとしての教育であった。
そしてこの話は、ソクラテスのいう「エロス」とも響き合う。プラトン『饗宴』によれば、エロスとは神と人間の「中間」であり、地上的な人間を天上的な「よさ」へと向かわせる動因となるものであった。

【言質】
「人格」に関する用法サンプルを得た。

「子どもも私たちとは異なる人格をもった一人の他者であり、すべてを「わかる」ことはできません。」204頁

このあたりの「人格」の用法は、教育基本法第一条の背景となっているカント的近代の前提を大きくはみ出してきているような気がするのだが、いかがか。

佐伯胖・大豆生田啓友・渡辺英則・三谷大紀・髙嶋景子・汐見稔幸著『子どもを「人間としてみる」ということ―子どもとともにある保育の原点』ミネルヴァ書房、2013年

【要約と感想】大塚謙二『教師力をアップする100の習慣』

【要約】主に中学校の教師向けの本です。
教育とは、子どもたちの人格形成をお手伝いすることです。そのためには、教師自身の人格を磨き続けなければなりません。上司や先輩の技を盗み、地域や保護者にも気を配り、生徒の気持ちになって、様々な二項対立の極端に走らず、中庸をこころがけましょう。

【感想】「○○力」という言葉が盛んに使用されるようになったのは、いつの頃からか。
ちなみに「教師力」という言葉は、国会図書館デジタルライブラリーの検索によれば、1950-59年では1件、1960-69年では1件、1980-89年では3件、1990-99年は3件なのに対し、2000-09年では54件、2010年以降は61件となっている。21世紀に入ってから急速に使われるようになったことが分かる。(ちなみに50-99の計8件は、単に誤植の疑いが高い)

本書の内容自体は、まあ、ナルホドと思うことが多い。私自身も、自分の実践を振り返り、反省する材料としたい。
とはいえ、「教師力」という言葉を使うこと自体がどういう場を形成するかについては、原理的に考察すべき対象となる。個人的な直感では、けっこう怪しい気がしているわけだ。というのは、「教師力」という言葉を使うと簡単に「何か言った気になる」ことができるわけだが、そういう言葉こそ危険だからだ。
本書のように具体的な事例に噛み砕かれていれば問題ないのだが、抽象的な次元で話が進むと、かなり危ない気がする。

【言質】
「人格」という言葉の用法サンプルを得た。

「罪を非難しても、人格まで否定しないこと。」63頁
「自分自身の人格を高める努力をする」「人格は、地道な長期的なプロセスによってしか形成できないもの。」126頁

まあ、「教師力」とは、要するに完成した人格から発せられる総合的な力のことではある。何も言っていないのと同じという感じがするとすれば、そういうことなのだろう。

大塚謙二『教師力をアップする100の習慣』明治図書、2011年

渡辺秀樹・金鉉哲・松田茂樹・竹ノ下弘久編『勉強と居場所―学校と家族の日韓比較』

【要約】日本と韓国の若者を比較すると、韓国の若者が「学校の勉強」に大きな価値を見出しているのに対し、日本の若者は「学校を居場所」として価値を見出していることが分かりました。家族の経済資本や文化資本のほか、親との日常的な会話などの「社会関係資本」に注目して調査を行ないました。
現在、日本の若者は勉強に対する関心と意欲を失っていると言われていますが、どうしたら意欲を取り戻すことができるのか、国際的な比較から様々な示唆を得ることができます。

【感想】極めて有意義な本だと思った。数字にから結論を導き出すことの意義がよく分かる研究だ。データに対して謙虚で、都合の良い無理な結論を引き出していないのも好印象だった。力作だと思う。勉強になった。

韓国の教育事情や若者の置かれた立場についてもたいへん勉強になったが、やはり日本の若者の意識に関しては、私自身が日常的に学生たちと触れていることもあって、いろいろ思うところがある。価値が多元化して、意識が「コンサマトリー化」したというのは、私の実感としても、ある。
(ちょっと気になるのは、consummatoryという英語とconsumeという英語の関係で、この共通する語幹には何らかの意味があるのか。不勉強にして知らず。)

ともかく、そのような現状に対応すべく、いま「社会関係資本」とか「繋がり」とか「ネットワーク」という概念が重要度を増していることも理解した。やはり、「個の自律」と「公共性の創出」という課題を同時に達成していくのが、教育の役割ということになるのだろう。

【今後の研究のための備忘録】
やはり「子ども/大人」の関係と「アイデンティティ」については、言質を取っておこうと思う。

「いまや30歳になっても一人前になれない時代になった。」
「エリクソンは、青少年期のモラトリアムがこれほど長くなるとは、想像もできなかっただろうが、いまの現象は、心理的なモラトリアムというより、高まりつつある社会の不確実性から生じるモラトリアムである。」21頁、金執筆箇所

「というのも、現在の若者にとって、多元的な関係性を取り結び、多元的なアイデンティティを使い分ける技術は生きる上で不可欠な能力だからである。」146頁
「もちろん、アイデンティティや人間関係が多元的で流動的であることは、現代の若者の不安の大きな源泉にもなっている。」147頁、阪井執筆箇所

まあ、そうですよね、という。
Z・バウマンの本『アイデンティティ』も読まなくては。

渡辺秀樹・金鉉哲・松田茂樹・竹ノ下弘久編『勉強と居場所―学校と家族の日韓比較』勁草書房、2013年

【大分県日田市】幕末私塾の雄「咸宜園」と、広瀬淡窓墓「長生園」

江戸後期の巨大私塾として有名な咸宜園(かんぎえん)に行ってきました。
日田へは、博多からリゾート特急「ゆふいんの森」で向かいます。乗客は、ほぼ外国人観光客です。高級感溢れる車内を満喫して、咸宜園へ。

咸宜園は国指定史跡となっており、いくつかの建物が保存されている他、たいへん立派な学習施設が付設しています。

案内パネルに、咸宜園のユニークさが説明されています。教員採用試験では「三奪法」と「月旦評」がよく出てきますね。教育史の専門家的には、近代的個人主義と業績主義(メリトクラシー)の芽ばえとしてどうなのかというところが注目されます。

域内には、塾主の広瀬淡窓(ひろせたんそう)が詠んだ漢詩の石碑が建っています。ちなみに石碑の後ろに見えるのは学習施設です。貴重な資料が展示されている他、映像資料も充実しています。

図録を3冊買ったら、学芸員さん(?)のご厚意で、おまけでもう2冊いただきました。ありがとうございました。勉強します。

さて、保存されている建造物では、まず秋風庵が目立っています。趣のある建物です。

中に入ることができます。教育課程表等が掲げられています。

床の間には広瀬淡窓が詠んだ漢詩の掛け軸があったりなど。

落ち着いた佇まいで、たいへん風情があります。

ほか、講義や寮として使われた建物は、礎石だけ残っているようです。

もうひとつおもしろいのが、遠思楼という建物です。丸い窓がかわいいです。

こちらも中に入って、二階に上がることができます。

こういう落ち着いたところで読書・思索できたら、さくさく進歩するような気がするなあ。書斎、ほしいねえ。

咸宜園から東に300mほど行くと、広瀬淡窓の墓所「長生園」があります。閑静な住宅街の中にあって、初めてだとちょっと分かりにくい場所です。

広瀬淡窓のほか、家族や塾主を務めた門人のお墓が並んでいます。

学問の大先輩にお参りして学問の成就を誓い、外国人観光客でごった返す日田を離脱するのでした。帰りは高速バスで直接福岡空港へ。体感的には、電車よりバスのほうが楽だったかなあ。
(2019年7月訪問)