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【要約と感想】中澤渉『日本の公教育―学力・コスト・民主主義』

【要約】日本の公教育を考える上で必須のトピックについて目配りが効いているだけでなく、教育社会学の基本的な考え方も分かるように配慮されている本です。教育の「公共性」について考えようとするとき、社会科学の知見がどこまで威力を発揮するか(あるいはしないか)について、近年の研究成果も踏まえて論じています。
 教育の公共性に関わる論点は、学力の定義や測定、教育による便益とかかるコスト(個人および社会全体)、特に高等教育(大学)の効用、格差、自由選択と平等のバランスなど、多岐にわたります。多様な論点に対して多様な考え方やスタンスがありますが、本書は常に両論併記を心がけながらバランスを保つ配慮をしています。そして公教育に対する信頼を確保するためにも、社会科学研究には大きな社会的意義があります。

【感想】学生たちにも広く読んで欲しい、基礎基本がよくまとまった本でした。(方法論に関わる記述は多少難解かもしれないけれど、これくらいは頑張って読みこなして欲しい)
 教育社会学といって思い出すのは、およそ30年前の学生の時分、藤田先生や苅谷先生、それから一世代下の広田先生に学び、理論的にはボウルズ&ギンタスとかブルデュー、ギデンズあたりを読んだ記憶だ。まあ学生の時はそれで世界を分かった気になっていたわけだが、こういう教養は定期的にアップデートしていかないと、本当にあっという間に置いて行かれる。私も研究者の端くれなんだから学術論文を読めばいいとはいえ、細分化された専門分野の最先端についていくので時間的・体力的に精一杯だったりするとき、こういうまとまった新書があると、たいへんありがたいのであった。まずは時代についていってる気になれる(←ちゃんと学術論文も読みましょう)。
 本書の全体的な印象として、学生の時の東大教育社会学(藤田先生や広田先生)は「公教育」の社会的意義を闡明するために幅広い専門的仕事と社会的発言を積極的に引き受けていて、そういう教育社会学の良質な伝統をしっかり引き継いだ仕事をしているなあ、というところ。教育社会学の一部には、現実に対して斜に構える、あまり感心しないニヒリズムも巣くっていると思っている(偏見)のだが、そういう嫌な匂いはまったくしなかった。
 ということで、公教育について考えようとするとき、私の場合は専門家として歴史アプローチ(主に地上戦)と哲学アプローチ(主に空中戦)をとることになるわけだが、教育社会学の成果を後方支援に大量投入しておくことは極めて大事なことだ、と改めて感じたのであった。勉強しよう。
 しかし一方、現実の日本の公教育に関しては、ここ10年で大きな地殻変動が起きつつある。コミュニティ・スクールとか教育委員会改革に伴う総合教育会議設置とか教育機会確保法とかイエナ・プランやIBの流行などは、本書の視野には入っていない。もちろんGIGAスクール構想も絡んだ「個別最適化」のインパクトに触れられていないのは、時期的に著者のせいでもなんでもない。まあ、ないものねだりをしても仕方がなく、私の仕事としてしっかりやればいいだけの話ではある。

【個人的な研究のための備忘録】
 私の個人的なポリシーにとって都合のよい記述があったので、メモしておく。

「学校教育は、人間的な営みである。だからこそ、実践としては個別性や多様性に配慮しなければならない。そのような多様性を考慮するからこそ、教育は公共性を持つのだ。統計的エビデンスは多数派の傾向なのだから、そのエビデンスに無条件に従って教育実践を行うだけなら、教師は単にマニュアルをこなす教育マシーンになってしまう。そこでは、教師としての専門性や力量は関係ない。」(159頁)

 ですよね。

 また、本書の本筋とは関係がないのだが、個人的にずっと気になっていることで。

「近代国家で、組織的に人々を社会化するためには、学校教育制度の成立・維持がもっとも合理的だと信じられている。この説明は実証されないまま信じられているので、マイヤーらは「神話」とよび、教育制度は、神話によって成立する一つの宗教のようなものだという。」(234頁)

 「教育」を「宗教」になぞらえる表現をいろいろな機会に見るわけだが、それは日本に限らず世界的な傾向らしい。イリイチも学校制度を批判するときに「宗教」になぞらえている。ジョン・マイヤーの所論も一つサンプルに加えた。

中澤渉『日本の公教育―学力・コスト・民主主義』中公新書、2018年

【要約と感想】山下美紀『子どもの「生きづらさ」―子ども主体の生活システム論的アプローチ』

【要約】子どもの「生きづらさ」を客観的に解析するために、子どもの生活に焦点を当て、家族・学校・友人関係を軸にシステムとして把握し、アンケートをとり、統計的な手法を駆使しました。社会学的な手法によって、子どもの「生きづらさ」はおおまかに5つのクラスタに分類でき、3割ほどの子どもが課題を抱えていることが分かりました。「いきづらさ」とは要するに、自分の問題を解決するためにシステムを変更する見通しが立たないことであるという仮説を立てて検証したところ、その一部は実証的に明らかになりました。

【感想】客観的に分析しにくい課題に果敢に取り組んで、粘り強く頑張って対象化したなあという。アンケートを企画するだけで大苦労だったはず。たいへんな労作という印象だ。
結論自体はおそらく既存の常識を画期的に覆すようなものではなく、「あっ」と驚くような知見はない。が、もちろん筆者も様々な限界には自覚的だ。様々な限界がありつつも、この研究のような着実な知見が積み重なっていくことで、きっと教育全体がより善いものになっていくに違いないし、そうしなければならない。我々研究者は、それを信じて日々の仕事を続けるしかないのだ。

山下美紀『子どもの「生きづらさ」―子ども主体の生活システム論的アプローチ』学文社、2012年

渡辺秀樹・金鉉哲・松田茂樹・竹ノ下弘久編『勉強と居場所―学校と家族の日韓比較』

【要約】日本と韓国の若者を比較すると、韓国の若者が「学校の勉強」に大きな価値を見出しているのに対し、日本の若者は「学校を居場所」として価値を見出していることが分かりました。家族の経済資本や文化資本のほか、親との日常的な会話などの「社会関係資本」に注目して調査を行ないました。
現在、日本の若者は勉強に対する関心と意欲を失っていると言われていますが、どうしたら意欲を取り戻すことができるのか、国際的な比較から様々な示唆を得ることができます。

【感想】極めて有意義な本だと思った。数字にから結論を導き出すことの意義がよく分かる研究だ。データに対して謙虚で、都合の良い無理な結論を引き出していないのも好印象だった。力作だと思う。勉強になった。

韓国の教育事情や若者の置かれた立場についてもたいへん勉強になったが、やはり日本の若者の意識に関しては、私自身が日常的に学生たちと触れていることもあって、いろいろ思うところがある。価値が多元化して、意識が「コンサマトリー化」したというのは、私の実感としても、ある。
(ちょっと気になるのは、consummatoryという英語とconsumeという英語の関係で、この共通する語幹には何らかの意味があるのか。不勉強にして知らず。)

ともかく、そのような現状に対応すべく、いま「社会関係資本」とか「繋がり」とか「ネットワーク」という概念が重要度を増していることも理解した。やはり、「個の自律」と「公共性の創出」という課題を同時に達成していくのが、教育の役割ということになるのだろう。

【今後の研究のための備忘録】
やはり「子ども/大人」の関係と「アイデンティティ」については、言質を取っておこうと思う。

「いまや30歳になっても一人前になれない時代になった。」
「エリクソンは、青少年期のモラトリアムがこれほど長くなるとは、想像もできなかっただろうが、いまの現象は、心理的なモラトリアムというより、高まりつつある社会の不確実性から生じるモラトリアムである。」21頁、金執筆箇所

「というのも、現在の若者にとって、多元的な関係性を取り結び、多元的なアイデンティティを使い分ける技術は生きる上で不可欠な能力だからである。」146頁
「もちろん、アイデンティティや人間関係が多元的で流動的であることは、現代の若者の不安の大きな源泉にもなっている。」147頁、阪井執筆箇所

まあ、そうですよね、という。
Z・バウマンの本『アイデンティティ』も読まなくては。

渡辺秀樹・金鉉哲・松田茂樹・竹ノ下弘久編『勉強と居場所―学校と家族の日韓比較』勁草書房、2013年

【紹介と感想】南本長穂・伴恒信編著『子ども支援の教育社会学』

【紹介】教育社会学の知見を広く集めた学生用のテキストです。

【感想】幅広い教育社会学的トピックが扱われているのはいいとして、それぞれ分量が極めて少なく、個人的には食い足りない。まあ、学部一年生にとってはこれくらいがちょうどいいという判断なのかなあ。
まあ、エリクソンのアイデンティティ論に対する批判の言質をとれたのは、個人的な収穫ではある。

 

「これまでの生涯発達論は1950年代以降の人類にとって比較的好運な右肩上がりの安定した経済成長時代の産物であって、成長神話の崩壊した21世紀にそぐわない発達論となってきているのではないだろうか。」(24頁)

「しかしながら無藤(1999)は、「自分自身のあり方・生き方について悩んでさまざまな試行(役割実験)をしながらいくつかの選択肢を検討して自分自身の判断をしていくといった、いわば、自立的独立的な自己確立の経過は優勢ではなくなってきている」と現在の若者たちの思春期や青年期の発達が従来の発達課題理論では考察できない可能性を指摘している。」(48頁)
無藤清子「青年期とアイデンティティ」『アイデンティティ』日本評論社、1999年

「社会学では現在アイデンティティは、絶対的で唯一に確立されるものという捉え方ではなく、石川(1992)の指摘するように「わたし」とはアイデンティティの州尾久、アイデンティティの束という捉え方になってきている。」(49頁)
石川准『アイデンティティ・ゲーム』新評論、1992年

南本長穂・伴恒信編著『子ども支援の教育社会学』北大路書房、2002年

【要約と感想】木村涼子編著『リーディングス日本の教育と社会16ジェンダーと教育』

【要約】「ジェンダーと教育」をテーマとした研究の2009年時点での到達点を示すアンソロジー集です。膨大な関連研究のうちから代表的な23の文章を抜粋し、5つのテーマに配分して編集しています。
第Ⅰ部「ジェンダー・パースペクティブと教育研究の出会い」では、ジェンダーという視点や方法が教育学全体に対してどのようなインパクトを与えたかが考察されています。従来の教育学が男性視点に偏っていたことが明らかになると共に、見逃されていた新たな課題が提示されます。
第Ⅱ部「性別の社会化のしくみ」では、社会全般においてジェンダーが形成されるメカニズムを解析しています。おとなから一方的に性別役割が注入されるのではなく、子ども自身も主体としてジェンダー生成に関わっていく仕組みが明らかになります。
第Ⅲ部「学校教育におけるジェンダー形成」では、メリトクラシーや家庭環境要因を考慮に入れ、統計的な手法なども活用しながら、ジェンダー要因が学校文化や学歴達成や家庭の教育戦略にどのような影響を与えているかが明らかになります。
第Ⅳ部「ジェンダー視点からの教育史」では、ジェンダーの手法を用いることで近代教育史の通説に変容を迫り、家族と学校の関係について新たな視角を示しています。
第Ⅴ部「新たな動き」では、従来のジェンダー論では見逃されてきた様々なマイノリティとの関連が考察され、新しい課題と視角が提示されます。

【感想】本書は2009年時点での達成点を示すものではあって、それから10年経った現在では、本来なら情勢は変化していなければならないはずだ。が、残念ながら、本書はまだまだ有効なのだった。

たとえば具体的には、日野玲子「「ジェンダー・フリー」教育を再考する」という論文は、まだ示唆に富んでいる。現場では安易に「固定観念は取り除けることを前提としている」が、もともとジェンダー・フリー教育はそういう矯正を目ざすものではなく、「ジェンダー・バイヤスに気づくことによって、ジェンダー・コードから自由になる考え方を、子どもたちが身につけることを目的にしていた」(74頁)はずなのだった。現場が安易な実践に傾いていないか、いまでもチェック指標として意義があるだろう。
特に中西祐子「ジェンダー・トラック」で「学校が性役割観に基づく進路の「矯正力」を持つこと、それによって家庭での性役割の社会化効果を「打ち消す」ことは間違いない事実」(237頁)と明らかにされている以上、学校での実践はより意識的に行なう必要がある。
さらに村松泰子・河野銀子「理科好きな女子・男子を増やすために」で、「女子が理科から離れているのではなく、理科が女子から離れている」(354頁)という指摘には、ナルホドと思う。私の勤務校でも、彼女たちの専攻(栄養は被服)には絶対に理科の教養が必要なのに、理科が関わっていることを本質的に理解していない学生が多すぎるわけだが、しかしこれは中高の学校教育(特に家庭科)のあり方に問題があるのかもしれないと、改めて気がつかされたのだった。

あるいは、片岡栄美「教育達成過程における家族の教育戦略」が教えてくれる「男女の学歴決定メカニズムの構造は、異なっている」(163頁)とか「49歳以下の女性では、学校外教育投資は全く効果がみられない」という知見は、目の前の現実を考える上で極めて重要ではなかろうか。ドラえもんでしずかちゃんがバイオリンを習っていることを、われわれはどう理解すればいいのだろうか。そして2019年現在、男は学校外教育投資の効果が高く、女は家庭の文化資本の影響が大きいというデータに、変化はあるのだろうか。「女性は労働市場を通じた地位上昇の可能性がこれまで低かったことと、女性の地位維持や地位上昇が主として婚姻によって達成されてきたことと無関係ではない」という分析が正しければ、おそらく今も変化はないだろうと推測されるところなのだが。

そしてさらに、内田龍史「ジェンダー・就労・再生産」は迫力がある論文だったが、「専業主婦志向の女性には就労アスピレーションがそもそも見られないことが多い」という指摘と、「おそらくその背景にあるのは、「学校教育→職業達成」ルートからの「排除」であろう。」(380頁)という分析に、ナルホドと思う。勤務校で目にする女学生たちにも、そのままそっくり当てはまるのだった。彼女たちに「専業主婦になれないよ」と現実を教えてあげたところで、一方で労働市場から排除されている現実が変わらない限り、「専業主婦に賭ける」という生き方は変わらないのだろう。この「詰んでいる状況」を、どうすればいいのか。

本書に収録された論文は、本来はそろそろ「古典」になっていなければならないものばかりだ。それがまだ現役で役に立つとすれば、まるで変わらない現実の方に問題がある。

【今後の研究のための個人的備忘録】
やはり専門の日本教育史に関する記述には、引っかかるところが多い。それぞれもはや古典的な論文であって、いちど読んだことはあるのだが、改めて。
たとえば小山静子「良妻賢母思想と公教育体制」では、通説に対する批判が印象的だ。

「ところで、この時期の家庭教育論について、これまでの研究は、儒教主義に基づく家庭教育が次第に支配的になっていったとか、個性尊重主義家庭教育論が展開される一方で、それに対する儒教主義的立場や国家主義的立場からの批判が行なわれた、と総括してきた。しかしながら儒教主義的な特徴は希薄といわざるをえない。そしてこのような総括の仕方ではなく、むしろ、家庭教育が学校教育の対概念として措定されている点に、家庭教育論の特質を見出すべきなのである。」(270頁)

「良妻賢母思想の中心概念である「賢母」は、家庭教育が公教育の補完物として要請された時に登場してきたものであり、良妻賢母教育もまた、公教育制度の定着に伴う家庭教育の「近代化」が要請したものとして、とらえるべきであろう。」(274頁)

これらの記述はどうだろう? 個人的な経験を踏まえると、様々な点で素直に受け取ることができないのではあるが、具体的にどうこうしようとすると、「家庭教育」に関する多角的な史料収集が必要になってきて、意外に物申すのが難しい。要検討事項だ。

また沢山美果子「教育家族の成立」では、私の研究関心の中心にある「人格」観念に対する記述が気になるのであった。

「彼女たちの子育て、教育の目的は「子どもの人格をつくる」(鳩山)、「人格の完成、換言すれば人間として生きるための最善の道を会得する」(田中)ことに置かれ、それによって「将来の幸福」(鳩山)と、社会を「よりよく」(田中)生きることが目指される。では、「人格の完成」とは、また「よりよく」生きるとは、どう生きることであったか。鳩山は「自由は独立と同時に得られるものであるといふのが私の子供教育の方針の一つでございました」と述べ、田中は「よりよくと云ふことが教育現象の起る本源」と述べる。つまり、その目的とする「人格の完成」とは、自由=個人の解放と独立=個の自覚にあり、個人の解放と個の自覚を実現することが、個の社会を「よりよく」生きることに通じるのだというのである。
この「人格の完成」という教育目的のために「生活全部が教育」(田中)となる。」(302頁)

「しかし彼女たちは、自分たちはなし得たものの、人格形成と学力形成の統合が容易ではないことに気づいていた。」(303頁)

「この母親の発言に明らかなように、第二世代の親たちは学力と人格の統合が容易になし得ない現実、わが子の幸福な将来を願い、その願いを資本主義社会の中で実現しようとする時、人格形成と矛盾しかねない学力競争という競争原理が入りこむ矛盾に悩み始めているのである。そのなかで、学力形成については学校に頼らざるを得ない状況、学校教育の下請けとして家庭教育が行なわれる状況が進行する。学力形成と人格形成の矛盾が顕在化するこの時期、教育的マルサス主義と童心主義はこの矛盾を隠蔽する役割を果すものとして機能したのであった。」(308-309頁)

「人格の完成」という概念は、高等教育の文脈では阿部次郎や新渡戸稲造などの修養主義と絡めて言及されることが多いわけだが、実は家庭教育の文脈も重要であることが分かる。いちど全体的にさらっておいた方がいいかもしれない…

また一方で「個性」に関しては、次の記述も気になるところだ。

「教育的マルサス主義は、こうした大衆化状況のなかで、上昇できない部分に対しては、上昇できない現実的障害に向かうよりは、「素質」が悪いのだからという自罰の意識を、一方の極には、現実に開かれている上昇ルートを昇る原動力として働く。いい換えれば、資本主義社会の発展のなかで、労働の分業化が要求する人材配分とそれを正当化する「適材適所」のイデオロギーとして機能することとなる。」(307頁)

分業化と適材適所のイデオロギーは、いわゆる知能検査と連動しながら猛威を振るう。ここに「個性」という概念がどのように関わってくるかは、私の研究課題だ。

【眼鏡論に使える】
蔦森樹「ジェンダー化された身体を超えて―「男の」身体の政治性」(岩波講座『ジェンダーの社会学』収録)は、眼鏡論的に極めて興味深い。というのは、著者が<男>から<女>へとジェンダートランスしたときに実感した男と女の身体感覚の違いを表にまとめているのだが、その表に「眼鏡」という項目があって、男は「あり(太いべっこう)」とされるのに対し、女は「なし(コンタクトレンズ)」とされているのだ(146頁)。そしてさらに「性を理由にして否定されたと感じていた「身体を含めた」自分の可能性のほとんどが、出産以外は自分で行える。」(147頁)とも言う。彼女は、自分の意志で眼鏡を外して女性性を獲得したと主張しているわけだ。要するに彼女にとって「眼鏡を外す」という行為は、男性性を否定して女性性を獲得するという象徴的な意味を担っているのだ。これが当事者視点の証言は、極めて貴重だ。
すると、「「男でもなく女でもなく」というジェンダーのない世界を夢想したが、夢から覚めると、この身体も属するジェンダー・グループも常に女か男かのいずれかに即刻還元されるのであった。二元性の言語体系そのものが「私」の限界である事実を認めるまで、また認めてもなお、その苦しい心の状態が続いた。」(145頁)という記述も、眼鏡論的に興味深く読める。彼女の言う「二元性の言語体系」と「眼鏡ON/眼鏡OFF」という眼鏡の排中的な二元性は、極めて親和性が高いのだ。
彼女が言う「身体のジェンダー化とは、女と男の人間関係を構造化する政治的な出来事」(147頁)とは、眼鏡にも当てはまる。身体の眼鏡化とは、女と男の人間関係を構造化する政治的な出来事に他ならない。それは「見る主体=眼鏡ON」と「見られる客体=眼鏡OFF」を峻別する権力なのだ。

木村涼子編著『リーディングス日本の教育と社会16ジェンダーと教育』日本図書センター、2009年