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【要約と感想】牟田武生『オンラインチルドレン―ネット社会の若者たち』

【要約】インターネットは、テレビとは異次元の影響を子どもに与えます。テレビは受動的なので飽きることがありますが、インターネットの相互方向性コミュニケーションは依存性を加速させます。その結果、ネット依存をこじらせて、ひきこもる若者が増加しています。
しかし、ネット社会を否定することは不可能です。もう後戻りできません。子どもたちをネット依存にさせないためには、現実世界で充実感を味わわせることが一番です。

【感想】単にネット社会を否定するのではなく、まずは現実を受け容れた上で、これからどう対処していくかを具体的に考えていく姿勢には、好感を持つ。
まあ、処方箋である「リアルで充実することを促進する」のは、その通りではあるが、それが難しいから現状がこうなっているわけでもある。10年以上前の本ではあるが、現状はますます渾沌としつつあるように思える(パソコンに加えてスマホによるソシャゲが一般化したことによって)。
とはいえ、やはり具体的にできることは「リアルで充実することを促進する」こと以外にはない気もするのであった。

牟田武生『オンラインチルドレン―ネット社会の若者たち』オクムラ書店、2007年

【要約と感想】尾木直樹『思春期の危機をどう見るか』

【要約】確かに思春期の若者たちの暴力が目立つような気がしますが、問題の根本は大人たちのほうにあります。子どもを一人の人間として尊重しないから、人間として成長しないだけです。「学力低下」などという言葉に踊らされて学校の管理体制を強化して詰め込み教育に戻るのは、愚の骨頂です。学校や教師に押しつけるのではなく、社会全体が教育に責任を持ちましょう。学校は「心の教育」なんて愚かなスローガンに惑わされて実践を空洞化させず、目の前の子どもをしっかりと見ましょう。
具体的には、ネットリテラシーへの対策や、キャリア教育の構築が急務です。しかしなんといっても、子ども自身の社会参画がいちばん重要です。思春期とは、そもそも自立と依存の根本的な矛盾です。若者は必死にもがいています。形式的な管理に走らず、目の前の若者ひとりひとりを大切にしましょう。

【感想】10年以上前の本で、個々の事例(学力やキャリア教育等)は多少古くなっているけれども、基本的な考え方は古くなっていないと思う。子どもの社会参画を促進する考え方は、これからますます重要になってくるだろうと思う。
「大人/子ども」の境界線が曖昧になった現代では、子どもを一方的に学校に押し込めて保護するシステム自体が時代遅れになっている。新卒一括採用=終身雇用という「ふつうの大人のなり方」が崩れた現代では、「大人」というもののイメージも大きく変えていかなければならない。著者が「キャリア教育」に大きな期待をかけているのも、こういう背景があるからだろう。ここ10年間の現実の「キャリア教育」の展開にはなかなか厳しいものがあったが、基本的な考え方自体は時代の流れに沿っていると思う。他人事でなく、おとなたちが頑張らなければならない。

【言質】「自己同一性」の用法に関して具体的なサンプルを得た。

「まず思春期の重要な発達課題は”自立”ということです。つまり、「自己同一性(ego identity)」を確立することで、これまでの親や教師に頼ってきた”他律”的な自己から脱却し、自己を相対化し、客観的にとらえ直そうと試みるのです。つまり、「これこそまぎれもない自分である」という、自己同一性を獲得するための精神的な自立を遂げるためにもがくのです。」114頁

自己同一性が、「他律」ではなく、「相対化・客観化」された「自己」との同一ということが端的に示されている。気になるのは、平成の発達心理学が、こういうアイデンティティ概念を相対化し続けているという傾向だ。むしろ「複数のペルソナ」という話をよく見かける昨今であった。

また「人格」の用法も得た。

「ここには、子どもたちを一個の人格をもった、大人と対等な完成体として尊重し、穏やかで優しく、寛容に満ちた姿勢で接する教師の姿が提示されています。」203頁

「人格」というものが「完成体」であることを端的に示す用法である。これも、昨今の心理学とはずいぶん異なる用法であることには気をつけておきたい。個人的には、心理学の方が酷い間違いを冒しがちだと思っているが。

尾木直樹『思春期の危機をどう見るか』岩波新書、2006年

渡辺秀樹・金鉉哲・松田茂樹・竹ノ下弘久編『勉強と居場所―学校と家族の日韓比較』

【要約】日本と韓国の若者を比較すると、韓国の若者が「学校の勉強」に大きな価値を見出しているのに対し、日本の若者は「学校を居場所」として価値を見出していることが分かりました。家族の経済資本や文化資本のほか、親との日常的な会話などの「社会関係資本」に注目して調査を行ないました。
現在、日本の若者は勉強に対する関心と意欲を失っていると言われていますが、どうしたら意欲を取り戻すことができるのか、国際的な比較から様々な示唆を得ることができます。

【感想】極めて有意義な本だと思った。数字にから結論を導き出すことの意義がよく分かる研究だ。データに対して謙虚で、都合の良い無理な結論を引き出していないのも好印象だった。力作だと思う。勉強になった。

韓国の教育事情や若者の置かれた立場についてもたいへん勉強になったが、やはり日本の若者の意識に関しては、私自身が日常的に学生たちと触れていることもあって、いろいろ思うところがある。価値が多元化して、意識が「コンサマトリー化」したというのは、私の実感としても、ある。
(ちょっと気になるのは、consummatoryという英語とconsumeという英語の関係で、この共通する語幹には何らかの意味があるのか。不勉強にして知らず。)

ともかく、そのような現状に対応すべく、いま「社会関係資本」とか「繋がり」とか「ネットワーク」という概念が重要度を増していることも理解した。やはり、「個の自律」と「公共性の創出」という課題を同時に達成していくのが、教育の役割ということになるのだろう。

【今後の研究のための備忘録】
やはり「子ども/大人」の関係と「アイデンティティ」については、言質を取っておこうと思う。

「いまや30歳になっても一人前になれない時代になった。」
「エリクソンは、青少年期のモラトリアムがこれほど長くなるとは、想像もできなかっただろうが、いまの現象は、心理的なモラトリアムというより、高まりつつある社会の不確実性から生じるモラトリアムである。」21頁、金執筆箇所

「というのも、現在の若者にとって、多元的な関係性を取り結び、多元的なアイデンティティを使い分ける技術は生きる上で不可欠な能力だからである。」146頁
「もちろん、アイデンティティや人間関係が多元的で流動的であることは、現代の若者の不安の大きな源泉にもなっている。」147頁、阪井執筆箇所

まあ、そうですよね、という。
Z・バウマンの本『アイデンティティ』も読まなくては。

渡辺秀樹・金鉉哲・松田茂樹・竹ノ下弘久編『勉強と居場所―学校と家族の日韓比較』勁草書房、2013年

【要約と感想】岡田尊司『なぜ日本の若者は自立できないのか』『子どもが自立できる教育』

【要約】なぜ日本の若者は自立できないのか? 日本の教育がクソだからでファイナルアンサーです。

【感想】まあ言いたいこと(個性を大切にしよう)は分からなくもないけれども、専門家から見ると論証が雑だなあというところではある。
問題の根本は、日本人が陥りがちな「隣の芝生は青く見える」という認識と「たらいの水と一緒に赤子を流す」という解決策の提示にある。いずれにせよ、本書の底にある「善意」が素晴らしいとしても、あるいは仮に精神医学の専門家としての知見に問題はないとしても、「善かれと思って放った教育への苦言」には残念ながら問題が多い。

特にまずいのは、認識パターンの三類型に学修方法を合わせるべきと言い切ってしまっているところだ。著者は人間の認識パターンを「視角空間型/聴覚言語型/視角言語型」に分けているが、もちろんモトネタはNLPのVAKタイプ理論だ。まあ、精神分析の領域では意味がある分類なのだろう。しかしVAKタイプ理論に合わせて開発された教育手法に有意な効果が現れていない悲しい事実は、教育界ではよく知られている。というか、そもそも原理的に考えて、教育方法をVAKタイプに合わせること自体が不合理な発想なのだ。なぜなら最適な教え方とは、子どもの個性を考慮することはあるにしても、それ以上に教育内容の性質にこそ従うべきものだからだ。子どものVAKタイプに合わせて教え方を変えようなんて、ちょっと考えれば成立するはずがないことが分かろうというものだ。
(まああるいは、直接診察したわけでもない歴史上の人物をVAKタイプ理論に当てはめて自説の論拠とするのは、精神医学的な観点からも如何なものか、とは思う)

「一事が万事」という言葉は個人的には好きではないのだが、残念ながら本書ではこの言葉が当てはまってしまう。著者があまりにも日本の教育システムを憎みすぎていて、客観的な評価ができていないのだ。実は日本の教育システムは、他国から極めて高く評価されている。著者は他国から絶賛されているところも、全部まるごと否定してしまう。明らかに冷静さを欠いている。
そして仮に著者が主張するように、日本が「個性」を尊重していないとしても、それは教育だけの問題ではない。日本の社会全体が個性を尊重していないだけのことだ。実は著者の主張するような政策は、文部省が1960年代からさんざん試みていたことだ。著者が主張する程度のことは、官僚はみんな気がついている。官僚の意図を挫いたのは、日本国民の民意だ。たとえば文部省はずっと普通科を減らして職業科を増やそうとしていた。それを拒否して普通科を目指したのは、日本国民だ。教育システムだけ普通科と職業科を平等にしたとしても、社会に出てから差別されることが目に見えているからだ。社会が変わらなければ、教育システムだけ変えても、かえって矛盾が増幅するだけだ。

なぜ日本の若者は自立できないのか。私から見れば、「そもそも日本社会が若者の自立を望んでいないから」でファイナルアンサーだ。教育システムのせいにしても、なにも見えてこないし、むしろ本質的な問題が覆い隠されるだけだろうと思う。
一人ひとりの子どもの個性が輝く世の中を実現したいのはやまやまではあるが、そのためにも本質的な議論が望まれるところだ。

ちなみに3年後に出た文庫版は、内容はほぼ同じだが、中国の事例などが新たに加わっている。

岡田尊司『なぜ日本の若者は自立できないのか』小学館、2010年
■文庫版:岡田尊司『子どもが自立できる教育』小学館文庫、2013年

【要約と感想】石川瞭子編『高校生・大学生のメンタルヘルス対策―学校と家庭でできること』

【要約】社会のあり方が大きく変わった結果、高校生や大学生に対するケアのあり方も、従来の考え方から大きく変えていかなければなりません。発達障害、危険薬物、ひきこもり等、新しい状況にきめ細やかに対応するため、養護教諭やスクールカウンセラー、ソーシャルスクールワーカーなど専門家が連携を密にしていく必要があります。個別事例を詳細に検討すると、子どもと父親との関係が問題であることが多いことが見えてきます。保護者に対するケアを伴わなければ根本的な解決は望めないでしょう。

【感想】個別的事例は、詳細で、胸が痛む。どうしてうまくいかないのか。現場の専門家たちは精一杯やっているようにしか見えないのだが、やはり家庭の協力がなければいかんともしがたい。こうした個別事例から得られる教訓を共有しながら、地道に粘り強く対応していくしかない。私自身も、目の前に課題を抱える学生たちがたくさんいるので、自己有用感を育んでもらえるよう、傾聴の姿勢と受容の態度で受けとめ、温かく見守っていきたい。

が、理論的な部分では「?」とも思う。「時代は変わった」と言うのはよいが、その本質的な部分を捉えているかというと、個人的にはかなり微妙な感想を持つ。心理に関わる人たちには歴史の知識が欠けているという認識(偏見?)が、さらに強まった本でもあった。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
エリクソンの理論が時代にそぐわなくなっているという記述があって、おもしろかった。心理の専門家から見ても「時代遅れ」に見えるという言質を得て、勇気が出るのであった。

「エリク・ホーンブルガー・エリクソンは、高校の時期を青年期前期とし、同一性と同一性拡散がこの時期の発達の課題だとした。この時期は子どもから大人に移行する時期であり、心理社会的な意味が大きな時期だと言われている。しかし現代の青年期は、大人への移行期ではなくなっている。つまり、エリクソンが言うような青年期、自分を見つめたり葛藤したりしながら自己を確立する時期とは違うものになっている。(中略)大人になったら自由にできることが増えるから、窮屈な子供時代から脱出したいと思うような社会の構造ではなくなっているのだ。」(85頁)

石川瞭子編『高校生・大学生のメンタルヘルス対策―学校と家庭でできること』青弓社、2013年