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【埼玉県行田市】忍城跡に立つ行田市郷土博物館の展示はとても充実している

埼玉県行田市の忍城(おしじょう)に行ってきました。2012年に映画化された『のぼうの城』の舞台としてもよく知られている城です。続百名城にも選ばれました。

三重魯がカッコいいですね。
が、こちらの三重魯は「のぼうの城」の時代には存在していませんでした。戦国時代が終わって江戸時代に入り、家康の家臣である阿部氏が忍藩主となって以降、忍城は大々的に整備されます。このときに戦国期の忍城の面影はほぼなくなったことでしょう。三重魯は、江戸時代に一新された近世城郭としてのシンボルです。

説明パネルに、忍城の沿革が簡単に示されています。おおまかに、戦国期(成田氏)→近世前中期(阿部氏)→近世後期(松平氏)と、3期に分かれていることが分かります。このあたりの事情は、忍城跡に建つ行田市郷土博物館でかなり詳しく説明されています。
郷土博物館の展示は、とても充実しています。忍城や石田三成による水攻めの説明の他、近世に名産となった足袋、さきたま古墳群の展示で盛りだくさんです。三重魯も実は鉄筋コンクリートでできていて、中は展示室になっています。

地図で見ると、忍城は江戸を守る際にもかなり重要な戦略地点だということが分かります。ポイントは利根川と荒川に挟まれている上に、利根川から荒川までの距離が一番短い地域だというところでしょう。利根川を渡って北に行くと足利、荒川を渡って南に行くと武州松山城を経由して川越に至ります。行田市内をレンタルサイクルで走り回ったのですが、真っ平らなところでした。沼沢地を排水して作られたので真っ平らなのでしょう。
埼玉県には近世を通じて藩(一万国以上の大名が支配する地域)が3つ(忍・川越・岩槻)しかなく、他の地域は石高の少ない旗本や御家人の所領になっていました。逆に言えば、忍・川越・岩槻はどうしても信頼のできる譜代大名に押さえておいてもらわなければならない重要戦略地点と認識されていたということでしょう。

しかしそんな忍藩も、明治維新ではほとんど存在感を出せませんでした。幕末動乱期には京都警備や海浜警備など重要な役割を担っていましたが、戊辰戦争では圧倒的な量と勢いの官軍を前に、忍藩を佐幕派と信じて頼ってきた幕府側部隊を追い出して、無血開城せざるを得ませんでした。忍城も破却されます。藩主は明治維新後すぐに30歳の若さで亡くなっています。苦労が祟ったのでしょうか。明治維新前後の話は、郷土博物館でも詳しく扱っていません。誇りを持って表に出せるような材料が少ないのでしょう。
上の写真は、かつて石垣に使われていた石材です。こういうところで当時を忍ぶしかありません。

城跡は公園として整備されていて、梅が綺麗です。
(2018年2/24訪問、2021年2/5訪問)

【愛知県新城市】亀山城と古宮城

愛知県新城市(旧作手村)にある、亀山城と古宮城を見学してきました。

作手は、戦国時代には徳川家と武田家が所有を争った地で、長篠合戦の舞台の近くでもあります。作手村の盆地を囲むようにたくさんの城や砦が築かれており、盆地全体が要塞として機能していただろうと思われます。亀山城と古宮城は、盆地を囲む城塞群のひとつです。
作手盆地は、航空写真で見ると、長篠や岡崎とは以下のような位置関係になっています。

武田家の領地(高遠・飯田)から徳川家の本拠(岡崎)に出ようとするとき、選択肢が2つあることが分かります。
一つ目は、天竜川と豊川(ほぼJR飯田線沿い)を下って三河一宮(砥鹿神社)に出てから西に向かうルート(黄色)です。こちらの方は長篠城から豊橋城まで街道の守りがガチガチに固められています。
二つ目が、長篠を避けて作手盆地を通り、男川沿いに岡崎に出るルート(赤色)です。この2つ目のルートの中継点に当たるのが、作手盆地です。そしてもちろんこちらも、ガチガチに守りを固めるわけです。作手盆地が要塞化していたのは、地政学的に考えれば当然のことと言えそうです。

亀山城は、作手盆地の南の方に位置します。道の駅「つくで手作り村」のすぐ近くにあります。道の駅には様々な体験メニューが用意されていて、なかなか賑やかです。

道の駅に掲げられた看板でも、古来からここが交通の要衝であったことを強調しています。

登城口は、駐車場の脇にあります。案内版がしっかり整備されていて、ありがたいです。

城址案内図によると、古宮川の河岸段丘を利用して作られたようです。比較的コンパクトな作りに見えますね。

道の駅の駐車場から入る登城口は、西側(二の丸の反対側)のほうにあります。なかなか立派な虎口です。

虎口を登ったところから本丸を臨むと、視界が開けます。

亀山城址の周辺は樹木をしっかり整備してあって、遺構の観察には絶好の環境となっています。本丸は北の方に開けていて、南北に長い作手盆地を一望できます。武田家が構築した古宮城が北にあるので、北側からの攻撃に備える体制になっているんでしょうね。

本丸にあった案内パネル。基本に忠実な作りのように見えます。

奥平氏は上野国甘楽郡出身だったんですね。ちなみに近世の甘楽は織田信長の末裔がひっそりと支配することになります。

二の丸も、樹木を切り払って整備されています。見学しやすくて、ありがたいです。

西の方から見た亀山城全景。

現在たんぼになっているところは、おそらく当時は沼沢地だったのではないかと思います。コンパクトながら、なかなか堅固な砦だったのではないでしょうか。

亀山城から北に向かうと、続百名城にも選出された古宮城があります。
歩いて行くと、途中に「豊川矢作川分水点」がありました。矢作川に注ぐのが「男川」で、ここを下っていくと岡崎に辿り着くわけです。豊川水系の方は、新城を経て豊橋に辿り着きます。

川を覗いてみると、酸化鉄っぽく赤茶びておりました。天然のものか人工的なものかは分かりません。

以下、古宮城の全景。木々に覆われていて、遠目からは全体像がよく分かりません。

案内パネルによると、武田家(馬場信房)の造成にかかる城のようです。長篠合戦(1575年)の前哨戦(1573年)のような形で落城しているようです。長篠合戦だけ切り取って見ると武田家が徳川領に侵攻してきたように見えますが、奥三河の情勢を鑑みると、奥平家の動向が絡んで、話はそれほど単純ではないわけですね。

古宮城の南斜面は、現在は白鳥神社になっています。ここから城内に攻め上ります。

木立に邪魔をされているのは残念ですが、だからこそ堀や土塁などの遺構の保存状態は極めて良く、観察のしがいがあります。本丸への虎口周辺には何重にも土塁が築かれていて、なかなか壮観です。さすが続百名城に選出されるだけのことはあります。

虎口脇の大楠の木は、現在は朽ち果てていますが、戦国時代にはまだ健在だったでしょう。当時、この大木の存在を活かして門を構えていたことを想像すると、なかなか凄い虎口です。

本丸周辺は、何重にも堀と土塁が築かれていて、圧巻でした。

土塁と堀が迷路のように張り巡らされていて、歩いていると方向感覚を失います。木立のせいもありますが、まるで全体像が見えません。諏訪原城を思い起こさせるような、テクニカルな作りのように思いました。

テクニカルで広大な古宮城と、コンパクトながら整備が行き届いて見学しやすい亀山城がセットで楽しめて、作手盆地は城マニアにとっては外せない場所ということで間違いないでしょう。(2018年3/16訪問)

【栃木県佐野市】関東七名城の唐沢山城は、暑すぎて猫が伸びていた

唐沢山城に行ってきました。関東七名城の誉れも高く、2014年にはめでたく国指定史跡となりました。続百名城にも選出されています。

国指定史跡になる前、2012年にも一度訪れています。そのときはゴールデンウィークで、ツツジが見事に咲いていたのでした。

唐沢山城は、案内板によれば、藤原秀郷が築城したとのこと。

とはいえ、現在の見事な高石垣の姿は、戦国時代の佐野氏によって整備されたものでしょう。上杉謙信の猛攻を何度も耐えた城として知られています。関東戦国史を語る上で絶対に外せない城です。

縄張図を見るだけで、固い城だということが分かりますね。現地に行くとよく分かるのですが、平野の端にいきなり断崖絶壁が屹立しており、まさに天然の要害といった趣です。関東平野の北端に位置し、戦略上も極めて重要なところです。

さっそく虎口から城に入りましょう。駐車場からすぐ虎口が見えます。

実に見事な食い違い虎口です………ん? 虎口の脇になにやら白い物体が見えますが。

どうやら猫が二匹倒れていたようです。

生きてます。ただ伸びているだけでした。
この日の佐野は、気温38.7度を記録する大変な猛暑でありました。やる気が出ないのは分かります。しかし、どう見ても「警備警戒中」とは思えない、ダラけた姿です。

起きる気配のない猫を虎口に残し、東方向、本丸へと向かいます。現在は神社の参道として整備されています。途中で何か寝てますけどね。

西側から三の丸に入るところには、立派な堀切があります。「四つ目堀」と名前がついています。

三の丸と二の丸の南側には、神社に向かう参道が整備されています。当時は帯曲輪だったのかなあ。現在は「風鈴参道」ということで、たくさんの風鈴が並べられています。

気温は38度ですが、木陰で風鈴の音が鳴ると、なんとなく涼しく感じます。

この参詣道を進むと、直接本丸に行くことができます。やはり虎口から本丸に直通することは考えにくいので、戦国時代当時の道ではなく、後から整備されたのでしょう。
本丸には唐沢山神社が鎮座しております。

唐沢山神社の祭神は、藤原秀郷公です。佐野市には秀郷の墓もあるようです(未訪)。

本丸は中世山城らしく、こぢんまりとしています。なんとなく後詰めの城という趣ではあって、従来の居館は麓にあったような気もするところです。

神社の境内は、なかなか清廉な雰囲気が漂っております。

本丸境内でも風鈴が爽やかな音を奏でていました。

本丸の南西側には、たいへん立派な石垣が組まれています。

関東戦国期の城で、これほど立派な高石垣を見ることはほとんどありません。他には八王子城か金山城くらいでしょうか。

二の丸から西に本丸を見るの図。今は神社本殿への参道として整備されていますが、かつては虎口等が整備されていたのでしょうか。

二の丸から本丸の高石垣を臨む。

実に見事です。国指定史跡になるのも、頷けます。

虎口まで戻って、南側の天狗岩に登ります。

天狗岩からの眺望は、実に見事です。

唐沢山城が関東平野の北の端に位置していることが、よく分かります。何も遮るものがなく、遙か彼方まで見晴らすことができます。空気が澄んだ冬なら、新宿のビル群まで見えるようです。いやあ、絶景。

しかしそんな見事な眺望も、ニャンコどもにはまったく意味がないのでありました。人間が近寄っても、ぴくりともしません。だらしないなあ。

駐車場脇のレストハウスでソフトクリームをいただき、焼き付けるような日差しの中を下山するのでした。空気が澄んだ季節に、また来よう。
(2019年8月訪問、2012年5月訪問)

【宮城県白石市】片倉小十郎と真田幸村の墓が白石城の西にある

 白石城は、残念ながら100名城には漏れてしまいましたが、続100名城に選出されております。その名に違わず、復元された三重櫓など、たいへん堂々として格好いいお城です。

 三階の花頭窓がとてもオシャレであります。

 大手一の門も復元されていて、奥の三重櫓と並べて見ると、とても格好いいです。
 本丸御殿はありませんが、かつての勇姿はヴァーチャルで復元されております。

 築地塀の中、いっぱいいっぱいの建築物ですね。

 復元された三重櫓は、中に入ることができます。
 江戸時代の図面どおりに復元されており、階段がとても急です。天辺から見下ろすと、白石の町を一望できます。けっこう高いところに建っているのが分かります。

 暑い日でしたが、三重櫓の天辺に吹き抜ける風は清々しかったです。天上の梁の様子も観察できて、大満足です。

 二の丸の方は、現在は公園や野球場として整備されています。

 二の丸には地元の大横綱「大砲」の像が建っています。肩越しに三重櫓の勇姿。

 二の丸から西に向かって20分ほど歩くと、片倉小十郎と真田幸村の墓があります。

 廟所駐車場の入口にある「あたご茶屋」には、各種真田幸村グッズが取り揃えられておりました。ファンが訪れるのでしょうか? 私はソフトクリームとコーヒーをいただきましたが、コーヒーにはオマケで花林糖がついてきました。

 駐車場から階段を登り、墓地の一番奥に片倉小十郎歴代御廟があります。片倉家の歴代当主はみんな小十郎を名乗っているんですね。

 案内板を見ると、白石の人々もやはり明治維新で苦労しているようです。

 諸行無常、静かに合掌。

 片倉家御廟から真田幸村のお墓までは、残念ながら山の中の道は繋がっていません。一度駐車場まで降りて、一般道を西に向かいます。
 幸村のお墓だけあるのではなく、正式には「田村家の墓」の中の一つが幸村のお墓です。

 幸村の娘が田村家に嫁いだ縁で、幸村もこちらで慰霊されることになったわけですね。

 墓所は、けっこう林の奥に踏み入った場所にあります。

 こちらが幸村の墓石です。ほとんど加工されていない墓石の、その簡素さに、むしろ心を打たれます。
 ちなみに墓石の左前方に据えられた石碑には、「二代片倉小十郎重長公後室御父眞田左衛門左源幸村御墓」と刻まれています。左の列は欠けていて読めない文字がありますが、元和元年五月七日戦死とあるのは読めますね。で、「信繁」ではなく「幸村」となっているところが、多少気にかかります。明らかに墓石とは作られた年代が違っているように見えるので、後世、何らかの事情でこうなったであろうことが推測されるところではありますが、詳しい事情はまったく分かりません。

 諸行無常、強者どもが夢の跡、掌を合わせて白石を後にするのでした。
(2018年9月訪問)

【新潟県村上市】村上城の石垣に大興奮し、鮭に舌鼓を打つ

村上城は続百名城に数えられている、素晴らしい城です。

村上城の地政学的な位置は、とても重要だと思います。新潟平野の北端に位置して庄内への連絡口であると同時に、米沢から日本海側に抜けるときに必ず通るポイントになります。江戸時代には榊原家や本多家など譜代大名が配置されており、庄内の酒井家と共に米沢の上杉家に対する最初の抑えとして期待されていたように思います。

西側の旧城下町から村上城を臨むの図。別名臥牛山と呼ばれている山塊が横たわっています。日本海岸からしばらく平らな土地が続いていますが、ここでいきなり絶壁が盛り上がる地形になっており、城を築くならここしかないだろうというポイントになっています。

山の麓にある石碑。

案内板。

軍事施設は山の上にありますが、藩主の普段の生活は、山の麓にある居館で営まれておりました。

さて、山麓の藩主居館からいよいよ山に登ります。いきなり重厚な石垣が現れて、期待が膨らみます。

麓から山を登り切ったところにある案内板。山の北側から南に向かって曲輪が連なっています。いわゆる連郭式と呼ばれる構造になっています。本丸の東と西と南が断崖絶壁になっていて攻撃される可能性が極めて低いので、北側の防御を厚くすればいいという発想です。

御鐘門から二の丸に入ります。石垣がクランク式に組まれており、敵の侵入を阻みます。「虎口」と呼ばれています。かつては石垣の上に櫓と長屋門が組まれており、鉄壁の防御を誇っていたことでしょう。

二の丸を南に進むと、本丸を防御するための巨大な石垣が現れます。山の上にこんなに大量の石を運んだことに驚きます。実に立派な石垣です。当時はこの上にさらに築地塀が築かれて、侵入者を阻んでいたことでしょう。

こういうふうに立派な石垣が組まれたのは戦国時代が終わる頃のことで、戦国時代真っ盛りの時期には土だけで組み立てられていました。村上城はそういう戦国時代の作りも観察することができる、素晴らしい史跡になっています。特に本丸東側斜面は比較的緩く、堀や曲輪を築いて防御を固めていた様子が分かります。

永禄11(1568)年に、村上城に立て籠もった本庄繁長を上杉謙信が攻めていますが、300日籠城してついに落城しませんでした。石垣がなくとも、極めて防御の固い要害であったことが分かります。近世に造られた石垣も立派ではありますが、実際の戦闘で機能していたのは土の城だったわけです。

いよいよ本丸に入ります。虎口も重厚な石垣で防御を固めています。

上から見た虎口。本来はここに櫓が建っていて、本丸に侵入しようとする敵に睨みを効かせていたはずです。

天守台。落雷で消失してから再建されることはなかったそうです。

本丸から西を臨むと、城下町の向こうに日本海まで見晴らせます。天守閣があったら、もっといい眺めだったことでしょう。

さて、山から降りて城下町を散策します。かつての城下町には「郷土資料館おしゃぎり会館」という歴史博物館があります。こちらは村上城の模型や武具類の展示が充実しているほか、村上城にまつわる戦いの様子がかなり詳しく解説されています。上杉謙信の攻撃に耐えた籠城戦や、戦国後期の庄内平野をめぐる攻防、さらに幕末戊辰戦争の帰趨など、地元博物館ならではの詳細な解説は見応えがあります。

資料館には、村上藩の武家屋敷・若林家住宅が隣接しています。かつての武家屋敷としての味わいが深いのは当然として。

ここにしかない見所は、干してある鮭でしょうか。江戸時代に藩の財政を救うほど、鮭は村上の名物となりました。武家屋敷に鮭が吊してあるところが、村上を象徴する光景なわけですね。現在でも、一人あたりの鮭消費量で村上市は日本一だそうです。

ゆえに、側溝の蓋にも鮭が描かれています。

もちろん、マンホールの蓋も鮭のデザインです。

そんなわけで、街中にも鮭料理を売りにしているお店がたくさんありました。鮭とイクラの親子丼を美味しくいただき、瀬波温泉の湯も堪能して、村上を後にするのでした。
(2014年6月訪問)