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【福島県会津若松市】ハカマイラー:斉藤一、蘆名盛氏、柴四朗、柴五郎、西郷頼母

会津若松には、ゆかりの人物のお墓がたくさんあります。最近は、歴史上の人物の墓参りをする人が増えていて、「ハカマイラー」などとも呼ばれたりしております。

まずは鶴ヶ城から西北方面にある、七日町の阿弥陀寺へ。

新選組三番隊隊長・斉藤一のお墓があったり、近くに会津新選組記念館があったりして、新選組ファンが訪れるお寺です。

案内板によると、他にも戊辰戦争の死者が埋葬されています。案内板に「新政府軍」ではなく「西軍」と書いてあるのが、趣深いところではあります。
訪れたのがちょうど秋のお彼岸の時期だったので、境内は戊辰戦争慰霊モードになっておりました。

斉藤一は、戊辰戦争後に藤田五郎と名前を改めております。お墓も、藤田家之墓となっております。

斉藤一の生涯を説明する案内板。壮絶な人生で、新選組の中でもファンが多い人物ですね。

続いて、鶴ヶ城東方面の小田山山麓にあるお墓へ向かいます。まずは蘆名家累代の墓へ。

蘆名家花見ヶ森廟は、現在は住宅地に囲まれて少し分かりにくいところにあります。

蘆名家花見ヶ森廟。

案内板では「葦名」になっています。シールを貼って修正しているから、「蘆名」を「葦名」に変えたのでしょうかね?

16代盛氏の墓。蘆名家は鎌倉期から会津を400年支配した名族ですが、今では忘れ去られてしまっております。強者どもが夢の跡です。

蘆名家累代の墓から小田山の山の中に分け入って、柴四朗と柴五郎兄弟の墓へ向かいます。

山の中。

柴四朗は東海散士の筆名で書いた「佳人之奇遇」が有名です。中身は、今読むとなかなかのトンデモ本で、いろんな意味でおもしろい本です。柴五郎は、会津藩出身初の陸軍大将となる人物で、義和団事件などで活躍しています。興味深い兄弟です。

柴四朗の墓。訪れたときは秋のお彼岸だからかどうか、新しいお花が飾られておりました。

柴四朗が書いた「佳人之奇遇」は、現在では山本八重との関連でよく知られているかもしれません。鶴ヶ城三の丸に山本八重の銅像があり、そこに添えられた案内板には「佳人之奇遇」の挿絵が載せられています。小説そのものでは八重の名前は伏せられていますが、「烈婦」として描かれた人物が八重であったことは間違いないと思われます。これに関しては、こちらの記事「残す月影」が素晴らしいですね。
まあ、「佳人之奇遇」そのものの話の筋は八重とはまったく関係なく、荒唐無稽の部類に入ってしまいそうではありますが。

近くにある柴五郎の墓。人格も立派であったと伝えられています。会津藩出身で陸軍大将にまで昇るのは大変だったろうと思います。

小田山山麓を南下して、善龍寺に向かいます。ここには、戊申会津戦争時に会津藩の家老を務めていた西郷頼母と家族のお墓があります。

二十一人之墓。

ここでも案内板には「新政府軍」ではなく「西軍」と書かれておりますね。西郷頼母の家族と親類あわせて21人が自刃したことが説明されています。

鶴ヶ城追手門の北に西郷邸址の石碑が立っております。ここで21人が自刃したのですね。

案内板によれば、西郷の家族親類だけでなく、230人が自刃したと書かれています。「八重の桜」では大山巌が目撃したように描かれていましたが、史実では別の人物が目撃しているはずですね。

西郷頼母本人のお墓は、実に小ぶりで慎ましやかなものでした。

案内板では、西郷が和平論者であったことが強調されています。それ自体はいいとして、白河城の戦いがあまり褒められたものでなかった感じは否めません。

境内には「なよたけの碑」が建てられています。西郷の妻・千重子の辞世の句にちなんだ石碑です。

名前が分かるだけで233人の婦女子が自刃したそうです。

「なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節の ありとこそきけ」。この歌の精神自体はとても立派なことは間違いないと思います。
ですが、200名以上の婦女子が自刃するに至った経緯自体は、さほど立派なこととは思えません。どうして城に入れなかったのかとか、そもそもどうして同じ日本人同士の戦いであるにも関わらず「死を選ぶ」という発想に陥ってしまったのかとか、様々な問題が横たわっているように思います。女子が死を選ぶということは、日本人同士の戦争時に極めて野蛮な行為(死ぬこと以上の屈辱)が横行していたことを示唆するわけですから。

仏さんに手を合わせて、平和な時代に生まれたことを感謝しつつ、会津を後にするのでした。
(2014年9月訪問)

【福島県会津若松市】小田山城の跡には新政府軍砲台の跡がある

鶴ヶ城から東南東に1.5kmほど行ったところに小田山という山があり、峰の上に小田山城が築かれておりました。

小田山城は戦国期まで会津を治めていた蘆名家の城です。現在は戦国時代風の冠木門が復原されて、雰囲気が出ています。

案内板によれば、黒川城(現在の鶴ヶ城の位置にあった)の詰城として機能していたようです。

冠木門には蘆名の幟も翻って、なかなか雰囲気を醸し出しております。こういう復元は楽しいですね。

曲輪は会津松平家の家老の墓所として整備されていて、堀や土塁など城の痕跡はあまり残っていません。

ほぼ、ただの山登りになっております。

本曲輪に立つ。堀や土塁は確認できませんが、まあ、明らかに人の手が入った平らな場所が曲輪として機能していたことは明らかではあります。

さて、小田山の山腹には、戊申会津戦争で新政府軍が鶴ヶ城を砲撃した砲陣跡がそこかしこに残されています。

案内板によれば、佐賀鍋島藩のアームストロング砲が、上野彰義隊戦争に続いて大活躍したようです。

砲台跡から鶴ヶ城を臨むの図。天守閣が丸見えで、撃ちたい放題だったでしょう。

案内板には、「西軍」と書いてあります。「新政府軍」と書きたくなかったのでしょうか。行間から無念さが滲み出ています。

訪れた2014年秋は、2013年に放映された「八重の桜」の余韻が残っておりました。

彼岸花の向こうに、鶴ヶ城天守閣が丸見えです。訪れたときは秋風が爽やかで、幕末の動乱があったことなど微塵も感じさせない美しい小田山でした。
(2014年9月訪問)

【福島県会津若松市】幻の神指城の近くには、斉藤一本陣や中野竹子殉節之地がある

神指城跡は、JR会津若松駅から西に5kmほど行ったところにあります。

会津の城というと普通は真っ先に鶴ヶ城を思い浮かべるはずです。ですが、城マニアとしては、会津の城として神指城は絶対に外せません。「幻の城」としてあまりにも有名なのです。一般にはちっとも知られていませんけれども。

というわけで、神指城の本丸跡へ。現在はただの原っぱになっています。とても平ら。

地図を見ると、神指城が会津盆地のほぼド真ん中にあることが分かります。現在の鶴ヶ城が盆地の南東側に寄っているのと比較すると、その地政学的な意図が極めて明らかになるように思います。戦国時代の合戦重視の山城ではなく、領国経営のための政治経済的拠点として、城下町を含む都市経営が重点に置かれていたと思われるわけです。

が、今はただ広大な空き地が広がっているだけです。城の資材は全部鶴ヶ城建設のために再利用され、持ち去られたと思われます。

神指城をアピールする幟が、かつて城があったことを窺わせてくれます。

本丸跡も荒れ放題。

城跡にあった案内板には、CGで神指城の完成予想図が展示されていました。凄いことになっています。まあ、姫路城に匹敵するような城を想像するなら、あながち的外れとも言えないようには思います。

案内板の説明によると、関ヶ原に絡んで城の命運が尽きたことが分かります。

わずかに土木工事の痕跡が認められるような感じです。

本丸から北東の方に「高瀬の大木」という場所が整備されています。こちらは二の丸北東隅の土塁にあたる場所のようです。

地図で見ると、神指城の広大な縄張が分かります。

本丸の石垣造営のために運ばれた巨石が、こちらに移動して並べられています。

神指城二の丸北東付近から東方向を臨むの図。広々としています。山並みが近くに迫っていた鶴ヶ城からの眺めとかなり異なって、神指城が会津盆地のド真ん中に位置することが実感できます。

高瀬の大木付近の案内板では、昭和22年当時の空撮画像があって、神指城の土塁跡が見事に残っていることが確認できます。デカいなあ。

そして神指城本丸の南西隅には、新撰組の斉藤一が本陣を構えた如来堂があります。

「新選組殉難地」の石碑が残されています。

案内板によれば、土方歳三が函館まで転戦したのに対して、斉藤一は会津降伏後も残り、苦渋を共にしたようです。斉藤一と会津というと、『SHIDO』というマンガ作品を思い出しますね。

如来堂の建物自体は、新選組の提灯と共に、ひっそりと残っています。

神指城本丸から東に1km弱ほどのところに「中野竹子殉節之地」石碑が立っています。

戊申会津戦争の際に、長刀で戦った娘子隊(じょうしたい)の一員だった中野竹子の顕彰碑です。

薙刀を構える中野竹子の石像も建てられています。

案内板。会津戦争では、婦女子まで戦いに出る総力戦になっていたことが伺えます。壮絶な覚悟で戦地に赴いた竹子は、生け捕りにしようと迫る新政府軍を寄せ付けない奮闘を見せ、痺れを切らした新政府軍が遠巻きに放った銃弾を額に受けて戦死したとも伝えられています。

竹子たち侍の娘たちの奮闘はすさまじかったわけですが、実際には会津のために命を賭けていたのは武士階級だけであって、搾取される側だった農民たちが無関心であったことは各種資料から分かっています。会津戦争では、身分制の限界もあからさまになったと言えます。

晩夏の太陽が照らす顕彰碑からは、日本人同士で殺し合った殺伐とした当時を思うことはまったくできません。
(2014年9月訪問)

【福島県会津若松市】会津藩校日新館、ならぬことはならぬものなのか

「日新館」は、藩校です。
藩校というのは江戸時代の学校ではありますが、現在のように誰でも通える学校ではなくて、武士しか行けなかった学校です。農民が藩校で勉強することができないのはもちろん、武士の内部でも身分によって扱いに差が出るのは当然のことでした。
そして江戸時代の教育に関して一般的にあまり理解されていないのは、江戸幕府が日本全国に統一した教育体制を敷いていたわけではないということです。実際には、各藩が人材養成のために独自に教育を行っていました。(幕府から独立して行っていたのは教育だけではありませんが)

そして会津藩の「日新館」は、教員採用試験にも出てくるレベルの重要な藩校です。上の写真は、日新館に入る南門。

案内板には日新館の概略が説明されています。実はもともと今の場所にあったのではありません。本当は鶴ヶ城の近くに建っていたのですが、現在は場所を移動して復原されています。

会津藩校日新館が有名なのは、「什の掟」があったからです。「什」とは仲間という感じの意味です。ここで「弱い者をいぢめてはなりませぬ」という掟が定められており、現代のいじめ問題を考える際のヒントとして引用されることがあります。

ただ、「ならぬことはならぬものです」という強い掟が、後に会津藩の融通の効かなさの原因となり、幕末の悲劇に繋がってしまったかもしれません。なかなか難しいものです。

門の脇には、山川健次郎の銅像が建っています。

山川健次郎は実に立派な学者でした。専門の物理学で業績を残しただけではなく、東京帝国大学の総長として高等教育の世界でも活躍し、さらに幕末には国賊とされた会津藩の復権にも奔走しています。

さて、南門から日新館の中に入り、戟門の中から北側を臨むと、中庭の向こうに大成殿が見えます。大成殿の右奥はるか彼方に磐梯山が見えます。

案内板にもあるように、大成殿は儒教の祖である孔子を祀る宗教施設です。「學」の校というものが、現在のように単なる知識伝授の施設ではなく、本質的に宗教的な施設であったことを象徴する建物と言えます。

大成殿の内部。孔子像の前には、儒教を代表する宗教儀礼が再現されています。

大成殿は宗教施設であって、そこで儒教は行われません。戟門から東側の長屋で授業が行われていたようです。日新館ではリアルな人形によって授業の様子が再現されています。素晴らしい。まずは「素読(そどく)」が儒教の基礎基本ですね。

天文地理学も学びますが、単に科学的な知識だけでなく、宗教的な「うらない」や「暦」のためにも必須な素養となりました。

知識だけでなく、実践的な礼儀作法も学びます。

儒教という中国由来の学問だけでなく、神道や和歌なども学んでいたようです。「神道寮」の案内板に書いてある「垂加神道」というものが、会津藩や日新館の性格を考える上では重要かもしれません。

垂加神道を提唱したのが、山崎闇齋という学者です。日新館内に石像が建てられて顕彰されています。

案内板には山崎闇齋を「儒学者」と書いていますが、「垂加神道」の主唱者ということは記されていないですね。闇齋が会津松平家初代当主・保科正之に招かれて教育に当たっていることは、なかなか興味深いところです。
垂加神道は強烈な尊皇思想で貫かれており、水戸学等にも影響を与え、幕末には倒幕に繋がる尊皇思想の背景となります。佐幕の中心的存在であったはずの会津藩の出発点に、実は倒幕の種が撒かれていたことは、なかなかの皮肉です。

日新館にはプールもありました。

案内板によれば、日本で初めて造られたプールだそうです。

天文台跡に登って、日新館を見下ろすの図。鶴ヶ城と同じく茜瓦で葺かれていて、とても気持ちのいい空間になっています。本来あった場所だったら、鶴ヶ城天守閣が見えるんですけどね。

日新館敷地内では、自動販売機も日新館モードになっていました。やはり「什の掟」を推しているようで。
現代の教育とはまったく異なる近世の「學」に想いを馳せつつ、日新館を後にするのでした。
(2014年9月訪問)

【福島県会津若松市】飯盛山の悲劇と、不思議な形のさざえ堂

飯盛山は白虎隊が自刃した悲劇の地として有名ですが、会津藩ゆかりの文物が他にもたくさんあります。

飯盛山にある郡上藩「凌霜隊」の石碑。幕末に郡上藩を脱藩した47名が、小山、宇都宮、会津で明治政府と戦っています。会津落城後、生き残った藩士は郡上に護送され、たいへんな目に遭ったそうです。現在では地元の郡上八幡にも、ゆかりの会津にも顕彰碑を建ててもらっていますけれども。新撰組がクローズアップされがちですが、幕府歩兵隊とか中島三郎助とか、佐幕で頑張った人々はたくさんいるんですね。

飯盛山に建つ、会津藩殉難烈婦の碑。会津戦争では、たくさんの女性が犠牲になっています。顕彰碑は山川健次郎が建てたようです。

白虎隊士墓地から少し下ると、おもしろい建物があります。飯盛山中腹にある、さざえ堂です。正式名称は円通三匝堂。
何がおもしろいかというと、三階建ての建物でスロープを上っていくのですが、登る人と下る人がすれ違うことなく、入口から出口まで一本道で行ける構造になっているのです。

中に入ると、スロープが螺旋の形で伸びていきます。

スロープを上って頂上に着くと、来た道を戻る必要はなく、さらに先に進めば降りる螺旋スロープが伸びています。行く人と帰る人が交差しないですむので、渋滞が起こらず、スムーズに参拝ができるという仕掛けです。また、入口から出口まで一本道になっており、重複がない巡礼の道としても優れています。構造はとてもおもしろいのですが、きちんと設計して作るのは大変そうです。
さざえ堂はここ以外にも、日本各地にあります。高橋由一が美術館建設構想でさざえ堂式の螺旋構造を採用したのも思い出されます。

さざえ堂の脇に穴が空いていて、水が流れ込んできています。戸ノ口堰洞穴です。

案内板によると、猪苗代湖から会津盆地に水を引く用水堰です。会津盆地は水がなくて耕作に適していなかったのですが、この用水のおかげで潤うようになったのですね。
で、この洞穴は、白虎隊が逃走路に使ったことでも有名です。

白虎隊士中二番隊は明治政府軍を迎え撃つために滝沢本陣から出陣しますが、激しい攻撃に曝され、いったん退却するために用水堰を利用します。飯盛山から鶴ヶ城を臨んだときに落城してしまったものと勘違いしたのは、連戦と空腹の疲れの上に、用水路の水に浸かった疲労が重なったせいかもしれません。

飯盛山には、白虎隊記念館という博物館が建っています。自刃した20人からはぐれ、一人で退却していた隊員の酒井峰治が愛犬のクマと出会って無事に城に戻るという、奇跡のような話がありますが、その情景が銅像になっています。記念館には酒井の手紙等、白虎隊に関わる文物が展示されています。

飯盛山を下りきった麓に滝沢本陣があります。戊申戦争時には会津藩の大本営として機能しました。白虎隊もここに待機しています。本来、白虎隊は前線で戦うことを想定されていなかったはずで、滝沢本陣で雑用を勤めるために配置されていたのではないかと思われます。が、想像以上に明治政府の進撃が早く(あるいは会津藩上層部の見通しが甘く)、白虎隊出陣の運びとなってしまいます。

本陣には、戊申戦争時の弾痕や刀傷が生々しく残されています。

麓から眺める飯盛山の全景。今は平和な観光地となっています。
(2014年9月訪問)