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【福島県会津若松市】ハカマイラー:松平容保、近藤勇、白虎隊

 会津盆地の東側山麓に点在するお墓をめぐりました。

 会津盆地の奥座敷、南東にある東山温泉の宿を出て、山沿いに北上します。南から順番に、会津藩主松平家墓所→近藤勇墓所→山本家墓所→白虎隊士墓所と続いています。

 東山温泉からほど近く、人里離れた静かな山の中に会津藩主松平家墓所があります。初代藩主保科正之から、幕末に活躍した松平容保までの墓があります。

 松平家墓所から山の中を北に行くと、天寧寺境内に新撰組隊長近藤勇の墓があります。天寧寺はもともと室町期から蘆名家の菩提寺として栄えたようですが、伊達家に攻められてから面影はなくなったようです。

 近藤勇の墓は、実はここだけではなく全国各地にあるのですが、案内板によると、会津の墓は土方歳三によって建墓されたとの伝承があるようです。

 境内の裏手に進みます。

 近藤勇の墓。新撰組のファンの手によるのか、綺麗に掃除されて、花もたくさん飾られています。近くにはコミュニケーションノートも置いてあって、全国から訪れたファンが新撰組に対する熱い想いを書き残しています。

 天寧寺を離れて、さらに山の中を北上すると、大龍寺の境内に山本家の墓があります。2013年の大河ドラマ「八重の桜」でヒロインをなった山本八重が作ったご先祖様の墓所です。

 先祖代々の墓を一箇所に集めたものということで、八重本人とお兄さんの覚馬の墓は京都にあります。

 さらに山の中を北上すると、飯盛山に至ります。幕末に白虎隊士が自刃した場所で、白虎隊士の墓所にもなっています。
 案内板には、新政府が遺体に手をつけることを禁止したと書いてありますが、現在の研究状況では怪しいことになっているかな。白虎隊に関しては、後に創作で付け加えられたエピソードが多く、実態が正確には伝わっていないような感じはあります。たとえば白虎隊が飯盛山で全滅したと思い込んでいる人が多いのですが、実は飯盛山に来たのは白虎隊の内の一部であって、他の隊士たちはその後も一ヶ月間戦い続けています。この案内板にも飯盛山以外の場所で亡くなった隊士のことが記されています。

 飯盛山で自刃した19隊士の墓石。

 19隊士の墓の奥には、飯沼貞雄翁(少年時の名前は飯沼貞吉)の墓があります。

 飯沼翁は白虎隊士の一員として会津戦争に参加し、飯盛山で自刃していますが、近所の人に助けられて後に蘇生しています。

 飯沼翁は戊辰戦争後も1931年までご存命でした。今はかつての仲間たちとともに飯盛山で眠っております。

 さらに奥に進むと、戊辰会津戦争の概略が説明された案内板があります。

 白虎隊士殉難の地には、白虎隊士が鶴ヶ城を臨む石像が建っています。この場所から鶴ヶ城を臨んだわけですね。

 白虎隊士が見たのと同じ場所から鶴ヶ城を臨むの図。鶴ヶ城までは約3kmあります。ここから見たら、連戦と空腹の疲労が重なって、鶴ヶ城が落ちたと思い込んでしまってもしょうがないかもしれません。今はとても平和な光景が広がっています。
(2014年9月訪問)

【福島県会津若松市】鶴ヶ城は茜色の瓦が素敵

 会津若松の鶴ヶ城は、THEお城という佇まいのたいへん立派なお城で、初心者が行っても素直に楽しめると思います。そして城マニアにはマニアなりの楽しみ方がある、奥が深い城でもあります。

 北側から見る天守閣。かっこいい。鉄筋なのは多少残念だけど。茜色の瓦も素敵です。

 南側、南走り長屋から連なる天守閣を見る。かっこいい。青空に茜色の瓦がよく映えます。

 南側、鉄門の下から天守閣を臨む。かっこいい。

 西側、石垣の下から天守閣を仰ぐ。かっこいい。

 案内板。鶴ヶ城というと、やはり幕末戊辰戦争での籠城戦が印象的なわけですが、松平家以前にも長い歴史がありますね。

 天守閣に登って、南側の窓から鉄門を見下ろすの図。長屋と門が組み合わさって、鉄壁の防御です。

 天守閣の中は郷土博物館になっています。訪問した2014年は戊辰戦争150周年を4年後に控え、会津の正統性を強調しようと力がこもった展示でした。映像資料も充実しており、明治新政府の非道ぶりがよく分かるようになっています。

 天守閣内の郷土博物館からの出口は、南走長屋を通った先にあります。なかなか嬉しい構造です。

 天守閣の北東方向に、白虎隊士たちが自刃した場所としてあまりにも有名な飯盛山が見えます。本丸広場では、会津まつりが絶賛開催中です。ちょうど「八重の桜」が放映された直後で、出演者たちも集合し、盛り上がっていました。
 しかし向こうの山の上から大砲の弾が飛んでくるのは、怖いなあ。

 鶴ヶ城の見所は天守閣だけではありません。石垣と堀も実にかっこいいです。高石が木から廊下橋を臨むの図。薩長の攻撃を一ヶ月も阻んだ立派な高石垣です。

 高石垣の上から廊下橋門の跡を見下ろすの図。鶴ヶ城は石垣の上に登ることができて、城マニアにはたまりません。

 北側の追手門跡。石がデカいです。

 石垣の上に登って、追手門跡を見下ろすの図。鉄壁の虎口。かっこいい。

 ところで、地政学的に見た場合、会津若松の重要具合がいまいちピンと来ていません。奥羽全体を押さえようという場合は、会津若松よりも、米沢と仙台が決定的に重要なように見えてしまいます。しかし現実には中世以降に会津若松を押さえた蘆名氏が勢力を誇っているから、交通の要衝として機能していたのでしょう。米沢から新発田に抜けるルートが現実的でなかったりして、いったん会津に出るルートが有力だったんでしょうか。このあたりは、中世交通史をしっかり勉強しないといけないところです。
(2014年9月訪問)

【福島県いわき市】勿来の関は、本当にそこにあったのか?

 勿来関は「なこそのせき」と発音します。

 勿来駅前には源義家の像が鎮座しています。義家が勿来の関の歌を詠んだことで、歌枕としての地位を確立したということです。

 駅から南に1.5kmほどで、勿来の関に着きます。勿来の関にも源義家の像が建っています。

 石畳も整備されており、関所っぽい雰囲気が漂っています。

 案内石盤によれば、古代に設置された奥羽三大関の一つということになっています。

 が、実は歴史学的には、本当に福島県にあったのかどうかも怪しいし、そもそも存在自体すら疑われております。文学以外の行政文書で、関所の存在が確認できないのです。

 現在の歌枕の地位も、江戸時代になってから磐城平藩が観光名所として整備したせいで確立したのではないかと思われます。仙台藩が歌枕として末の松山と沖の石を整備したのも想起されます。

 まあ、なかったと思われていたものがいきなり発見される例もあるので、100%なかったとは言い切れないわけですけれども。

 近くには勿来関文学歴史館という学習施設も建っています。勿来の関にゆかりのある和歌などが紹介されています。昭和的アナログの展示ではなく、かなりお金のかかった立体的でマルチメディアな展示になっており、気合いを感じます。勿来の関がここにあったかどうかが確かではないことも、しっかり説明されております。
 が、想像をふくらませて様々な和歌が詠まれたことは歴史的な事実であり、みちのく情緒が想像される歌枕としての「勿来の関」の価値が下がるということはありません。ガチンコに歴史がどうこうと野暮なことを言うのではなく、風雅に想像を羽ばたかせる「歌枕=ファンタジーの係留地」として愉しむべき場所と言えましょう。
(2014年7/31訪問)

【福島県須賀川市】光の国と姉妹都市になって、ウルトラ兄弟や怪獣たちがいる

 須賀川市に行ってきました。
 M78星雲「光の国」と姉妹都市になっていて、町の中心の松明通り沿いにウルトラ兄弟がいました。

 ウルトラ兄弟勢揃い。お母さんもいます。が、可哀想に、レオとアストラは仲間はずれのようでした。

 怪獣たちもいました。道路を挟んでウルトラ兄弟たちと戦っています。
 しかし、どの怪獣をセレクトするかには、苦労しただろうなあ。バルタン星人を落選させるのは苦渋の選択ですね。ベムスターを選抜メンバーに入れたのは英断な気がします。

 須賀川市役所前にはお父さんがいました。
 東日本大震災で壊れた市役所の建て替え工事が完了した2017年に伺いました。周りはまだ工事中のところが多かったです。

 駅前にはウルトラマンのモニュメント。かっこいい。

 市役所のガラスには、こんなシールも貼ってありました。芸が細かい。

 散歩していたら、住宅展示場にかわいい石のバルタンが。松明通りに並べる選抜メンバーから外れたことに抗議してのことでしょうか?

 駅隣接の観光案内所に、折り紙のウルトラマンと怪獣たち。

 ところで、松明通りにウルトラ兄弟や怪獣たちが立てるのは、実は電信柱がないからなのです。電柱がない代わりに点検ボックスなどがあるのですが、これにも怪獣のイラストが。ガッツ星人!

 レッドキングとか、ベムラーとか、ブルトンとか、マストドンとか。なつかしい!

 近くには城跡もあります。鎌倉期に作られたらしい岩瀬山城。今は公園として整備されています。須賀川市立歴史博物館で見学した知見によれば、戦国期には二階堂氏と伊達氏の間で攻防戦が繰り広げられていたようです。

 博物館では、亜欧堂田善について知見を深めてきました。ちなみに光の国と姉妹都市なのは、ウルトラマン生みの親の円谷英二の故郷だからです。さて、今後も松明通りに怪獣たちは増えていくのかな?
(2017年9/5訪問)

【福島県白河市】白河小峰城が震災から復興中

 福島県の白河小峰城に行ってきました。以前にも訪れたことがあるのですが、様子はずいぶん変わっていました。まず、白河小峰城のシンボル、三重櫓に入れるようになりました!

 白河小峰城の三重櫓は、秀麗な姿をしています。気品を感じさせます。が、3年前は復興工事中でした。下の写真は2014年9月に撮影したものですが、白河駅から工事中の様子が見えます。三重櫓を工事用足場がすっかり囲み、巨大クレーンが作業しています。

 しかし3年経ち、見事に三重櫓復活。白河駅のホームからも、その勇姿を拝むことができます。

 うん、素晴らしい。
 が、まだまだ復興の道のりは遠いようです。訪れた時も、各所の石垣を積み直しているところでした。完全復活まで、あと半年はかかるようです。

 本丸から北側を見ると、石垣の斜面に足場を組んで、巨大なクレーン車が石を積み上げているところが見えました。今も復興作業が続けられている様子が分かります。

 城の北側には水堀もよく残っています。たくさんのおじさんたちが釣りを楽しんでいました。水堀越しに見る三重櫓も、かっこいいですね。

 城の東側の丘陵には、戊申戦役で亡くなった薩摩藩士の墓がありました。

 白河口の戦いは、大激戦でした。明治政府軍の死者も多かったようです。
(2017年9/5訪問)

 さて、今回は訪れなかったのですが、3年前には少し離れたところにある白川城にも行ってきました。白河小峰城は平山城ですが、白川城は山城です。本丸までは、ほぼ、ただの山登りになります。中世の城跡で、堀や曲輪の跡などを良好に観察することができます。

 が、地震の爪痕濃く、石碑や墓石が倒れたままになっていました。今はもう復旧しているのかな。

 南湖公園にも足を伸ばしました。

 が、南湖公園(江戸時代に作られた日本初の公園)の畔、南湖神社(御祭神は松平定信)の石碑や墓石も地震で倒れたままになっていました。こちらも、今は直っているのかな?

 白河藩主松平定信もびっくり。

 南湖神社に訪れたのは、大鳥居が復旧した後でした。いろいろなところを順番に直していっているのですね。3年前には宝物館は閉まっていましたが、今は再オープンしているようです。また行かなくては。

 小峰城のほうは、とても素晴らしい状態で復興されていました。鉄筋コンクリートではなく、木材で温かみのある作りになっています。

 お城の復興と言えば熊本城にスポットが当たる昨今です。熊本城の復興も心待ちにしていますが、福島のたくさんのお城が大打撃を受けて、現在進行形で復興の努力が続けられていることも広く知ってもらいたいなと思いました。
(2014年9/20訪問)