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【要約と感想】北畠知量『ソクラテス-魂の教育について』

【要約】ソクラテスの言う「魂の教育」とは、自分自身が抱える矛盾と葛藤を俯瞰的に見ることができる第三の自分に対して、ふさわしい行動を判断する根拠となる「規範知」を与えることです。

【感想】ズバズバと分析的に物事を切り分けていく態度に特徴がある。時には「大丈夫かな?」と思えるくらい、スパッと単純に割り切っている。本書の良さでもあり、怖さでもある。

まあ、だからこそ他の論者が「ああでもない、こうでもない」と思い悩んでいる論点に対して、容赦なく結論を下せるわけで。例えば、エロスとイロニーの関係を表裏一体だとする記述は、興味深い。ソクラテスの美少年愛に対して、他の論者は口を濁すか完全に無視することがあるが、本書では「本当は少年を愛してなんかいない」が「あたかも愛しているように振る舞う」というイロニーとして捉えている。さらにここがソクラテスとプラトンを大きく分ける要点であるとも見なしていて、プラトンの言うエロスは本来のイロニーと分離されてしまっているところがズレていると言う。

他にソクラテスとプラトンの違いは、ソクラテスが「徳の規範」を問題にしたのに対し、プラトンが「徳の概念」を問題にしてしまったところだと言う。となると、本書では明確に主張されてはいないが、もちろん「イデア論」はソクラテスからの大きな逸脱ということになる。

さらに本書が面白いのは、ソクラテスの「魂の教育」が抱える困難について率直にツッコミを入れているところだ。他の研究者は分かっていても指摘しないような、身もふたもない指摘を繰り返している。魂の教育は子供に対しては何の意味もないとか。結局は失敗だったとか。こういう明け透けな物言いの数々は、他の研究に代えがたいオリジナルな価値を持っている。ソクラテスの批判をしたくなったら、自分で言わず、もりもり本書を引用していきたい。

北畠知量『ソクラテス―魂の教育について』高文社出版社、2000年

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」

【要約と感想】ネトゥルシップ『プラトンの教育論』

※プラトン教育思想の全体像を把握したい方は、こちらの記事のほうが役に立つかもしれません→「プラトンの教育論ー善のイデアを見る哲学的対話法

【要約】プラトン『国家』の各所に散らばって記述されている教育論を、一つにまとめて体系的に記述。

【感想】『国家』には幼児期の教育から高等教育まで様々なプログラムが提示されているものの、相互に矛盾していて統一性があるとは言いがたい。これを一つの体系にまとめようという試みは、けっこう誰にでも思いつきそうで、誰にでもできるというわけではない気がする。よくやったなあと。

個人的におもしろかったのは、プラトンが数学について述べている箇所を、大胆に科学全般に敷衍している発想だ。そしてさらに、諸科学を統合するのが「弁証法」の役割とするのは、独特の見解なんじゃないだろうか。諸科学は、なんらかの証明されていない仮説から出発して様々な知見を得るわけだが、出発点となった仮説自体を説明することは不可能だ。仮説は特異点のままで終わる。特異点を解消し、諸科学の出発点となる仮説そのものを乗り越えて「最高の非仮説的な原理へ到達」することを目指すのが弁証法ということになる。

まあ、それはそれでヒルベルトのプログラムぽい徹底した合理主義的な感じなどがとても面白いけれど。ただ、弁証法の体系を科学的論理的に固めすぎていて、相対的にエロスの重要性が低下していくのは気になる。そのあたり、訳者解説のほうはエロスに比重が傾いているのは、ちょっと興味深かった。

R.L.ネトゥルシップ『プラトンの教育論』法律文化社、1981年

【要約と感想】林竹二著作集1『知識による救い―ソクラテス論考』

【要約】アテナイでは、甚大な社会変動に伴って、従来の道徳規範は説得力を失いました。道徳規範の混乱に対する特効薬を示したのがソフィストたちで、彼らは初めて旧来の階級制度を超える普遍的な人間形成を行ったと言えます。しかしソクラテスはそこに根本的な批判を加えます。ソフィストたちは単に教育方法の変革によって事態に対応しようとしていましたが、ソクラテスは道徳の内容そのものを課題とします。そしてソクラテスは一人一人との直接的な対話を積み重ね、魂を向け変えることによって問題を解決しようとします。しかしそれは逆に人々の怒りを買い、ソクラテスの処刑という悲劇によって挫折します。ソクラテスの課題を引き継いだプラトンは、すべての人間に本物の道徳を備えさせることは断念せざるを得ず、習慣と訓練によって身につくような別種の道徳教育を考案せざるを得ませんでした。

【感想】ソクラテスとプラトンの関係について、独特の考え方を示しているように思う。個人的には、なかなか説得力を感じる。

まずソクラテスに関しては、バーネット=テイラー説を踏まえた上で、定説に若干の修正を加えている。定説ではソクラテスは自然学を離れて人倫の学を開始した人物ということになっているが、著者が主張するところでは、中年時のソクラテスは本格的に自然学に熱中し、他のソフィストと見分けがつかないと言われても仕方ないような状態にあった。これはアリストファネス『雲』を精査することによって導かれる結論となる。

プラトンに関しては、ソクラテスとの違いが強調される。特に「知識」と「真なるドクサ」の扱いと、それを踏まえた本物の教育(パイデイア)の構想に、両者の違いが浮き彫りになる。ソクラテスが一人一人との直接の対話を通じた魂の向け変えに徹底した一方、プラトンは一般大衆の教育可能性に対して悲観的だ。プラトンにとってしてみれば、尊敬するソクラテスに処刑判決を下したような無知蒙昧で愚かな一般大衆に、真の知識が身につくなどとはとうてい思われない。愚昧な一般大衆に徳を身につけさせるには、真の知識を呼び覚ますような哲学的方法はなんの役にも立たない。彼らには、政治的な制度の下、習慣と訓練によって暫定的な正しさ(真なるドクサ)を身につけてもらえれば充分だ。こうしてプラトンは、支配者向けの真なる徳と、一般大衆向けの暫定的な徳に、教育を分割することになる。

私としても、「真なるドクサ」の扱いに関して、ソクラテスの原則からの逸脱を感じていたわけだが。これまで見てきた先行研究では、この「真なるドクサ」に対して原理的なツッコミを入れたものを見たことがなかったが、本書のように「真なるドクサ」を教育原理に絡めながら、さらにソクラテスとプラトンの違いに話が及ぶに至っては、感心するしかない。なるほど、と。今後は、ありがたく引用させていただくことにしたい。

林竹二著作集 1『知識による救い-ソクラテス論考』筑摩書房、1986年

→参考:研究ノート「ソクラテスの教育―魂の世話―」

【要約と感想】プラトン『国家』

【要約】「正義」とは何であるかを考えた本です。
国家にとっての正義とは、上に立つべき人がちゃんと上に立ち、下にいるべき人がしっかり下で従っている状態を指します。上に立つべき優秀な人とは、哲学者のことです。同じく、正義の人とは、上に立つべき知的要素がしっかり上に立ち、下にいるべき欲望がきちんと下で従っている状態を指します。逆に、下にいるべき欲望たちが思考や行動を支配した状況を「悪」と呼びます。
哲学者になるためには、感覚で捉えられるようなものは捨てて、思考だけが把握できる対象=イデアを捉えなければなりません。そうしてイデアを把握する哲学者は、正義そのものであり、最高に幸せな人間となります。

【感想】政治学や教育学の、押しも押されぬ大古典。内容に対して私が言うべきことは、ほぼ何も残されていない。

とはいえ、いくつか気になることはある。たとえば、社会契約論について。プラトンは明確に社会契約説を否定している。しかも歴史的に否定したのではなく、倫理的に否定している。社会契約論が本当に仮想敵としなければいけないのは、王権神授説のような代物ではなく、プラトニズムではないのか。

これはもちろん民主主義にも当てはまる。プラトンは民主主義を明確に倫理的な意味で否定している。しかも民主主義の根幹である「多様性」そのものを倫理的に否定する。プラトンは、単一性や単純性や純粋性といった「自己同一性」を最大の根拠として、民主主義の多様性を倫理的に非難する。この単一性や単純性や純粋性といった観念は、現代では民族の単一性・単純性・純粋性という「ナショナリズム」の形で先鋭化している。民主主義が本当のラスボスとすべきは、目の前に見えるナショナリズムではなくて、背後に控えているプラトニズムであり、「自己同一性」という概念そのものではないのか。

個人的には、本書は、政治学や教育学の古典であるよりも前に、「自己同一性」という概念が持つ魅惑と恐ろしさを疑いのない水準で浮き彫りにしたところに意義があると思っている。

もちろん教育について無視するわけにもいかないので、それについてはこちらへ。→参考:研究ノート「プラトンの教育論―善のイデアを見る哲学的対話法」

【この理論は眼鏡論に使える】人間の魂を三要素に分割する考え方は、眼鏡っ娘が登場するマンガを分析する際に、大きな理論的武器となる。プラトンは、一人の人間を「知的/勇気/欲望」の3つの要素に分割した上で、知的な部分がほかの部分を従えることこそが「正義」であると主張した。そしてそれは国家においても同様であり、知的な人間がほかの人間を従えるのが「正義」ということになる。それは一つの物語においても当てはまる。一つの物語に登場するキャラクターそれぞれに魂の三要素「知的/勇気/欲望」を割り当てる。すると物語で展開されるキャラクター間の葛藤は、一人の人間のなかで繰り広げられる魂の葛藤と相似するものとなる。そして「知的」な人間が上に立つことが、プラトンによれば「正義」なのだ。知的な人間とは、もちろん眼鏡をかけた者のことである。

*9/22追記
「眼鏡っ娘」がただの「眼鏡をかけた女」とは異なるという事態を、本書は端的に示している。国家の指導者となるべき哲学者を教育するエピソードにおいて、プラトンは数学教育の重要性を説く。そこで彼は「一」を認識することが真理を見抜く知性の土台を作るとして、こう言う。
「もし<一>というものがまさにそれ自体として、じゅうぶんに見られ、あるいは何かほかの感覚によってとらえられるものであるとしたら、ちょうど指の場合について行っていたのと同じように、それは我々を実在するものへと引っぱっていく性格のものではないことになるだろう。けれども、もしそれが見られるときにはいつも、何か反対のものが同時に見られて、一つとして現れるのに少しも劣らず、またその反対としても現れるということになるのであれば、これはもう、その上に立って判定する者が必要となるだろう。」(524d-525a)
プラトンが言う「何か反対のもの」とは、「一」に対して「多」が現れることを意味する。人間は「人間という一」であると同時に、「二つの眼と二つの耳と二つの手と二つの足などなどの多の集合」でもある。我々はどうして人間を「一人の人間」として認識し、「二つの眼と二つの耳と…の集合」としては認識しないのだろうか。これが「一と多」に関わる認識論的問題である。プラトンは様々な物事を「多」ではなく「一」として認識することこそが真理を認識する知性の役割だと言う。知覚だけでは、見えるのは「二つの眼と二つの耳と…の集合」だけであって、ここから必然的に「一人の人間」という認識は生じない。知覚に加えて知性の働きがあってこそ、初めて「一人の人間」という認識が生じる。
これは明らかに、「眼鏡っ娘」を「眼鏡っ娘」として認識する事態を指し示している。もしも単に知覚だけなら、そこにいるのは「眼鏡+娘」という「多の集合」に過ぎず、「一人の眼鏡っ娘」を認識することはあり得ない。そこに「真理を見る知性」の働きが加わることによって初めて「一人の眼鏡っ娘」を認識することが可能となる。逆に言えば、「眼鏡と娘という多の集合」から「一人の眼鏡っ娘」を見抜くことこそが知性の働きであって、真理への道筋ということである。

またプラトンは「一」と「多」についてこうも言う。
「じっさい、君も知っているだろうが、この道に通じる玄人たちにしても、彼らは、<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても、一笑に付して相手にしない。君が<一>を割って細分しようとすれば、彼らのほうはそのぶんだけ掛けて増やし、<一>が一でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心するのだ」(525d-e)
これは、愚かな非眼鏡勢力がしばしば「眼鏡を外した方が美しい」などという馬鹿げた戯言を発することに対する批判である。プラトンが言う「<一>そのものを議論の上で分割しようと試みる」とは、本来は「一人の眼鏡っ娘」であったものを言葉の上だけで「眼鏡と娘という多の集合に分割しようと試みる」ことを意味する。それは極めて愚かな行為であって、心ある眼鏡勢力はプラトンの言うとおり「一笑に付して相手にしない」ことが必要だ。眼鏡勢力が気をつけるべきは、「<一>が一でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心する」ということだ。もちろんこれは、「眼鏡っ娘」が眼鏡を外して「眼鏡と娘の多の集合」に成り下がらないように用心するということを意味する。なぜなら「眼鏡っ娘」という「一」にこそ真理が宿るのであって、「眼鏡と娘の多の集合」には知性のかけらも存在しないからである。そもそも「割って細分」とは眼鏡を否定する暗喩であり、「掛けて増やす」とは眼鏡を肯定する暗喩である。眼鏡を掛けて「眼鏡っ娘を増やす」ということこそ、真理へと到達する道筋なのだ。

プラトン/藤沢令夫訳『国家』〈上〉、岩波文庫
プラトン/藤沢令夫訳『国家』〈下〉、岩波文庫

【要約と感想】桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』

【要約】ルソー特有の矛盾は、ものごとを論理的に突き詰めた末に、論理の限界に突き当たったことに由来する。ルソーを学ぶということは、まずルソーの自己言及の輪に絡め取られることだ。ルソーが「自伝」ジャンルの確立者ということは、そういうことだ。

■図らずも知ったこと=ルソーは「音楽辞典」で、「趣味」とは「理性には眼鏡の役割をする」と言っている。つまり眼鏡とは、理性にとって趣味のようなものだったのだ。

【感想】「自分が主人だと錯覚しながら教師に従う」とか「自由への強制」とか「自分で自分に法を与える」とか、なるほど自己言及性の問題だ。「一般意志」というものも、民主主義的な手続きの問題というより、再帰的な自己というふうに捉えれば、論理的に説明できそう。そしてその論理は自己実現という教育的概念にも反映する。「告白」という自己言及的制度も、そうか。

桑瀬章二郎編『ルソーを学ぶ人のために』世界思想社、2010年