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【要約と感想】アリエス『〈子供〉の誕生』

【要約】むかし、子供はいませんでした。けっこう最近になってから誕生しました。

【感想】「中世の社会では、子供期という観念は存在していなかった。」(122頁)という主張で有名な歴史研究書。センセーショナルな衝撃でブームを巻き起こす一方で、迂闊な反論から緻密な反論まで大量に呼び寄せて、その後の「子ども史研究」の流れをの源流となった、いろいろな意味で必読の先行研究となっている。

 本書のタイトルは「子供の誕生」となっているけれど、丁寧に読んでみると、実際に描かれていることは、もっと根本的な事態だと分かる。アリエスが描いているのは人間世界の根源を揺るがす地殻変動全体であって、「子供」はその変化を最も象徴的に示している指標に過ぎない。

 たとえば「家族」。中世は、身分によって人間同士の関係が網の目のように密接に絡み合っていて、その網の目から明確に切り取られる「家族」という実態および感覚がそもそも考えられない。アリエスは建築様式の変化を辿りながら、「家族」を成立させるプライベートな空間自体が中世には物理的に存在していなかったことを示している。「家族」は特別な組織ではなく、網の目のように絡み合った人間関係の一部分に過ぎなかった。21世紀の現在であれば、「家族」は他の社会関係から切り離された、特別な親密圏としてイメージされる。法的にも、物理的にも、感覚的にも、愛情的にも。しかし家族が社会全体から隔離される条件がなかった中世においては、現在のような親密な感覚や愛情が育まれることなどあり得ない。
 (※現在の家族史研究においては、人口動態データを踏まえれば「核家族」の出現はアリエスの主張以上に早かったはずだ、というのが定説になっている。)

 それから、「労働」とその準備期間。中世においては、人々は労働のための準備期間を特別に設けることなく、いきなり現場に投入されて、実際に働くことで仕事に習熟していった。子供が学校に隔離されることなく、子供と大人が同じ空間(職場など)にいることは当り前の光景だった。中世の「学校」も、子供と大人が同時に存在する空間だった。

 あるいは「遊び」。中世では、大人も子供に混じって同じように遊んでいた。大人になったら「遊び」から卒業という感覚は存在していなかった。子供と大人が同じ空間で同じ仕事をしているために、大人が子供から区別されるべきという意識は生じない。他にも、階級意識とジェンダー規範についても、アリエスはかなりこだわって記述を進めている。このように、家族、労働、遊び、階級、ジェンダーに関わる根源的な地殻変動が記述の対象なのだ。

 ということで、アリエスが言う「子供がいなかった」という主張は、「社会から隔離された家族の中で、労働から解放されて、学校に囲い込まれ、健康と教育に関する細心の配慮がなされる愛情の対象としての子供」がいなかったという主張であって、もちろん物理的に子供がいなかったなどと言っているわけではない。「かつての子供は乳離れするとすぐに社会の網の目に組み込まれ、大人たちと一緒に働き、一緒に遊び、未成熟な家族という弱々しい組織には健康と教育に関する配慮を行う実力がない」という状態を、アリエスは「愛情がなかった」と見なしたのだ。それは「親としての愛」があったかどうかという問題ではない。ここを勘違いする人が多すぎる。まあ、アリエスの表現も軽率だったわけだが。
 (※1990年以降の研究においては、「家族の愛情」という家族内の文脈ではなく、幅広い社会的文脈の中で「子ども」を捉えようという流れが強くなっている。)

 だから、アリエスの仮説が正しいかどうかは、「家族」という組織が社会全体から隔離されて独立した機能を備えた島宇宙となっていく過程が丁寧に描けているかどうかにかかっている。この点に関して、後の研究はアリエスの見解を批判していくことになる。様々な史料が掘り起こされ、多角的な観点が示され、アリエスの主張そのものに対しては大きな修正が必要であることが、研究者の間では共通理解になっている。

 とはいえ、本書が掲げた課題の意義は現在でもまったく失われていないと思う。というか、子供や少年に関して根拠のない妄想と勘違いと思い込みだけで声をデカくしている軽率で迂闊なモラリストが増えてきている現在、本書の意義はますます重要になっているのではないか。教育学に関わる人間は、必読。

フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』みすず書房、1980年

子ども史に関して他に参考になる本

【比較的最近の子供史研究】
カニンガム『概説子ども観の社会史』:アリエスの仕事を相対化する視点が得られる。

【日本の子供史研究】
柴田純『日本幼児史』:かつて日本では子供をあまり大事にしていなかったことが分かる。
斉藤研一『子どもの中世史』:かつて日本の子供が苛酷な環境で生きていたことがわかる。
河原和枝『子ども観の近代『赤い鳥』と「童心」の理想』:日本で近代的な子ども観が成立したのが大正時代と主張している。

【アリエスの研究の影響を踏まえた議論】
イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』:学校制度が不必要であることの根拠として、「かつて子供はいなかった」というアリエスの知見を踏まえて「かつて学校制度などなかった」と主張する。

【要約と感想】カニンガム『概説子ども観の社会史』

【要約】「子ども」という概念および実態が主にヨーロッパと北米でどのように変化したか、先行研究の到達点と疑問点を簡潔にわかりやすくレビューした上で、人口動態史など社会史が積み重ねた実績を睨みつつ、福祉政策など国家レベルの政策にも目配りしてまとめた、論理的枠組が明快な概説本。

【感想】結論をおおざっぱにまとめると、(1)「子ども期」が最も根本的な変革を被ったのは20世紀前半であり、(2)そして現在は「子ども期」が消滅しつつある、という見解となる。

(1)20世紀前半の意義を強調することによって、まずアリエスの言うような近代初頭における変化の意義が相対的に小さくなる。50年前にアリエスが眼前に見ていたのは、まさに大人と子供の距離が極大に遠ざかった時期であった。一方で著者のカニンガムが生きているのは、大人と子供の距離が近づきつつある時代だと言う。研究者の「現在」の視点が歴史研究の態度を決めるというカニンガムの記述は、アリエスの研究をもすでに「史料」と見なして処理しているわけで、ちょっとおもしろい。

(2)また20世紀後半から子どもと大人の距離が縮まりつつあるという見解は、「近代」と「ポストモダン=成熟した近代」の相克と読めば、特に目新しい見解ではない気はする。たとえば「近代」という時代を、理念的には身分制を破壊して自由と平等を称揚しつつ、実質的には白人男性ブルジョワの権利のみを認めた時代だとすれば。そして「成熟した近代」を、白人男性にしか認められていなかった権利が実質的にマイノリティ=女性・労働者・有色人種・植民地・障害者にも与えられた時代だとすれば。人権の普遍原理はもちろん子供にも適用されることになる。カニンガムも指摘するとおり、その具体的な表現は1989年の「子どもの権利条約」に鮮やかに見ることができる。

「大人/子供」という二項対立の境界線の移動を見て近代とポストモダンの違いを強調することにも積極的な意味はあるだろうけれども。一方で、「子供」概念の展開を「人権の適用範囲の拡張」という一元的な過程として把握すれば、実は近代とポストモダンは連続した一つの発展過程として描けるだろうという気もする。というわけで、私は「近代の超克」的な記述に懐疑的な一方、「近代=未完のプロジェクト」という思考法に親和的なのを改めて実感したのだった。

ヒュー・カニンガム著、北本正章訳『概説 子ども観の社会史: ヨーロッパとアメリカからみた教育・福祉・国家』新曜社、2013年

 

【要約と感想】エレン・ケイ『児童の世紀』

【要約】20世紀を児童の世紀にしたいなら、まず大人の責任と女性の立場についてしっかり考えましょう。

【感想】新教育を代表する著作として名高く、教育史の教科書には必ず登場する古典中の古典。しかし実際に読んでみると、教科書の記述とは相当に異なる印象を受ける。

まず「児童」そのものについて書かれている部分が、想像していたよりもかなり少ない。女性解放運動や、労働問題や、宗教批判や、優生学についての記述など、19世紀末の社会問題が全面的に論じられる中で、子どもについての言及が埋め込まれている。逆に言えば、子どもを考えるということが、社会すべての問題を考えることに通じているということでもある。だからこの本を「子ども」そのものだけに特化していると読むと、問題の本質を見誤る。特に進化論に関わる記述は、キリスト教に対する激しい攻撃とも関わって、本書のライトモチーフともなっている。時代背景を踏まえて理解する必要があるだろう。

また、教科書や教員採用試験では、ルソーとの関係で語られることが多いが、実際に読んでみると疑問が残るところだ。むしろJ.S.ミルや、特にスペンサーといった19世紀末の自由主義との関係で捉える方がわかりやすいのではないか。19世紀の自由主義が「白人男性」に対してのみ適用されるものだったとすれば、本書の主張は、それを女性と子どもにも拡大するべきだという主張のように思える。それは「恋愛の自由」や個性尊重への主張に端的に表れているように思う。

「古典」というものは教科書等で知ったつもりになるかもしれないが、本当のところは実際に読んでみないとわからないという典型みたいな本かもしれない。

研究のための備忘録

【個人的備忘録】恋愛の至高性
「恋愛が日常当り前の信念となり、祭日の祈りの献身的態度をとるとき、また、絶え間ない精神の目覚めに守られ、不断の人格向上――古い美辞、「神聖化」を用いてもよいが――をもたらすとき、初めて恋愛は偉大になる。」(32頁)

恋愛至上主義的な姿勢が「人格の向上」という観念を伴いながら浮上してきたことは、記憶されてよいかもしれない。女性が家父長制の呪縛から逃れ、かけがえのない「人格」として独立しようとするとき、恋愛というものに極めて大きな期待がこめられていたことが分かる。

【個人的備忘録】家事の市場化についての予言
「もちろん、醸造やパン焼や屠殺や蝋燭づくりや裁縫が、だんだん家庭から去っていくように、いまのところまだ家事労働の最大部分をなしている多くの労働、たとえば、食事の準備や洗濯や衣類の繕いや掃除などが、だんだん集団化し、または電気や機械の助けを借りるようになるものとわたしは信じている。しかしわたしは、人間の個人尊重の傾向が、非人格的単一型の集団生活へ向う傾向に打克つことを希望している。」(111頁)

「家事」というものは、世間で思われているような雑事ではなく、「いまだ市場化されていない労働」のことだ。という社会学の常識的な考え方が、実はすでにエレン・ケイによって提出されていたことは記憶されてよいかもしれない。そしてエレン・ケイが、家事の市場化傾向に対して「個人尊重」を対抗させたことも。

【個人的備忘録】個性の尊重
「子どもを社会的な人間に仕立て上げる際、唯一の正しい出発点は、子どもを社会的な人間として取扱い、同時に子どもが個性ある人間になるように勇気づけることである。」
「多くの新しい思想家たちは、わたしがすでに述べたとおり、個性について語っている。だが、この人たちの子どもが、他の全部の子どもたちと同じでない場合、または、子どもが自分の子孫として、社会の要求するあらゆる道徳を身につけないとか完成を示さない場合、この人たちは絶望する。」(150頁)
「教育者の最大の誤りは、子どもの個性に関するあらゆる現代の論説とは裏腹に、子どもを「子ども」という抽象観念によって取扱うことである。これでは子どもは教育者の手のうちで成形され、また変形される無機物であり、非人格的な一つの物体にすぎない。」(170頁)
「何が子どもにとって最高のものであるか。ゲーテは答えている。地上の子どもにとって最高の幸福は個性を認められることにつきる」(243頁)

引用した「個性」に関する物言いは、現在ではむしろ陳腐な部類に属するかもしれない。が、このような表現は、この時点ではかなり新しかったように思う。19世紀的な思考形態からは出てきにくい表現のように思う。こういう表現の数々が、本書を20世紀の幕開けを代表するものに押し上げているのかもしれない。

【個人的備忘録】人格の尊重
「時代は「人格」を求めて呼びかけている。しかし、わたしたちが子どもを人格あるものとして生かし、学ばせ、自分の意志と思想をもって自分の知識を得るために働かせ、自分の判断力を養成させるまでは、時代がいくら叫んでも無駄である。一言でいえば、わたしたちが学校における人格的素質の殺害をやめるまでは、人格を生活のなかに見出そうとする期待は、無駄というものであろう。」(295-296頁)

「個性」と並んで、「人格」に関する表現も、実に20世紀的と言える。19世紀的な「人格」の用法とは、ずいぶん異なっているように感じる。ちなみに、これがはたしてエレン・ケイの思想に固有のものか、単なる翻訳の問題に過ぎないかは、私は検討していないので、各自調べていただきたい。

エレン・ケイ『児童の世紀』小野寺信・小野寺百合子訳、冨山房百科文庫 24、1979年