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【要約と感想】エウリーピデース『バッカイ―バッコスに憑かれた女たち』

【要約】テバイの王ペンテウスは、神様であるディオニューソスを認めなかったばっかりに、最後は実の母の手で八つ裂きにされてしまうのでした。

【感想】話の筋自体はご都合主義というか、すべてが神様の都合でコントロールされているだけで、伏線もなにもあったものではなく、ソポクレス『オイディプス王』のような感銘を受けることはない。ペンテウスの強情さも何かしらの世界観や正義観に支えられているのでなく、単なる強情なので、ソポクレス『アンティゴネー』のような読後の余韻もない。悲劇としての出来という観点からは、見るべきものは少ないように思う。

まあ、本書の見所はそういうところにはないのだろう。話の構成とかテーマ性を楽しむのではなく、ディオニューソスという神性のありかたそのものを楽しむための作品のように思う。
色白ですらりとした女性的で優しい面持ちのイケメン神ディオニューソス(イメージ的にはエヴァンゲリオンで言うとカヲルくんのような感じか)は、人間を酔わせ、歌い踊らせ、理性を奪って狂気に導く。ディオニューソスに魅入られた人々(特に女性)は、「エウホイ」と叫びながら山野を駆け巡り、道具を使わずに自分の身体を剥き出しにして超自然的な力を発揮し、火を使わずに生肉を喰らい、個体の輪郭を失って集団の中に溶け込んで一体となっていく。個性的なギリシアの神々のなかにあっても異質中の異質な存在だ。
ディオニューソスのこの反-文明、反-理性的な神性のありかたは後世の学者たちにも大いなる霊感を与えた。特にニーチェがアポロンと比較した論及はよく知られている。
ディオニューソスの性格描写という点において、本作品(あるいは翻訳)は、静かな狂気を湛えていて、味わい深く、秀逸な作品であるように感じた。

エウリーピデース/逸身喜一郎訳『バッカイ―バッコスに憑かれた女たち』岩波文庫、2013年

【要約と感想】ソポクレース『アンティゴネー』

【要約】ポリュネイケースは、祖国テーバイを裏切って戦争を仕掛けましたが、敢えなく討ち死にします。テーバイ王のクレオーンは、裏切り者ポリュネイケースの遺体の埋葬を禁じ、野晒しにします。ポリュネイケースの妹であるアンティゴネーは、クレオーンの命令に逆らい、兄の遺体を埋葬します。クレオーンは自分の命令に逆らったアンティゴネーに大激怒しますが、アンティゴネーは逆にクレオーンを神に逆らう愚か者と責めます。アンティゴネーは死刑となりますが、それは実はクレオーンの破滅の始まりでもあったのでした。

【感想】読後の余韻が深い、傑作だ。
まあ、同作者の『オイディプス王』と比較した場合、筋そのものの見事さに関して一歩劣るように見えてしまうのは仕方がないところだろう。アンティゴネーの婚約者の自死はともかく、母の自死には伏線もなく、唐突感が否めない。クレオーンの破滅も、筋そのものから導き出されるというよりは、彼の「無理解」とか「頑固さ」という性格によるものであり、自分の力で変えようと思えば変えられるものであって、オイディプスのような「運命」に翻弄される類のものではない。まあ、筋自体の出来でオイディプス王と戦おうとする方が無理というものかもしれない。

が、読後の余韻という意味では、オイディプス王よりも味わい深いものがあるかもしれない。というのは、扱っているテーマが普遍的な魅力を持っているからだ。「人の法/神の法」という対立は、現代の問題を考える上でも大きな示唆を与えてくれる。
具体的には、テーバイ王クレオーンは「人の法」を優先した。祖国を裏切った敵に対して、容赦なく苛酷な復讐を加える。彼にとって優先するべきものは国家の秩序や国民の一体感であって、私的な感情は一歩を譲るべきものに過ぎない。だから肉親の埋葬をしたいというアンティゴネーの願いなど、彼にとってはただの我儘に過ぎない。
しかし、確かに「人の法」は生きている者には優先的に適用すべきものかもしれないが、死んでしまった者はもはや神の領域にある。本来神の領域にあるものに対して人の法を適用することは、むしろ不敬な行為に当たる。死者を肉親が弔うことは「神の法」に適うことだ。アンティゴネーは「神の法」を優先し、「人の法」を無視する。
この「人の法/神の法」は、どちらが正しいかという問題ではない。どちらとも正しいのだ。対立する2つの考えの両方ともが正しい場合、どちらを優先するべきかという問題なのだ。本書の結論は、明確に「神の法」を優先すべき事を説いている。それは予言者テイレーシアスの言葉や、クレオーンの破滅に明確に表現されている。「死すべき者」の領域では「人の法」を優先することに問題はないが、「死すべき者」の領域を離れたところでは「人の法」は無力となる。

ひるがえって、現代は正義と正義が衝突し合う世界だ。どちらか一方が明らかに悪なのであれば話は早いのだが、両者とも自分の正義を掲げて一歩も譲らないところに、現代の悲劇が生ずる。ギリシャ時代の悲劇が自分の正義を掲げて一歩も譲らないところから生じたことと、構図はまったく変わらない。正義と正義がぶつかった時に、どのように悲劇を避けるのか。そのヒントは、「人の法」ではなく、「神の法=人種や国籍や性別や年齢などに関係なくすべての人に普遍的に当てはまるルール」にある。そんなことを2400年前の物語から感じとることが出来る。

【今後の研究のための備忘録】

ハイモーン「あなたの仰言ることは正しく、他は間違っているなどと、ただ一つの考え方しかせぬことはお止め下さい。ただ一人自分だけが、分別を弁えているとか、他人にはない弁舌とか気概を持つ、と思いこんでいるような人は、えてして蓋を開けてみると空っぽであるものです。」705-709行

座右に置いておきたい言葉だ。言葉のやりとりの過程で頭に血が上った時には、この箴言を見るようにしたいものだ。クレオーンが陥ったような破滅を免れる助けとなる。

ソポクレース/中務哲郎訳『アンティゴネー』岩波文庫、2014年

【要約と感想】ソポクレス『オイディプス王』

【要約】オイディプスは恐ろしい予言で、将来は実父を殺し実母と交わることになると聞かされたため、その予言を成就させないよう決意し、生まれ故郷を後にしました。そして流れ着いたテバイの町の危機を救い、未亡人の妃と結婚して王となりますが、再び訪れたテバイの危機を救うために先王殺害の真実を知ろうと欲したため、恐ろしい悲劇的な結末を迎えることになります。

【感想】アリストテレスも『詩学』で大絶賛する古代ギリシャ悲劇最大の傑作との呼び声も誉れ高い作品、さすがの読み応えなのだった。徐々に高まっていく緊張感と、すべての伏線が収束した末に出来する一挙の破滅、そして誇り高き主人公であったがゆえに必然的に迎える悲劇的な破滅、読後に胸中に去来するなんとも言いようのない人間の力に対する無力感。何ひとつつけ加えることもできず、何ひとつ取り去ることもできず、いっさい無駄のない完璧な展開には惚れ惚れせざるを得ない。文句なく傑作だ。まあ、改めて私が褒める必要などないのだが。

批評的に読み解くとしたら、ひとつはやはりアリストテレス『詩学』のように「筋」の見事さを分析する視点が有力なのだろう。「認知」がそのまま「逆転」に結びつく展開は、圧倒的な説得力と納得感を生じさせる。美しい。理屈では分かっていても具体的にこのような美しくも説得力のある筋を生み出すのはとても難しいわけだが、1970年代前半の少女マンガにはこういう構造に挑んだ作品がけっこう多いような気がする(個人的には特に一条ゆかりの作品を思い出す)。

そしてもう一つは、「運命」とか「必然性」という如何ともしがたいものに対する人間の「自由意思」の無力さを強調する視点か。人間が「良かれ」と思ってしたことが、ことごとく自分の不幸に結びついていくという皮肉。あるいは、結果が既に分かっているにも関わらず、その結末を避けようと意図して却って自らその結末に飛び込んでしまうという皮肉。アナンケーの女神の前では、ちっぽけな人間の意志など何の意味も持たない。「自由意思」とは何だろうかという形而上の疑問が、本作品の余韻を味わい深いものにする。

そして自由意思に絡んで、人が人を罰することなど本当にできるのだろうかという畏れ。本作では、オイディプス自らが罰を欲したからこそ、自ら罪が発覚した時には自らを罰することを躊躇しなかった。しかしオイディプス以外の人間が彼を罰することなどできないだろう。「罪と罰」の関係に対する形而上的なモヤモヤが、本作の余韻を長からしめる。

まあ、他にも様々な角度からいろんなことが言えてしまえそうな作品だ(たとえば精神分析学者の手にかかれば、人類すべての心理的根源にまで話が至ってしまうわけだし)。懐が深い。

ソポクレス/藤沢令夫訳『オイディプス王』岩波文庫、1967年

【要約と感想】ホメロス『オデュッセイア』

【要約】トロイア戦争に参加した英雄の一人オデュッセウスは、自らの知謀でトロイエを滅亡させることに成功したものの、神々の怒りに触れたために故郷に帰ることができない。一方オデュッセウスの故郷では、愛する妻と子供が無法者たちのために危機に陥っていた。オデュッセウスは10年間の苦難の流浪の末にようやく故郷に帰還し、息子のテレマコスと共に無法者たちを討ち果たし、愛する妻と再会する。

【感想】個人的な感想だけ言えば、『イリアス』よりもこっちのほうが圧倒的に好き。もう段違い。『イリアス』はウンザリしながら「教養のため…」と我慢して読んだけれども、『オデュッセイア』は純粋に夢中になって読めた。
客観的に出来がいいかどうかという問題ではなく、私の個人的な興味関心の有り様に関わっているんだろうけれども。とはいえ、その好き嫌いの理由は、明らかに『イリアス』と『オデュッセイア』の作品の質の違いにも関わっているので、以下、どうして好き嫌いが生じたのか、理由は分析しておく。

(1)『イリアス』は主人公がアホすぎるが、『オデュッセイア』は賢い
まず、私はアホな登場人物が嫌いだ。『イリアス』の主人公であるアキレウスの低脳ぶりには目を覆うばかりだ。低脳だけならともかく、残虐で短慮で浅はかで自分勝手でマザコンという、もはや人間のクズと言っても過言ではない、酷い主人公だ。
一方オデュッセウスは、慎重で賢く、しかも勇気がある。主人公として共感できる資質の持主なのだ。感情移入しやすいキャラクターという点で、アキレウスよりもオデュッセウスのほうが圧倒的に優れている。

(2)テレマコスのキャラクターが素晴らしい
『オデュッセイア』ではオデュッセウスの息子テレマコスがもう一人の主人公として大活躍するのだが、このキャラクターが素晴らしい。純真で清々しく、健気で若々しい。こういう素直に応援したくなる若者は、『イリアス』には一人も登場しない。テレマコスが徐々に男らしく成長していく姿は、読んでいて実に気持ちがいい。ルソー『エミール』にはテレマコスにハマって婚期を逃す女性のエピソードが語られるが、分かる気がする。こんな男性を理想像としていたら、そりゃあ現実の男性に魅力を感じることはないだろう。

(3)「遠山の金さん」あるいは「水戸黄門」的なおもしろさ
オデュッセウスは自分の正体を隠して故郷に帰還し、自分の家で乱暴狼藉を働く無法者たちの悪行を自分の目で確かめた上で、最後に正体を明かし、ばったばったとやっつける。その爽快さたるや、これぞエンターテインメントの真骨頂だ。その痛快活劇のあり方は、「遠山の金さん」や「水戸黄門」の面白さと完全に同じだ。高貴な自分の素性を隠している間は悪者たちに侮られ続けるが、いざ正体を明かしてからは完全無双状態。裏切った女中たちが12人並んで首を吊られるところなんかは、まるで必殺仕事人。痛快極まりない。

(4)そもそも戦う理由に共感できる
『イリアス』が酷いのは、そもそも戦う理由が意味不明なところだ。どうしてアカイア勢とトロイア勢が戦う必要があるのか、わけがわからない。立派な人間がわけのわからない理由で次々と殺戮されていく描写が延々と続き、ゲンナリとする。かわいそうすぎて、見てらんない。特にアキレウスが戦う理由は私利私欲と私怨でしかないのだから、どれだけ活躍しようと、いや活躍すればするほど「死ねよ」としか思えない(まあ、ほんとに死んじゃうんだけど)。
が、『オデュッセイア』では、オデュッセウスとテレマコスが戦うのは「家族の絆」のためなのだ。家族の絆を守るために傍若無人な無法者と戦うのだから、戦う理由に正当性がありすぎる。特に健気なテレマコスには、無条件に「がんばれ」と応援したくなる。

まあ、『イリアス』と『オデュッセイア』の作劇上の違いについてはアリストテレス『詩学』が相当つっこんで議論しているところだけれども、以上書き連ねたのは客観的な作劇上の問題ではなく、あくまでも個人的な感想が生じる理由についての分析でありました。

ホメロス『オデュッセイア(上)』松平千秋訳、岩波文庫、1994年
ホメロス『オデュッセイア(下)』松平千秋訳、岩波文庫、1994年

【要約と感想】ホメロス『イリアス』

【要約】いまから3000年以上前のことですが、ギリシア連合軍が小アジアにあったトロイエという町を攻め落とした戦争のうち、お互いの陣営が誇る最高の武将が一騎打ちをするまでの経緯を描いた物語です。
 他にもたくさんの一騎当千の武将たちが縦横無尽に戦場を駆け巡り、たくさんの兵士たちが無残に殺されていきます。

【感想】まあ、率直に言って、ひでえ話だなあと。とても人に奨められる話ではない。特に女性と子供には読ませたくない。女性が読んだら怒り心頭に発して話の筋を追うどころではなくなるのではないか。女性をモノとして扱うことになんの躊躇もない登場人物たちの言動には唖然とするしかない。また残虐表現が酷すぎて子供に見せたくなくなる。北斗の拳劇場版ですら児戯に見えてしまうほど殺し方の描写がむごたらしい。それに最大の英雄であるはずのアキレウスが愚かすぎて、話にならない。愚か者の見本市のように、バカしか出てこない。そもそも戦争の始まった経緯も馬鹿馬鹿しいし、戦争が止められないのも馬鹿馬鹿しいし、ときどき人間界に介入する神々の愚かさ極まりない身勝手な行動と言い分には吐き気すら催す。
 まあ、女をモノとして扱って恥じないのも残虐極まりない殺人描写も、作者に悪意があるわけではなく確かに時代のせいではあるだろうが、それを認めた上で、ともかく現代の人間たちにとって読む必要のある物語ではない。今となっては分別ある大人たちが古典的教養を身につけるために読むものであって、純粋に物語を楽しむために読むような類のものではなかろう。というか、プラトンの時代ですらもはや子供に与えるのに相応しくない作品として認識されていたのも頷けるというものだ。あんな愚かな連中が神様だとしたら、とてもじゃないが敬う気になどなれない。

 そういう数々の難点を教養と分別の力で乗り越えれば、まあ、英雄譚として楽しむことはできるかもしれない。たとえば結局だれが一番強いのかなどと考え始めると、ドラゴンボールと同じような楽しみ方はできなくもない。個人的な感覚だけで言えば、アキレウス>ヘクトル>ディオメデス=パトロクロス>サルペドン=オデュッセウス>大アイアス>アガメムノン=メネラオス>小アイアス>パリスって感じか。最弱のパリスに最強のアキレウスが討たれるというのは、まあ、話の筋から言えばうまくできてると言えるが、それは「イリアス」後の話となる。
 それから、最大のクライマックスであるはずのアキレウスv.s.ヘクトルの一騎打ちが、間抜けすぎる展開であるとこは、間抜けであるがゆえに面白いかもしれない。例えば三国志演義であれば呂布と関羽・張飛の戦いは矛を何十回合わせても決着がつかないような息もつかせぬ手に汗握る展開となるわけだが、イリアスでは一撃で決着がついてしまう。あっけないことこの上ない。こういう戦闘感覚については、東洋人と西洋人の感覚の違いを考える上でもヒントになるのかもしれない。
 あと、敵を殺した後に、どうしてあんなにも武具を剥ぐことを優先するんだろう。死体から武具を剥いでいるうちに逆に狙われてやられていく描写が多すぎて、なんでこんなにバカばかりなのか、不思議になる。まあ、これが文化というやつなんだろうけれども。

【女をモノとしてしか見ていない酷い描写を備忘録的にメモ】
アガメムノン「いかにもわしはどうしても娘を手許に置きたいのだ。わしには正妻クリュタイムネストレ(クリュタイムネストラ)よりもあの娘のほうがよい。姿かたちといい、心ばえや手の技といい、娘は少しも妻には劣らぬのだ。」1・101-120

ネストル「さればなんぴとであれ、ヘレネゆえに(われらが)こうむった悲歎の報復のためにも、トロイエ人の妻を抱くまでは、帰国を急いてはならぬぞ。」2・333-368

アカイア勢一同「誉れ最も高く、神威ならびなきゼウス、ならびによろずの不死なる神々よ、両軍のいずれの側にせよ、先に制約に背いて不埒を働く時は、その当人たちのみかその子らの脳漿も、この酒の如く地上に流れ、またその妻たちは見知らぬ者に婢となって仕えますように。」3・302-309

アガメムノン「これは必ず果たされることだが、幸いにしてアイギス持つゼウスとアテネとが、イリオスの堅固な城を陥すことをわしに許してくださる暁には、わしの次にはそなたに第一の褒賞をとらせよう、三脚の釜か、車体と共に二頭の馬か、それともそなたと褥を共にする女かをな。」8・273-291

アガメムノン「それにまた、優れた手芸の心得のあるレスボス生れの女七人を添えよう、これはかつてあの男が見事な造りの町レスボスを陥した時、わしが選び取った女たちで、その美貌は女たちの間でも際立っていた。」9・114-134

アキレウス「わたしは幾度も眠られぬ夜を過し、昼は血腥い戦いに明け暮れた――それも彼奴らの抱く女を得るために敵と戦ってだ。」9・307-336

アキレウス
「われらが己れの力と長い槍とで、人間たちの豊かな町をいくつも屠り、苦労の末に手に入れた女たちがな。」18・310-342

アキレウス「アトレウスの子よ、これはあなたとわたしのどちらにとっても、むしろよかったのだろうか、われら二人がひとりの若い女ゆえに、嫌な想いをし心を蝕む争いで猛る狂ってきたというのは。あの女などはむしろ、わたしがリュルネソスを陥して自分のものにしたその日に船の上で、アルテミスが射殺して下さったらよかった。」19・40-73

アキレウス「私はアテネと父神ゼウスの加護の下にこの街を陥し、女どもを捕え自由の日を奪って連れ帰った。」176-198

「みまかった人を弔う催しに、三脚釜か女か、豪華な賞が賭けられる折のこと」22・131-176

アキレウス
「まず駿馬を駆る騎士に与える見事な褒賞としては、一位の者には優れた手芸の心得のある女一人と、二十二メトロンを容れる、取っ手のついた三脚釜とを、二位の者には胎に騾馬の仔を持つ、まだ馴らしていない六歳の牝馬一頭を」p.346 23・262-286

「勝者には火に掛ける大きい三脚の釜、アカイア人の間では牛十二頭と値踏みされたもの、また敗者のためには一人の女を場の中央に立たせたが、様々な技術を身につけた女で、一同の値踏みは牛四頭であった。」p.366 23・700-724

テティス「倅よ、食事も眠りも忘れ、いつまでも歎き悲しんでわれとわが心を蝕んでいるのです。こんなときには女を抱いて楽しむのもよいことなのだよ。」24・120-137

 いやあ、本当に酷い言いぐさばかりだが。特にアキレウスの酷さと愚かさには目を覆うばかりだ。ちなみにアキレウスが愚かだということは、2000年前にすでに気づかれている。具体的には例えばローマ時代のストア派哲学者エピクテトスが以下のように述べている。

【アキレウスをバカにするエピクテトス『語録』】
「アキレウスはいつ躓いたのか。パトロクロスが死んだときか。そうであってほしくはないものだ。むしろ、憤慨し、少女のために泣き、恋人のためではなく戦うためにそこにいることを忘れたときである。正しい思考が奪われ、それが失われたとき、これこそが人間の妻月であり、これこそが包囲であり、これこそが滅亡なのだ。」1-28

「アガメムノンやアキレウスは自分に現れた心像にしたがって、あのような悪事をおこない、また災難をこうむったわけであるが、私のほうは現れた心像には満足していないから、その点では私は彼らよりも優れているのだろうか。」
「人類が誕生して以来、ありとあらゆる過失や不幸はこのことの無知が原因で生じているのではないのか。アガメムノンとアキレウスはなぜお互いに意見が違ったのか。それは何が有益で何が不利益かを知らなかったからではないのか。」2-24

「「ああ、でも私は、友が私より長生きをして、私の息子を育ててくれるものと思っていたのだ」とアキレウスは言う。
君は愚かだったわけで、確かでないことを思い込んでいたのだ。すると、どうして君は自分を非難しないで、女の子のように座って泣いていたのだ。」4-10
「君たちはどう思うか。ホメロスはわざとこんな話を作って、最も高貴な人、最も強い人、最も富んだ人、最も容姿の端麗な人が、もっているべき考えをもたなければ、実のところ最も哀れであり、最も不幸であることを妨げるものはなにもないとこと、われわれが学ぶようにしたのではないか。」4-10

 ちなみに、トロイア戦争はヘレネという一人の美女の奪い合いに端を発するのだが、「まさか一人の女性をめぐって十年も大まじめに戦争を続行するなんてありえない。バカじゃないの」という理性的な感想は、私が言うまでもなく、しっかり古代から表明されている。具体的には例えば、アイスキュロス『アガメムノーン』には「もとをただせば、他人のものである女の奪い合い。この思いはだれしもが口をとざしたまま叫んでいる」(447)と、トロイア戦争のバカバカしさを指摘している。またエピクテトスは「不貞の女がいなくなったのだから、もっけの幸いではないのか。」(『語録』3-22)とか「もしメネラオスが、こんな妻は奪われたほうが得だというような気持ちになったなら、どんなことになるだろうか。『イリアス』だけでなく、『オデュッセイア』もなくなってしまうのだ。」(『語録』1-28)と指摘して、こんなことで戦争を起こすバカバカしさに呆れている。
 また、たとえばヘロドトス『歴史』は、ヘレネがトロイアにいなかったという説を紹介し、一人の女性のために命を賭けて戦争するなんてことがあるわけないと主張しているのだった。まあ、理性的に考えれば、そうとしか思えない。
 が、もうちょっと深堀りして考えてみると、上記の酷い引用に見られるように、「女」を実際に「財産の筆頭目録」として扱った時代がひょっとしたらあって、我々の想像を絶する価値観で人々が動いていた可能性も排除できないとは思う。たとえば農耕が広く普及する以前であれば、土地や金(交換材)の価値が極めて低く、逆に人間そのものを財産(交換可能なモノ)として重視する可能性は、あるのかもしれない。実際、領土を分割するという話はまったく出てこない。おそらく土地なんか余りまくっていた時代の話なのだろうし、上に引用した「女をモノとして見る感覚」はその仮説を支持する材料になる。逆に言えば、ヘロドトスの時代には、そういう原始的な感覚がもはや共有されないことをも意味しているのだろう。

 また、そもそも人間たちがヘレネを奪い合うきっかけになったのは、パリスの審判として知られるエピソードである。ヘラ・アテナ・ビーナスのうちの誰が最も美しいかを、人間であるパリスに選ばせようという話だ。これがきっかけで、何万人もの人間が死ぬ戦争に向かって行く。超くだらない。バカすぎ。そう思っているのは現代に生きる私だけでなく、古代の人々も「超くだらない。バカすぎ。」と思っている。たとえばプラトン『国家』アウグスティヌス『神の国』は、「そんな愚かなものは神であるはずがない」と指摘して、プラトンはホメロスなど詩人たちの愚かさを歎き、アウグスティヌスはプラトンを引用しながら多神教のバカバカしさを論難している。まあ実際、そうですよね、としか。

【ホメロスを批判するアウグスティヌス『神の国』】
「わたしたちは、むしろ、国家がどのようなものであるべきかを理性的に考えて、詩人をいわば真理の敵として、都市から追放せねばならぬと考えたギリシア人プラトンに軍配をあげねばならぬのではなかろうか。かれはじっさい、神々に加えられた侮辱に耐えることができず、また市民の心が詩人の仮作によって汚され、傷められることを欲しなかったのである。」第2巻第14章
「そこからローマ民族がおこったトロヤ、またはイリウムは、ギリシア人と同じ神々をもち、崇拝しながら、なにゆえギリシア人によって征服され、占領され、破壊されたのであるか。」第3巻第2章

 そしてルネサンス期人文主義の王と称されたエラスムスは、イリアスを一刀両断している。

【イリアスをバカにするエラスムス『痴愚神礼賛』】
「聖なる詩編『イリアス』は、王族や諸民族の常軌を逸した怒り以外に、なにを物語っているでしょうか?」205頁

 エラスムスの言うとおり、イリアスの登場人物は神も含めてことごとく常軌を逸しており、痴愚神による諧謔の対象として実に相応しいのであった。

ホメロス『イリアス(上)』松平千秋訳、岩波文庫、1992年
ホメロス『イリアス(下)』松平千秋訳、岩波文庫、1992年