【要約と感想】『アリストテレス詩学・ホラーティウス詩論』

【要約】アリストテレス「おもしろい物語を作る上で重要なのは、キャラクターよりもプロット」
ホラーティウス「なにより重要なのは、キャラ立ち」
アリストテレス「えっ」
ホラーティウス「えっ」

【感想】それぞれ細部までおもしろく読んだけれども、今回は特に「性格」という言葉に注目した。「性格」とはギリシア語の「エートス」を翻訳した言葉だが、本来の「エートス」は現代日本語で「性格」と言った場合よりも広い範囲をカバーする言葉であることに注意が必要だ。さしあたってこの感想文では、「性格」のことを現代的に「キャラクター」とでも言いかえようか。

さて、まずアリストテレスは物語を構成する要素を6つ挙げ、そのうち「筋=ミュートス」をもっとも重視する。この「筋」とは、現代の感覚で言うと「プロット」のようなものだろう。マンガに詳しければ、「ネーム」と言ったほうがより正確に伝わるかもしれない。アリストテレスは物語を組み立てる骨格の出来こそが作品そのものの出来を左右すると考える。だから相対的に「性格=キャラクター」を軽視する。アリストテレスの立場では、仮にキャラクターが立っていなくても、プロットが優れていれば良い作品になる。
ただしもちろん、アリストテレスはキャラ立ちそのものを否定しているわけではなく、ホメロスのキャラ立てが巧妙なことを賞讃してもいる。

一方のホラーティウスは、キャラ立てにかなりこだわっている。物語が成功するかどうかは、キャラクターの首尾一貫性にかかっていると言う。そしてキャラクターを立てるために、しっかり現実から人間観察すべきことを主張している。

現代でも物語を作る場合、小説であれマンガであれ、「プロット」と「キャラクター」の関係はやはり問題となる。プロットを優先させるとご都合主義でキャラクターの動きが不自然になり、キャラクターを立てるとプロットが破綻するという、二律背反に陥る場合がある。アリストテレスは、キャラクターを立てるあまりにプロットが破綻すること(=機械仕掛けの神)をひどく嫌う。それに対しホラーティウスは、キャラクターの一貫性を重視する。
現代では、ホラーティウスの立場のほうに説得力があるように思える。たとえばマンガやライトノベルでは、プロットより先にまずキャラクターをしっかり作って、「キャラが勝手に動く」ような作品が結果的に成功しやすいように思う。アリストテレスが賞讃するような「プロットが巧妙な作品」は、現代では玄人受けはしても、一般受けはあまり望めないような気がする。だからだろう、アリストテレスは吐き捨てるように、「最近の読者はバカばかりで、つまらない作品が流行する。嘆かわしい」と何度も書きつけるのだった。うーん、こういうふうに「キャラ重視作品」をけなす人、今でもいますねえ。2300年前から変わらない光景なのだった。

今後の研究のための個人的メモ

この本は、現代的な観点からもなかなか見所が多い。たとえば、性格の首尾一貫性に関して、両者とも興味深いことを書き残している。

【個人的備忘録:性格の首尾一貫性】
「たとえ再現の対象とされる人物が首尾一貫しない性格をもっており、そのような首尾一貫しない性格が前提とされる場合においても、その人物は首尾一貫しない性格の点で首尾一貫していることが求められる。」アリストテレス1454a
「しかしこれまで試みられたことがないものを舞台にのせ、あえて新しい人物をつくり出すなら、それは最初舞台に現われたときの性格を最後まで保持し、己れに忠実でなければならない。」ホラーティウスpp.237-238

また、アリストテレスがホメロスのキャラ立ちを褒める文章も、現代的関心から見ても興味深い。

「これに反しホメーロスは、短い序歌を歌ってから、ただちに男または女、あるいはほかの役の人物を登場させる。しかも、彼らの一人として性格をもたないものはなく、めいめいがその性格をそなえている。」アリストテレス1460a

また、どのような人間が作家に向いているかについてのコメントは、現代にも通じるように思う。これが2000年前の文章かと思うと、なかなか怖いものがある。

「それゆえ、詩作は、恵まれた天分か、それとも狂気か、そのどちらかをもつ人がすることである。天分に恵まれた者は、さまざまな役割をこなすことができるし、狂気の者は自分を忘れることができるからである。」アリストテレス1455a
「称賛に値する歌ができるのは、生まれついた才能によるのか、それとも技術によるのか――これはよく尋ねられることだ。だが、いくら努力しても豊かな鉱脈がなければなんの役に立つのか、あるいは、いくら才能があっても磨かなければ何ができるのか、わたしには分からない。このように才能と努力は互いに相手の助力を求め、友好の契りをむすぶ。」ホラーティウスp.252

そして、演劇が自由によって栄えたにも関わらず、自由すぎて個人を中傷する表現が溢れ、あまりに表現が過激になりすぎた結果、法によって規制されたという記述は、現代の表現規制問題を思い起こさせ、なかなか考えさせるものがある。人間、2000年前から進歩しねえなあ。

「しかし自由は放縦に流れ、法の取りしまりを受けてもおかしくない暴力に堕した。法が布かれ、コロスは人を傷つける権利を奪われて沈黙したが、それは恥ずべきことであった。」ホラーティウスpp.246

『アリストテレス詩学/ホラーティウス詩論』松本仁助・岡道男訳、岩波文庫、1997年