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【要約と感想】『情報社会のいじめ問題―解決に向けた地域からのアプローチ』

【要約】いじめ研究は日本が最も進んでいるので、海外の研究を参照するのは愚かです。諸外国のbullyingは課題のある特定の子どもが行なう身体的な暴力を念頭に置いていますが、日本の「いじめ」は相手を精神的に追い詰めることが目的で、だれでも加害者や被害者になり得るところが決定的に異なります。
日本的ないじめは、情報社会(匿名性や常時性や島宇宙化)に親和的な特徴をもっており、加速度的に進化しています。教師や保護者は知識をアップデートして、プロバイダや関連諸機関と連携しながら対処を進めていきましょう。

【感想】スマホが普及する前の「iモード」が話の前提となっていて、2019年現在から見ると情報そのものはかなり古く、現状に対して直接的には参考にならない。モバイル黎明期の状況と対応を知るための古文書的な史料となっている感じはある。
とはいえ、ネットいじめに対する基本的な対処そのものは当時から変わっていない気もする。フィルタリング、啓蒙された親の積極的な関与、業者も含めた関係諸機関との連携、技術を逆手に取った人間関係の可視化だ。
私も技術革新に乗り遅れないよう、しっかり対応していきたい。

『情報社会のいじめ問題―解決に向けた地域からのアプローチ』ブックレット群馬大学、上毛新聞社、2011年

【要約と感想】堀裕嗣『スクールカーストの正体―キレイゴト抜きのいじめ対応』

【要約】1980年代の高度消費社会化を経てオレ様化した子どもたちが、21世紀に入って自己責任圧力を背負わされ、さらに加速度的に変化しています。その変化を象徴的に表現するキーワードが「スクールカースト」です。いま、コミュニケーション能力の三要素(自己主張力・共感力・同調力)の有り様によって、学級内の人間関係が形成されています。現代のいじめを理解する決定的なポイントは、スクールカーストの構造に基づいてクラスの人間関係を把握することです。
そして教師もまたカーストに巻き込まれる一方、「職員室カースト」によって人間関係を形成しています。カーストに巻き込まれた教師が単独でいじめに立ち向かうことは、もはや不可能です。複数の教師のキャラクターを相互補完的に強化して教員全体を「チーム」として機能させると、いじめを解決する道筋が見えてくるはずです。

【感想】結論が「個性的で多様な教師集団と、それをまとめるチーム学校」であって、中央教育審議会が2015年末に出した答申とシンクロしているのは、けっこう面白い。ただ、中教審が「少子高齢化やAI化」といったマクロな時代趨勢から結論を導いているのに対し、本書は教室内のミクロな権力構造から結論を導いている。思考の経過が異なっているのに着地点が同じというところが興味深いわけだ。

ちなみに森口朗が作ったという「スクールカーストの決定要因のマトリクス」は、なかなか興味深い。コミュニケーション能力を3つの要素(自己主張力・共感力・同調力)に分析し、その有無の組み合わせによって「典型的なキャラクター」を8タイプ提出し、その相互権力作用を解析しようとするものだ。なかなか切れ味が鋭く、本書はこのマトリクスだけであらゆる事例を分析し、ぐいぐいと結論を導き出していく。生産性が高い論理枠組だ。なかなか感心した。
このマトリクス、単に教室内権力構造だけでなく、おそらくマンガやアニメなど現代作品の物語構造分析にも応用できてしまう。具体的には、戦隊ものの「レッド・ブルー・イエロー・グリーン・ピンク」のチーム内関係などは、このマトリクスで説明がついてしまいそうだ。著者自身はお笑いバラエティの構造分析に応用していた。そして逆に考えれば、アニメやマンガなどのキャラクター配置論が現実の認識枠組に影響を及ぼしているとも推測できるところではあるが、このあたりの相関関係と因果関係は慎重に考慮する必要がある。

【今後の研究のための個人的メモ】
教師のキャラクター配置論に言及した文章は、フィクションのキャラ配置分析にも応用が利きそうで、なかなか興味深く読める。

「それぞれの独立したキャラクターの教師が独立した仕事をしているのではなく、それぞれのキャラクターの教師が相互補完をしながら生徒たちの教育に当たっているというのが実態なのである。」(200-201頁)

まさに戦隊ヒーローが複数人でチームを組んで一人の怪人を倒す構造と被る気がするわけだ。あるいは単独アイドルが成立せず、グループアイドルが目立つ傾向。「個人プレー」に期待するのではなく「チームプレー」を求める流れは、21世紀以降のOECDの教育関連文書にも顕著な傾向であることを、さて、どう考えるか。

堀裕嗣『スクールカーストの正体―キレイゴト抜きのいじめ対応』小学館新書、2015年

【要約と感想】山脇由貴子『教室の悪魔―見えない「いじめ」を解決するために』

【要約】現代のいじめは極めて巧妙に行なわれるので、親や教師にはまったく見えません。が、必ずサインは出ています。サインを受け取ったら、無責任に正義感を振りかざすのではなく、子どもの立場に立ち、安全の確保を最優先に考え、現実的・戦略的に解決していきましょう。子どもは学校を休ませ、大人は粘り強く組織的に対応しましょう。いじめを解決するのは、子どもではなく、大人の仕事です。
見えないいじめを「見える化」するためのチェックシート付。

【感想】いじめがどうして発生するかという「論理」や「定義」にはまったく関心を示さず、ただただ目の前で起こっている「いじめ」の現実を直視し、実践的・戦術的に解決へ向かう道筋を示す。淡々とした記述から、現場で関わってきた専門家としての凄味と覚悟を感じる。
我々も、ややもすると「論理や定義」を弄びがちになるわけだが、まずは生々しい現実を直視することから始めなければいけない。

【追記】諏訪哲二『いじめ論の大罪』に本書に関するコメントが載っていたが、私の感想とかなり似ていた。「ハウツーについてはおおむね妥当」(231頁)とか、「日本の臨床心理学の、地道な成果」(232頁)とか、「実践と理屈はあまり関係がない」(232頁)というあたりだ。まあ同じような感想を持ちつつ、私は「論理や定義」を云々することから引いたのに対し、諏訪は「理屈」に突っ込んでいったわけだが。

山脇由貴子『教室の悪魔―見えない「いじめ」を解決するために』ポプラ社、2006年

【要約と感想】清永賢二『いじめの深層を科学する』

【要約】いじめは人間が動物である限り、本質的にはなくなりません。これまでは社会規範や個人倫理等で獣性の発現を抑えてきましたが、これからは感覚的に踏みとどまる「待て」というトレーニングが有効になります。
いじめは、表層・中層・深層の三つのレベルに分けて立体的に捉えましょう。表層と中層は教師や家族だけでなんとかできますが、大人たちが真剣に解決しなければならないのは深層いじめです。そもそも深層いじめに対しては「いじめ」などという責任を不明確にする曖昧な言葉を使うべきではなく、人権侵害や刑事犯罪として取扱うべきものです。関係者一同は責任を取る覚悟で子どもたちの安全確保に臨みましょう。

【感想】なかなか熱量の多い本だった。というか、いじめに立ち向うには、これくらいの熱意がなければ折れてしまうということなのだろう。
「真っ黒な少年」というような類書には出てこないだろう独特の言葉の数々など、どこかから理屈を借りてくるのではなく、著者が実際に見て感じた現実からなんとか言葉や論理を捻り出そうという努力と熱意を感じた。その感覚は、私のような教育畑を進んできた人間とはかなり違っていて、やはり少年非行や犯罪の数々を身近で見てきた警察畑の人に特有のものではあるように思う。私自身が肌感覚で理解できない代理不可能な経験を言語化してもらったものとして、傾聴すべき価値があるものだとは思った。

そして、本書が扱う対象は、本書内でも言及されているわけだが、もはや「いじめ」という領域ではなく、刑事罰に該当するようなところに入ってきている。これら刑事罰に相当する事例(本書の三層構造でいえば深層)を「いじめ」と呼ばずに、表層や中層から切り離したとして。大人たちが本気で解決しなければいけないのは、まっくろな少年(今でいうサイコパス)が関わる深層いじめだとして。本書では、子どもたちによく見られる表層いじめや中層いじめは、子どもが「大人になる」ためには通過しなければいけないものであって、大人たちが真剣に解決に取り組むものではないという見解となっているように読んだ。というか、取り組んだところで撲滅できるわけがないという立場だ。
まあ、この立場はこの立場で一つの重要な知見ではあるわけだが、それ故に他の類書とは前提からして噛み合っていないような印象も受けるのではあった。

ともかく、「いじめ」という言葉があまりにも広い範囲に適用されすぎていて、指示内容が茫漠となっているという指摘自体には同意する。恐喝や傷害など刑事罰相当の事例を「いじめ」と呼ばずに「人権侵害」や「恐喝」や「傷害」等と適切に言語化することによって、逆に「教育」という営みがカバーできる範囲が限定され、明確になるだろう。刑事罰相当を担当する警察関係者と、そこから切り離されて残った範囲を担当する教育関係者とで、お互いに役割分担が明確になれば、確かに現在の「いじめ」問題の構図はそこそこすっきりするのかもしれない。
たとえばその知見は、著者が「若者の規範意識は低下していない」と言い切るところにも表れている。よく「若者の規範意識が低下している」と言いたがる人がいるのだけれど、それは著者が的確に指摘するように端的に間違いで、ただ単に自分の主張する都合のいい「道徳教育」を学校に押しつけたいからいっているだけなわけだ。実際にはいくら学校で道徳教育を強化したところで、そもそも「規範意識」が低下していないのだから、現実のいじめの解決に結びつくことはないのだった。教育では本質的に解決できない問題を教育内で解決しようとするからおかしなことになる、というのが本書の知見だ。

しかしとはいえ、警察と教育で役割分担することを「教育の敗北」だと感じてしまうのは、単に私が教育畑の人間だからか。まっくろな少年を「教育」することは不可能であると断念すべきだということか。なかなか割り切れないものがたくさん残るところではある。まあ、こういう境界点にあることで「いじめ」というものの解決が難しくなっているのは確かだろう。

清永賢二『いじめの深層を科学する』ミネルヴァ書房、2013年

【要約と感想】芹沢俊介『「いじめ」が終わるとき』

【要約】反復継続的な暴力である「いじめ」は、反復継続的に通うことを強制する「学校」という場が引き起こしています。「ひとり」であることに耐えられない子供たちは、特定の一人を標的として分離することで、集団の一員であることに安住します。特定対象への執拗な暴力は、自分が「みんな」の側にいることを固定するために反復継続されます。であるなら、いじめが終わるのは、「みんな」という帰属性を求めず、「ひとり」でいられる力を持ったときでしょう。

【感想】命の危険を感じるくらいなら、学校なんか行かなくていい。そう大きな声で言えるようになったのは、そんな昔の話ではない。著者のような人たちが真剣にいじめ問題に取り組んでいるなかで、そういう認識ができあがっていった。

そもそも「学校」という組織は、産業革命の進行に伴って必要となった「過渡的な形態の組織」である可能性が高く、人間の成長にとって不可欠な役割を果たすかどうかは、極めて怪しい。「教育」が必要かもしれないとして、その役割を「学校」が一元的に独占するのは絶対に避けられないことなのかどうか。あんな狭い空間に人間が何十人も強制的に集められ、毎日顔を合わせることになったら、子供だろうがなんだろうが、万人の万人に対する闘争が勃発し、ある種のリバイアサンが誕生するのは不可避だろう。
いじめが発生するたびに、「学校なんか解散してしまえばいい」と思ってしまう自分がいるが、本書はその気持ちを半分だけ代弁してくれる。いじめをなくそうと思ったら、学校を解散するのがいちばん簡単だ。

もう半分は、それでも学校は必要だという、ある種の感覚。民主主義的な精神を涵養する教育を考えたときに、民間経営の塾ではダメだろうという直感。実は、民主主義的な精神を育てるというのは、「いじめ」が不可避的に発生するような場を敢えて作り、子供をその環境に強制的に閉じ込めた上で、万人の万人に対する闘争を意図的に発生させ、子供の人間関係調整能力を発達させようという、ものすごい過酷な試練なのではないか。

そういう意味でいうと、民主主義的精神を育てようと意図的に構成された学校では、実は必然的にいじめ発生に直面するリスクが高くなる。デモクラシーという目的が放棄されない限り、構造的に「いじめ」を終わらせることは不可能だろう。しかしそのリスクを低めることはできる。リスクを低めるための技術を蓄積することはできる。教師にできることは、その技術を多面的に活用し、万人の万人に対する闘争からリバイアサンを生み出すのではなく、「一般意志」を作り上げることなんだろうと思う。

芹沢俊介『「いじめ」が終わるとき-根本的解決への提言』彩流社、2007年