【要約と感想】諏訪哲二『いじめ論の大罪―なぜ同じ過ちを繰返すのか?』

【要約】学校には市民社会の論理は通用しないし、適用するべきではありません。が、学校に市民社会の論理が侵入して、大人の指導を受けるべき未熟な子どもたちが自分も大人と対等な「近代的個人=オレ様」だと誤認し、教師の指導を受け容れないのが、いじめ発生の原因です。マスコミや行政も教師の力を削ぐ愚かな行為に荷担しており、如何ともしがたい状況に陥っています。ほんものの近代的主体を形成する上では、いじめは不可抗力です。

【感想】これほど「近代の論理」をストレートに打ち出してくる人は、いやあ、貴重だなあと思う。右派とかリベラルとか、この人に訳の分からないレッテルを貼る人も多いようだけど、彼はカント的な意味での「近代主義者」以外の何者でもない。本書でも教員採用試験に出てくるようなカントの近代主義的見解を繰り返し述べているに過ぎず、そういう意味では実は教育学的に新しいことは何も言っていないのだった。たとえば、次に引用するのは北海道・札幌市が2016年に実際に教員採用試験に出した問題だが、仮にカントを知らなくても、本書の主張を援用すれば解けるのだった。

ドイツの哲学者であるカント(Immanuel Kant 1724~1804)は、「子どもには自分に( 1 )が加えられるのは、やがて自分固有の自由の行使がうまく行えるようにという配慮によるものであること、自分が( 2 )されるのは、それによってやがて将来自由でいられるように、すなわち他人の配慮に頼らなくてもすむように、という考え方によるものであることが、示されなければならない。」と述べた。

問1 空欄1、空欄2に当てはまる語句の組合せを選びなさい。
ア. 1―手心 2―放任
イ. 1―手心 2―教化
ウ. 1―手心 2―支援
エ. 1―拘束 2―放任
オ. 1―拘束 2―教化

答えは、もちろん「オ」だ。近代主義者なら、間違えるわけがない。未熟な子どもに「手心」を加えたり「放任」したりするのは、責任感ある大人の態度ではない。子どもが将来市民として自立するためには、大人が適切な拘束と教化を与えなければならないに決まっているのだった。
もちろんこれは私個人の意見ではない。カントを代表とする近代主義の見解だ。そして本書の立場も、完全にこの枠内にある。

ところでしかし、現代において、この近代主義を貫徹することは可能だろうか? われわれは、近代教育に「自由を強制する」というアポリアが如何ともしがたく貼り付いていることを自覚している。たとえば本書が批判する宮台真司が試みたのは、「自由を強制する」ためにどうしても必要な「特異点」の所在を明らかにすることであった(具体的にはたとえば日本人にとっての天皇などの議論)。しかし諏訪は、「自由を強制する」というアポリアを自覚しつつも、特異点の存在を原理的に認めず、居直る。

「これからも教師も生徒も親も苦労していくしかないのだ。私たちは近代というパンドラの箱をすでに開けてしまったのである。」(229頁)

しかし現代の潮流は、諏訪の思いとは逆に、「強制なしで自由になる」ことを夢想している。テクノロジーの発展によって、パンドラの箱を閉じられるのだと考えている。このあたりは東浩紀などが盛んに主張しているところだ。あるいは苫野一徳も、近代の終りを明確に意識しつつ、予定調和的に「自由を強制する」という近代教育のアポリアを乗り越えようと試みている。果たして、近代教育のアポリアは現代テクノロジーによって乗り越えることが可能なのか、どうか。つくづく、教育とは因果な仕事だなと思う。

【今後の個人的研究のためのメモ】
本書には近代主義的立場と、「近代の終わり」に対する諦めが、そこらじゅうで表明されている。いくつかメモしておきたい。
まず、近代が終わっているという認識をところどころで確認できる。

「学校はもともと近代の器である。近代の器が揺らぎ始めたのである。ただ私の経験から言わせてもらえば、学校は近代を確立した六〇年代からすでに揺らぎ始めていた。おそらく、教育不全・学校不全は近代の宿命なのであろう。」(20頁)

「社会に適応した人間になるのが近代(前期)型の人間であるとすれば、七五年あたりから後期近代(超資本主義)に入り、自己に適応した社会を求める人間像が登場してきたのではなかろうか。」(30頁)

「「行政のちから」「教員のちから」で学校が動かされるのが、明治からの近代前期の流れである。一方、「民間のちから」「子どものちから」は、まさに成熟した近代後期のものである。」(73頁)

まあ、このような「近代の終り」に対する認識は、特にオリジナルな考えではなく、世界中の社会学者が口を揃えて指摘しているところだ。諏訪にオリジナルなのは、これを自分の経験(学校教育や生徒の具体的な変質)と接続させて論じるところだろう。

「子どもが学校へ入ってくる時、すでに家庭における第一次教育は終了し、地域や情報産業や経済システム等における第二次教育も終了している。もうすでに立派は個性を身につけている。まだ一人前の近代的人間(近代的個人)になっているわけではないが、本人の自覚は一人前だったりする。」(61頁)

「もう三〇年以上も経って、時代や子ども・若者たちの目鼻立ちがくっきりしてきたから、いじめを除いてすべてが子ども(生徒)たちの近代社会からの逃避を意味していることが透けて見えてきた。近代的人間になることを嫌がっている。」(113頁)

まあ、このあたりの認識も、佐藤学が「学びからの逃走」と言っている事態と本質的には変わらない気もするが。とはいえ「近代的人間になることを嫌がっている」という指摘には、諏訪の経験的な実感が伴っており、拝聴するに値する。
そしてその現実に対して示される対処法は、まさに近代主義だ。

「学校は教育の場であり、生徒が近代的個人に育っていく場である。学校は一人前の市民が生活しているところ(市民社会)ではない。学校は市民社会ではないし、あってはならない。学校は子ども(生徒)を市民として扱っていない。市民として扱ったら教育はできない。さまざまな機会を通じて市民へと向うような教育(指導)をしているところだ。」(121頁)

「子ども(生徒)を近代的市民にするためには、ある種の自由や権利の制限はやむをえない。」(211頁)

「彼らにとって近代的個人とは「自らそう思っている人」のことである。「ただの自分」のことである。なるべき理想のあり方ではない。そして、現実には共同体的な贈与関係の中に心地よく漂っている。結局、生徒たちがモデルとすべき(してしまっている)親やまわりのおとなや教師たちが、脆弱な近代的個人になっていたからなのであろう。
私は教育がめざすべき近代的な個人(主体)を社会的なもの、ないしは、「公」的な要素に重点をおいて考えている。つまり、一人ひとりの内的な意識(「内的な自己」)よりも、その社会的な現れ(「社会的な個人」)のほうが重要だと思っている。」(80頁)
「近代的個人とはこの「内的な自己」と「社会的な個人」とを併せ持っていることを自覚している人間のあり方なのであろう。」(270頁)

これは上述したカントの近代主義そっくりそのままの再現だ。あるいはヘーゲルの言う「即自(内的な自己)」と「対自(社会的な個人)」を止揚して「即且対自」に至る弁証法運動を信奉していることの表明でもある。とにかく近代どっぷりの理屈である。近代が夢想した「未熟な子ども/人格の完成した大人」の二分法の形式的な適用である。
そんな諏訪の近代的個人に対する見解は、まさに教科書通りである。(それが悪いというわけではない、というか現憲法下では極めて真っ当な見解だ)。

「近代的個人とは何か? 社会に参画しながら社会を相対化するちからを持ち、近代的生活様式に馴染んだ、自立した合理(理性)的な人間とでも想定できようか。(中略)
近代信仰とは、近代社会を信じることよりは近代の理念を信じることであり、それは人間の個人の価値を信じることである。」(90頁)

そしてそれを踏まえた上で、近代特有の人間関係(つまり市民社会)に対するシビアな認識が示される。これが彼の言う「いじめの原因」だ。

「個と個の争いは近代(的)になって発生したのである。いじめの根源もここにある。」(36頁)

そうなのだ。「万人の万人に対する闘争(リヴァイアサン)」は「近代」だからこそ発生するのだ。共同体主義では、「個」と「個」の争いが起こるわけがない。だから、「近代的な個」を認めるのであれば、論理必然的に「個と個の闘争」も認めざるを得なくなる。だから諏訪は、「個として成長するために、いじめは必要だ」と言い切れるのだ。すべて近代主義の枠内の論理だ。あるいは「いじめは成長する上で糧となる」という認識は、「自然権」から「自然法」へと至る近代的な理性を信頼するという点で、まさにホッブズ的であるとも言える。

しかしそんな諏訪でも最後にやはり「特異点」を設定するしかなかったのは、近代主義のどうしようもない限界が示されていて、極めて興味深い。そしてそれは誰もが逃れられない原理的なアポリアであって、諏訪の個人的資質のせいではない。どれだけ「完全で無矛盾」な世界を夢想しても、あるいは体系が完全で無矛盾であればあるほど、「特異点」が浮かび上がってこざるを得ないのであった。

「自己が変革され、人間性が高まるためには、「人格の完成」のような倫理的な絶対目標が必要である。」(280頁)

まあ、このように「特異点」として「人格の完成」を設定するのは、現憲法下においては、極めて真っ当なセンスだ。この諦めは、私の感覚に極めて近い。だから諏訪の論理は、個人的にはかなりスッと中に入りこんでくるのだった。近代主義者の悲哀と覚悟を感じざるを得ないのであった。

諏訪哲二『いじめ論の大罪―なぜ同じ過ちを繰返すのか?』中公新書ラクレ、2013年