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【要約と感想】教育科学研究会編『いじめと向きあう』

【要約】いじめは、懲罰と権力では決して解決しません。いじめは、日本社会の構造に根ざしており、どの学校でも起こりえます。未然予防は本質的に不可能であって、学校や先生にできることは、致命的な結果を引き起こさないための対策です。対話と協調が重要です。いじめの解決を通じて、子どもたちが人間的に成長します。

【感想】いじめの理論、社会的背景、実例、解決へ向かうためのヒント、総合的にいじめを考えるための読書案内など、とてもバランスが良い内容になっている。初心者がまず読む本としてお勧めしやすい。単純な厳罰化が本質的な解決をむしろ妨げていることがよく分かるだろうと思う。ゼロ・トレランスは、仮に凶悪犯罪にはうまく対処できるとしても、学校や教育にはまったく馴染まない。
いじめ解決に成功した実践例は、とても参考になると思う。酷いクラスの中にも必ずいじめをなくしたいと思っている子がいるはずで、その子を孤立させず、粘り強く連帯させていくことが最終的に決め手となる。クラス全体の雰囲気をどう作っていくか、教師の手腕が問われるところになる。

教育科学研究会編『いじめと向きあう』旬報社、2013年

【要約と感想】渡辺真由子『大人が知らないネットいじめの真実』

【要約】大人が知らない間にネットいじめが酷いことになっています。携帯を持つことは避けられない以上、情報教育を充実させてネットリテラシーを育成しましょう。テレビやゲームの影響は無視できませんが、権力による規制は危険です。被害者に対処するのではなく、加害者への指導を徹底しましょう。

【感想】ネットでの勇猛果敢ぶりを知っていると、本書の記述はそこそこまともに思える。まあ、10年の間に人が変わってしまったということかもしれないが。とはいえ、因果関係と相関関係の違いを理解していないところは、変わっていないのかもしれない。

そんなわけで、全体的に言いたいことは分からなくもないのだが、尾木直樹等のいじめ対策と根本的に異なるのは、著者が「子どもの参加」について一切の考慮を払っていないところだろう。著者は、一方的に子どもを守ったり指導したりしようとしている。子どもの権利条約を引用するところでも、「子どもの参加」には一切ふれず、一方的にメディアから守られる権利だけを強調している。著者が道を踏み誤ったとすれば、「子どもの権利条約」の一部だけを切り取って、全体的な精神を尊重していないことが問題だったのではないかと思われる。おそらくもう、大人が上から目線で「子どもに有害なもの」を選定して排除隔離するのでは、つまり子どもを単に子ども扱いするだけでは、何も解決しないだろうということだ。

まあ、さしあたって、以下に引用する文章を渡辺真由子が活字に残していることは記憶しておいていいのかもしれない。

「そもそも権力機関による規制は、背後に政治的意図が働く恐れがあるため、やみくもに許すわけにはいかない。臭いものにフタをするだけではなく、子どもたち一人一人が、自分の頭で情報を判断できるようになることが大切だ。」(178頁)
「権力による規制は絶対的な力を持つだけに、慎重さが求められる。政府が有害性を判断するとなると、「子どもにとって有害か」という基準が、いつの間にか「政府にとって有害か」という基準にすり替わりはしないか。」(187頁)

ここまで分かっているなら、さらに踏み込んで「おとなによる規制」が本当に有効かどうかを考えても損はなかった。「こどもの参加と意見表明」をどのように制度的に組み込むかを考えても良かった。いろいろと勿体ない感じがするのであった。

渡辺真由子『大人が知らないネットいじめの真実』ミネルヴァ書房、2008年

【要約と感想】和田秀樹『「か弱き、純真な子ども」という神話』

【要約】子どもは弱くないので、かわいそうなどと思わず、適度にストレスをかけましょう。

【感想】まあ、聞くべきところが皆無なわけではないし、意気込みも分からないわけではないが、そこそこいい加減な本ではあった。専門の精神医学はともかく、教育の理論と現実に関してほとんど勉強していないにも関わらず、憶測と決めつけでかなりいい加減なことを言っている。

まず、「か弱き、純真な子ども」というイメージが生じた歴史的な経緯について、教育学を少しでも囓ったら必ず知っているはずの知識を、著者はどうもご存知ないらしい。このテーマで本を書くのに、アリエスのアの字も出てこないことには、かなり唖然とする。まずはアリエス『子供の誕生』をしっかり読んで勉強して、出直していただきたいところだ。

またたとえば「体罰」に関する見解は、かなりお粗末だ。著者は「子どもがかわいそう」だから体罰をやめたなどと言っているが、そんなことを言っている教育関係者などいない。正確には「体罰には教育的効果がないことが客観的データに示されている」から体罰には意味がないし、そもそも「法律で禁止されている」からやるべきではないということだ。「子どもがかわいそう」などと感情的なレベルの話は、誰もしていない。勘弁していただきたい。
また「根拠となる調査もなしに、東大の教育学部がゆとり教育の旗振り役になっていた」(38頁)というのは、まさに根拠となる調査もなしの決めつけだ。著者本人が根拠となる調査もなしに、憶測で決めつけているのだから、たちが悪い。というか本人が錦の御旗の如く引用している苅谷剛彦はどこの教授だったのかと。

著者の根本的な問題は「人権」というものの本質をよくご理解していないところなのではないか、という疑いを強く持つ。子どもに課す義務を大人並みにするべきという話は一生懸命にするが、主体的な権利を大人並みにしようという話はまったくしない。「甘やかす」ことと「人権を尊重する」ことの区別がついていないように見えるわけだ。

和田秀樹『「か弱き、純真な子ども」という神話』中公新書ラクレ、2007年

【要約と感想】阿部泰尚『いじめと探偵』

【要約】著者は探偵として、いじめを捜査しています。大半のいじめは先生と親が本気になれば解決できるのですが、4割ほどは深刻な事案が発生しており、そこに探偵が仕事をする場があります。
現代のいじめは、かつてとは違い、だれが被害者になるかまったく分かりません。恐喝や援助交際、レイプなど、被害も深刻化しています。いじめ被害者が自分からハイテク機器を駆使していじめの事実を押さえることで解決に向かいます。
いじめが起こるのは、子どもが大人を真似するからです。大人がマトモでないのに、子どもを子ども扱いしていじめが解決するわけがありません。

【感想】要は大人も子どもも「一人の人間」として扱われることが決定的に重要だという、基本中の基本が確認できる本だ。いじめの加害者は、被害者をモノのように扱う。しかしおそらくそれは、大人の世界で一人一人がまともに人間として扱われていないことを反映しているだけだ。まずは大人たちが、自分を人間として大切にし、同じように他人も人間として大切にしなければならない。そうしなければ、子どものいじめが減るわけがない。

本書で示されたひとつひとつの事例は、にわかには真実とは信じられない。が、読み終わった直後の思いとしては、それらが真実か真実でないかは、おそらくさほど重要な問題ではない。「誰もが一人の人間として尊重される世の中であるべきだ」というメッセージこそが極めて尊いのだと思う。
いじめ解決のための細かい技術や手段も発達させていく必要はあるだろうが、まずは「誰もが人間として尊重される」という基本中の基本が共有されることがなによりも大切だ。そこを出発点にしなければ、どれだけ法律や制度を作っても、何も変わらない。

【言質】
「人格」という言葉に関する言質を得た。

「ところが今の子供たちの場合、被害生徒、つまりいじめられている子を人間とは思っていない。そう感じることがある。いじめられている子は加害生徒にとってはオモチャであって、人格を意識しているとは思えない。」(172頁)

「人格」の本来の意味に則った正しい使われ方だと思う。

阿部泰尚『いじめと探偵』幻冬舎新書、2013年

【要約と感想】ウィリアム・ヴーア『いじめっ子にしない、いじめられっ子にならない簡単な方法』

【要約】いじめは子どもの心に取り返しのつかない傷を付けるので、甘く見てはいけません。
いじめられっ子にならないためには、子どもの気持ちを尊重しながら、自己主張の練習をさせるのがいいでしょう。いじめっ子にしないためには、親自身が体罰をやめて責任感を持ち怒りをコントロールする必要があります。

【感想】アメリカのいじめも、日本のいじめとそんなに変わりがないなあということがわかる。とすれば、もちろん対処法もそんなに変わりがない。要点は、子どもの感情を尊重しながら、親の感情をコントロールすることだ。普遍的に通用するのだと、確認できた。

ただ気になるところは、おそらく2001年発行の本だからか、ネットいじめの現実には対応できていないところだ。従来のいじめからその傾向はあったにせよ、ネットいじめが新しいのは、匿名性を利用した「強いものいじめ」が横行するというところだ。優等生やアイドル的生徒のみならず、先生や親ですらいじめの対象になるというところだ。この点は、知識をアップデートしておいた方がいいだろうと思う。

あと、ありがちな話ではあるが、邦訳タイトルが酷い。原題の「いじめに関する親の本」のほうが遙かによろしい。本書で示された解決方法は、必ずしも「簡単」ではない。むしろ「本質的」と言ったほうがよいだろう。

ウィリアム・ヴーア/加藤真樹子訳『いじめっ子にしない、いじめられっ子にならない簡単な方法』PHP研究所、2001年