「日々随想」カテゴリーアーカイブ

【レポート】メガネ男子萌え学会 第二回お茶会

2018年10/28に浅草模型の王国で開催された「メガネ男子萌え学会 第二回お茶会」に司会として参加してきました。
たいへん熱の籠もった発表が続き、勉強になると同時に、生きる活力をも与えてくれるような、極めて有意義な集まりだったと思います。
以下、私の目から見た記録と感想を残しておきます。(あくまでも私の主観ですので、おかしなところがあっても発表された方々の責ではありません。)

渡辺由美子さん:陰キャメガネ男子に光あれ!

メガネ男子は「自己肯定感が低く自意識過剰で自虐・自滅的な思考を持つ「陰キャ」」であってほしいという強烈な情念が前面に出た発表で、たいへん迫力がありました。

しかし「陰キャ」といっても、もちろん「光のような存在に出逢って自己を肯定されて救われる」というカタルシスが伴っているからこそ魅力的な作品とキャラクターになるわけです。具体的に挙がったメガネ男子は、石川香織『ロッキンユー!!!』の不二美アキラと、永野のりこ『GOD SAVE THE すげこまくん!』でした。『ロッキンユー!!!』の画像が出た瞬間に会場から漏れる「あぁー(絵をちらっと見ただけで分かる、分かるぞ)」という同意の溜息が印象的でした。そして、永野のりこ先生も会場にいらっしゃっていたこともあり、すげこまくんの話は実に論理的かつ感動的な展開となりました。

すげこまくんを語るキーワードとして「「みんな以外」に響く物語」が挙げられましたが、このキーワードは99%にはキモいが一人には刺さる『ロッキンユー!!!』にも通じます。『ロッキンユー!!!』はWEBで読めますので、ぜひぜひ。私も一読してみて、渡辺さんが「エモい!」と主張する理由がよく分かりました。

Libroさん:実写『銀魂2』にみるキャラとメガネの関係

Libroさんからは実写『銀魂2』のメガネ描写を通じた考察の発表がありました。銀魂はもともと男女ともメガネの使い方が上手いのですが、今回の発表では特に実写版での志村新八、河上万斎、伊東鴨太郎の特徴あるメガネ描写の分析を通じて、メガネ表現(メガネの形や、割れる/透けるなど)がキャラクターの個性や感情を鋭く表現している様相を浮き彫りにしました。

さらに三次元の特徴(菅田将暉のイケメン)を消すために効果的にメガネが使われていることや、そもそも週刊少年ジャンプの主人公にメガネキャラが増加している事実(青柳氏の研究)、実写化で成功する条件など、興味深い話が盛りだくさんでした。

学会員誌面発表

お茶会参加者の推しメガネが発表されました。キャラが登場する毎に納得と共感の溜息が漏れるような、濃密な時間となりました(め組の甘粕問題は保留)。とりわけ会場を驚かせたのは、この日のために描き下ろしてくれた朝倉さんのイラストでした。

「お前の卓球は既に計算済みだ系」という「系」だけ妙に具体的ですが、確かにそういう「系」はありますね。
ほか、枯れたメガネ割烹着があざといなど、業の深さが如何なく露呈された時間となりました。

山田×メガネさん:iOFT報告+男子にかけたい新作メガネ

先日ビッグサイトで開催されたメガネの総合展示会iOFTに参加された山田×メガネさんから、お薦め新作メガネの数々が紹介されました。

紹介されたのは、「日本のかっこいいメガネ」として「Onimegane」「Tailor Hitch」「越前國甚六作」「design88」、「海外の素敵なメガネ」として「BRUNO CHAUSSIGNAND」「SARAGHINA」、「名前からメガネをさがしてみる」として「VioRou」「レチルド」「ヤブシタ」「メガネスーパー」、「メガネ男子へのプレゼントにおすすめ」として「EWS」「ケミストリー」「design88」でした。
自分でも買いたくなる魅力的なメガネの数々が紹介されて、興奮しました。自分の名前なので「atsushi」を買ってみるんですかね?

石山蓮華さん:「風立ちぬ」堀越二郎はプリンセス

電線愛好家の石山さんからは、ジブリのメガネ男子は「プリンセス」であるとの新説が発表されました。というのは、ディズニーアニメがプリンセスへの憧れをかき立てたのに対し、ジブリアニメはメガネ男子への憧れをかき立てたのであります。また、プリンセスとは「弱さを強さに転換できる」という存在であり、そこがディズニープリンセスとジブリメガネ男子の共通点という論理は、たいへん迫力がありました。具体的には、トトロの草壁タツオ・魔女の宅急便のトンボ・風立ちぬの二郎の分析を通じて、「弱さを強さに転換」の様相が示されました。ブルジョワおしゃれ野郎疑惑という観点からトンボに厳しかったのも面白かったのですが、それ以上に「堀越には本庄という王子様がいる」という説明がものすごい気合と迫力だったことが印象的でした。
質疑応答で、会場からは「最大のプリンセスは宮さん」という声がとび、一時騒然となりました。(個人的にはムスカの位置づけが気になるところではあります。)

ゲペルニッチさん:眼鏡川柳

眼鏡川柳とは、日常の中でふと出逢った記憶に残したい「眼鏡の瞬間」を切り取って残し、記憶の中のメガネくんにときめき続けるための技法ということで、「メガネ君への出せなかったファンレター」というフレーズが、とても印象に残りました。

一般的な眼鏡シチュエーションを詠んだ歌から、特定の人物を詠んだ歌まで、実に味わい深い歌ばかりでした。ひとつひとつの作品に対して会場からの発言が重なり、連想的に妄想が加速していく様が素晴らしかったです。最終的に「映らずに、映らずに見ていたいのです」と報告された時の会場の悲鳴と共感度MAXぶりも印象的でした。まさに、デカルチャー!という感じでありました。
ところで、最初に「眼鏡川柳」と見たとき、「眼鏡柳川」と読み間違えて、「痕の柳川とはなんと業が深い」と勘違いしてしまったのは秘密です。

日暮樹さん+鏡泪先生:鏡泪先生による2.5次元眼鏡男子紹介

いや、本当に心の底から衝撃を受けた発表でした。内容も楽しかったのですが、発表形式には心底びっくりしたのでした。キェェェェェェアァァァァァァシャァベッタァァァァァァァ!!! 発表原稿をあらかじめ声優さんに渡して声を録音してもらい、現場では立ち絵を出しながら音声を流すという形式は、まさに発表形式自体が2.5次元という、誰も考えつかないことをするのが大好きというレベルの凄さで、発表終了後には総立ちで「ブラボー」の声が飛んだのもよく分かります。いやあ、びっくりしました。
びっくりしましたが、もちろん内容も聞き応えのあるものでした。2.5次元メガネ男子の定義や、具体的なキャラクターの紹介(テニミュ、アルスマグナ、アイマスなど)、その魅力の根源についてプレゼンされました。二次元はあくまでも妄想で頭の中にあるものですが、2.5次元では生の声、生の動きでしゃべって歌って踊るのを目の当たりに見たり聞いたりすることができて圧倒的に生々しい躍動感あるリアリティを持つところが尊いということでした。「本当にいた!」という感じのようです。とても迫力がある発表でした。会場からも様々な2.5次元作品(ジョーカー・ゲームやハイキュー!!)が熱く熱く推され、時代が動いているという実感を持ちました。
ただ、2.5次元界の生々しい現実に話が及ぶと、いろいろ難しいところもあるのだなあと思わせられました。

次回大会に向けて

たいへんな熱気と迫力で、あっという間の3時間でした。次回大会は、もっと広い会場で行うべく鋭意準備中とのことなので、続報を刮目してお待ち下さい。

プログラミング教育のために?「LEGO BOOST」で遊ぶ(1)

レゴ(LEGO) ブーストを買ってきました。LEGOで組み立てるロボットですが、プログラムで動くんです。今後プログラミング教育に使うために、いっちょ触ってみようと思ったわけです。本当だよ。

さっそく箱を開けてパーツを取り出してみますが。

いやあ、なかなかパーツの数が多いです。しかも細かい。
あと、箱の中には組立説明書が入っていません。組み立てやプログラムの説明は、全部ネットを介して行なわれます。遊ぶためにはタブレット(あるいはスマートホン)が必須なので、購入を検討している人はご注意下さい。
ということで、まずはタブレットにアプリをダウンロードします。このアプリが組立説明書とプログラミング機能を兼ねています。

最初はいきなりロボットを作るのではなく、手慣らしに極めて簡単な「車」のようなものを作ります。説明書に従って作っていけば、10分もかからずに完成します。

本体についている緑のボタンを押すと、自動的にタブレットと通信して、コントロールできるようになります。
本体には動力が2つとセンサーが一つ付いています。このあとの動きはすべてこの2つの動力とセンサーによって行なうので、簡単な構造の段階で慣れておくといいかもしれません。

ということで、実際にプログラムを組んで動かしてみました。センサーを遮ると反応して、後ろに移動して回転しながら唸るという動きです。

プログラムでは、センサーの使い方によって様々な起動方法が可能な他、並列処理もできるようになっています。前に進みながらプロペラを回すという動きを並列処理で行なっています。

センサーと並列処理をうまく組み合わせると、様々な動きが可能になりそうですね。

さて、せっかく作った車のようなものですが、解体して、ロボット「バーニー」の作成にかかります。

なかなか細かいパーツが多いのですが、説明書が丁寧に段取りを踏んでいて、そこまで難しくはありません。小学生でも作ることはできそうですが、ちょっと時間はかかるかもしれません。

さて、頭が付いたところで、説明書は一度タブレットと通信するように指示してきました。

なるほど、一つめの動力で頭を動かすわけですね。実はブロックを組み立てながらだと、動力がどこにどのように伝わるのかが分かりにくかったのですが、こうやって実際に動かしてみると動力の使い道が具体的に分かります。

さらに組み立てを続けます。キャタピラがついて、だんだんロボットらしくなってきました。

説明書はここでタブレットとの接続を指示してきます。2つめの動力は、やはりキャタピラを駆動させるようです。

モーターが左右に2つ付いていて、この動きの組み合わせで前進後退・左右回転を行なうようですね。

そして腕が付いて、いよいよ完成です。じゃーん!

なかなかトボけた味わいのロボットではありますが、ところどころにガンダムを思わせるような曲線的なフォルムもあります。

ガンキャノンのように肩に発射装置を背負って、的に当てる遊びもできるようになりました。

ここまで休憩を入れながら作業して、だいたい3時間くらいかかりました。プラモデルを作った経験があったり日頃からタブレットを触っている人なら簡単に作業を進められると思いますが、慣れていないとそこそこ大変かもしれません。

ちなみに腕は付いているのですが、プログラムで動かすことはできません。あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのです。

さて、一通り外側が完成してからが本番です。ここからいよいよプログラミングの技を学習していくことになるわけです。(つづく)

【備忘録と感想】日本STEM教育学会 第一回年次大会

STEM教育とは?

日本STEM教育学会の「第一次年次大会」に参加してきましたので、見てきた内容を備忘録的に記し、併せて個人的な感想を残しておきます。(2018年10/13、於国立科学博物館)。
「STEM」とは、科学(Science)、技術(Technology)、工学(Engineering)、数学(Mathmatics)の頭文字を繋げたものです。だから単純に考えると理科系の教育のように思いがちなのですが、これからの社会の変化(情報化・グローバル化)を考えた時には、むしろ文系にとって極めて重要な領域になるだろうことが想定されます。というか、そもそも理系と文系が断絶した現在の教育システムの弊害を超えようとする時に、この「STEM教育」という概念がキーワードになるだろうことが考えられます。
私個人も来年度からICT教育を担当するということもあり、いっちょ噛みしようということで出かけていったわけですが、たいへん刺激的でした。

教育改革とこれからのSTEM教育

残念ながら午前中のメニューには授業のために参加できなかったのですが、鈴木寛氏の記念講演「教育改革とこれからのSTEM教育」には間に合いました。なかなか熱が籠もった講演でした。
まず産業構造が転換し、250年ぶりに人類史が根底から変革するという、例の情報革命テーゼが前面に打ち出されます。情報技術の革新についていけないと、個人は職を失うし、日本は滅びるというわけです。
その認識を前提に、日本の教育を点検します。OECDのPISA調査の結果からは、日本の小中学校の理数教育は極めて優秀で、全世界でトップに立っていることがわかります。具体的には、日本には理数系が得意な学生(Level4以上)が20万人存在していますが、これはアメリカと同じ水準です。つまり潜在的には、日本には科学技術を支える人材が充分に揃っているはずなのです。ところが話が大学教育に移ると、とたんに科学技術を支える人材の数がめっきり減ってしまいます。つまり問題は義務教育段階の実践にあるのではなく、高校と大学の接続にあるだろうことが見えてきます。つまり一番の問題点は、高校のカリキュラムと大学入試にあるわけです。
そこで文部科学省は高校のカリキュラムを改訂した上で、高大接続のあり方にも抜本的に手をつけることになりました。まず高校には新たに理数科の「探究」という科目が登場しました。これは単に教科書の内容を覚えるのではなく、「探求」というタイトルにふさわしく、自ら課題を発見し解決していくというスタイルの「新しい学び」が期待されている科目です。しかし大学入試のあり方が変化しなければ、この「探求」という科目も絵に描いた餅に終わります。この科目の目的を実質化するために、大学入試のあり方として「AO入試」の割合を増やすべきこと(全体の30%目標)が提唱されています。もちろん学力の低い人間が一芸で合格するとかそんな生易しいAO入試を想定しているわけではなく、高校時代の「探求」のあり方が総合的に判断されるような実力本位の入試が要求されます。高校カリキュラム改革と大学入試改革が一体となって、これからの社会に必要となる優秀な人材を確保・育成する環境を整えようというわけです。
また、文科系の人間が数学を放棄する傾向に対しても歯止めをかけるべきことが提唱されています。今後の社会では、文科系の仕事は次々とAIに奪われることが想定されます。AIに代替不可能な創造的な仕事ができる人材を育成するためには、これまでの文系/理系を分断する教育システムではうまくいかないことが容易に想像できます。本来は、ScienceとSocietyを往還するような、理系や文系の分断のない教育こそが求められるべきです。そのために、数学や理科の学習を安易に放棄してしまう学生を生み出す現在の受験システムは早急に改められるべきだという主張です。
また具体的な教育のあり方としては、近代的な一斉教授が消え去り、効果的な個別指導が大規模に展開するという見通しが示されます。というのは、個人別の「スタディ・ログ」が蓄積されて膨大なビッグ・データとなり、それをAIが分析活用することによって極めて精度を高めた学習支援が可能となると見透しているわけです。
そんなわけで、これからの教育改革の方向性として、具体的に一言でいうと「文理分断からの脱却」が喫緊の課題として掲げられた講演でありました。

考えるべきこと

まあ、全体的に言いたいことは分かる気がします。とはいえ、考えなければいけないことはもっとたくさんあるようにも思うわけです。高大接続も確かに大問題ですが、たとえば個人的には大学卒業後の就職システムに本質的な問題があるような気もします。極めて単純化すれば、文系の方が理系よりも稼げる世の中で、優秀な学生がわざわざ理系を目指すかという問題です。東大文Ⅰを目指していたような人間が、敢えて理工学部を目指すかという問題です。あるいは東大文ⅠからSTEM人材が育つかという問題です。もともと慶応湘南藤沢キャンパスを目指すような学生なら言わなくても分かる内容のはずですが、しかし一方で東大文Ⅰを目指す学生に対して説得力を持つかどうか。
つまり、本物の力をもつ人材が持っている力を存分に発揮できる「人材配分」の仕組みを考えた時、これはもはや教育システムの問題ではなく、日本社会全体の構造の問題だろうと思うわけです。それを踏まえると、社会構造全体にメスを入れることなく教育システムだけをいじって「人材配分」をコントロールしようとしても、歪みをさらに増幅させる結果に終わるような懸念も生じます。教育にできることは「本物の力を粛々と伸ばす」ことだけで、人材配分のあり方については産業界の方に反省してもらわないといけないのではないかという感想を持ちます。4年生が就職活動のために授業を休むのが当たり前という、大学が就職予備校に成り下がっている現在の風潮は、教育システムの反省だけでは如何ともしがたい、STEM教育以前の大問題だと思うんですけれどもね。

シンポジウム「小学校プログラミング教育の実際と展望」

さて続いて、小学校プログラミング教育に関するメニューです。シンポジウムでは、3人の立場から報告がありました。(1)文部科学省の役人(2)教育研究者(3)教育委員会の3つの立場です。

(1)文部科学省からは、学習指導要領改訂の狙いについてお馴染みの話(社会に開かれた教育課程とカリキュラム・マネジメント)を踏まえた上で、プログラミング教育について説明がありました。プログラミング教育に向けてほとんどの教育委員会は実際に動けていないというデータ、教育委員会を支援するために文科省が「手引き」を作ったことなどが示されました。
その上で、文科省として教育委員会に求めるのは、まず一度実際にプログラミング教育を試してみることでリソースの確認と予算要求の目処を立て、すべての教員が模擬授業を体験できるところまで学校と教員を支援してほしいということでした。
と言いつつ、文科省の役人という立場を離れ、一人のお父さんとしてプログラミング教育を試してみた経験は、「まずやってみる」ことの重要性が極めてよく分かる、説得力がある上にたいへん微笑ましい話でした。

(2)研究者の兼宗先生はドリトルの開発者ということで、たいへん分かりやすいデモンストレーションを見せてもらいました。個人的に心強かったのは、プログラミング教育を目的ではなく「活用」として理解するべきだと強調していたところです。私も同様に思います。もしもプログラミング教育を「目的」と捉えると、単に教えるべきコンテンツがひとつ増えて現場の教員の負担が重くなるだけです。しかし「活用」と理解すれば、授業をさらに「深い学び」に持っていくリソースが増えることになります。兼宗先生は、プログラミングを低学年で「スキル」として身につけることで、高学年で「活用」できるという見通しを示しましたが、それは「字」というスキルを覚えるのと同じことだと主張します。低学年で覚えた「字」が、高学年で理科や社会で使えるのと同じことだというわけです。要するに、コンピュータは「コンテンツ」ではなく「リテラシー」と理解するべきものだということです。

(3)教育委員会(横浜市)からの報告は、いちばん生々しいものではありました。教育現場ではプログラミング教育に対して漠然とした不安が蔓延しているそうですが、まあ、そりゃそうだなあとしか。で、その不安を解消するために、教育委員会としては、(1)実践推進校で先進的な取り組みを蓄積する(2)研修を通じて人材育成をする(3)授業支援を行なうという具体的な取り組みを始めているようです。まずは柱となる理科・数学での実践を蓄積しながら、ICT支援員を増員しつつ、各種研修会を充実していくことを考えているようです。
文部科学省の「掛け声」はよく分かっても、それを実現するために実際に組織を動かしていくのは大変だよなあと、頭が下がる思いではあります。

考えるべき事

三者三様の立場からの話だったこともあり、当事者の間でも意識が乖離していることがよく見えるシンポジウムでもありました。研究者は「目的ではなくリテラシー」と明確に打ち出しているのですが、教育委員会の方は学習指導要領の要求を実現するために組織を動かすことに必死な状況で、そこまで意識を高める余裕はまったくないように見えました。一方で、文部科学省はその中間で、理念については高く掲げつつ、現実的には具体的な授業に落とし込むことに専念しようとしている感じです。
私としては研究者の見解にたいへん共感するわけですが、それを現実の授業に落とし込む教育委員会の仕事の大変さを思うと、文部科学省のような漸進的なやり方も分からないわけではないというところではあります。いやあ、どうなるのかね(←他人事ではない)

一般研究発表

一般研究発表もたいへん熱が籠もっており、それぞれとても印象に残りました

(R02)つくば市教育委員会の実践は、他の本でも読んで知ってはいたのですが、改めて聞いてすごいなと思いました。具体的な話題に挙がったのは小学校1年生「スイミー」での実践です。総合的な学習の時間であらかじめプログラミングのスキルを身につけた上で、国語の時間の「活用」としてプログラミング(アニメーションの作成)を取り入れた実践です。言語活動の一環としてプログラミング思考を養う姿勢が一貫しており、教科の本質とプログラミングという活用手法が無理なく融合しているように見えました。

(R03)Scrachの公開プログラムを分析して発達段階論の根拠とする手法には、目から鱗が落ちました。この手法、コンピュータ以外のテストや作文の分析にも応用できたら、一般的な発達段階論にも大きなインパクトを与えます。まあ、スタディログを収集してAIでビッグデータを分析するという発想は、まさにそういうことですが。

(R04)Scrachを開発しているLiflong Kindergardenの理念を土台として、実際に教師研修を行なった報告でしたが、とても印象に残りました。Lifelong Kindergardenは日本語に翻訳すれば「生涯幼稚園」となるわけですが、その名の通り、幼稚園の活動に教育の本質を見出して生涯教育に取り入れようとするチームです。幼稚園の教育の本質とは、「まず実際に自分でやってみる」という「構築主義」にあります。試行錯誤を繰り返しながらできることを増やして概念を豊かにしていくという教育手法です。これを幼稚園だけでなく、すべての教育の土台に据えようというとき、プログラミング教育が有効な手法として浮かび上がってきます。Scrachとはそういう理念と哲学の上に作られたプログラミング言語だったんだと、改めて感心した次第です。
そしてその理念を元に教員研修を行なった結果が報告されたのですが、本当に教員一人一人の力がめきめきと伸びていました。構築主義の威力を目の当たりにした思いです。

シンポジウム「これからのSTEM教育の実践と評価」

最後に、様々な立場から今後のSTEM教育の展望が報告されました。

東京学芸大学の大谷忠先生の報告は、産学協同で大規模なSTEM教育プロジェクト(STEMQUESTスタジアム)を実践したもので、たいへん刺激的でした。子どもが興味を持ちそうなアトラクションを作り、具体的な課題を設定し、それを子どもたちが自力で解決していくというプロジェクトです。自分が子どもだったら夢中でハマりそうな、楽しそうな実践です。そして実践の土台となる理念として、STEMの「E」を中核とする話は、ナルホドと思いながら聞きました。とはいえ、「評価」についてはまだまだ難しい問題があるということも分かりました。

電気自動車普及協会の有馬仁志氏からは、学生コンペの話がありました。学生コンペなら眼鏡協会もやっているぞと思いながら聞いたのですが、大きな違いは、コンペの過程で学生たちが産学の専門家たちからアドバイスを受けたり、他の学生チームとコミュニケーションをとりながらプロジェクトを軌道修正していくところでした。完成したものだけを評価するのではなく、「過程」を評価するというSTEM教育の本来のあり方を垣間見たような気がしました。

研究者の赤堀先生からは、プログラミング教育とは単にアルゴリズム(手続き)の知識や技術を身につけることではなく、実は「デザイン」の力をつけることがきわめて重要だという示唆を受けました。デザインの力は、理科系的な手続きの知識や技術から出てくるものというより、文科系的な国語読解力や社会考察力と相関が強いということでした。そして日本人は手続き自体の力は持っていても、デザインの力が弱いのではないかと指摘します。やはり文系と理系が断絶している現在の教育のあり方は、理系にとっても文系にとっても良くないということが見えてきます。

最後に白水始先生が総括をしました。いわゆるアクティブ・ラーニングを実践する際にも、子どもの主体性に任せるという掛け声の下で単なる放任に陥っている場合があるのですが、効果的に自主性を引き出すための有効な問いの立て方=「ドライビング・クェスチョン」が重要であるという話でした。プログラミング教育だけでなく、一般的な教育を考えていく上でも重要な視点でした。

まとめ

まあ、盛りだくさんすぎて一言でまとめられるような感じはしませんが。とても若々しく、未来に向けて希望に溢れた空気を感じました。こういう雰囲気は、他の学会にはない気がするなあ。まあ、第一回ですからね。
私としても、今後の授業や研究に活かしていけるよう、研鑽を重ねたいと思いを新たにし、上野の国立科学博物館をあとにするのでありました。

参考記事等リンク

なぜ今STEM教育が必要なのか――日本STEM教育学会 設立記念シンポジウム
10/11に開催されたJSTEMシンポジウムの記事。プログラミング教育とカリキュラム・マネジメントの関係にも言及されていたりと、これからの教育を考える上で大まかな方向を把握できる。

【感想】佐野翔音監督『こども食堂にて』

映画を観てきました。「こども食堂にて」というタイトルで、もちろん子ども食堂が舞台の話です。
いやあ、涙腺はもともと強い方ではないのですが、最後の方はずっと涙腺が崩壊したままでした。いい映画でした。

児童虐待の辛い体験を乗り越えて前向きに生きる女子大生が、子ども食堂でボランティアに携わり、様々な事情を抱える子どもや大人と関わっていく話です。体中に痣を作って被虐待の疑いが強い女の子や、悪いと分かっていながら障害を抱える子どもに手をあげてしまう母親や、実の母親に会いたいことを里親に言い出せない男の子など、生き辛さを抱える人たちを「見守ることしかできない」という子ども食堂の活動の過程で、少しずつ主人公が成長していきます。

この映画を観て、私が強く思ったことが三つあります。(1)チームの重要性、(2)食べることの意義、(3)家庭でも学校でもない第三の場所の重要性です。

(1)チームの重要性
主人公は、最初は一人で問題の渦中に突入していくのですが、何もできない自分に対する情けなさで無力感を強めるだけに終わります。しばらく「私は何もできない」と落ちこむのですが、偶然入ったガラス工芸店で、何人もの専門家が関わって初めてようやく一つの作品を作り上げることができることを聞き、考えを改めます。一人でできることには限界があるけれども、たくさんの人が役割分担をして一人一人の持ち場を誠実に守っていくことが、最終的に価値ある仕事に繋がっていきます。
そう考えると、子ども食堂の運営者が言う「私たちの仕事はここまで」という言葉は、とても含蓄が深いものに思えます。もちろんそれは行きづらさを抱える人々を突き放す言葉ではなく、自分の持ち場を誠実に守るという決意を前提として、他の持ち場を守る人々をチームの仲間として信頼する言葉でもあります。自分たちの仕事に限界はあるけれども、他の専門家たちと連携することで様々な困難を解決できると信じている言葉です。実際、この映画では、子ども食堂と児童福祉に関わる専門家たちとのコミュニケーションが、しっかり描かれています。
私も大学の教職課程を持ち場としている身として、まずは自分の持ち場をしっかりと守りつつ、他の専門家の方々との連携を深めていくことが大事なのだと、改めて認識しなおした次第です。

(2)食べることの意義
映画の舞台が「こども食堂」ということで、もちろん「食」が中心的なテーマとなっている映画です。子ども食堂の運営を裏から支える八百屋さんや魚屋さん、パン屋さんたちの温かい活動が、さりげなくも丁寧に描かれていました。また、子ども食堂のシーン以外でも、コミュニケーションツールとしての「お饅頭」の扱い方が印象的で、人と人を繋げる行為としての「食」がライトモチーフとなっているように感じました。
言うまでもなく、生きることのいちばんの基本は「食」にあります。が、このいちばん大事であったはずの「食」の土台が、現代では壊滅的に崩れてきています。特に現在では「食」が徹底的に個人化・市場化してしまい、人と人を繋げる基礎が見えなくなっています。失われた「人と人との繋がり」を取り戻す上で、「子ども食堂」が「食」を基礎に置いていることは、とても重要なことのように思います。単に話を聞いても何も話してくれない子どもも、安心して「食」に参加できる場では口を開いてくれそうな気がします。安全に「食」を楽しむことは、生きることを無条件に肯定することだからです。
よくある勘違いとして、子ども食堂は貧困の子どもを対象にしていると思われがちですが、本来はそうではありません。貧困かどうかに関係なく、子どもたちが安心して「食」に関われる場です。生きるための基礎となる「食」が安定して、初めて人と人が繋がる条件が成立するということが、よく分かる作品だと思いました。

(3)家庭でも学校でもない第三の場所の重要性
近年では、子育ては家族がもっぱら責任を負うべきものだとされがちですが、かつてはそうではありませんでした。生産力の低い時代、子育ての優先順位は低く、まずは生存に必要なカロリーを確保することが最優先事項でした。大人たちは農作業や狩猟で忙殺され、子育ては近所の小さな女の子が担当する(いわゆる子守)など、地域全体で担うものでした。現代では生産力の向上と同時に家族の島宇宙化が進行し、家族が子育ての責任をもっぱら背負うようになり、地域が子育てに関与しなくなりました。児童虐待の増加は、このような「家族にだけ責任を負わせる」ような子育て形態の変化が土台にあるように思います。
地域の存在感の低下を埋め合わせるように児童相談所など行政への期待が増してきていますが、まだまだ人員や予算が不足しているため、すべてをカバーしきることは難しい状況です。そんな中、かつては地域が行ない、本来は行政がカバーしなければいけない領域を代わりに確保しているのが、子ども食堂という存在だと思います。その存在は、作中では「家庭でも学校でもない第三の場所」と呼ばれました。
80年代から90年代にかけての少年にとって、「家庭でも学校でもない第三の場所」はゲームセンターだったりストリートだったりしました。そこでは家庭や学校の序列からは解放されて、本来の自分を取り戻せるような感覚を得られました。今では、その場所はインターネットなど仮想空間になっているかもしれません。が、仮想空間では、お腹がふくれません。「第三の場所」としての子ども食堂は、子どもたちの居場所を確保する場として、本当に貴重な存在だと思いました。

そんなわけで、この作品、派手な演出があるわけでもなければ、びっくりするようなドンデンガエシの脚本なわけでもありません。ドキュメンタリーの手法を交えた、会話中心で進行する、地味な映画であるとはいえます。が、観てよかったなと、確実に思える作品でもあると思います。いろいろな立場の人に観てもらいたいなと思いました。私個人は、地域の子ども食堂に実際に行ってみたいと思いました。観る前には心のなかに存在しなかった感情です。
上映後に行なわれた監督のトークショーも興味深く聞きました。まさか作中の重要な登場人物が監督本人だと思っていなかったので、そこそこ意表を突かれました。

2018年10月12日まで、渋谷アップリンク上映中「こども食堂にて」

【感想】青年劇場「キネマの神様」

青年劇場の「キネマの神様」という演劇を観てきました。原作は原田マハの小説です。

*以下、ネタバレを含みますので、劇を見たり本を読んだりする予定がある方は、見ないようにしてください。

 

 

見たあと、とても幸せな気分になれる作品でした。それぞれ問題を抱える登場人物たちが、協力して一つのプロジェクトを成功に導いていく過程で、自分自身の問題を解決していくという筋書きです。登場人物たちの問題が複雑に絡み合うため、筋書きそのものは単純ではないのですが、一つのプロジェクトが成功に向かって行く柱が分かりやすく、最後まで作品世界に入りこんで楽しむことができました。

登場人物たちが抱える課題とは、
(1)アラフォーのヒロイン:思い込みが激しい性格が災いして、長く勤めた会社を退職。
(2)ヒロインの父親、ゴウちゃん:ギャンブル依存症で多額の借金を抱えている上に、心筋梗塞で倒れる。
(3)名画座の主:時勢の流れに逆らえず、名画座を畳まなければならないと思い詰める。
(4)映画雑誌の編集長:夫が自殺し、ひきこもりの息子を抱えている。
(5)ひきこもりの息子:ひきこもっている。
という具合なわけですが。

こういう問題を抱えた登場人物たちが、協力して「キネマの神様」という映画評論サイトを立ち上げ、自分の持ち味を存分に発揮していきます。それぞれの持ち味がチームの中でがっちり噛み合って、奇跡的な成功に向かって行きます。きっと誰か一人が欠けただけでも、この成功はもたらされなかっただろうなと思います。一つのプロジェクトを成功させようと全員が真剣に取り組むからこそ、お互いの持ち味を尊重し合い、自分の能力を最大限に発揮して、チームが一つに固まっていくのだなと思いました。

ゴウとローズ・バッドが論争のやりとりの中から友情を紡いでいく過程も、とても刺激的でした。最初はゴウを見下していたローズ・バッドが次第に相手の人格を尊重し始め、最終的にかけがえのない友情を築き上げていく展開には、ついホロリとしてしまいました。
お互いの人格を認め合えないまま相手を罵って一方的に勝利宣言して終わる昨今の不毛なtwitter的論争と比較した時に、なんと奇跡的な「論争」でしょう。こういった論争を成立させるためには、どうしても「映画を愛している」という共通項が存在しなければならないのでしょうけれども。愛している映画の前では、自分のプライドなんて、ちっぽけでつまらないものなわけですから。
ローズ・バッドは、ゴウの映画批評に対して「人間性が表れている」というような意味のことを言いました(正確な表現は忘却)。私も本の感想などいろいろなことを書き散らかしている身ではありますが、ちゃんと私の文章に私の人間性が表れているかどうか。まずは「自分自身に嘘をつかない」という意識を徹底しなければいけないなと、劇を見ながら思った次第です。

要所要所で織り交ぜられる細かいギャグも効果的で、最初から最後まで集中して見られる舞台でした。とてもおもしろかったです。

■青年劇場「キネマの神様