「日々随想」カテゴリーアーカイブ

【感想】クリムト展―ウィーンと日本1900(東京都美術館)

東京都美術館で開催されている「クリムト展―ウィーンと日本1900」に行ってきました。

とても面白く観てきました。やはり有名な「ユディトⅠ」の生は圧巻でした。図版で見ている時は気づかなかったのですが、生で見ると、額縁も含めた立体的な装飾技術が素晴らしいのに驚きます。平面的な装飾美術と立体的な装飾美術の総合が、他にない独特の雰囲気を作り出しているような感じがしました。人物表現の立体性(顔と乳房)と平面性(頭髪と衣服)の落差に対する衝撃も、全体的な装飾技術の立体性と平面性の落差によってさらに際立っている気がします。見入ってしまいました。凄いです。

あと不勉強にして知らなかったのですが、「ベートーヴェン・フリーズ」は圧巻でした。わけの分からない執拗な迫力に満ちております。お腹とか、垂れた乳房とか、膝の描写とか、病的で、衝撃を受けます。この病的な感じに対して、なんとなく宮西計三とか大矢ちきとか山岸凉子とか楠本まきとかを思い出してしまうわけですが、もちろんクリムトのほうが先ですね。

個人的な研究に関して、もちろん私は美術の専門ではないわけですけれども、かねてから気になっていたのは19世紀後半から20世紀初頭にかけて先鋭化していったように見える「純粋芸術/装飾美術」=「普遍主義/民族主義」の展開過程です。先行研究でもジャポニズムの流行と絡めて議論が進んでいるところだと思います。クリムトが活躍した多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国でも、大ドイツ主義の挫折とも絡んで、芸術概念の再編成とナショナリズム意識の錯綜とした展開があっただろうと思います。チェコのアルフォンス・ミュシャとは異なって明示的な民族主義は見られないものの、ジャポニズムの影響を受けつつ「純粋芸術」に対する「分離」を志向したクリムトにも、何らかの時代精神が反映しているのではないかと注目しながら見たわけではあります。が、まあ、私の現在の実力では、よく分かりませんでした。そういう観念的なものよりも、「退廃」や「官能」や、あるいは「死」の臭いの方が圧倒的に濃厚でした。敢えてやるとすれば、同時代のベルグソンとかディルタイとか、「生」という観念から接近する方が相応しいのでしょうが……

「接吻」とか「ダナエ」とか「人生は戦いなり」がなかったのは少し残念ですが、まあ、また別のところでぜひ。

山田喜一先生を偲ぶ

たいへんお世話になった山田喜一先生が、亡くなりました。あまりに突然のことで、呆然としています。

2011年から6年間、文京学院大学の教職課程センターで一緒に仕事をしました。公私の生活の激変に加え、東日本大震災によって日本全体が極めて困難な時期に、本当にお世話になりました。それまで公私ともにフラフラしていたのですが、山田先生の指導の下で立ち直った気がします。部下に仕事を自由に任せ、うまく運んだときは功績を認め、ミスしたときには自分がかぶって責任を取ってくれるという、上司として極めて理想的な方でした。「学生に力をつける」という運営方針が首尾一貫していて、言うことがコロコロ変わらないので、安心して仕事や研究に専念することができました。
現職に決まった時も、たいへん喜んでくれました。いつでもお話しできるだろうと思っていて、あれからあまりお話しする機会を持たなかったことが、今になって悔やまれます。

山田先生は都内の美味しい店をよくご存じで、様々な機会にいろいろなお店に連れて行ってもらいました。河豚や鱧など、なかなか口に入れる機会のないものを教えてもらいました。山田先生が語る武勇伝の数々は、田舎者の私にはにわかには信じがたいエピソード(東京下町の遊郭とかヤクザとか)が多く、驚いてばかりでした。
ご専門の地理学に対する造詣も極めて深く、様々なインスピレーションを頂きました。まず思い出すのは、家康の江戸都市計画をオランダ都市設計と絡める議論です。江戸は運河を張り巡らした水の都市なのですが、この計画は三浦按針などからアイデアを得ていたのではないかという仮説です。この話をする時はいつもとても楽しそうで、とても印象に残りました。都市計画全般や地政学に関する理論的な話も刺激的でした。恥ずかしながらそれまで地理学に対して大した関心を持っていなかったのですが、山田先生の話を通じて、地理学という学問の創造性が極めて高いことに初めて気づかされました。個人的には、内村鑑三や志賀重昂のような人が地理学を通じて明治日本に与えた影響を改めて考え直す機会になりました。

ようやく退職されて自由になった矢先のことで、たくさん旅行の計画があっただろうに、無念だっただろうと思います。タイミング的に、再課程申請の激務がたたったのかなあなどと、どうしても想像してしまうところでもあります。
ご冥福をお祈りいたします。

【感想】戸田ひかる監督『愛と法』

戸田ひかる監督のドキュメンタリー映画『愛と法』を観てきました。(北区2019ねっとわーくまつり5/19)
『愛と法』は、男性同性愛カップルの弁護士コンビが、様々なしんどい裁判に関わりながらも、愛に溢れる日常生活を送る様子を描いた作品です。たいへん興味深く観ました。隅々まで愛に満ちあふれた映画で、とてもおもしろかったです。

彼らが関わった裁判は、無戸籍裁判とか、ろくでなし子猥褻裁判とか、大阪君が代不起立裁判とか、まさにマイノリティ=少数者に焦点が当たり、人権や憲法解釈の根幹に関わるものばかりでした。「少数者が不利益を被らないように最後の砦になるのが憲法の役目だ」という話は、私の授業(教育原理)の中でもしっかり行なっているつもりなのですが、その当たり前の人権感覚が失われつつあるという実感は、確かにあります。憲法の原理的な意義を理解していない学生が、本当に多いです。自分にできることは教育原理の授業だけではありますが、できることだけはしっかりやらないと、と改めて思った次第です。

車の中で「仕事ができないけどスーパーマンになれない…」と言って涙を流すフミのエピソードには、様々な意味で、胸が痛みました。自分一人でできることって、本当に限られているんですよね。しんどい人たちを救いたいのに、自分の力では何もできないという。私の目の前にもしんどい子たちがたくさんいるのですが、私の言葉は彼女たちに届きません。自分には何もできないという無力感は、フミと共有しているかもしれないと思いました。そしてその自分の弱さを率直に表現できて、涙を流すフミは、根っから優しい人なんだなと。この無力感に対する悔しさというものは、忘れてはならない感覚なのだと思います。たぶん。力が欲しいですねえ。

一方、二人や周囲の人々の日常生活を描くエピソードも、とても素敵でした。全編を通じて食事のシーンがたくさん登場するのが印象的でした。施設からひきとったカズマが独り立ちしていく過程は、とても勇気づけられました。幸せになって欲しいと心から思いました。
カズの歌も、とても素敵でした。Pictures and Memoriesの動画も、思わず家に帰ってから見てしまいました。多芸で、すごいなあ。

個人的に「子ども食堂」や社会的養護などに関わる機会が増えてきました。いま強く思うのは、周辺的な状況に追いやられている人々がますます不可視化されているということです。この作品は、しんどい人たちをまず可視化するための試みとして、とても尊いものだと思いました。「サバルタンは語ることができるか」などと韜晦している場合ではなく、可視化のための努力は地道に続けていかなければならないと思います。
カズとフミ、お二人の今後のますますのご活躍を祈りつつ、私は私にできる仕事を着実に進めていかねばならないと、改めて思ったのでした。

映画の内容とはまったく関係ないのですが、ろくでなし子裁判エピソードで、主人公の二人以上に山口弁護士が無駄に感じが悪く目立っていたのに、つい笑いました。

映画.com「「愛と法」戸田ひかる監督が語る”可視化”することの大切さ」
TOKYO RAINBOW PRIDE「ドキュメンタリー映画『愛と法』戸田ひかる監督インタビュー~人との「つながり」を大切に~」

【備忘録と感想】関東地区私立大学教職課程研究連絡協議会2019年度「合同研究大会」

関私教協2019年度「合同研究大会」(2019年5/12於東京都市大学世田谷キャンパス)に参加してきたので、備忘録がてら感想を記す。

苧坂直行「新しい社会に求められる資質と能力~ワーキングメモリと社会脳の視点から」

ご専門の認知心理学の話だった。とても面白く聞いた。分野の最先端を行く人の話は、やはり端々の言葉に宿る知性と教養が段違いだ。個々の心理学的事例がお馴染みのものばかりだったのは、おそらく素人にも分かりやすく話そうとしたからだろう。

で、話の焦点は「認知脳=ワーキングメモリ/社会脳=デフォルトモード」の二項対立的(シーソーモデル)な論理だった。古典的な心理学で扱ってきた「注意(外部環境への気づき)」に当たるのが認知脳で、「自己-他者意識」を対象とするのが社会脳ということだ。従来の心理学では「単独脳」の解明に力を注いできたが、現代の認知心理学では「複数脳」を対象とした研究が発展しているのだそうだ。従来の単独脳研究では「認知脳」の働きしか究明できなかったが、複数脳研究が進展することで新たに「社会脳」の働きが明らかになってくる。
そして心理の三層構造の話で「生物的意識→知覚・運動的意識(認知脳)→自己他者意識(社会脳)」という話があったが、そこで「自己他者意識=社会脳=リカーシブな意識」という説明が出た時には少し興奮してしまった。「リカーシブな意識」というキーワードが、私が常々考えてきた「人格とは<再帰的な一>のことだ」という命題と共鳴したからだ。

そして個人的に思いだしたのは、近年、人間の人間たる所以を「社会性」に求める議論が各分野で広く行なわれているということだ。肉体的に優位にあったネアンデルタール人(旧人)が、より劣るはずのクロマニヨン人(新人)に負けたのは、集団を形成する社会性という点では圧倒的に新人のほうが優れているとか。あるいは教育の世界でも、個々の能力を競争的に上げるよりも、集団の能力を共同的に開発した方が効率が高いとか。(まあ、そんなことはギリシア時代にアリストテレスが既に見抜いていたことではあるが。)
そして今回の講演で聞いた「単独脳」から「複数の脳が一つの心に」という話から、ユングの共同無意識とか「幼年期の終り」とか「ブラッドミュージック」とかエヴァンゲリオンの人類補完計画を想起するのであった。

いろいろインスパイアされたし、日本を代表する碩学と面と向って話ができる機会もめったにないので、お話しを伺ってしまった。で、認知心理学の知見においても「自己を確立する」ことが極めて重要だと考えていることを再確認できたのは大きな収穫であり、励みであった。そしてもちろん「自己」は単独で確立できるものではなく、「他者」があって初めて成立するものだ。「社会脳」の研究は、そういう「自己と他者の相互関係―リカーシブな自己」の謎を解き明かす重要な知見を与えてくれることが分かった。
まあ、思い返してみれば、認知心理学はピアジェやヴィゴツキーからそういうことを言っているわけではあるが。

また、ソクラテス=プラトンの「哲学的問答法」の本質を理解する際にも、「認知脳/社会脳」の二項対立図式は一つの示唆を与えるように思った。というのは、論理的な領域には認知脳が対応するが、それを超越する原理的理解に対しては「対話的」な社会脳が対応すると考えられるからだ。一人の論理(単独脳)では答えに辿り着かなくとも、複数による対話(複数脳)であれば答えに辿り着く。実はソクラテス=プラトン「哲学的問答法」の本質は、認知心理学的洞察と共鳴しているのかもしれない。
認知心理学は、横目にちらちら見ながらも、本格的な勉強の優先順位としては上げずに敬遠してきた領域だったので、今回の話を聞いて、ちょっと優先順位を上げていこうかなと思ってしまった。

松田恵示「社会のシステムの変化と資質・能力の育成―AI時代の教育の視点から―」

AIによって教育がどう変わるかという教育界喫緊のテーマだった。面白く聞いた。まあ「教育の情報化から教育の高度情報化へ」という内容は、アンテナを張っている人にとってはお馴染みのテーマではあるだろう。私としても知識をしっかりアップデートしているつもり(NHKの「人間ってナンだ?超AI入門」を見るくらいだけど)ではあったが、改めて「私の方向は現在のトレンドとズレていないな」と安心する機会になった。
そしてAI化のトレンドの基礎を踏まえつつも、「産業界からの圧力」に対する違和感を教育者として表明してくれたのは、とても心強かった。やはり教育には経済とは異なる教育の論理があるはずだ。

そしてやはり碩学と直接お話しができる良い機会なので、「Agency」について詳しく伺った。個人的にも様々な機会に「Agency」という言葉を聞くようになって(たとえばONGのシンポ)、気になっていたのだが、本公演でも「責任主体」という日本語で説明された。先生のお話によれば、やはり直接関わっているのはOECDということだった。そして、従来から使われているCharacterという言葉は個人の内部的な性向を指し示すのに対し、Agencyは他者や社会との繋がりが意識されている言葉ということだった。確かにそうだ。これは苧坂氏の「単独脳から複数脳へ」の流れと完全に響き合っている話だ。
OECDの背景にあるAgency思想の源について調べるのは、私自身の仕事だ。それはおそらく教育基本法第一条「人格の完成」の捉え方にも影響を与えることになるはずだ。

市川伸一「習得における「主体的・対話的で深い学び」~教授と活動のバランスに配慮した授業づくり」

いちばん教育現場に近い話で、いわゆる「アクティブ・ラーニング」をテーマとした内容だった。従来のアクティブ・ラーニングがいかに誤解にまみれて型に嵌まっていたかという指摘から始まったが、いやいや、良かった。アクティブ・ラーニングに対する私の解釈と、だいたい同じ方向を向いていることを確認できた。

まあ「教えて考えさせる授業」というのは、理屈としてはよく分かる。具体的な実践の数々を見ても、成果が上がっているのは、よく分かる。が、自分自身の授業で実現しようとすると、これがなかなか難しい。私も自分自身の「授業デザイン」を工夫していかなければならない。がんばろう。たとえば、私は100名近くのマスプロ授業を持っていて、これまではなかなか双方向型の授業を好走するのが難しかったのだが、いまはGoogle アンケートを活用するとそこそこ上手く双方向の「教えて考えさせる授業」になるような手応えを感じつつあるのだった。

そんなわけで、研究大会後の情報交換会でも有益な情報(IBは筑波大附属坂戸とか、国泰寺の近くのタケノコが美味しいとか)を得たり、流経大で私の授業を取ってくれた学生が現在では立派な研究者に成長していて教育者冥利に尽きたりとか、様々にインスパイアされて帰ってきたのでありました。研究と授業、さらに頑張りましょう!>私

小学校は「刑務所通わされてるようなもん」なのかどうか?

日刊スポーツが「堀江氏、小学校は「刑務所通わされてるようなもん」」という記事をネット配信した(2019年5/10)。彼の価値観云々に対してではなく、このような言説を含めた状況全体について、思ったことがあるので、備忘録がてらコメントを残しておく。

まず「学校が刑務所のようなもの」という見解には、学問的なモトネタが存在する。ホリエモンのオリジナルではない。フーコー『監獄の誕生』(1975年)やイリッチ『脱学校の社会』(1971年)等で、40年以上前から学問的に示されてきた見解だ。それらの著書では、学校と刑務所(さらには病院)を、単に比喩的な意味ではなく、人間性を強制的に作り替えるものとして、本質的に同じ作用を持つ権力装置として議論している。そこには「近代」という時代の本質に対する透徹した洞察が示されている。

そもそも昔は、人々の大半は学校に行っていなかった。平安時代や鎌倉時代には、99.99%の人間は学校に行かなくても、生活上なんの問題もなかった。ヨーロッパでも事情は同じだ。大半の人間は学校なんかに行かなくても、普通に暮らすことができた。
しかし現在は逆に99.99%の人間が学校に行く。学校に行かなくては普通の生活ができないと、多くの人が思っている。どうして昔は学校に行かなくても平気だったのに、現在は行く必要があるのか? 本当に学校に行かなくてはいけないのか? この疑問を突き詰めていくと、学校や教育のみならず、「近代」に対する洞察へと至ることとなる。

結論だけ言えば、「資本主義で歯車となる人間」を供給するためには、人々を学校にむりやり収容し、生活習慣を強制的に組み替え、工場労働に適合する習慣形成を行う必要があるのだ。たとえば工場が期待する優秀な労働者とは、無断欠勤しない、遅刻しない、上司の命令はどんなに理不尽でも聞く、密告するなどの習慣を身につけた人間だ。
そして人間は、学校に通わなかったら、こういう習慣を身につけない。家庭学習で頭が良くなるだけでは、ダメなのだ。あらゆる人間をむりやり学校に収容し、長年にわたって工場労働に適合するためのトレーニングを積ませる必要があるわけだ。

資本主義を発展させるためには、こういった「歯車」が大量に必要であった。そしてその期待に、学校はしっかり応えた。日本が資本主義国へと成長できたのは、学校教育制度が機能したおかげと言える。これが「近代」という時代の特徴だ。

しかし、いったん資本主義が成長しきって成熟段階に入ると、実はこういった「歯車」が必要なくなってくる。単純作業は機械やAIがやってくれるし、会社が必要とするのはイノベーションを起こせるような創造的な人間だ。どちらにしろ「歯車」の需要はなくなる。このあたりの事情は、宮台真司が90年代から「成熟した近代」という言葉で主張している。たしか上野千鶴子も同じような主張をしていた。というか、80年代後半から、だいたいみんなが「近代は終わった」という議論をしていた。

こうして「近代」が終わると、「歯車」を世の中に大量供給していた学校の必要度も下がってくる。人々から学校へ通うモチベーションが失われていく。学校に行く必要を感じなくなる人々が増えてくる。不登校が増える。佐藤学が「学びからの逃走」と呼んだ事態が広がっていく。
ホリエモンが記事内で主張していることは、90年代から既に議論し尽くされた話を、「分かりやすい極論」として示したもののように読める。

さて、議論として必要なのは、「学校は必要だ」とか「必要ない」という主観的な意見ではない。「近代という時代がどういう特徴を持った時代で、どうして学校は近代では有効に機能して、そして21世紀ではそのままで機能するのかしないのか?」という問いの立て方が重要なのだ。
私個人としては「学校は機能しなくなる」とまでは言いたくないが、「このままの学校では、遅かれ早かれ機能しなくなる」という危機感は共有すべきだと思っている。ホリエモンの発言は教育界に1ミリたりとも影響を与えないわけだが、しかしそのイロニーに込められているものから学校の危機を感じておくのは、無駄ではないと思う。

個人的には、ホリエモンとは誕生日が20日ほどしか違わない同年代で、同じ時期に駒場や本郷にいたことから、動向が気になる人物の一人ではあるのだった。