「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【紹介と感想】南本長穂・伴恒信編著『子ども支援の教育社会学』

【紹介】教育社会学の知見を広く集めた学生用のテキストです。

【感想】幅広い教育社会学的トピックが扱われているのはいいとして、それぞれ分量が極めて少なく、個人的には食い足りない。まあ、学部一年生にとってはこれくらいがちょうどいいという判断なのかなあ。
まあ、エリクソンのアイデンティティ論に対する批判の言質をとれたのは、個人的な収穫ではある。

 

「これまでの生涯発達論は1950年代以降の人類にとって比較的好運な右肩上がりの安定した経済成長時代の産物であって、成長神話の崩壊した21世紀にそぐわない発達論となってきているのではないだろうか。」(24頁)

「しかしながら無藤(1999)は、「自分自身のあり方・生き方について悩んでさまざまな試行(役割実験)をしながらいくつかの選択肢を検討して自分自身の判断をしていくといった、いわば、自立的独立的な自己確立の経過は優勢ではなくなってきている」と現在の若者たちの思春期や青年期の発達が従来の発達課題理論では考察できない可能性を指摘している。」(48頁)
無藤清子「青年期とアイデンティティ」『アイデンティティ』日本評論社、1999年

「社会学では現在アイデンティティは、絶対的で唯一に確立されるものという捉え方ではなく、石川(1992)の指摘するように「わたし」とはアイデンティティの州尾久、アイデンティティの束という捉え方になってきている。」(49頁)
石川准『アイデンティティ・ゲーム』新評論、1992年

南本長穂・伴恒信編著『子ども支援の教育社会学』北大路書房、2002年

【要約と感想】諏訪哲二『いじめ論の大罪―なぜ同じ過ちを繰返すのか?』

【要約】学校には市民社会の論理は通用しないし、適用するべきではありません。が、学校に市民社会の論理が侵入して、大人の指導を受けるべき未熟な子どもたちが自分も大人と対等な「近代的個人=オレ様」だと誤認し、教師の指導を受け容れないのが、いじめ発生の原因です。マスコミや行政も教師の力を削ぐ愚かな行為に荷担しており、如何ともしがたい状況に陥っています。ほんものの近代的主体を形成する上では、いじめは不可抗力です。

【感想】これほど「近代の論理」をストレートに打ち出してくる人は、いやあ、貴重だなあと思う。右派とかリベラルとか、この人に訳の分からないレッテルを貼る人も多いようだけど、彼はカント的な意味での「近代主義者」以外の何者でもない。本書でも教員採用試験に出てくるようなカントの近代主義的見解を繰り返し述べているに過ぎず、そういう意味では実は教育学的に新しいことは何も言っていないのだった。たとえば、次に引用するのは北海道・札幌市が2016年に実際に教員採用試験に出した問題だが、仮にカントを知らなくても、本書の主張を援用すれば解けるのだった。

ドイツの哲学者であるカント(Immanuel Kant 1724~1804)は、「子どもには自分に( 1 )が加えられるのは、やがて自分固有の自由の行使がうまく行えるようにという配慮によるものであること、自分が( 2 )されるのは、それによってやがて将来自由でいられるように、すなわち他人の配慮に頼らなくてもすむように、という考え方によるものであることが、示されなければならない。」と述べた。

問1 空欄1、空欄2に当てはまる語句の組合せを選びなさい。
ア. 1―手心 2―放任
イ. 1―手心 2―教化
ウ. 1―手心 2―支援
エ. 1―拘束 2―放任
オ. 1―拘束 2―教化

答えは、もちろん「オ」だ。近代主義者なら、間違えるわけがない。未熟な子どもに「手心」を加えたり「放任」したりするのは、責任感ある大人の態度ではない。子どもが将来市民として自立するためには、大人が適切な拘束と教化を与えなければならないに決まっているのだった。
もちろんこれは私個人の意見ではない。カントを代表とする近代主義の見解だ。そして本書の立場も、完全にこの枠内にある。

ところでしかし、現代において、この近代主義を貫徹することは可能だろうか? われわれは、近代教育に「自由を強制する」というアポリアが如何ともしがたく貼り付いていることを自覚している。たとえば本書が批判する宮台真司が試みたのは、「自由を強制する」ためにどうしても必要な「特異点」の所在を明らかにすることであった(具体的にはたとえば日本人にとっての天皇などの議論)。しかし諏訪は、「自由を強制する」というアポリアを自覚しつつも、特異点の存在を原理的に認めず、居直る。

「これからも教師も生徒も親も苦労していくしかないのだ。私たちは近代というパンドラの箱をすでに開けてしまったのである。」(229頁)

しかし現代の潮流は、諏訪の思いとは逆に、「強制なしで自由になる」ことを夢想している。テクノロジーの発展によって、パンドラの箱を閉じられるのだと考えている。このあたりは東浩紀などが盛んに主張しているところだ。あるいは苫野一徳も、近代の終りを明確に意識しつつ、予定調和的に「自由を強制する」という近代教育のアポリアを乗り越えようと試みている。果たして、近代教育のアポリアは現代テクノロジーによって乗り越えることが可能なのか、どうか。つくづく、教育とは因果な仕事だなと思う。

【今後の個人的研究のためのメモ】
本書には近代主義的立場と、「近代の終わり」に対する諦めが、そこらじゅうで表明されている。いくつかメモしておきたい。
まず、近代が終わっているという認識をところどころで確認できる。

「学校はもともと近代の器である。近代の器が揺らぎ始めたのである。ただ私の経験から言わせてもらえば、学校は近代を確立した六〇年代からすでに揺らぎ始めていた。おそらく、教育不全・学校不全は近代の宿命なのであろう。」(20頁)

「社会に適応した人間になるのが近代(前期)型の人間であるとすれば、七五年あたりから後期近代(超資本主義)に入り、自己に適応した社会を求める人間像が登場してきたのではなかろうか。」(30頁)

「「行政のちから」「教員のちから」で学校が動かされるのが、明治からの近代前期の流れである。一方、「民間のちから」「子どものちから」は、まさに成熟した近代後期のものである。」(73頁)

まあ、このような「近代の終り」に対する認識は、特にオリジナルな考えではなく、世界中の社会学者が口を揃えて指摘しているところだ。諏訪にオリジナルなのは、これを自分の経験(学校教育や生徒の具体的な変質)と接続させて論じるところだろう。

「子どもが学校へ入ってくる時、すでに家庭における第一次教育は終了し、地域や情報産業や経済システム等における第二次教育も終了している。もうすでに立派は個性を身につけている。まだ一人前の近代的人間(近代的個人)になっているわけではないが、本人の自覚は一人前だったりする。」(61頁)

「もう三〇年以上も経って、時代や子ども・若者たちの目鼻立ちがくっきりしてきたから、いじめを除いてすべてが子ども(生徒)たちの近代社会からの逃避を意味していることが透けて見えてきた。近代的人間になることを嫌がっている。」(113頁)

まあ、このあたりの認識も、佐藤学が「学びからの逃走」と言っている事態と本質的には変わらない気もするが。とはいえ「近代的人間になることを嫌がっている」という指摘には、諏訪の経験的な実感が伴っており、拝聴するに値する。
そしてその現実に対して示される対処法は、まさに近代主義だ。

「学校は教育の場であり、生徒が近代的個人に育っていく場である。学校は一人前の市民が生活しているところ(市民社会)ではない。学校は市民社会ではないし、あってはならない。学校は子ども(生徒)を市民として扱っていない。市民として扱ったら教育はできない。さまざまな機会を通じて市民へと向うような教育(指導)をしているところだ。」(121頁)

「子ども(生徒)を近代的市民にするためには、ある種の自由や権利の制限はやむをえない。」(211頁)

「彼らにとって近代的個人とは「自らそう思っている人」のことである。「ただの自分」のことである。なるべき理想のあり方ではない。そして、現実には共同体的な贈与関係の中に心地よく漂っている。結局、生徒たちがモデルとすべき(してしまっている)親やまわりのおとなや教師たちが、脆弱な近代的個人になっていたからなのであろう。
私は教育がめざすべき近代的な個人(主体)を社会的なもの、ないしは、「公」的な要素に重点をおいて考えている。つまり、一人ひとりの内的な意識(「内的な自己」)よりも、その社会的な現れ(「社会的な個人」)のほうが重要だと思っている。」(80頁)
「近代的個人とはこの「内的な自己」と「社会的な個人」とを併せ持っていることを自覚している人間のあり方なのであろう。」(270頁)

これは上述したカントの近代主義そっくりそのままの再現だ。あるいはヘーゲルの言う「即自(内的な自己)」と「対自(社会的な個人)」を止揚して「即且対自」に至る弁証法運動を信奉していることの表明でもある。とにかく近代どっぷりの理屈である。近代が夢想した「未熟な子ども/人格の完成した大人」の二分法の形式的な適用である。
そんな諏訪の近代的個人に対する見解は、まさに教科書通りである。(それが悪いというわけではない、というか現憲法下では極めて真っ当な見解だ)。

「近代的個人とは何か? 社会に参画しながら社会を相対化するちからを持ち、近代的生活様式に馴染んだ、自立した合理(理性)的な人間とでも想定できようか。(中略)
近代信仰とは、近代社会を信じることよりは近代の理念を信じることであり、それは人間の個人の価値を信じることである。」(90頁)

そしてそれを踏まえた上で、近代特有の人間関係(つまり市民社会)に対するシビアな認識が示される。これが彼の言う「いじめの原因」だ。

「個と個の争いは近代(的)になって発生したのである。いじめの根源もここにある。」(36頁)

そうなのだ。「万人の万人に対する闘争(リヴァイアサン)」は「近代」だからこそ発生するのだ。共同体主義では、「個」と「個」の争いが起こるわけがない。だから、「近代的な個」を認めるのであれば、論理必然的に「個と個の闘争」も認めざるを得なくなる。だから諏訪は、「個として成長するために、いじめは必要だ」と言い切れるのだ。すべて近代主義の枠内の論理だ。あるいは「いじめは成長する上で糧となる」という認識は、「自然権」から「自然法」へと至る近代的な理性を信頼するという点で、まさにホッブズ的であるとも言える。

しかしそんな諏訪でも最後にやはり「特異点」を設定するしかなかったのは、近代主義のどうしようもない限界が示されていて、極めて興味深い。そしてそれは誰もが逃れられない原理的なアポリアであって、諏訪の個人的資質のせいではない。どれだけ「完全で無矛盾」な世界を夢想しても、あるいは体系が完全で無矛盾であればあるほど、「特異点」が浮かび上がってこざるを得ないのであった。

「自己が変革され、人間性が高まるためには、「人格の完成」のような倫理的な絶対目標が必要である。」(280頁)

まあ、このように「特異点」として「人格の完成」を設定するのは、現憲法下においては、極めて真っ当なセンスだ。この諦めは、私の感覚に極めて近い。だから諏訪の論理は、個人的にはかなりスッと中に入りこんでくるのだった。近代主義者の悲哀と覚悟を感じざるを得ないのであった。

諏訪哲二『いじめ論の大罪―なぜ同じ過ちを繰返すのか?』中公新書ラクレ、2013年

【要約と感想】池上彰『池上彰の「日本の教育」がよくわかる本』

【要約】これ一冊で、あなたも「教育通」!

【感想】まあ、いいんじゃないの?というのが教育学のプロとしての感想。アラを探してやろうと意地悪な目で読んだけれども、明らかな事実誤認とか論理の飛躍などは見られなかった。まあ大学の教職課程でしっかり学ぶ程度のレベルではあるけれども、実に分かりやすく書いてある。教職を目指す学生にとっても、いい本かもしれない。

そんな分かりやすい文章を書く池上彰が、こう言うのであった。

「この更新講習(教員免許)は、主に夏休み期間に大学で行なわれています。研修の先生は大学の先生です。この大学の先生、教えるのがうまいとはお世辞にもいえません。」(179頁)

ははははは。いや、笑っている場合じゃない。ほんと、申し訳ありません。精一杯、分かりやすく、充実した時間になるよう、努力する所存であります。今年の講習は、8/6と8/7、日本で世界教育学会が開催されているまっただ中で行なわれます。頑張ろう。

あと、本書は2014年時点の情報を元に書かれているので、2015年末に出た3つの答申と2017年に改訂された学習指導要領についてはもちろん触れていない。かなり状況は変わってきているので、教育関係者はしっかり情報をアップデートしておきましょう。

【メモと備忘録】

「安倍政権の「教育再生」も、学校現場や教育現場の検証から改革案を作成しているというよりも、思い込みや印象論にもとづいている面があるのではないでしょうか。」(7頁)

「教育に限ったことではありませんが、特に教育においては、「昔はよかった」的な印象論で議論が行なわれることが多々あります。」(39頁)

「教育委員を住民選挙で選ぶ、当初の教育委員会制度に近づけることはできないものでしょうか。(中略)住民が選挙で選ぶようになれば、子どものいる親はもちろん、これまで教育に関心のなかった人たちも、自分たちの地域の教育がどうあるべきか真剣に考えるようになるでしょう。」(256頁)

池上彰『池上彰の「日本の教育」がよくわかる本』PHP文庫、2014年

【要約と感想】木村涼子編著『リーディングス日本の教育と社会16ジェンダーと教育』

【要約】「ジェンダーと教育」をテーマとした研究の2009年時点での到達点を示すアンソロジー集です。膨大な関連研究のうちから代表的な23の文章を抜粋し、5つのテーマに配分して編集しています。
第Ⅰ部「ジェンダー・パースペクティブと教育研究の出会い」では、ジェンダーという視点や方法が教育学全体に対してどのようなインパクトを与えたかが考察されています。従来の教育学が男性視点に偏っていたことが明らかになると共に、見逃されていた新たな課題が提示されます。
第Ⅱ部「性別の社会化のしくみ」では、社会全般においてジェンダーが形成されるメカニズムを解析しています。おとなから一方的に性別役割が注入されるのではなく、子ども自身も主体としてジェンダー生成に関わっていく仕組みが明らかになります。
第Ⅲ部「学校教育におけるジェンダー形成」では、メリトクラシーや家庭環境要因を考慮に入れ、統計的な手法なども活用しながら、ジェンダー要因が学校文化や学歴達成や家庭の教育戦略にどのような影響を与えているかが明らかになります。
第Ⅳ部「ジェンダー視点からの教育史」では、ジェンダーの手法を用いることで近代教育史の通説に変容を迫り、家族と学校の関係について新たな視角を示しています。
第Ⅴ部「新たな動き」では、従来のジェンダー論では見逃されてきた様々なマイノリティとの関連が考察され、新しい課題と視角が提示されます。

【感想】本書は2009年時点での達成点を示すものではあって、それから10年経った現在では、本来なら情勢は変化していなければならないはずだ。が、残念ながら、本書はまだまだ有効なのだった。

たとえば具体的には、日野玲子「「ジェンダー・フリー」教育を再考する」という論文は、まだ示唆に富んでいる。現場では安易に「固定観念は取り除けることを前提としている」が、もともとジェンダー・フリー教育はそういう矯正を目ざすものではなく、「ジェンダー・バイヤスに気づくことによって、ジェンダー・コードから自由になる考え方を、子どもたちが身につけることを目的にしていた」(74頁)はずなのだった。現場が安易な実践に傾いていないか、いまでもチェック指標として意義があるだろう。
特に中西祐子「ジェンダー・トラック」で「学校が性役割観に基づく進路の「矯正力」を持つこと、それによって家庭での性役割の社会化効果を「打ち消す」ことは間違いない事実」(237頁)と明らかにされている以上、学校での実践はより意識的に行なう必要がある。
さらに村松泰子・河野銀子「理科好きな女子・男子を増やすために」で、「女子が理科から離れているのではなく、理科が女子から離れている」(354頁)という指摘には、ナルホドと思う。私の勤務校でも、彼女たちの専攻(栄養は被服)には絶対に理科の教養が必要なのに、理科が関わっていることを本質的に理解していない学生が多すぎるわけだが、しかしこれは中高の学校教育(特に家庭科)のあり方に問題があるのかもしれないと、改めて気がつかされたのだった。

あるいは、片岡栄美「教育達成過程における家族の教育戦略」が教えてくれる「男女の学歴決定メカニズムの構造は、異なっている」(163頁)とか「49歳以下の女性では、学校外教育投資は全く効果がみられない」という知見は、目の前の現実を考える上で極めて重要ではなかろうか。ドラえもんでしずかちゃんがバイオリンを習っていることを、われわれはどう理解すればいいのだろうか。そして2019年現在、男は学校外教育投資の効果が高く、女は家庭の文化資本の影響が大きいというデータに、変化はあるのだろうか。「女性は労働市場を通じた地位上昇の可能性がこれまで低かったことと、女性の地位維持や地位上昇が主として婚姻によって達成されてきたことと無関係ではない」という分析が正しければ、おそらく今も変化はないだろうと推測されるところなのだが。

そしてさらに、内田龍史「ジェンダー・就労・再生産」は迫力がある論文だったが、「専業主婦志向の女性には就労アスピレーションがそもそも見られないことが多い」という指摘と、「おそらくその背景にあるのは、「学校教育→職業達成」ルートからの「排除」であろう。」(380頁)という分析に、ナルホドと思う。勤務校で目にする女学生たちにも、そのままそっくり当てはまるのだった。彼女たちに「専業主婦になれないよ」と現実を教えてあげたところで、一方で労働市場から排除されている現実が変わらない限り、「専業主婦に賭ける」という生き方は変わらないのだろう。この「詰んでいる状況」を、どうすればいいのか。

本書に収録された論文は、本来はそろそろ「古典」になっていなければならないものばかりだ。それがまだ現役で役に立つとすれば、まるで変わらない現実の方に問題がある。

【今後の研究のための個人的備忘録】
やはり専門の日本教育史に関する記述には、引っかかるところが多い。それぞれもはや古典的な論文であって、いちど読んだことはあるのだが、改めて。
たとえば小山静子「良妻賢母思想と公教育体制」では、通説に対する批判が印象的だ。

「ところで、この時期の家庭教育論について、これまでの研究は、儒教主義に基づく家庭教育が次第に支配的になっていったとか、個性尊重主義家庭教育論が展開される一方で、それに対する儒教主義的立場や国家主義的立場からの批判が行なわれた、と総括してきた。しかしながら儒教主義的な特徴は希薄といわざるをえない。そしてこのような総括の仕方ではなく、むしろ、家庭教育が学校教育の対概念として措定されている点に、家庭教育論の特質を見出すべきなのである。」(270頁)

「良妻賢母思想の中心概念である「賢母」は、家庭教育が公教育の補完物として要請された時に登場してきたものであり、良妻賢母教育もまた、公教育制度の定着に伴う家庭教育の「近代化」が要請したものとして、とらえるべきであろう。」(274頁)

これらの記述はどうだろう? 個人的な経験を踏まえると、様々な点で素直に受け取ることができないのではあるが、具体的にどうこうしようとすると、「家庭教育」に関する多角的な史料収集が必要になってきて、意外に物申すのが難しい。要検討事項だ。

また沢山美果子「教育家族の成立」では、私の研究関心の中心にある「人格」観念に対する記述が気になるのであった。

「彼女たちの子育て、教育の目的は「子どもの人格をつくる」(鳩山)、「人格の完成、換言すれば人間として生きるための最善の道を会得する」(田中)ことに置かれ、それによって「将来の幸福」(鳩山)と、社会を「よりよく」(田中)生きることが目指される。では、「人格の完成」とは、また「よりよく」生きるとは、どう生きることであったか。鳩山は「自由は独立と同時に得られるものであるといふのが私の子供教育の方針の一つでございました」と述べ、田中は「よりよくと云ふことが教育現象の起る本源」と述べる。つまり、その目的とする「人格の完成」とは、自由=個人の解放と独立=個の自覚にあり、個人の解放と個の自覚を実現することが、個の社会を「よりよく」生きることに通じるのだというのである。
この「人格の完成」という教育目的のために「生活全部が教育」(田中)となる。」(302頁)

「しかし彼女たちは、自分たちはなし得たものの、人格形成と学力形成の統合が容易ではないことに気づいていた。」(303頁)

「この母親の発言に明らかなように、第二世代の親たちは学力と人格の統合が容易になし得ない現実、わが子の幸福な将来を願い、その願いを資本主義社会の中で実現しようとする時、人格形成と矛盾しかねない学力競争という競争原理が入りこむ矛盾に悩み始めているのである。そのなかで、学力形成については学校に頼らざるを得ない状況、学校教育の下請けとして家庭教育が行なわれる状況が進行する。学力形成と人格形成の矛盾が顕在化するこの時期、教育的マルサス主義と童心主義はこの矛盾を隠蔽する役割を果すものとして機能したのであった。」(308-309頁)

「人格の完成」という概念は、高等教育の文脈では阿部次郎や新渡戸稲造などの修養主義と絡めて言及されることが多いわけだが、実は家庭教育の文脈も重要であることが分かる。いちど全体的にさらっておいた方がいいかもしれない…

また一方で「個性」に関しては、次の記述も気になるところだ。

「教育的マルサス主義は、こうした大衆化状況のなかで、上昇できない部分に対しては、上昇できない現実的障害に向かうよりは、「素質」が悪いのだからという自罰の意識を、一方の極には、現実に開かれている上昇ルートを昇る原動力として働く。いい換えれば、資本主義社会の発展のなかで、労働の分業化が要求する人材配分とそれを正当化する「適材適所」のイデオロギーとして機能することとなる。」(307頁)

分業化と適材適所のイデオロギーは、いわゆる知能検査と連動しながら猛威を振るう。ここに「個性」という概念がどのように関わってくるかは、私の研究課題だ。

【眼鏡論に使える】
蔦森樹「ジェンダー化された身体を超えて―「男の」身体の政治性」(岩波講座『ジェンダーの社会学』収録)は、眼鏡論的に極めて興味深い。というのは、著者が<男>から<女>へとジェンダートランスしたときに実感した男と女の身体感覚の違いを表にまとめているのだが、その表に「眼鏡」という項目があって、男は「あり(太いべっこう)」とされるのに対し、女は「なし(コンタクトレンズ)」とされているのだ(146頁)。そしてさらに「性を理由にして否定されたと感じていた「身体を含めた」自分の可能性のほとんどが、出産以外は自分で行える。」(147頁)とも言う。彼女は、自分の意志で眼鏡を外して女性性を獲得したと主張しているわけだ。要するに彼女にとって「眼鏡を外す」という行為は、男性性を否定して女性性を獲得するという象徴的な意味を担っているのだ。これが当事者視点の証言は、極めて貴重だ。
すると、「「男でもなく女でもなく」というジェンダーのない世界を夢想したが、夢から覚めると、この身体も属するジェンダー・グループも常に女か男かのいずれかに即刻還元されるのであった。二元性の言語体系そのものが「私」の限界である事実を認めるまで、また認めてもなお、その苦しい心の状態が続いた。」(145頁)という記述も、眼鏡論的に興味深く読める。彼女の言う「二元性の言語体系」と「眼鏡ON/眼鏡OFF」という眼鏡の排中的な二元性は、極めて親和性が高いのだ。
彼女が言う「身体のジェンダー化とは、女と男の人間関係を構造化する政治的な出来事」(147頁)とは、眼鏡にも当てはまる。身体の眼鏡化とは、女と男の人間関係を構造化する政治的な出来事に他ならない。それは「見る主体=眼鏡ON」と「見られる客体=眼鏡OFF」を峻別する権力なのだ。

木村涼子編著『リーディングス日本の教育と社会16ジェンダーと教育』日本図書センター、2009年

【要約と感想】千葉孝司『いじめは絶対ゆるさない―現場での対応から予防まで』

【要約】いじめを止めるのは先生の仕事です。解決を子どもに委ねるのは、単なる責任放棄です。教師集団として組織的に対応しましょう。
いじめ被害者は絶対に悪くありません。いじめは、加害者がいて初めて発生するものです。加害者への指導を徹底するのが、先生の仕事です。相手の気持ちを受けとめて信頼感を築きつつ、ダメなものははっきりダメと指導しましょう。
帯広市が取り組んでいるいじめ防止啓発資料「あつとほおむ」は、いじめ防止に効果的です。何が悪いかを事前に子どもたちと共有し、いじめを絶対に許さないという教師の姿勢を示すことで、未然に防止できます。
道徳の時間や特別活動で使用できる、いじめ防止のための指導案つき。

 加害者むけ被害者むけ傍観者むけ
あそびでもダメ安心してあおらない
つらい思いをさせるのはダメ伝えるつられない
友達がやっていてもダメ遠ざかるとめる
暴力はダメ誇りを持つ本気になる
おしつけはダメ大人に知らせる大人に知らせる
無視はダメ無理をしない無関心でいない

【感想】いじめの論理とか社会的背景には一切ふれず、先生が徹底的に現場でいじめに向き合うための実践書。責任感と覚悟をもって取り組んでいくべきことが分かる。特に加害者への指導を徹底することが大事だと強調されている。
まあ、現代社会でのいじめは単純ではないし、様々な社会的背景があって、教師にできることは現実的には限られていたりする。それでも、覚悟を決めて、やるしかない。教師として学級経営の方針を定め、自分の足場を固めるためには、実践的に役に立つ本だと思う。

千葉孝司『いじめは絶対ゆるさない―現場での対応から予防まで』学事出版、2013年