「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】茂木健一郎・竹内薫『10年後の世界を生き抜く最先端の教育』

【要約】日本の教育はオワコンです。文部科学省は潰れろ。TOEICは廃止せよ。英語とかプログラミングとか、何かやろうと思ったら、今すぐ始めましょう。

【感想】うーん、なんだろうなあ、個人的には『サイエンス・ゼロ』とか楽しく観てたし、『100分de名著』の「赤毛のアン」の時の茂木健一郎はとても好きだったりして、個人的には二人に対して含むところはないつもりではあるが。

まずさしあたって、明らかな事実誤認は指摘しておく。お二人は、教員免許がないから学校で教えられないと言うが、この認識は如何なものか。

竹内「そもそもアメリカと日本の大きな違いは、ぼくも茂木も学校で教えられるくらいの知識は持っているのに、教えてはいけないんです。」
茂木「教員免許がないから。」
竹内「そう。」(79頁)

ダウトだ。世の中には特別非常勤講師という制度が用意されていて、教員免許がない人でも教壇に立てる。他にも「特別免許状」という種類の教員免許があったりして、どこかの自治体がお二人を学校教員として雇用しようと思ったら実はいくらでも「抜け道」が用意されているのだ。「抜け道」の具体的事例もたくさん紹介されている。竹内は「教員免許制度というのは緩和しないといけない。」(79頁)と言っているが、すでにそうとう緩和されているわけだ。残念ながら竹内が推奨する「アクティブラーニング」では、この基礎知識に到達できなかったらしい。
しかも茂木は続けてこういうことを言う。

「教員養成系の学校の既得権益になっているから、彼らはそれを言われてしまったらレゾンデートル(存在理由)がなくなってしまうので、ものすごく焦るでしょうね。」(79頁)

この手のエビデンス無用の発言を「下衆の勘ぐり」と呼ぶ。教員免許制度が規制緩和されて「抜け道」があることは、誰かに言われるまでもなく、学部生の授業で伝えられるレベルの基本知識だ。少なくとも私は丁寧に説明している。どうやら茂木の推奨する「アクティブ・ラーニング」では、この基本知識に辿り着くのは不可能だったらしい。

個人的には「一事が万事」という言葉は好きではないのだが、本書においては残念ながらすべてがこの調子で進む。特に茂木の発言には一切のエビデンスを欠いた「下衆の勘ぐり」が極めて多い。どうやら脳科学という学問を修めた人間には、エビデンスなしで専門外の事象を断罪する資格が与えられるようだ。いやはや、文部科学省を腐していれば良かった時代は、もうとっくに終わっているというのに。

お二人は教育学についてはシロウトだから仕方ないのかもしれないが。アメリカの学者が日本の教育を「ドリルばかりやっているアメリカの教育と違って、創造性が高い」と極めて高く評価している事例もご存知ないのだろう。おそらく日本の「学級経営」や「生活指導」の伝統が高い「非認知能力」を育ててきたであろうことにも、想像力が及ばないのだろう。茂木の「現代国語という教科は要らない」(90頁)という発言は、現在の「読解力」に関する国際トレンドが何も分かっていない証拠でもある。唖然とする。この手のツッコミを入れ始めたらキリがない。

まあ、教育のいいところは、「教育学のシロウト」であっても、そこそこ良い教育実践が可能なところではある。「経済学のシロウト」であっても、そこそこ良い経済実践が可能なのと同じことだ。竹内薫が作った学校には、ここから次世代をリードする人材が次々と輩出されることを期待せざるを得ない。
いやほんと、言っている内容そのものの方向性はそれほど的外れではないのだから、もうちょっと足下を固めて臨んで欲しいと思ったのだった。そこそこ良かった教育実践が何かしらの限界に突き当たった時、その時こそ教育学の専門的知見がヒントを与えてくれるはずだ。

【言質】
「個性」という言葉に関しては、いくつか興味深い言質を得た。

茂木「よく一般の方が「私、普通なんです」と言って没個性を嘆いたりするけれど、これは脳科学的に言うと明らかに間違いで、個性というのは誰でも平等にあるんです。ただしここからが大事で、個性はマイニング、つまり発掘しなくてはいけないんです。」(167頁)

茂木の言う「脳科学」が「個性」という概念についてあまり深く考えていないことがよく分かる発言ではある。ここで茂木が言っているものは、「個性」ではなく、「特徴」とか「長所」とか「持ち味」と呼ぶべきものに過ぎない。「個性とは何か」についてはこちらの文章を参照

茂木健一郎・竹内薫『10年後の世界を生き抜く最先端の教育―日本語・英語・プログラミングをどう学ぶか』祥伝社、2017年

【要約と感想】松野弘編著『大学生のための「社会常識」講座―社会人基礎力を身に付ける方法』

【要約】最近の若いもんには常識がないから、常識を身につけなさいよ。社会に出てから困りますよ。

【感想】本書は、大学の講義での「社会人基礎力」の需要を見越して作ったテキストなのだろうけれど。まずこの「社会人基礎力」という概念そのものが、どうなのかというところ。私の口から直接言うまでもなく各所でケチョンケチョンにされている上に、教育現場ではまったく顧みられていないのであった。まあその程度のことは執筆者も自覚していて、「社会人基礎力」への批判的文章も載せるなどして、一定の距離を取ってはいるのだった。極めて賢明な態度だ。

一番笑ったのは、大学の講義に対する「授業アンケート」に関する次の文章だ。

アンケートが無記名で実施されると、当該教員への報復手段としてそれが用いられることも少なくない。例えば、授業中に私語等を注意された学生がその腹いせに評価を低めて報復するのである。そうすると、教員と学生の双方にとって不幸な状態(教員は気分を害し、結局、単位認定が厳しくなることも)になりかねないので、報復的なアンケート回答は絶対にしてはならない。」(32頁)

いやはや。なんと率直な文章だろうか。程度の低い学生の単位をびしばし落としている私の授業に対しても、確かに、明らかに報復的な回答を寄せる学生はいる。確かに私は「気分」を害する。が、だからといって「単位認定が厳しくなる」ことはないのだった。そこはプロとして、しっかりやろうよ、というところだなあ。学生のせいにするところではなかろう。
これは、決して「気分」の問題ではなく、制度の問題だ。この不確かな学生アンケートを大学の正式な「教員評価」として活用するとおかしくなることさえ認識していればいい。教員が個人でアンケート結果を反省する分には、学生が報復気分でつけようが、構わない。だってそれが「現実」なんだから、現実を受け容れるしかないのだ。
ただし、授業アンケートを人事評定に関する「制度」としたときにいろいろと根本的な不都合が発生するだろう事は、教育学のプロとして強調しておきたい。教育を自由市場における「交換」と同じ原理で弄ぶと、必ずおかしいことになる。

【言質】
「人格」という言葉の用法をピックアップ。

「当該企業人が所属する当該組織の長たる直属の上司は、直接に業務の指示を発する人格であるとともに、当該部署全体のパフォーマンスに対して責任を負う立場の人である。」(70頁)

ここで言う「人格」は、personalityというよりも、近年になってOECDの用法で目立ち始めたagencyに相当するように思う。agentとかagencyという言葉に相当する「人格」の具体的用法は、もうちょっと収集していきたい。
しかし以下の用法では、「人格」はagentではなくcharacterだろう。

「こうした意思決定の積み重ねにより、この企業はどんな起業か、自然と性格が形づくられてくる。人間に人格があるように、企業(≓会社)にも「社格」ができてくるのである。」(103頁)

これに類する「人格」用法の収集は、教育書よりもビジネス書の方が効果的なんだろうなあ。

松野弘編著『大学生のための「社会常識」講座―社会人基礎力を身に付ける方法』ミネルヴァ書房、2011年

【要約と感想】齋藤孝『考え方の教室』

【要約】思考力・判断力・表現力を鍛え、問題解決力を身につけるためのハウツー本です。

【感想】けっこうよくできている本だと思った。変な自己啓発本にハマるくらいなら、こういう本をしっかり読み込んだ方が圧倒的に有用なのは間違いない。分析的な論理の作法のみならず、身体性とか禅とか直感力の話もあって、全体的なバランスもよいと思う。学部生が読むには、なかなか良いのではないだろうか。

とはいえ、優劣を判断する際には類書をたくさん読んで比較する必要があるんだけれども、こういう本、自分自身にはまったく必要なくて読まないからなあ…。たとえば本書でも「対話」の重要性がソクラテスや弁証法という固有名詞を伴って語られるわけだけど、近年は共同学習の技法が著しく発展していて、本書でも出てきたKJ法をはじめとして、ジグソー法などさまざまなテクニックが開発されている。この共同学習の技法に関しては、優れた類書がたくさんありそうな感じはしないではない。

齋藤孝『考え方の教室』岩波新書、2015年

【要約と感想】北川達夫・平田オリザ『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』

【要約】このままの教育を続けていたら、日本は滅びます。日本従来の共感重視の「会話」に頼るのではなく、絶望的にわかり合えない絶対的な「個」を踏まえて、本物の「対話」の力を育みましょう。

【感想】まあ、150年ほど前から見聞きする「日本はダメだ、外国に学ぼう」という類の主張をしている本であって、正直言って「またか…」と思わないではない。その「日本はダメだ」の中身も、突き詰めれば「個をベースとした市民社会のセンスが身についていない」という内容であって、その主張は150年前に福沢諭吉が言ったことからさほど遠くない。
そういう冷めた目で見れば得るものも多いかもしれないし、純粋な学生が何も知らずに読んで目から鱗を落とすのもいい経験になるんだろうけどね。

【冷めた目で読んで得たもの】
「個性」や「人格」という言葉についての言質をいくつか得られた。個人的に大きな収穫だ。まず「個性」について。

北川「ヨーロッパ型の教育に出会って、おもしろいと思ったのは、「個性」といったときに、「ほんとうに個性的なものは、極めて個人的なもので、他人には理解不能なものである」と考えるところでした。(中略)
互いにわかり合えない超個性的な状態の子どもを「野性的な個性」というような言い方をしているんですが、そういう子どもに、一般的に分かりやすく表現する方法を教える。そして、共感というものを認識させて、他人と共通性のある表現の大切さを知らせていく。それによってそういう野性的な個であったものが、社会における個とか、社会的な個性として育つのだと。」(102-103頁)

まあ「窓のないモナド」として「個」を把握するという理解の仕方は、日本人にはなかなか分かりにくいものだ。こういう「個」のありかたと「個性」という言葉の意味について反省する上では、とても役に立つ文章だと思う。
続いて「人格」について。

平田「仕事がら、不登校の子どもたちと付き合うことがよくあります。(中略)
さらに、彼ら/彼女らは、「ほんとうの自分は、こんないい子の自分ではない」と言う。そこでわたしは、「でもね、ほんとうの自分なんて見つけちゃったら大変だよ。新興宗教の教祖にでもなるしかないよ」と答えます。
わたしたち大人は、ふだんからいろいろな役割を演じています。父親という役割、夫という役割、会社での役職、マンションの管理組合やPTAの役員、いろいろな社会的な役割を演じながら、人生の時間をかろうじて、少しずつ前に進めていっている。自分のなかで、その役割同士の調和を取りながら、一つの人格を形成している。
こういった概念を、演劇の世界では「ペルソナ」と言います。ペルソナには、仮面という意味と、パーソンの語源になった人格という意味の両方が兼ね備えられています。仮面の総体が人格なんですね。わたしたちは、社会的な関係のなかで、さまざまな役割を演じながら、一つの人格を形成している。
そんなことは、大人は充分わかっているはずなのに、子どもたちには、家でも学校でも「ほんとうの自分を見つけなさい」「ほんとうの自分の意見を言いなさい」と強要している。
ほんとうの自分の意見なんてあり得ない。わたしたちは、相手に合わせて、さまざまに意見やその言い方を変えていくし、それは決してまちがったことではない。」(183-184頁)

この「人格」観は、アメリカの哲学者J.H.ミードが90年ほど前に述べたのとまったく同じ見解だ。逆に言えば、この発言は、1920年代のアメリカと高度経済成長以後の日本が似たような社会状況にあるという示唆をも与えてくれるわけだ。そういう意味で興味深い発言ではあるのだ。
「ほんものの自分=近代的自我」を探すアイデンティティ・ゲームの行き着く先に幸せが待っているかどうか、極めて不透明であることについては、私も同じ意見ではある。

が、以下の言葉は、私自身を省みるものとして、自分事としてしっかり味わわなければならない。

平田「ほんとにだめなのが、中高年の男性たちです。これがいちばん対話下手。(中略)自分の経験や知識をひけらかすためだけの発言をする。それはもう、つまみ出そうかと思うくらい。」(67頁)

いやあ、心当たりがありまくるなあ。すみませんね>各位。

北川達夫・平田オリザ『ていねいなのに伝わらない「話せばわかる」症候群』日経ビジネス人文庫、2013年<2008年

【要約と感想】ポール・タフ『私たちは子どもに何ができるのか―非認知能力を育み、格差に挑む』

【要約】アメリカの教育の話です。現在、経済的な格差がますます拡大し、貧困家庭の子どもが半数を超えました。子どもたちが自分の境遇を乗り越えるために決定的に重要なのは、幼少期(特に3歳まで)に身につける「非認知能力」です。そして非認知能力を育てることは、数学や社会の知識やスキルを教えることと決定的に違います。人間関係を中心とした「環境」が非認知能力を育みます。幼少期に心理的な傷を負った子どもは、大人になってから人生に躓きやすくなります。非認知能力を育まずに青年になった学生でも、教師が期待や信頼感を寄せれば、成長へ向けて内的動機を取り戻し、立ち直ります。学習指導では、上から教え込むのではなく、学生に主体性を持ってやりがいのある課題に取り組ませるのが効果的です。

【感想】アメリカ人の著者は、日本の算数教育をべた褒めしている(136頁)。アメリカの算数が上からやり方を教え込んでもっぱらドリル計算するのに対し、日本では子どもたち自ら試行錯誤を通じて問題に取り組む。この自ら考えるスタイルが日本の数学的リテラシーの優位性の理由というわけだ。

また、著者は「教室によりよい環境をつくりだす方法について教師が訓練を受けると、生徒の成績に目に見えて影響が出る。」(123頁)と言っている。そうなのだ。実はこれ、日本の先生たちが従来(それこそ100年前)から行なっている「生活綴方」とか「学級経営」と呼ばれる手法に他ならない。学級経営が上手くいくと学力がついてくるというのは、昔から教師の間で経験的に語り継がれてきた伝統だ。あるいは諏訪哲二などプロ教師の会の見解でもある。これがアメリカ式の数字によるエビデンスでも明らかになったということだ。

ひるがえって、現在の教育評論の中には、教師たちに学級経営させずに専ら学習指導に専念させようという意見が散見される。極論すれば、「塾」のようなもので十分という見解だ。日本の伝統を否定し、アメリカ式にするほうが良いという見解だ。そんな中、アメリカ人の著者が「日本に見習え」と言っているのは、いやはや、隣の芝生は常に青いということかどうか。

ポール・タフ/高山真由美訳『私たちは子どもに何ができるのか―非認知能力を育み、格差に挑む』英治出版、2017年