「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】渡辺真由子『大人が知らないネットいじめの真実』

【要約】大人が知らない間にネットいじめが酷いことになっています。携帯を持つことは避けられない以上、情報教育を充実させてネットリテラシーを育成しましょう。テレビやゲームの影響は無視できませんが、権力による規制は危険です。被害者に対処するのではなく、加害者への指導を徹底しましょう。

【感想】ネットでの勇猛果敢ぶりを知っていると、本書の記述はそこそこまともに思える。まあ、10年の間に人が変わってしまったということかもしれないが。とはいえ、因果関係と相関関係の違いを理解していないところは、変わっていないのかもしれない。

そんなわけで、全体的に言いたいことは分からなくもないのだが、尾木直樹等のいじめ対策と根本的に異なるのは、著者が「子どもの参加」について一切の考慮を払っていないところだろう。著者は、一方的に子どもを守ったり指導したりしようとしている。子どもの権利条約を引用するところでも、「子どもの参加」には一切ふれず、一方的にメディアから守られる権利だけを強調している。著者が道を踏み誤ったとすれば、「子どもの権利条約」の一部だけを切り取って、全体的な精神を尊重していないことが問題だったのではないかと思われる。おそらくもう、大人が上から目線で「子どもに有害なもの」を選定して排除隔離するのでは、つまり子どもを単に子ども扱いするだけでは、何も解決しないだろうということだ。

まあ、さしあたって、以下に引用する文章を渡辺真由子が活字に残していることは記憶しておいていいのかもしれない。

「そもそも権力機関による規制は、背後に政治的意図が働く恐れがあるため、やみくもに許すわけにはいかない。臭いものにフタをするだけではなく、子どもたち一人一人が、自分の頭で情報を判断できるようになることが大切だ。」(178頁)
「権力による規制は絶対的な力を持つだけに、慎重さが求められる。政府が有害性を判断するとなると、「子どもにとって有害か」という基準が、いつの間にか「政府にとって有害か」という基準にすり替わりはしないか。」(187頁)

ここまで分かっているなら、さらに踏み込んで「おとなによる規制」が本当に有効かどうかを考えても損はなかった。「こどもの参加と意見表明」をどのように制度的に組み込むかを考えても良かった。いろいろと勿体ない感じがするのであった。

渡辺真由子『大人が知らないネットいじめの真実』ミネルヴァ書房、2008年

【要約と感想】和田秀樹『「か弱き、純真な子ども」という神話』

【要約】子どもは弱くないので、かわいそうなどと思わず、適度にストレスをかけましょう。

【感想】まあ、聞くべきところが皆無なわけではないし、意気込みも分からないわけではないが、そこそこいい加減な本ではあった。専門の精神医学はともかく、教育の理論と現実に関してほとんど勉強していないにも関わらず、憶測と決めつけでかなりいい加減なことを言っている。

まず、「か弱き、純真な子ども」というイメージが生じた歴史的な経緯について、教育学を少しでも囓ったら必ず知っているはずの知識を、著者はどうもご存知ないらしい。このテーマで本を書くのに、アリエスのアの字も出てこないことには、かなり唖然とする。まずはアリエス『子供の誕生』をしっかり読んで勉強して、出直していただきたいところだ。

またたとえば「体罰」に関する見解は、かなりお粗末だ。著者は「子どもがかわいそう」だから体罰をやめたなどと言っているが、そんなことを言っている教育関係者などいない。正確には「体罰には教育的効果がないことが客観的データに示されている」から体罰には意味がないし、そもそも「法律で禁止されている」からやるべきではないということだ。「子どもがかわいそう」などと感情的なレベルの話は、誰もしていない。勘弁していただきたい。
また「根拠となる調査もなしに、東大の教育学部がゆとり教育の旗振り役になっていた」(38頁)というのは、まさに根拠となる調査もなしの決めつけだ。著者本人が根拠となる調査もなしに、憶測で決めつけているのだから、たちが悪い。というか本人が錦の御旗の如く引用している苅谷剛彦はどこの教授だったのかと。

著者の根本的な問題は「人権」というものの本質をよくご理解していないところなのではないか、という疑いを強く持つ。子どもに課す義務を大人並みにするべきという話は一生懸命にするが、主体的な権利を大人並みにしようという話はまったくしない。「甘やかす」ことと「人権を尊重する」ことの区別がついていないように見えるわけだ。

和田秀樹『「か弱き、純真な子ども」という神話』中公新書ラクレ、2007年

【要約と感想】宇沢弘文『日本の教育を考える』

【要約】教育は、リベラリズムの理念に基づいて行なわれるべきです。しかし現実の日本の教育は、資本主義と官僚主義に歪められ、非民主的で不平等を再生産する装置になっています。経済学が社会的共通資本を見失って公害を引き起したのと同じ過ちです。
教育は、社会的共通資本です。大学は自由に学問を追究すべきです。学習指導要領は廃止し、教育委員会は公選制に戻すべきです。数学大好きな著者の半生も語ってます。

【感想】20年以上前の本ということもあって、情報はそこそこ古くなっている。単純な事実誤認もある。教育学に関する基本的な知識も欠けている。
とはいえ、なかなかおもしろく読める本ではあった。旧制高等学校の精神から薫陶を受け、海外の大学の実際を経験し、ベトナム戦争により荒廃するアメリカの状況を肌で感じ、東大でも学問の自由のために闘った著者にしか書けない本である。この貴重な経験には、多くの人に共有されるべき価値がたくさん含まれているように思った。そしてそれ以上に、学問と社会正義に殉じる著者自身の誠実さが、胸を打つ。
ボウルズ=ギンタスをしっかり勉強し直そうと思ったのであった。

また改めて、「社会的共通資本」という考え方はなかなかおもしろいのかもしれないと思った。新自由主義に対抗して「公共性」を取り戻そうとする時に、経済学からの援軍として利用できる概念かもしれない。

「社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置です。社会的共通資本は社会全体にとって大切な共通の財産であって、社会的な基準にしたがって慎重に、大事に管理、運営されるものです。」(155頁)

【事実誤認に対するツッコミ】
森有礼に言及している文章があるが、教育史専門家としては、ツッコミを入れておかなければならない。

「森有礼が書いた文章を読むと、教育勅語の草案はかれが書いたのではないかと思われるほどです。」(174頁)

いや、森有礼からは、逆立ちしても教育勅語は出てこないはずだ。森は確かに国家主義者ではあるが、近代的な国家主義者であって、前近代的な儒教家族的国家観とは無縁な男である。教育勅語は反動的儒教主義の元田永孚と近代主義的国家官僚の井上毅による合作であって、森の教育的立場とはずいぶん異なる。
いちおう、専門的立場から訂正を入れておく。

また単純な誤字としては、「期待される人間像」が「1996年」となっていた(206頁)が、もちろん1966年だ。また臨教審による教育改革が1970年代後半から80年代初めとされている(207頁)が、もちろん80年代後半のことだ。

【言質】
「人格」という言葉がたくさん出てくる。

「私たちはいま改めて、教育とは何かという問題を問い直し、子どもたちの全人格的成長をもとめるリベラリズムの理念に適った教育制度はいかにあるべきかを真剣に考えて、それを具現化する途を模索する必要に迫られています。」(ii頁)
「一人一人の子どもがもっている個性的な資質を大事にし、その能力をできるだけ育てることが教育の第一義的な目的であることはいうまでもありませんが、同時に、子どもたちが成人して、それぞれ一人の社会的人間として、充実した、幸福な人生をおくることができるような人格的諸条件を身につけるのが、教育の果たすもう一つの役割でもあります。」(11頁)
「これらの大先生たちはどなたも、私たち生徒を一人の独立した人格として丁寧に遇して下さった」(99頁)
「現在の大学は、学問の専門化に対応して、専門教育を授けることを主な目的としています。一人一人の学生がすでに一個の完成した、独立した人格をもつ社会的存在ということを前提として、専門的な学問的知識を教授するというのが、大学の目的になっています。しかし、現在の高等学校での教育は必ずしも、この前提をみたすものではなく、精神的にも、人格的にも、未成熟のままの大学生による反社会的な行動、陰惨な犯罪が後を絶ちません。」(213頁)

うむ。最後の旧制高等学校を経験した者の「人格」用法は、なかなか感慨深い。この「人格」に込められている理想は、現在の「人格」とはずいぶん違っているような感じがするのであった。

宇沢弘文『日本の教育を考える』岩波新書、1998年

【要約と感想】増井元『辞書の仕事』

【要約】実際に『広辞苑』や『岩波国語辞典』の編集に関わった経験を踏まえ、辞書作りの現場の具体的なエピソードを交えながら、多角的に辞書と言葉のおもしろさについて語っています。

【感想】まあ、日本語に関する蘊蓄の本は基本的におもしろいんだけど、著者の経験と学識が深ければ深いだけ、ますます楽しく読めるよなあと。特に本書は、抽象的な議論ではなく、地に足の着いた具体的な議論を着実に重ねていきながら、最終的には読者に抽象的な概観をもたらすところが、とても尊い。具体的なものに徹底的にこだわる辞書というテーマならではの面白さであった。

増井元『辞書の仕事』岩波新書、2013年

【要約と感想】平田オリザ『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』

【要約】コミュニケーション能力が注目されていますが、それは人格とはまったく関係がないただの技術や習慣であって、むしろ環境整備によってなんとかするべきものです。
 人間同士がわかりあえるというのは、幻想です。「会話」と「対話」は違うものです。これからは、お互いがわかり合えないことを前提にしながら共通点を探り出し、新たな落としどころを見つけられるような、「対話」のスキルを磨いていきましょう。

【感想】昨今、「コミュニケーション能力」がやたらともてはやされて、学生の中にも「私はコミュニケーション能力が高い」と言っちゃうのがいるけれども、まあ、たいがいは企業も学生も単に勘違いをしているだけだろう。彼らが言うコミュニケーション能力とは、実際のところはだいたい「空気を読む能力」とか「忖度する能力」とか「単にノリがいい」ことを意味しているわけだが、もちろん本物のコミュニケーション能力とはそんなものではない。コミュニティが崩壊して従来の「通俗道徳」が通用しなくなったときに、「誰もが合意できるルール」つまり「公共」を作り出す時に必要となる対話の力と意志こそが、「コミュニケーション能力」の本質だ。同じ価値観の枠の内側で盛り上がる力ではなく、異なる価値観の間で対話を続ける努力だ。既存のルールに無条件に従う能力(協調性)ではなく、未知のルールを発見し創造する能力(社交性)だ。そんなわけで、「わたし、コミュニケーション能力あるんだ」と言っちゃう奴ほど、実はコミュニケーション能力がなかったりする。

 とすれば、それはカントが言っていた実践理性の力でもあるように読める。つまり、自己と他者をかけがえのない「人格」として承認することから始まる力である。「個」として自律することから始まる力である。コミュニケーション能力とは、決して集団に溶解する力ではない。スピノザの言うモナドである。
 などと思っていたら、著者はそうではないと言う。確かなアイデンティティなどというものは存在しないということらしい。スピノザでもカントでもない(つまり近代ではない)形での「個」を想定しているようだ。しかし、そんなもの可能なのだろうか? やはり最終的に集団に溶解してしまうだけなのではないだろうか。そのあたりの問題は、「人格」という言葉の用例に端的に見ることができる。

 ところで「100分de名著」の中江兆民『三酔人経綸問答』回の案内役が平田オリザで、不勉強にも意外に思ってしまったが、実は平田の卒論のテーマは中江兆民だったらしい(対象は『三酔人経綸問答』ではなく『一年有半』)。中江兆民についての研究を重ねてきているのであれば、「対話」についてもかなり深まっていると信頼していい気はしたのであった。

【言質】
 「人格」の用例サンプルをいくつか得た。

「ここで求められているコミュニケーション能力は、せいぜい「慣れ」のレベルであって、これもまた、人格などの問題ではない。」(37頁)
「日本の学校の先生方は真面目だから、どうもコミュニケーション教育と人格教育を混同しがちになる。」(147頁)
「ナイフとフォークがうまく使えるようになったところで人格が高まるわけではない。人格の高潔な人間が、必ずナイフとフォークがうなく使えるわけでもない。マナーと人格は関係ない。」(149頁)

 うん、なるほどという用例ではある。おそらく私が思う「人格」と、著者が言う「人格」は、中身がそうとうにズレている。まあ、本書の趣旨から言えば、どっちが正しいとかそういう問題ではなく、ここから「対話」が始まる「ズレ」ということになるだろう。

本当の自分なんてない。私たちは、社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している。
演劇の世界、あるいは心理学の世界では、この演じるべき役割を「ペルソナ」と呼ぶ。ペルソナという単語には、「仮面」という意味と、personの語源となった「人格」という意味が含まれている。仮面の総体が人格を形成する。」(219頁)

 この文章は、やはり私の価値観からは承認しにくい異物を含んでいる。私の考える「人格」とは、「役割の束」ではなく「責任の束」である。「本当の自分」とは、世界の中で果す役割などではなく、「まさにこの私にしか引き受けられない責任の主体」に他ならない。この「責任」という概念を溶解させてしまうような人格概念は、私の価値観から言えば、極めて危険である。
 つまり論理的かつ倫理的な問題は、著者が言う「役割の束としてのペルソナ」から、果たして「責任」とか「人権」という概念が生じ得るかどうか、ということになる。いかがだろうか。

平田オリザ『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書、2012年