「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】根本浩『ゆとり教育は本当に死んだのか?―公立校再生への道』

【要約】ゆとり教育の導入によって、現場の教師は疲弊の極地にあります。保護者からも子どもからもそっぽを向かれています。「総合的な学習の時間」のせいかもしれません。
しかし理念としては、ゆとり教育は間違っていません。本物の教育を取り戻すために、必要な考え方でした。しかしあまりに精密すぎて、ひとつの歯車が狂うことで全体が機能しなくなりました。
しかしゆとり教育は完全には死んでいません。しっかし機能している学校もあります。今こそ、理想の教育を求めて、初心に戻って頑張りましょう!

【感想】著者は、とても誠実で、熱い人なんだなと思った。教育に対して理想を失っていないんだなと思った。が、そういう人が心身を壊して休職しているという事実そのものが極めて重い。彼のような熱意溢れる誠実な教師が安心して働ける環境を作るのが、政治家の仕事であり、あるいは学者の仕事であるはずなのだった。そういう意味で、現場からの声の数々に、身が引き締まる本であった。

根本浩『ゆとり教育は本当に死んだのか?―公立校再生への道』角川SSC新書、2007年

【要約と感想】町沢静夫『心の壊れた子どもたち』

【要約】最近の若いやつは、ひ弱になりました。母親が甘やかすのが原因です。親はしっかり躾をしましょう。

【感想】著者の善意は疑わないが、残念ながら事実誤認がけっこうある。著者は「最近の若者は命を粗末にする」と主張しているが、間違いだ。統計を少し調べるだけで、若者の自殺率が昔と比べて劇的に減少していることが分かる。日本の若者は、1950年~60年代に大量に自殺していたのであって、近年はさほど自殺していないのである。著者は「教育関係者にはなかなか理解してもらえないようです」(62頁)と、他人のせいにしているが、いやいや。著者の論理に説得力がないのが一番の問題なのだと思う。
具体的ないじめ対策に関しても、加害者を指導するのではなく、被害者に説教を延々とすることを勧めているが、もちろんそんなアドバイスを真に受けてはならない。子どもの無能感と絶望感を増やすだけということが、分かっている。いじめに関する基本的な知識も、古い。もはや強いものが弱いものをいじめるなどという単純な時代ではなくなっている。
ひきこもりに関するイメージも、あまりにもステレオタイプすぎる。他にしっかり科学的にアプローチしている精神科医がいくらでもいるのに、それらの著書を勉強した形跡もない。

気がついたのは、酷いと感じる精神分析の本に共通する点があることだ。間接的に報道等で見ているだけに過ぎず、直接診断したわけでもない人間に、勝手に病名をつけてしまうところだ。逆に、自分が直接診断したケースを中心に議論を進める人は、けっこう信頼できる。本書も、著者が自分の経験を話しているところだけは、そこそこ読める。患者に殴られて顎が破壊された話は、とてもかわいそうだった。同情する。
やはり精神分析が力を発揮するのは「臨床」なのであって、マクロな話をする時は逆にしっかり統計を踏まえる必要があるということだと思う。
まあ、精神分析の専門家が教育に対して発言すること自体は別に構わないのだけれど、発言するならせめて基本的なことを勉強してからにしてほしいと思ったのであった。

町沢静夫『心の壊れた子どもたち』朝日出版社、2000年

【要約と感想】渡辺真由子『大人が知らないネットいじめの真実』

【要約】大人が知らない間にネットいじめが酷いことになっています。携帯を持つことは避けられない以上、情報教育を充実させてネットリテラシーを育成しましょう。テレビやゲームの影響は無視できませんが、権力による規制は危険です。被害者に対処するのではなく、加害者への指導を徹底しましょう。

【感想】ネットでの勇猛果敢ぶりを知っていると、本書の記述はそこそこまともに思える。まあ、10年の間に人が変わってしまったということかもしれないが。とはいえ、因果関係と相関関係の違いを理解していないところは、変わっていないのかもしれない。

そんなわけで、全体的に言いたいことは分からなくもないのだが、尾木直樹等のいじめ対策と根本的に異なるのは、著者が「子どもの参加」について一切の考慮を払っていないところだろう。著者は、一方的に子どもを守ったり指導したりしようとしている。子どもの権利条約を引用するところでも、「子どもの参加」には一切ふれず、一方的にメディアから守られる権利だけを強調している。著者が道を踏み誤ったとすれば、「子どもの権利条約」の一部だけを切り取って、全体的な精神を尊重していないことが問題だったのではないかと思われる。おそらくもう、大人が上から目線で「子どもに有害なもの」を選定して排除隔離するのでは、つまり子どもを単に子ども扱いするだけでは、何も解決しないだろうということだ。

まあ、さしあたって、以下に引用する文章を渡辺真由子が活字に残していることは記憶しておいていいのかもしれない。

「そもそも権力機関による規制は、背後に政治的意図が働く恐れがあるため、やみくもに許すわけにはいかない。臭いものにフタをするだけではなく、子どもたち一人一人が、自分の頭で情報を判断できるようになることが大切だ。」(178頁)
「権力による規制は絶対的な力を持つだけに、慎重さが求められる。政府が有害性を判断するとなると、「子どもにとって有害か」という基準が、いつの間にか「政府にとって有害か」という基準にすり替わりはしないか。」(187頁)

ここまで分かっているなら、さらに踏み込んで「おとなによる規制」が本当に有効かどうかを考えても損はなかった。「こどもの参加と意見表明」をどのように制度的に組み込むかを考えても良かった。いろいろと勿体ない感じがするのであった。

渡辺真由子『大人が知らないネットいじめの真実』ミネルヴァ書房、2008年

【要約と感想】和田秀樹『「か弱き、純真な子ども」という神話』

【要約】子どもは弱くないので、かわいそうなどと思わず、適度にストレスをかけましょう。

【感想】まあ、聞くべきところが皆無なわけではないし、意気込みも分からないわけではないが、そこそこいい加減な本ではあった。専門の精神医学はともかく、教育の理論と現実に関してほとんど勉強していないにも関わらず、憶測と決めつけでかなりいい加減なことを言っている。

まず、「か弱き、純真な子ども」というイメージが生じた歴史的な経緯について、教育学を少しでも囓ったら必ず知っているはずの知識を、著者はどうもご存知ないらしい。このテーマで本を書くのに、アリエスのアの字も出てこないことには、かなり唖然とする。まずはアリエス『子供の誕生』をしっかり読んで勉強して、出直していただきたいところだ。

またたとえば「体罰」に関する見解は、かなりお粗末だ。著者は「子どもがかわいそう」だから体罰をやめたなどと言っているが、そんなことを言っている教育関係者などいない。正確には「体罰には教育的効果がないことが客観的データに示されている」から体罰には意味がないし、そもそも「法律で禁止されている」からやるべきではないということだ。「子どもがかわいそう」などと感情的なレベルの話は、誰もしていない。勘弁していただきたい。
また「根拠となる調査もなしに、東大の教育学部がゆとり教育の旗振り役になっていた」(38頁)というのは、まさに根拠となる調査もなしの決めつけだ。著者本人が根拠となる調査もなしに、憶測で決めつけているのだから、たちが悪い。というか本人が錦の御旗の如く引用している苅谷剛彦はどこの教授だったのかと。

著者の根本的な問題は「人権」というものの本質をよくご理解していないところなのではないか、という疑いを強く持つ。子どもに課す義務を大人並みにするべきという話は一生懸命にするが、主体的な権利を大人並みにしようという話はまったくしない。「甘やかす」ことと「人権を尊重する」ことの区別がついていないように見えるわけだ。

和田秀樹『「か弱き、純真な子ども」という神話』中公新書ラクレ、2007年

【要約と感想】宇沢弘文『日本の教育を考える』

【要約】教育は、リベラリズムの理念に基づいて行なわれるべきです。しかし現実の日本の教育は、資本主義と官僚主義に歪められ、非民主的で不平等を再生産する装置になっています。経済学が社会的共通資本を見失って公害を引き起したのと同じ過ちです。
教育は、社会的共通資本です。大学は自由に学問を追究すべきです。学習指導要領は廃止し、教育委員会は公選制に戻すべきです。数学大好きな著者の半生も語ってます。

【感想】20年以上前の本ということもあって、情報はそこそこ古くなっている。単純な事実誤認もある。教育学に関する基本的な知識も欠けている。
とはいえ、なかなかおもしろく読める本ではあった。旧制高等学校の精神から薫陶を受け、海外の大学の実際を経験し、ベトナム戦争により荒廃するアメリカの状況を肌で感じ、東大でも学問の自由のために闘った著者にしか書けない本である。この貴重な経験には、多くの人に共有されるべき価値がたくさん含まれているように思った。そしてそれ以上に、学問と社会正義に殉じる著者自身の誠実さが、胸を打つ。
ボウルズ=ギンタスをしっかり勉強し直そうと思ったのであった。

また改めて、「社会的共通資本」という考え方はなかなかおもしろいのかもしれないと思った。新自由主義に対抗して「公共性」を取り戻そうとする時に、経済学からの援軍として利用できる概念かもしれない。

「社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置です。社会的共通資本は社会全体にとって大切な共通の財産であって、社会的な基準にしたがって慎重に、大事に管理、運営されるものです。」(155頁)

【事実誤認に対するツッコミ】
森有礼に言及している文章があるが、教育史専門家としては、ツッコミを入れておかなければならない。

「森有礼が書いた文章を読むと、教育勅語の草案はかれが書いたのではないかと思われるほどです。」(174頁)

いや、森有礼からは、逆立ちしても教育勅語は出てこないはずだ。森は確かに国家主義者ではあるが、近代的な国家主義者であって、前近代的な儒教家族的国家観とは無縁な男である。教育勅語は反動的儒教主義の元田永孚と近代主義的国家官僚の井上毅による合作であって、森の教育的立場とはずいぶん異なる。
いちおう、専門的立場から訂正を入れておく。

また単純な誤字としては、「期待される人間像」が「1996年」となっていた(206頁)が、もちろん1966年だ。また臨教審による教育改革が1970年代後半から80年代初めとされている(207頁)が、もちろん80年代後半のことだ。

【言質】
「人格」という言葉がたくさん出てくる。

「私たちはいま改めて、教育とは何かという問題を問い直し、子どもたちの全人格的成長をもとめるリベラリズムの理念に適った教育制度はいかにあるべきかを真剣に考えて、それを具現化する途を模索する必要に迫られています。」(ii頁)
「一人一人の子どもがもっている個性的な資質を大事にし、その能力をできるだけ育てることが教育の第一義的な目的であることはいうまでもありませんが、同時に、子どもたちが成人して、それぞれ一人の社会的人間として、充実した、幸福な人生をおくることができるような人格的諸条件を身につけるのが、教育の果たすもう一つの役割でもあります。」(11頁)
「これらの大先生たちはどなたも、私たち生徒を一人の独立した人格として丁寧に遇して下さった」(99頁)
「現在の大学は、学問の専門化に対応して、専門教育を授けることを主な目的としています。一人一人の学生がすでに一個の完成した、独立した人格をもつ社会的存在ということを前提として、専門的な学問的知識を教授するというのが、大学の目的になっています。しかし、現在の高等学校での教育は必ずしも、この前提をみたすものではなく、精神的にも、人格的にも、未成熟のままの大学生による反社会的な行動、陰惨な犯罪が後を絶ちません。」(213頁)

うむ。最後の旧制高等学校を経験した者の「人格」用法は、なかなか感慨深い。この「人格」に込められている理想は、現在の「人格」とはずいぶん違っているような感じがするのであった。

宇沢弘文『日本の教育を考える』岩波新書、1998年