「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【要約と感想】柏木惠子『おとなが育つ条件―発達心理学から考える』

【要約】おとなになってからも、人間は発達します。むしろ、発達しなければいけません。というのは、高齢化した現在、退職後や育児終了後にも長い人生が待っており、そこでの過ごし方によって幸福になれるかどうかが決まってくるからです。
幸福になれるかどうかの鍵は、「自分とは何か」というアイデンティティの模索がうまくいくかどうかです。旧来の性別役割感に縛られると、幸福にはなれません。自分の個性と「なりたい自分」を認識し、「個」として充実することが大切です。
幸福になりたいなら、男性は家事と育児をしましょう。「おとな」の条件とは、弱者をケアする力と意志を持つことです。女性は家に閉じこもらず、仕事をするなど社会に出ましょう。

【感想】実践的に、身につまされる話であった。もっと家事をしなくちゃなあ。

【今後の研究のための備忘録】
「個性」や「アイデンティティ」という言葉の用例など、様々なサンプルを得た。

「教育や指導法の効果は学習者の個性とマッチしているかどうかによる、個性(適正)に応じた処遇―教育が有効なのです。」(44頁)
個性が大事、独創性を、としきりにいわれています。しかしその実現は容易ではありません。きちんとすること、間違いをしないことを促す強い社会化は、個性やチャレンジする心と行動を育ちにくくします。」(46頁)

発達心理学の文脈で語られる「個性」であって、教育哲学の言う「個性」とはかなり違う意味を担っている。ここで言う「個性」とは、44頁で括弧を付けて「適正」と言い換えていることからも顕著に分かるとおり、社会の中での相対的な「個人差」を意味している。教育哲学の言う「個性」とは、相対的な個人差を問題にせず、かけがえのない存在の独自性を土台とする。

「退職後は、肩書きのない個人として「自分は何者か」が問われ、どうふるまうかを自分で決めねばなりません。個人としてのアイデンティティが求められます。活動への参加体験は、とりもなおさず「個人」としてのアイデンティティの発見と確立の機会となります。」(75頁)
「エリクソンの理論に源をもつアイデンティティ―「自分とは何者か」「私はどう生きるか」の問いに解を出すことは、長らく青年の発達課題とされ、青年心理学の中心的テーマでした。そして青年期にアイデンティティが確立できていれば、その後の人生は揺るぎなく展開すると考えられてきました。しかし、今日、アイデンティティはおとなにとって重要な発達問題となっています。」(146頁)
「人類が初めて出会った長期の非生産年齢期間が、おとなのアイデンティティという課題を突きつけたのです。」(148頁)
「青年から成人のアイデンティティの発達を総覧しますと、アイデンティティの確立には二つの場での発達があります。一つは他者との親密な関係の中での自己の定義/確認、もう一つは自分自身の活動と存在で獲得する有能感や自存を基盤とした自己定義です。換言しますと、「かかわりの中での発達・成熟」と「「個」としての発達」で、この二つの発達プロセスをもつことがアイデンティティの確立と安定には重要です。」(208頁)

やはりアイデンティティという言葉の使い方も教育哲学と発達心理学では大きく異なっている。特に発達心理学ではエリクソンの業績を踏まえて使用される言葉となっている。が、教育哲学では、プラトンやアリストテレスに由来しスコラ哲学で鍛え上げられてきた「同一性」の概念と無縁ではいられない。
またそれは、「自己実現」という言葉が、発達心理学ではマズローに引っぱられることとも同様である。

「女性が長い人生を、育児(繁殖)だけでなく自己実現のために使う方向に行動指針を取り始めた、史上初の事態です。」(150頁)

また、恋愛結婚や「おとな/子ども観」に関しても言質を得た。

「一九六九年を境に、見合い結婚と恋愛結婚との割合が入れ替わり、今やほとんどが恋愛結婚、見合いや紹介で始まっても交際後「恋愛的」関係になることで結婚となりました。このことは男女の関係に大きな影響をもたらしました。第一は対人関係スキルとりわけコミュニケーション能力が重要となったことです。」(83頁)
「「おとな」であることの条件はいうまでもなく自立です。しかしそれだけでは「おとな」ではありません。幼弱病老者へに配慮と援助―ケアの心と力を備えていることは、おとなの必須の条件です。ケアすることは即おとなが育つ条件です。」(97-98頁)

「おとな」であることの条件が弱者へのケアの心と力だという見解には、教育哲学的な立場からも絶大な賛意を示したい。

柏木惠子『おとなが育つ条件―発達心理学から考える』岩波新書、2013年

【要約と感想】池上彰『学び続ける力』

【要約】すぐに役に立つ知識は、すぐに役に立たなくなります。すぐに役に立たない知識こそ、長年にわたって役に立ちます。教養を身につけましょう。勉強大好き。

【感想】すでに勉強大好きな私には必要のない本ではあった。高校生が読むにはちょうどいい本なのかな。
まあ、大学の講義の様子は、多少参考になった。そう、調子に乗ってレポートを課すと、採点が大変なのだ。しかし大量に単位を落とせば、次からは受講者が減るのだ。ははは。

池上彰『学び続ける力』講談社現代新書、2013年

【要約と感想】菅野仁『教育幻想―クールティーチャー宣言』

【要約】「人格の完成」なんて理想を言わないで、産業的身体の形成という身も蓋もない学校の役目を踏まえて、学校は「ルール感覚」を元に運営し、「欲望の統御の作法」を身につけさせるべきです。そのためには、教師には権威が必要です。教師は、人格と事柄を切り分けて、クールに対処するべきです。

【感想】教育社会学の人が言いがちなことが無難に並べられている本である。だから、教育哲学の立場から読むと、不満が多くなる。

特に、「人格の完成」という言葉の意味をまるで理解しないで、世間的な俗説に無批判に乗っかって無化しようとしているところは、すごく気になる。もともと「人格の完成」とは、著者が言っているような「欲望を統御する作法」でもあり、「ルール」を認識する理性を育てることを意味していたはずだ。ルソーやカントやヘーゲルがそう言っている。「人格の完成」とは、自己責任を果たせる倫理的な主体となって自由を行使する力を身につけることだ。著者はどうも、儒教的なニュアンスで「人格の完成」を理解しているのではないか。まあ、著者だけでなく、世間一般にそういう傾向があるわけだが。
そして「欲望の統御の作法」という当為が、いったいどんな価値判断から導かれたのか、その理由と根拠がまったく説明されないところは、気味が悪い。察するに、社会契約論的な世界観が土台にあるような気はするものの、原理的な説明をしてくれるわけではない。まあ、新書だから、求めるだけ無駄というものかもしれないが。ちなみにルソー『エミール』は、とことん原理的なところから「欲望の統御の作法」について考察している古典なわけだが、どの程度参照されているのか。
またあるいは、大人には自己責任があり、自己責任をとれない子どもに自由を与えるべきではないと言う(179頁)。そんなことはカントもヘーゲルも言っている。教育哲学がずっと取り組んでいる問題(それこそプラトン以来)とは、「自由でない者がどうやって自由になるのか?」という問題であり、「強制から自由が生じるか?」という原理的な問題なのだ。その原理的な問題を完全にスルーして、予定調和的に自由と責任を結びつけている様を見ると、かなりガッカリする。まあ、それが社会学というものではあるが。しかしそれなら、「当為」については沈黙してもらいたいところでもある。

【言質】
「人格」や「個性」という言葉がたくさん出てきた。

「一言で言えば「事柄志向」は相手の人格に影響されずに、事実のみをクールに見ていこうという志向性のことです。反対に「人柄志向」は、事実起った事柄そのものよりむしろ事実の背景にある文脈や相手の人となりなどから判断しようとする志向性のことです。」(24頁)

ここでは「人格」と「人となり」という言葉がほぼ同義に扱われている。つまり、「人格」をカントが言うような倫理的責任の主体として理解していないことを示唆している。

「社会学では、人格性(ペルゼンリッヒカイト)と事実性(ザッハリッヒカイト)という対になる概念があります。近代社会の原理として、「人格的(ペルゼンリッヒ)な支配構造から、事実的(ザッハリッヒ)な支配構造へ移行した」という社会学の基本認識で使われるアイディアを、本書では換骨奪胎して使っています。」(27頁)

テンニエスとかウェーバーを想起するところだろうか。しかしこれは、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトの違いは説明できても、教育原理的な話に応用して大丈夫なものなのだろうか。にわかには承認しがたいところではある。そして「人格性」と「人格」の違いは、どの程度自覚されているのか。

「まず学校というものは、そもそもの成り立ちとして、産業的身体を作ったり、その都度の社会に適合的な人間の意識を作るということが、ベースになっている場でした。もともと、過剰に高邁な理想をもって、人間の資質や個性を伸ばそうとして生まれた場所ではないということです。」(42頁)

「過剰に高邁」って。儒教的な学校には当てはまる揶揄かもしれないけれど。

「もう一つ難しいのは、「子どもの自主性を尊重する」「人格を認める」と大人が言うときに、それがとても観念的な、もっというと単なるきれいごとになってしまっている場合が多いということです。」(96頁)

うーん、子どもを一人の人間として見ることって、そんなに難しいことなのだろうか? 単に子どもの権利条約の精神を誤解しているだけではないかという疑いが強い。

「子どもの主体性を尊重するからこそ、もう少し言えば、子どもが自分で判断して、自分の欲望を統御しながら主体性を実現できるような大人になっていくことを大事に考えるからこそ、大人(親や先生)は、子どもたちの振舞いを制御したり制限を加えていったりして教育しなければならない。」(97頁)

実践的には当たり前のことだ。しかし根本的な問題は「強制的に自由にする」ということの可能性と倫理性の基礎づけであって、そこを著者が完全スルーしているところが不満なわけだ。

まあ、著者に言っても仕方がないので、私が自分自身の問題として深めていくべきところだ。

菅野仁『教育幻想―クールティーチャー宣言』ちくまプリマー新書、2010年

【要約と感想】田原俊司『「いじめ」考―「いじめ」が生じる原因と対策について』

【要約】統計的手法を使って、いじめの原因を考えました。従来から言われてきたような原因には、数字的な根拠は見いだせません。進学のストレスとか、厳しい校則とか、家庭の環境とか、被害者の性格などの要素は、いじめの発生とはほとんど関係がありません。いじめの加害者や被害者にどうしてなるのか、特定の要因に還元することは不可能です。いじめに関わる役割(加害・被害・傍観・仲裁)が固定的でなく流動的であり、予測不可能であることが、数字で確認できました。
その中でもいちばん有意な要素は、「いじめを回避するための行動」です。自分がいじめられないために強い者に追随してより弱い者を攻撃する戦略を採用する者が、いちばん加害者になりやすいことが分かりました。つまり今後は、「いじめ回避スキル」を身につけるための教育が重要です。また被害者は、孤立して逃走しやすいことが分かりました。孤立させないためのメンター制度の確立が重要になってきます。

【感想】なかなか興味深い結果であった。数字で問答無用の結果が出てくるので、そこそこ説得力もある。
本論の結果は「いじめを回避する方法」の違いが加害者になるか被害者になるかの分かれ目ということだった。言い換えれば、いじめに対する「メタ認知」が決め手になるということだ。そう考えると、いじめが小学校高学年から顕著に増加することの理由も説明できそうだ。すなわち、小学校高学年は「メタ認知」の力が発達する段階に当たるからだ。メタ認知能力が発達することで、集団内における振る舞い方の戦略が個性化し、ここから加害者と被害者(および傍観者と仲裁者)が分化するというストーリーが描ける。
この認識が正しいとすれば、いじめを防止するためには「メタ認知」に働きかけることが肝要ということになる。単に「イジメは卑怯だ」などとメッセージを送ることに、たいした意味はない。「イジメは卑怯だ」というメッセージを発するのであれば、同時にその認識を自分の所属集団が共有しているという「メタ認知」メッセージも発しなければ、意味はない。逆に、どれだけ「いじめは卑怯だ」というメッセージを発しても、所属集団が「卑怯で上等」という認識を共有していれば、むしろいじめは加速することになる。

「メタ認知」という補助線を導入することで、いじめに対する効果的な介入の在り方に大きなヒントが与えられるように思ったのであった。

田原俊司『「いじめ」考―「いじめ」が生じる原因と対策について』八千代出版、2006年

【要約と感想】苫野一徳『「学校」をつくり直す』

【要約】学校は、近代社会を立ち上げるには有効でしたが、いまや時代遅れです。みなが同じ内容を同じ場所で同じペースで同じように教えるシステムが賞味期限切れなのです。これからの時代に対応するには、学びの個別化・協同化・プロジェクト化を推進しなければなりません。無理だと言う人がいますが、必ずできます。

【感想】大きな刺激を受ける本だった。
全体的には著者がこれまでの本でも主張していた内容が繰り返されている。立場にまったくブレはない。が、様々な立場の人々との対話と交流を踏まえた上で、ひとつ上のステージから丁寧なフィードバックが加えられており、さらに一回り説得力を増した感じがする。さらに地に足が着いた印象を持つ。机上の空論ではなく、現実を変えてくれそうな期待感を抱かせる。

個人的に特に刺激を受けたのは、教員養成に関する具体的な話だった。私も教員養成課程で授業を持っており、著者と立場を同じくする。大学での教員養成課程にかける著者の姿勢と具体的な授業の様子を垣間見て、大きな刺激を受ける。100人超のマスプロという苛酷な環境でもプロジェクト型の講義をやりきる姿勢に、頭が下がる。私も頑張らなければいけないと、襟が正される思いであった。以前から腹案はあったが、いよいよ今年度の後期からプロジェクト化した授業でやっていこうと、腹を据えた。
評価が「合/否」でいいという話には、激しく同意する。教員が個性的でないのに、学校や子どもが個性的になるわけがない。教職コア・カリキュラムは、天下の大愚策であるように思う。また著者が言うように、教員免許更新講習も、さっさと廃止したほうがいい。誰一人得をする人がいない大愚策だ。(まあ、どっちみちやらなければいけないのなら、少しでも有益な時間になるように努力はするのだけれども。)

専門家として気がついたのは、本書に一言も「人格」と「個性」という言葉が登場しなかったことだ。昔の本ではうっかり「人格」という言葉を使ってしまう個所があったりしたが、本書は徹底的に「人格」および「個性」という言葉を排除している。個人的にかねがね思っていたのは、教育論に「人格」とか「個性」という言葉が登場したとたんに、地から足が離れ、現実感がなくなり、ふわふわした情緒的な議論に陥りやすいということだ。本書が抽象化や一般化のワナにはまっていないのは、「人格」とか「個性」といった情緒的に分かった気になるマジックワードを完全に排除して、著者のコントロール下にある概念だけで議論を構成していることが肝心なように思う。地に足が着いているように感じるのは、本書で用いられる抽象的な概念それぞれにしっかり血が通っているからだろう。

著者と私とでは、最奥の学問的立場においては決定的な相違があるような気はしているものの、そんなものは教育と学校の厳しい現実の前では極めて些細なことだ。著者の活動を、ささやかながら応援していきたい。私も目の前の小さなことから頑張ろう。まずは前期のテストの採点だ……

苫野一徳『「学校」をつくり直す』河出新書、2019年