【要約】「人格の完成」なんて理想を言わないで、産業的身体の形成という身も蓋もない学校の役目を踏まえて、学校は「ルール感覚」を元に運営し、「欲望の統御の作法」を身につけさせるべきです。そのためには、教師には権威が必要です。教師は、人格と事柄を切り分けて、クールに対処するべきです。
【感想】教育社会学の人が言いがちなことが無難に並べられている本である。だから、教育哲学の立場から読むと、不満が多くなる。
特に、「人格の完成」という言葉の意味をまるで理解しないで、世間的な俗説に無批判に乗っかって無化しようとしているところは、すごく気になる。もともと「人格の完成」とは、著者が言っているような「欲望を統御する作法」でもあり、「ルール」を認識する理性を育てることを意味していたはずだ。ルソーやカントやヘーゲルがそう言っている。「人格の完成」とは、自己責任を果たせる倫理的な主体となって自由を行使する力を身につけることだ。著者はどうも、儒教的なニュアンスで「人格の完成」を理解しているのではないか。まあ、著者だけでなく、世間一般にそういう傾向があるわけだが。
そして「欲望の統御の作法」という当為が、いったいどんな価値判断から導かれたのか、その理由と根拠がまったく説明されないところは、気味が悪い。察するに、社会契約論的な世界観が土台にあるような気はするものの、原理的な説明をしてくれるわけではない。まあ、新書だから、求めるだけ無駄というものかもしれないが。ちなみにルソー『エミール』は、とことん原理的なところから「欲望の統御の作法」について考察している古典なわけだが、どの程度参照されているのか。
またあるいは、大人には自己責任があり、自己責任をとれない子どもに自由を与えるべきではないと言う(179頁)。そんなことはカントもヘーゲルも言っている。教育哲学がずっと取り組んでいる問題(それこそプラトン以来)とは、「自由でない者がどうやって自由になるのか?」という問題であり、「強制から自由が生じるか?」という原理的な問題なのだ。その原理的な問題を完全にスルーして、予定調和的に自由と責任を結びつけている様を見ると、かなりガッカリする。まあ、それが社会学というものではあるが。しかしそれなら、「当為」については沈黙してもらいたいところでもある。
【言質】
「人格」や「個性」という言葉がたくさん出てきた。
ここでは「人格」と「人となり」という言葉がほぼ同義に扱われている。つまり、「人格」をカントが言うような倫理的責任の主体として理解していないことを示唆している。
テンニエスとかウェーバーを想起するところだろうか。しかしこれは、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトの違いは説明できても、教育原理的な話に応用して大丈夫なものなのだろうか。にわかには承認しがたいところではある。そして「人格性」と「人格」の違いは、どの程度自覚されているのか。
「過剰に高邁」って。儒教的な学校には当てはまる揶揄かもしれないけれど。
うーん、子どもを一人の人間として見ることって、そんなに難しいことなのだろうか? 単に子どもの権利条約の精神を誤解しているだけではないかという疑いが強い。
実践的には当たり前のことだ。しかし根本的な問題は「強制的に自由にする」ということの可能性と倫理性の基礎づけであって、そこを著者が完全スルーしているところが不満なわけだ。
まあ、著者に言っても仕方がないので、私が自分自身の問題として深めていくべきところだ。
■菅野仁『教育幻想―クールティーチャー宣言』ちくまプリマー新書、2010年