「読書感想」カテゴリーアーカイブ

【紹介と感想】授業づくりネットワーク『個別最適な学び』

【要約】中央教育審議会答申で掲げられた「個別最適な学び」が注目されていますが、実は現場では「自由進度学習」という形で古くから先進的な実践が積み重ねられてきています。かつての実践を振り返って成功の要点を確認し、最新のICTやユニバーサルデザインの思想など新しいテクノロジーも視野に入れて、令和の新しい個別最適な学びの形を考えていきます。

【感想】いわゆる「自由進度学習」で注目されていた緒川小学校は、実は私の実家からほど近いところにあるため、なんとなく親近感があるのだった。で、かつての実践では教員の側が周到にプリントを用意するなど丁寧な準備が必要だったのが、今後はICTの活用によって実践がより容易になっていく。さて、文部科学省が目論むように「個別最適な学び」が現場に広がっていくのか、どうか。自由進度学習が可能かどうか、私自身もいま大学で実践を試みている最中だったりする。ICT活用は必須としても、一方でやはりカリキュラムと教育内容全体に対する教員の徹底的な理解も欠かせないことを実感しつつある。

授業づくりネットワーク『個別最適な学び』学事出版、2022年

【要約と感想】野田敦敬・田村学編著『学習指導要領の未来』

【要約】1947年に経験主義カリキュラムで始まった「学習指導要領」は、冷戦や高度経済成長等による紆余曲折を経ながらも、子どもを中心とした生活科や総合的な学習の時間を創出し、熱心な指導者の努力で優れた実践を積み重ねてきました。今後も探究的な学習を推進していくために、生活科や総合的な学習の時間の方向性は維持しつつ、さらに弾力性を高めていく必要があります。

【感想】熱量の高い本だった。多くの著者が関わっていて、細かいところを見ていくと当然違いもあるのだが、大まかにはみんな同じ方向を見ている。一致しているのは、生活科と総合的な学習(探究)の時間を軸にカリキュラムを構想することがSociety5.0時代の教育にとって決定的に重要だ、と考えているところだ。私もその流れに棹さすものである。

【要確認】カリキュラム・オーバーロード
 本書の本筋とは関係ないが、日本教育史プロパーとして気になってしまったのでメモしておく。

「現象としてのカリキュラム・オーバーロードへの気付きとそのメカニズムの解明は、さらにさかのぼって1930年代に存在する。」39頁、奈須正裕執筆箇所

 いや、私の研究では、カリキュラム・オーバーロードへの気付きは、既に初代文部大臣森有礼の段階で存在する。森有礼や、そのブレーンであった教育学者・能勢栄はカリキュラム・オーバーロードのことを「学科多端」と表現していた。そして問題の所在をペスタロッチー主義を直輸入した「開発主義」カリキュラムと特定し、制度改革に着手している。この森・能勢の段階では学科多端の問題を解決することは叶わなかったが、明治33年に文部省普通学務局長だった沢柳政太郎が携わり、ヘルバルト主義のアイデアを取り込んだ小学校令改正によって一定の解決を見ることになる。ややもすると教職課程の教科書レベルではヘルバルト主義は「五段階教授法」という形で授業方法にのみ関わっているかのような記述も散見されるところだが、実際にはカリキュラム構成の論理に深く影響を与えている。「学科多端」の問題に対するヘルバルト主義の回答は、「多方の興味」と「開化史的段階」の理論だった。これにより、開発主義の時代にはありとあらゆるサイエンスの成果を教え込もうとしていた系統的(演繹的)カリキュラムが、教育学の論理によって開化史的(発生論的)カリキュラムへと整理されることになる。(このあたりの詳細は私の論文「「教育的」及び「個性」-教育学用語としての成立-」を参照)
 まあ、専門的な細かい話に過ぎず、本書の大筋にはまったく影響しないのではあった。

■野田敦敬・田村学編著『学習指導要領の未来―生活科・総合そして探究がつくる令和の学校教育』学事出版、2021年

【要約と感想】髙谷浩樹『「GIGAスクール」を超える』

【要約】ICT教育について語る前に、まずは道具としてのICTを理解しましょう。まずこれまでの学校DX化失敗の歴史を反省して、官民協働で一人一台端末を実現しました。教育DX化を進めることで、個別最適化した学習などテクノロジーを活用した新たな取り組みが進むことに加え、教育データ駆動によって思いもよらなかったイノベーションを期待することもできます。しかし教育データ駆動のためには単に一人一台端末の整備だけでは不十分で、セキュリティを踏まえてデータを収集・分析・可視化・活用するためのクラウドやプラットフォーム標準化などの整備が必要です。教育DX化を妨げる学校文化が残存しているので、打破しましょう。

【感想】GIGAスクール構想立ち上げに関わったキーパーソンが内部から見たこと考えたことを書き連ねていて、まずは手っ取り早く事実関係を把握できるのがありがたい。
 内容としては、具体的な授業改善へのICT活用についてはさらっと触れるだけで、主にビッグデータを教育的に活用する意義と、それを実現するためのインフラやセキュリティについての解説、さらにDX化を阻む教育界の障壁について詳しく書いてあるのが類書と異なる特徴だろう。
 ということで、現場の最前線に立つ教師向けに書かれたというより、教育政策立案や条件整備やカリキュラム編成に携わる立場、つまり教育委員会や管理職に向けて書かれた本ということになる。まあ、現場の教員が知っていて損はないだろうとは思う。

■髙谷浩樹『「GIGAスクール」を超える―データによる教育DX実現への道程』東洋館出版社、2022年

【要約と感想】新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ〈トルコの脅威〉とは何だったのか』

【要約】現代の後知恵はオスマン帝国を非キリスト教・非ヨーロッパの東方専制国家として扱いますが、実際の歴史過程を見てみると、オスマン帝国はキリスト教徒も人材として有効に活用しながらローマ帝国の後継を自認して地中海で勢力を維持する一方、ヨーロッパ諸国(特にハプスブルクを牽制するフランス王家)はオスマン帝国と手を結びながら勢力を伸ばそうと試みており、単純にキリスト教とイスラム教が対立していたと考えてはいけません。オスマンはイスラム教で統一されていたわけではなく、様々な民族や宗教や立場が渾然となりながらも、人材登用や土地経済の制度等で統一が保たれていた帝国です。だからこそイスラム教の立場が強くなり始めると、むしろ従来の寛容な人材登用や土地経済制度が機能しなくなり、力が弱くなっていきます。近代ヨーロッパの形成を考える上では、寛容と規律の精神で強力な統一国家を作り上げたオスマン帝国のインパクトを無視できません。

【感想】歴史を遡って国と「国でないもの」の間に境界線を引こうとするとき、たとえば中国にとって戦国時代の秦は境界線の内であるのに対し、匈奴は境界線の外だ。春秋時代の呉や越は境界線の内であるのに対し、三国時代の南蛮は境界線の外だ。しかしおそらく紛争の真っ最中にこういう境界線が明確に引かれていたのではなく、もともとは緩やかなグラデーションだったものが、後に歴史書を編纂する過程で徐々に細部が忘れられ、大雑把な二分化が進行し、境界線が固定されていったのだろう。
 ヨーロッパにとってのオスマン帝国もそういうものなのだろうが、中国史と決定的に異なるのはビザンツ帝国の存在だ。ローマ帝国の正統な後継として、西ローマ帝国滅亡後も約千年間存続した東ローマ帝国→ビザンツ帝国は、同時代のヨーロッパ(あるいはそれを束ねるローマ教会)にとっては極めて厄介な存在だった。このカトリックにとって厄介で目障りな存在だったビザンツ帝国を滅ぼしてしまった(1453年)のが、オスマン帝国にとっては結果的によくなかったような気がする。オスマン帝国はコンスタンティノープルを掌握したことで「ローマ帝国の正統な後継」を自認し、実際に地中海への進出を目論むようになった一方、厄介なグラデーション地帯だったビザンツ帝国が滅んだことでオスマン帝国から剥き出しの圧力を受けるようになったヨーロッパのほうは、かえって曖昧なグラデーションではなく明確な境界線を引っ張って、オスマン帝国を「外」として認識する地政学、そして旧ビザンツ=東ローマ=ギリシアを内として認識する歴史認識が成立したのではないか。だとすれば、ルネサンスとは西欧が忘れていたギリシアを「取り戻した」のではなく、実際にはもともと西洋ではなかったもの(ビザンツ=東ローマ)を境界線の内側に簒奪するムーブメントで、それはオスマン帝国という「明らかな外側」を設定することで初めて成立するものではないか。
 ということを考える上でも、後知恵からは「境界線の外側」に設定されているオスマン帝国について、歴史過程に基づいて境界線が曖昧なまま把握しようとする本書は、とても刺激的なインスピレーションを与えてくれるのであった。

【知りたくて書いてあったこと】遅れたヨーロッパ
 中世までのヨーロッパが世界的に後進地域だったことは周知の常識ではあるが、周知の常識過ぎて引用できる文章はそんなになかったりする。本書にはしっかり「文化果つる地」と書いてあった。ありがたい。

「たしかにビザンツによって東地中海の拠点奪回は緊要だったから、各地で戦闘が繰り返されていた。しかし、そうした軍事的・政治的対立が、経済や文化の交流を完全に遮断することにはならなかった。したがって商人たちの活動は絶えることなく続いたが、ただしイスラム勢力にとって、東地中海からさらに西に向かう公益は、魅力に乏しいものだった。そのため、この方面での公益活動は、もっぱらユダヤ系やアルメニア系の商人が担うことになった。
 一方西ヨーロッパは、イスラム勢力の進出以降、地中海地方から自らを隔絶させ、内陸化することによって独自の世界を形成し始める。文明の中心を離れた彼等にとって、地中海はもはや「異域」であって、彼らがこの地域へ乗り出してくるには一一世紀後半を待たねばならない。そして、この「文化果つる地」西ヨーロッパと地中海地方とを結ぶ上で重要な役割を果たし始めたのが、ヴェネツィアをはじめとするイタリアの商人たちだった。」122頁

 イスラム・ビザンツ・ユダヤ・アルメニア・イタリアの商人たちの活動商圏についても簡潔にまとまっている。

【今後の研究のための備忘録】ルネサンス
 ルネサンスは、言葉そのものが西欧視点のものであるため、もちろん西欧史の文脈でのみ語られる。そして実態は語義通りの「復活」なんてものではなく、輸入と言った方が正確だろう。西欧のガリアやゲルマンには、ローマはともかくとして、ギリシアの伝統があるはずがない。ギリシア文化は、ビザンツから輸入して学びとっている。復活ではない。ルネサンスとは、西欧がギリシア文化を簒奪し僭称するために捏造した概念だ。そういう事情は、イスラム側から見ればさらにはっきりする。

「コンスタンティノープル陥落によって、文人、芸術家の多くがイタリアへ避難し、それによってルネサンスが開花したと、ほとんど決まり文句のように言われてきたが、多くの芸術家やユマニストが――「トルコの征服者」に関する、さまざまなまがまがしい噂が流布していたにもかかわらず――コンスタンティノープルを訪れようと望み、そして実際にイタリアからオスマンへの人の流れが存在していたことを指摘するのも、公平を図る上で無意味ではあるまい。」110頁

 ビザンツ=ギリシア正教が必ずしも西欧=カトリックと結びついていたわけではなく、オスマン=イスラムとも容易に結びついていたことを思い起こさせる、大切な指摘だと思う。

新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社学術文庫、2021年<2002年

【要約と感想】浅野大介『教育DXで「未来の教室」をつくろう』

【要約】義務教育段階での一人一台端末が実現しましたが、まだ入口です。本気で教育DXを進め、「学びの自律化・個別最適化」と「学びの探究化・STEAM化」を本格化しましょう。生徒の学び方と教師の働き方が根底から変わります。
 経済産業省だからこそできる仕事かもしれませんが、あくまでも文部科学省と対抗したいわけではありません。文科省の言う「生きる力」を本当に育てる教育を目指しましょう。

【感想】単に机上の空論に終始するのではなく、先行している具体的事例を踏まえて帰納的に理論を組み上げ、そしてその理論から演繹的に実践例を構想して、実際に実現にこぎつけるという、理論と実践の往還が、話に説得力を持たせている。そうやって前のめりに新しい時代に対応していけるところは、どんどん実現していけばいいのだろう。止める筋合いはない。今は、前に進める人たちからどんどん進むべき時間帯だ。先に進むために、教育学が積み重ねてきた知見と知恵は大いに役に立つだろう。
 忘れてはいけない問題は、ついて行けない人や置いて行かれる人が必ず出る、というところだ。ついて行けない人や置いて行かれる人の存在を言い訳として改革を止めるようなことをせず、そしてそれでもついて行けない人や置いて行かれる人を少しでも減らし、あるいはケアするために、おそらく経済産業省が関心を示さない教育学の知恵が必要になってくる。

【要検討事項】教員免許制の柔軟化や標準授業時数の廃止(217頁)、デジタル教科書制(218頁)や就学義務の柔軟化(221頁)にまで踏み込んでいるところは、メモしておく。仮にこれらが実現したら、もう文部科学省の存在意義自体がなくなりそうなものだ。

■浅野大介『教育DXで「未来の教室」をつくろう―GIGAスクール構想で「学校」は生まれ変われるか』学陽書房、2021年