鵜殿篤 のすべての投稿

【要約と感想】小池和子『カエサル―内戦の時代を駆けぬけた政治家』

【要約】カエサルを扱った本は既に山ほど出版されていますが、本書の特徴は、学問的な成果に基づいてごくごく基本的な事柄を扱いつつ、同時代の時代状況や政治制度、あるいはキーパーソン(特にキケロー)の動向を踏まえて、カエサルの一生と人となりを描くところにあります。
 政治史的には、マリウス(平民派)とスッラ(閥族派)の抗争から内乱の一世紀に突入し、ポンペイユス・クラッスス・カエサルの三頭制を経て、最終的にカエサルがポンペイユス等との内戦に勝利、独裁制を始めることになります。

【感想】『ガリア戦記』は読んだし、キケローの著作や書簡集にも目を通したし、サルスティウスやルーカーヌスなど同時代の歴史書も読んだので、本書は「答え合わせ」の意図をもって読み始めたのだけれども、いやいや、知らないことだらけだった。勉強になった。
 で、私の個人的な好みとして、歴史が動くのは一人の英雄的行為ではなく、経済史的背景が決定的な要因になっていると考える傾向にある。本書は経済史的背景の要点を簡潔に押さえ、それを踏まえて各陣営の動向を説明するなど、私としてはかなり納得しやすい書き方になっている。カエサルが確かに代わりが効かない時代の英雄(秦の始皇帝や織田信長などと同様)であることは間違いないとしても、彼がその才能を十分に発揮するためには経済史的背景が煮詰まっている必要はあるだろう(秦の始皇帝や織田信長などと同様)。まあ、ローマ共和政末期の経済的矛盾(中小農民の没落)そのものは高校の世界史教科書に書いてある程度の知識ではあるが。
 一方、本書はカエサルの人となりについてはかなり抑制して描写している。学術的に確かな事柄しか扱わないという姿勢が現れている。が、それでもカエサルが魅力的な人物だったんだろうな、と覗わせる記述はそこかしこにある。敗北者には寛容だが、自らの尊厳を汚した相手は徹底的にやっつける。そんなカエサルと比較すると、キケローのほうがキレイゴトばかり並べる小物に見えてしまうのは仕方ないのであった。

小池和子『カエサル―内戦の時代を駆けぬけた政治家』岩波新書、2020年

【要約と感想】聖トマス『形而上学叙説―有と本質とに就いて―』

【要約】「有」と「本質」について、それぞれ何を意味するか、現実においてはどのように見いだされるか、論理学的にどのような関係にあるか等について、基本的に理解しておかなければ、後々ひどい誤りを犯すことになります。とういことで、アリストテレスの議論に沿って考えていくと、現実の「有」および「本質」について理解するためには、「形相/実質」とか「類/種差/種/個体」という概念の内容と関係を丁寧に把握しておく必要があります。そうすると、「有」と「本質」とは、それぞれ異なっています。
 ところで本当の問題は、「神」や「天使」や「魂」など、質量をもたない英知体の「有」と「本質」をどう考えるかで、これについてはアリストテレスの預かり知らないところでした。前半で明らかになった定義を踏まえて考えると、神の場合は「本質」こそが「有」であり、天使のような英知体の場合は「本質」と「有」は異なっているが質量を持たないために一つの種には一つの個体しか属さず、一般的な存在者については形相によっても質量によっても「本質」が変化するために一つの種のなかに様々な個体が生じることになります。
 こうやって考察を重ねることで、「有」と「本質」の意味や関係だけでなく、論理的普遍概念がどのように見いだされるかも明らかになりました。

【感想】本訳書の初版は1935年とクレジットされている。古い。ちなみに二二六事件の前年だ。故に漢字が舊字體のうえに、紙版もつぶれていて、読みにくいことこの上ない。旧字体を読むトレーニングを経た人でないと、とりつくことさえできないだろう。そんなときに、今はインターネットで現代語訳されたものを読むことができる。便利な時代になったものだ。
▼存在者と本質について(Wikisource)
 ちなみに本書が「有」と呼んでいる鍵概念は、現代語訳では「存在者」となっている。

 さて、そんなわけで90年近く前の翻訳で、というか原著そのものは800年近く前に書かれているわけだが、内容そのものは驚くほど古くなっていない、ように個人的には思う。それはおそらく人間の認識に関わる普遍的で本質的なテーマを扱っているからなのだろう。またあるいは現代西洋哲学を理解する上でも決定的に重要な鍵を握っている諸概念について根底から考えているからでもあるだろう。またあるいはトマスを批判するオッカムの思想(ひいては普遍論争)を理解する上でも、本書の見解は決定的な補助線となるはずだ。そしてそれはもちろん本書の底本となっているアリストテレス『形而上学』の射程距離が極めて長いということでもある。本書が扱っているテーマに関しては、底本のほうがより深く、広い視野で扱っているように、個人的には思う。本書の持ち味は、アリストテレスの論理をカトリックの教義へと発展的に接続したところにある。トマスの仕事が「アリストテレスに洗礼を施す」と言われいるとおりの内容のように思う。

 本書が示す重要な帰結はいろいろあるが、個人的に気になっているのは「有と本質は異なる(ただし神だけは除く)」という結論だ。これは日本語で一般化すると、「現実と現実性は異なる」とか「男性と男性性は異なる」とか「個と個性は異なる」ということ(前者が有あるいは存在者で後者が本質)で、文法的には「述語されるかどうか」が決定的に異なる。具体的には、「私は男性だ」とは言えるが「私は男性性だ」とは言えない、という違いになって現れる。これ自体はさほど難しくないように思えるものの、問題は「ただし神だけは除く」という結論だ。
 トマスによれば、神だけは「本質が有」であるために、有と本質は同じものだ。この論点がゆくゆくは神の存在証明等に結びついてくるところで、カトリック思想を論理的に理解しようと思ったら、まさにこの「神の本質は有」というテーゼにどう対峙するかが決定的なポイントになってくる。真剣に対応しようと思えば、もうどうしても「有」や「本質」という概念について本質的に考えざるを得ない。そのために本書は極めて大きな示唆を与えてくれる。
 ちなみにトマスのすぐ後に現れる神秘主義者エックハルトは「神と神性は異なる」と断言してしまっている。明らかにトマスとは異なる神観を示している。またその一方で、エックハルトと同時期に異端審問を受けるオッカムは、「本質」という概念そのものを否定し、さらに「本質」と「有」の区別はないとし、トマスの論理に真っ向から反対する。トマスの「有と本質の区別(ただし神以外)」に関する学説は、神秘主義者と現実主義者から挟み撃ちにされることになる。このあたりの中世スコラ学のダイナミックな展開は、「近代」に向けての胎動をどう考えるかにも関わってきて、なかなか大変なところである。

聖トマス『形而上学叙説―有と本質とに就いて―』高桑純夫訳、岩波文庫、1935年

【要約と感想】トマス・アクィナス『君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる』

【要約】この本の目的は、立派な君主を教育することです。そのために聖書や先哲の議論から、具体的な事例が豊富に示されています。
 君主制は、先哲の議論と歴史の経験と論理的な理屈を踏まえれば、貴族制や民主制よりも優れた、最高の政治形態です。しかし君主制には僭主制へと堕落する弱点もありますので、民衆のほうは用心しておくのがよいでしょう。
 ところで人間の最高目的は神によって定められており、カトリック教会が指導しているので、君主もそれに従わなければなりません。君主の仕事の範囲は、俗界の指導に限られます。君主固有の仕事をまっとうするためには、政治的な力量ではなく、高潔な人格のほうが重要です。それこそがカトリックの指導に従ったあり方です。教会の言うことを守って立派な君主になりましょう。
 都市を建設したり維持したりするために気をつけるべき注意点も示しました。

【感想】本文よりも、訳注と解説のほうが長い、岩波文庫にしばしば見られるスタイルの、気合が入った本だった。解説に書いてあったことは、不勉強にも知らないことばかりで、とても勉強になった。
 本書はいわゆる「君主の鑑」とカテゴライズされる、カトリック教会の価値観に従って俗界君主を教育することを目的とした内容の本で、ヨーロッパ中世には類書がたくさんあったらしい。そして直ちに想起されるように、マキアベッリ『君主論』が暗に批判するようなキレイゴトの記述に満ちている。逆に言えば、マキアベッリが政治のキレイゴトを粉砕するまでは、「君主の鑑」のようなあり方のほうが常識的だったということでもある。
 また直ちに想起されるのは、東洋の君主論(貞観政要や資治通鑑など)との類似だ。論語の精神である徳治主義(修己治人)や「天」への畏敬の念とトマスが示す君主の理想は、もちろん具体的な細部はまったく異なるものの、大枠では響き合っているように思う。君主にとって大事なのは、政治的力量ではなく徳である。ちなみに本書訳注や解説でもヘレニズムとの関係が指摘されてはいるが、全面的に議論が展開されているわけでもない。しかし東洋にはマキアベッリを待つまでもなく、既に韓非子もいたりするわけではあるが。

【要検討事項】本文ではなく解説のところに示されている文章だが、「教育」という翻訳語が気になった。

「まず指摘しておかねばならないのは、それら作品の表題である。「道」(スマラグドクス『王の道』Via Regia)、「教育」(オルレアンのヨナス『王の教育について』De Institutione Regia)、「人格」(ランスのヒンクマルス『王の人格と王の職務について』De Regis Persona et Regio Ministerio)といったタームが用いられている。」pp.157-158

 現代英語ではinstitutionとなっている単語が、ここでは「教育」となっている。まあそれ自体は西洋教育史を勉強すれば常識に属する知識であって、特に驚くことではない。ただしそれがeducationでもなくinstructionでもなかったことについて、特別に意識を払っても損はないように思うのでもある。ここで使用されている「Institutione」が示す具体的な内容は、もちろん現代の私たちが用いる「教育」という言葉が示す内容とは、大きくかけ離れている。大枠の大枠では「教育」と呼んでもちろん差し支えないわけだが、この「Institutione」を適切に表現する現代日本語を考えることは、現代教育についての知見を深める上でも、おそらく無駄な作業ではない。
 それと同様に、この文章では「Persona」というラテン語が「人格」と翻訳されている。もちろんここでは「人格」という日本語を使うしかない。しかし現代の我々が使用する「人格」という言葉の意味内容が、中世からは、特にカント以後に決定的に転回していることを踏まえると、いま私たちがイメージする近代的な「人格の陶冶」概念を、この中世の「君主の鑑」に当てはめることがどれくらい適切か、ある程度疑って留保しておいた方がいいのだろう。そして「Persona」と「Institutione」の転回は、「目的」の転回と深く関わってくる。

【今後の研究のための備忘録】
 例えば「目的」について、以下のように記されている。

「しかし人間は徳にしたがって生活しながら、既に上述したように、神の享受のうちにあるより高次の目的に向かって秩序づけられているので、多数の人間の目的と一人の人間の目的は同一のものでなければならない。それゆえ会い集う民衆の終局目的は徳にしたがって生きることではなく、有徳な生活を通して神の享受へと到達することなのである。」第1巻第14章107

 このような考え方は、もちろん近代的な「教育」や「人格」がまったく知らないものである。というか、こういう考え方を覆したところで、近代の「教育」や「人格」という観念は成り立っている。だとするなら、このような中世的目的観の下で行なわれる「Persona」への「Institutione」は、はたして「人格の陶冶」と考えてよいかどうか、ということになる。
 ちなみにもちろん著者を批判しているのではなく、私が批判的に行なうべき仕事として留意しておこう、という話である。

 またそれから「国家有機体論」について触れていることについては、しっかり記憶にとどめておきたい。

「それゆえ君主たる者は王国における自己の職務が、ちょうど肉体における魂や、世界における神のごときものである、とういことをよく認識しておかなければならない。」「かれの支配下にいる人びとをかれ自身の四肢のように考え、柔和と寛容の精神を発揮することができるであろう。」第1巻第12章95

 ただしもちろん、近代国民国家とは条件が決定的に異なっていることについては忘れてはならない。

トマス・アクィナス『君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる』柴田平三郎訳、岩波文庫、2009年

【要約と感想】山本芳久『トマス・アクィナス―肯定の哲学』

【要約】トマス・アクィナスの思想について、従来はその論理的な側面ばかりに注目が集まっていましたが、その魅力は、実は「感情論」によく現れています。トマスの感情論を具体的に検討することで、それが徹底的に「肯定」の精神に基づいていることを解き明かします。すると最終的には、カトリックの根本原理である「善の自己伝達」=「愛の共鳴」が明らかになります。

【感想】個人的な感想では、ヨーロッパ思想家の「論理的な面」にばかり日本人が注目するのは、特にトマス・アクィナスに限った話ではない。古代のプラトン(饗宴やパイドロス)にしろアリストテレス(弁論術)にしろ、近代のアダム・スミス(道徳感情論)にしろデカルト(情念論)にしろ、西洋哲学は常に「情念=パッション」を思考の対象としてきた。それを見逃してきたのは、日本人の側の問題だ。要するに、感情論について西洋から学ぶことはないとたかをくくっているというだけのことだ。
 しかし情念論がヨーロッパの思想家にとって極めて重要なのは、それがイエス・キリスト論に直接的に結びついているからだ。具体的には、「神は情念を持つのか?」という問題に明確な解答を用意しておく必要があるわけだ。そしてもちろん神が情念を持つはずはないという結論は最初から決まっており、その結論を成立させるために生じる多種多様な矛盾を丁寧に整理しておかなければならない。特にイエスが十字架にかけられた時に嘆いたり悲しんだり苦しんだりするなど明らかに情念を表現しており、一般キリスト教信者にとってはそれで何も問題ないわけだが、哲学者・神学者の方はそういった聖書の情念表現と「神は情念を持たない」という命題を両立させなければならない。明らかに矛盾する課題を達成するための前提として、「情念」を徹底的に分析しておく必要が生じてくる。
 本書も、まず前半では人間のレベルで「情念」を取扱ったあと、後半で「神の情念」の問題に突入する。神の情念というテーマが、近年の研究でも大問題になっている様子がよく分かる記述になっている。で、それは、カトリック信者ではない私からすると、あらかじめ決まっている結論に着地するために飛躍が甚だしいアクロバティックな理屈を恣意的に言い放っているようにしか見えないわけではあるが、「そういう考え方もあるのか」と理解するぶんには吝かではない。実際、特に「受肉」に関する論理については、眼鏡っ娘を理解するために極めて有益な示唆を与えてくれる。伊達に何百年も論理を鍛え上げてきているわけではない。勉強になる。

【この論理は眼鏡っ娘学にも使える】
 本書は神学という学問の意義を次のように説明する。

「現代では、「信仰」は非理性的・反理性的なものと捉えられることが多いが、トマスのテクストには、そういった考え方とはきわめて異なった信仰理解が現れている。「神」という他者の言葉は、理性と相反するどころか、理性的な哲学のいとなみに新たな探究の領野を開示する契機として機能しうる。それは、理性の徹底的ないとなみが、理性のいとなみであるままに、理性を超えたものへと開かれていくという自己超越的な在り方を可能にするものなのだ。啓示の言葉をも探究の視野のなかに収めることによって、知的探究は、非理性的で硬直化したものになってしまうどころか、新たな刺激と探究材料を与えられ豊かになる。」pp.144-145
「神学という学問は、狭い意味での信仰者のみにとってしか意味を有さないのではなく、人間に関する普遍的な洞察を与えてくれるもう一つの「光源」ともなりうるのだ。」p.146

 ここの文章に出てくる「神」という言葉を全て「眼鏡っ娘」に置き変えると、私が常に言っていることとほぼ同じ内容になる。私は常々「眼鏡っ娘が分かれば世界が分かる」と言い続けてきたわけだが、その理屈は、こういうことなのだ。

山本芳久『トマス・アクィナス―肯定の哲学』慶応大学出版会、2014年

【要約と感想】山本芳久『トマス・アクィナス―理性と神秘』

【要約】トマス・アクィナスの仕事は、現在ではカトリックの王道と理解されることもありますが、実際当時においては、特にアリストテレスの受容と解釈において、時代状況に即した新しいチャレンジでした。トマスは、アリストテレス的な「理性」とキリスト教的な「神秘/信仰」を、対立するものではなく、相互補完的なものと捉え、アリストテレスの論理を足がかりにして神学的な思考を力強く前に進めます。それは「理性」だけでも「信仰」だけでも不可能な、トマスだったからこそできた独創的な仕事です。その固有の論理を、具体的に徳論や自由意志論、愛徳論の展開を通じて確認していきます。
 ところが、三位一体の教義と受肉の神秘について考え始めると、もう間違いなく人間理性を超越していきます。だからといって理性的に追及することをあきらめるのではなく、理性を超えた「神秘」を手掛かりにしてさらに理性的な探求を推し進めるのがトマスのすごいところであり、現代に生きる我々にも大きな示唆を与えるところです。

【感想】まあ、神秘を手掛かりに理性的な追及を進めてはいけませんよ、理性は間違えますよ、しかるべき限界をわきまえましょう、と釘を刺したのがカント「純粋理性批判」の仕事ではあるし、やっぱりそれは抑制された丁寧な考え方であって、三位一体とか受肉の神秘を理性的に考えようという姿勢は、どうしても破綻しているようにしか見えない。そこは単に「理性を超えている」だけでいいじゃない。理性的に理解しようとするから徹底的に話がおかしくなり、胡散臭さが充満するのだと、改めて認識したのであった。しかしそれはトマスとかカトリック特有の問題というより、「特異点」一般に当てはまる話ではある。たとえば「人格」とか「個性」というものを理性的に捉えようとすると、やはりおかしなことになる。そこはカントに倣って「理性を超えているものを理性的に考えても絶対に答えに辿り着かない」と理解しておくのが、みんなが幸せになる無難な道であるように思ってしまうのであった。

【眼鏡論に使える】とはいえ、だ。個人的に大きな興味を引くのは、やはり「三位一体」の教義と「受肉」の神秘、そしてそれについてキリスト教神学が突き詰めてきた理性的思考は、眼鏡っ娘を考えるうえで極めて有益な示唆を与える。眼鏡と娘の分離主義に対しては、「っ」(カトリック的には精霊≒教会にあたる)を交えた三位一体論が決定的な反論となる。眼鏡だけを神、あるいは娘だけを神と理解するのは、三位一体論的にいえば問題なく異端である。
 こういうふうに「理性を超えたもの」を「理性的に理解しようとする」ところから視界が急速に開けてくる様を自ら体験してみると、一概にトマスやカトリック神学の思考を切り捨てるわけにもいかない。そこに何か大切なものがありそうなことを直観するのである。他人を説得したり説伏したりするためでなく、自らの体験を言葉にするという意味で。「特異点」という光の届かない闇を見定めるために。

山本芳久『トマス・アクィナス―理性と神秘』岩波新書、2017年